rkrn染み込む喪失

高坂父と山本さんの、とある酒の席での話
烏帽子親になるころの時系列です、高坂家の家族構成捏造があります
(cp無しとして書いてますが、普段雑高を書いている人間目線なのでご注意ください)

『染み込む喪失』

 酒の上に花が散った。いや、花に見えたがそれは波紋だった。なんだ、と思って顔を上げると、水滴が一つ髪に落ちる。
「中へ入ろう」
「おや、時雨しぐれかな」
 そう言って山本は、酒を畳の内側へ下げ、縁側から撤退しようと腰を上げる。
 私は、次第に庭へ落ち始める雨を見つめたまま、動けないでいる。

 ◇

 呼吸をするのを、一つ忘れた。それほど、父へ懇願する息子の後ろ頭が必死に震えていたからだ。
……そうだったのか」
 これが息子の初めて願うことか、と父として鉄を飲み込むような沈痛さを覚えた。そばで控えていた妻は母として、私の伴侶として、どう言えばいいのかわからずうろたえていた。私は妻に対し、良き夫であったように思う。同時に、良き息子を育ててくれた。だから彼女は揺れ動き迷ってくれたのだろう。言葉を発せず黙ったままの妻を責めることは、私には到底できなかった。
「どうしてもか」
 もはや愚問のような言葉を投げると、頭を下げているせいで籠ったままの声の息子は、声変わりの始まりそうな掠れた具合でそれでも空気を張り詰めさせ、
「気持ちは変わりません」
 と言った。
 私の心はつるの切れた弓のように、所在なく漂った。父として、この子にかけた時間や感情を測ってしまった。しかしそれは簡単に、天秤の向こう側にいる組頭の息子──昆奈門の存在が、ひっくり返した。
 ──私が最初、タソガレドキ忍軍組頭から「息子だ」と紹介された昆奈門を見たとき、肩の骨さえ丸みを帯びた少年だった。静かな目線は虚ろにさえ見えた。ただ、猛禽もうきんのように鋭い感覚を持っていて、きっとあの子は恐ろしくなる、とその晩妻に語ったのを覚えている。忍術や武芸はそのときはまだ年のせいで覚束ない腕前だったが、誰よりも気づき、誰よりも視線を凝らしていた。
 月輪隊にも欲しい人材だ、とそのとき私は冗談混じりで呟いた。当時の黒鷲隊の小頭も、「いや私こそ」と手を挙げ、昆奈門を欲しがった。たしかにあの感性は諜報向きかもしれない。しかし遠方からの援護や応戦もできそうだ。いやいや近接こそ昆奈門の強さ。身の丈にも期待できる。大人による勝手な憶測が飛び交う中、中心で昆奈門はただ静かにしていた。
 竹藪の中、遠くを見つめている少年時代の昆奈門の、青白く染まる頬と額の影が印象深い。薄い皮膚の下に通わせた才能は脈々と流れ、人を魅了した。そうして昆奈門は大人になり、ますます洗練され、私はいつか──黄昏時と共に宵闇が忍び寄る時刻、彼が軍を率いる背中が容易に想像がつくようになった。
 だから、息子のこの、額を床に擦り付けるほどの懇願は、驚きが勝るが予想ができていた。べ何名か、息子と同じように狼隊への籍入れを希望する者が相次ぐと聞く。皆思慕と憧れを一緒くたにした、輝いた目をしていた。息子も同じ目をしているのだろうか。
 確かめるため、私がゆっくり膝を立てると、息子の体がびくっと戦慄わなないた。
「顔を上げなさい」
 命じられ、恐る恐る体を起こす彼は、赤くなった額をそのままに、眼窩がんかに光を宿していた。果たして憧れか、恋煩いにも似た顔か──しかし私の懸念は外れた。息子の目は澄み渡り、弓を構えて制止した時の、あのただ一点のみを狙い定めている内側に熱を秘めたかたまりのようだった。触れればきっと冷たく、けれど中に熱を感じて恐ろしくなって手を離す。そんな物体がもしあるならば、今の息子の目はまさしくそれだった。
 この子は、自分置かれるべき戦場がどこであるかを理解している。最前線で、あの昆奈門の横で、火薬の匂い、硝煙の舞う中、瞳の先で見るのはもはや、その熱にふさわしい景色のはずだ。
 わかった、と呟いた私の声は、情けなくはなかっただろうか。

