バタンと音を立てて扉が閉じられた室内に少しばかり重い雰囲気が漂う。家にいるのに安心出来ないなんて、中々ない体験だろうなとどこか他人事のように思った。
「リーは座ってて、今救急箱持ってくる」
半ば押し込むようにリーをリビングへ案内し、適当な椅子に座らせてから救急箱を取りに収納棚の戸に手を掛ける。その時ようやく、自分の手が震えていることに気付いた。
大丈夫、と手の震えを抑えるように深呼吸し、棚から救急箱を取ってリビングへ向かう。
何があったかと言えば十数分前、それぞれの用事が終わったあとふたりで昼食を食べに行こうと、待ち合わせをしていた時。
リーからは事前に若干遅れるかもしれないという旨の連絡が来ていたが、設定された集合時間からさほど待つことなく姿が見え、彼の方へ視線を向ける。
「リー」
ここだよ、と軽く手を挙げる。そして手に持った携帯端末を仕舞うために視線を落とした直後。
「ーッ、指揮官!!」
慌てたような声に驚いてリーに視線を向ければ、強く体を抱き締められ数メートル先の地面に倒れ込む。地面に倒れ込んだ痛みに、思いきり眉を寄せた。それなりの距離を走ってきたのか、身近に感じる呼吸は荒い。
「痛……ッ!?ちょっと、リー…!」
なんのつもりだと問い詰めようとした直後、ガシャンという大きな音に言葉を遮られる。
何事かと思い視線を向けると、先程まで自分が立っていた場所に1台の車が突っ込んでいた。
前方部分が大破していることから相当な速度で突っ込んだのだろう。あと数秒助けられるのが遅ければ…その先を思い浮かべ、背筋が凍った。
「………指揮官、大丈夫ですか」
リーは体を起こしながら腕の中のこちらを覗く。表情はどうにか冷静さを保っていたが、その目の奥には恐怖が滲んでいた。
「ごめん、助けてくれたんだね。僕は大丈夫だよ」
こちらの言葉を信じていない訳では無いのだろうが、怪我がないことを手早く確認してようやくリーは安堵したように息を吐いた。
「……良かったです。貴方に怪我がなくて」
立てますか、と左手が差し出される。その手を掴もうとした時、彼の肌が傷付いていることに気が付いた。おそらく先程倒れ込んだ時にできたのだろう。
「!リー、手が」
左手の甲から赤色が滲み、傷を鮮やかに染め上げる。それをリーはああ、と冷静に認識した。
「ただの擦過傷です。血もそのうち止まるので、気にする必要はありません」
「でも手当てくらい」
「自分で出来ますので、問題ありません」
そう言うリーを半分引き摺るようにしてここに連れてきたのが数分前のこと。
彼が座る椅子の前に跪き、脇に救急箱を置く。
「リー、左手出して」
渋々、といった様子で出された手をそっと掴む。手の甲の擦過傷以外に傷が無いことを確認してから救急箱を開いて必要な物を取り出す。手早く消毒し傷口を保護すればたった数分で処置は終わった。
「……ごめん」
無意識のうちに零れ落ちたのは、彼への謝罪。
「僕のこと、助けるために傷負わせて」
「別に、ただの擦過傷です。大したことでは」
「君にとってはそうでも、僕にとってはそうじゃない」
彼の言葉を遮ってしまったのは思わず、としか言いようがない。ただの擦過傷?そう、ただの擦過傷だ。他人から見れば過保護と言われても仕方ないとは思う。それでも僕にとっては『ただの』で済ませられないことだった。
「君の体は…もう機械じゃない。パーツを交換すれば、メンテナンスをすれば自由に動ける体とは訳が違うんだよ。怪我をすれば治るまで時間がかかるし、下手すれば動かなくなる可能性だってある」
これほどの軽傷で済んだのだから、今回は運が良かった。だが次はどうだろう?次は軽傷で済むのだろうか?