 すぐに狼隊の長屋へ行かせることだけはしなかった。まずは隊に話を通さねばならないし、なにより荷物を運び出す手間もあった。そして月輪隊として教えていなかったことも。
 それが父として、月輪隊の者のためにできる最後の役割だった。
 弓道場へ連れて行き、稽古のために廊下を拭き上げていた新人に挨拶をした。彼は息子のことを知っていて、よく一緒に稽古をしていたと聞いていた。息子は彼に狼隊へ参ることを伝え、彼は寂しげに眉を下げた。会話は聞こえなかったが、そんな一掴みの別離が息子の心を動かすことはないだろうと親ながらわかってきた。
 息子は、私に似ている部分は少ない。顔形はどちらかといえば母似で、目元のしわの寄せ具合や眉のしかめ方が私に似ていた。弓を構えている間、私はその立ち姿をいつまでも眺めた。妻に似た横顔が放つ矢は、風を切って走っていき、的を割るような勢いで中心近くを射抜いた。弓を初めて教えたとき、弓に持たれているような頼りなさがあった小さい背は、もうじゅうぶんに育って竹のようにしなやかに伸びた。妻にこの子が宿ったとき、私はなにを思っただろうか。愛しく妻の腹を蹴った臨月のころ、私は月輪隊の将来を夢見た。私の横できっと大きくなる。私と共に歩み、いつか私より優れた力で老いた私の肩を叩き、任せてほしいと伝えられ、私は戦場を後にできる。
「父上」
 と弓を打ち終えた息子が、私の指示を待っていた。しばらく私は立ち止まったまま、いつか私の上背うわぜいを越えるであろうつむじの見える頭をそっと撫でた。息子は目尻に皺を寄せ、照れ臭そうにしていたが、それが最後なのだともわかっていて、だから振り払わずに大人しくされるがままになっていた。

 ◇

「お前が恨めしい」
 酒の入った猪口ちょこを持ったまま、私はまだ縁側に立っている。山本にそう言うと、山本はなにも言わず控えていた。雨は思ったほど強くはなく、生垣の葉を軽く上下に揺する。溜まった水は滴となって、地面に染み込んだ。
「ある程度の火薬の知識は詰め込ませておいた。暗器はかなり使えるが……弓はまだ、教え足らぬ」
「高坂殿のご子息がそのようなことは」
「いや、まだ……私は全てを教えはしたが、つがえるときの肩のブレはまだ」
 もう一度、高坂殿、と山本が呼んだ。なんだ、と応えると、山本が平伏する。
「どうか、中へお入りください」
 雨がもたらす冷えは、不思議と体を震わせはしなかった。酒の中にふたたび花が散る。花と思えたそれは波紋を広げ、縁までやわらかく伸びていく。雨がこんなところまで入り込むかと笑おうとしたが、できなかった。
「酒の味を変えましょう。私への恨み節は、そのあとで」
 山本が言う。私は唇を結ぶ。頬に伝わる温かい流れに、いっそ気づきたくはなかったのに、さすが父親同士と言うべきか、子を手放す思いへの心のなさを痛いほど分かち合えるのは山本しかいなかった──涙は、酒の中へまた落ちる。波紋を広げる。酒はきっと塩辛くなっているだろう、山本の言う通り、新しい酒を飲む方が美味い思いができる。
 しかし私は、涙入りの酒を一気に飲み干した。清濁交えたその酒は、胃のに落ちて喉を焼く。これは息子の思いを叶えるため、そして私を律するため。妻によく似た息子の顔が最後に一度だけ浮かんだ。それを胸に沈め、山本に向き直る。
「肩のブレなど、ないのだ。あれが息子の癖だと私が理解できておらぬだけで」
「ご子息の腕前はじゅうぶんに理解しております。初めて狼隊の敷居をまたいだ際の、幼い肩に秘められたあの無駄のない筋骨を見れば誰もが頷きました」
 新しい酒を注がれ、私は受け取りながら乾いた涙の跡が残る頬を隠すことなく、そのままもう一杯煽った。涙の苦さのまるでない清らかな酒は、ようやく胸に落ち、息子の門出を祝福する味がした。
「名を送るときは、私に連絡をしてくれるなよ。妻と二人でお前を日々呪うかもしれん」
……そのように図らいましょう」
 肩をすくめながら、私の息子への未練を一つ一つほどいていく酒の席は、もう少し雨と共に続きそうだ。許してほしいと山本へ尋ね、私は過去にあった息子の話をし始めた。きっと長く、つまらなく、単調であったと思う。しかし山本はよく頷き、よく聞き、よく笑ってくれた。最後に「陣内」と昔のように呼ぶと、山本は酔った姿勢を正し、私に代わって親の顔をして、「きっと、良い組頭補佐になります」と言った。
 私はやっと笑って、返答する。
「当たりまえだ、お前の子なのだから」

 ……帰宅すると、妻が寝ずに待っていた。なかなか寝つかない末弟の面倒を見終えてほっとしていたのだろう。その目にはやわらかな眠気が漂っていた。
「あなたより先に寝るわけにはいきません」
 とそれでも健気な妻を見ていると、私の奥底に沈んだはずの息子の顔が浮かびそうになったが、一つ呼吸を取り戻すと、夜の闇にそれは溶けて消えた。