人間の体の脆さは彼もよく知っているはずなのに、人でない体でいた時間が長すぎたせいか時折こうして無理をしては傷を作る。それを見た僕がどう思うかなんて、リーが知るはずもないだろうが。
「僕を助けようとしてくれたのは嬉しい。でも…もうあんな危ないことはしないで。君も体を大切にして」
傷口に滲む赤を見た時、酷く怖くなった。もう彼の体を巡る液体の色は青色ではない。今はあの頃と正反対の色であり、自分と同じ紛れもない人間なのだと。『何か』があれば、簡単に失われてしまうかもしれない命なのだと。そう思い知らされてしまったから。
「"指揮官"の記憶を持ったまま、この世界で君に会えた。こんな奇跡はきっともう起こらない」
彼の手を掴む手に力が入る。本来であれば、僕らは互いの死によってこの手を離すはずだった。そしてもう二度と出会うこともないはずだった。それなのに僕らは記憶を持ったまま、また出会ってしまった。
「だからお願い…もう君と、離れたくない」
もう明日をも知れない身では無いというのに、離れたくないなんて誰かが聞けば笑うだろうか?しかし、そう強く願ってしまうほど、自分の中の彼の存在は大きかった。
リーに再会するまで、この世界に生きながら幾度となく"指揮官"として生きた記憶に縋った。構造体のみんなとの会話、終わらない業務や報告書、過酷な戦場と現実…リーと、恋人として心を通わせた記憶に。
この世界にいない、いつも傍にいてくれた彼の声が、温度が、優しさが恋しくて何度も記憶に手を伸ばした。しかし、いくら手を伸ばしたとしても記憶の中の色彩に過ぎないそれに触れることは叶わなくて。
もう二度と声が聞けないのなら、もう二度と出会えないのなら…いっそのこと忘れてしまいたいとすら願った。大切な記憶だからこそ、もういないひとを想い続けるのが苦しかった。
だから再びその姿を見たとき、僕はまた彼に救われたのだ。
笑われたとしても構わない。今ここにいる彼を失いたくない。離れたくない…傍にいて欲しい。
そんな切望が伝わったのか、リーは一度手を解くと柔らかく手を握り直し、申し訳なさそうに口を開いた。
「…すみませんでした。もう構造体の体ではないというのに、無理をしすぎましたね」
その握られた手から伝わる温もりが絡まって張り詰めた憂慮を一つずつ解いていくようで。
「今後は注意します。…また貴方が同じような場面に遭遇したとき、今回のような行動を取らないとは確約出来ませんが…出来る限り、善処しますので」
確約はされなくとも、リーから「善処する」という言葉が聞けただけで十分だった。
「………うん、それでいい」
ようやく強張った体から余計な力が抜ける。それを見て、リーも幾分か表情を和らげた。
「…心配をかけてしまいましたね」
「本当だよ」
安心したせいか、ずっと心に仕舞っていた願いが顔を覗かせる。それはこの世界で再会してからずっと、彼に言おうと思っていた願い。ちょうどいい、こうやってゆっくり話せる機会は中々珍しいから。
「それと、もう一つお願いがあって」
そう切り出せば、なんでしょう?とこちらに問う声が再び緊張感が帯びる。そんなに緊張しないでと、もう一つの願いを伝える。
「僕のことを、呼ぶ時は指揮官じゃなくて…名前で呼んで欲しい」
「…はい?」
完全に予想外だったのか、リーは驚いたような表情を浮かべこちらを見つめる。そんな姿が愛おしいと感じるようになったのはいつからだったかな。
「本当は、もっと前から言おうと思ってたんだ。もう僕は指揮官じゃないし、君も構造体じゃない。今の僕たちは同じ人間で…ただの恋人だよ」
「そう、でしたね。…そうですね、" "」
ふっとリーは眦を緩め、この世界の僕の名前を呼んだ。名前で呼ばれたことも無かった訳ではないが、彼から"指揮官"と呼ばれてることに慣れているせいで名前で呼ばれるのは不思議な感覚になる。
「ああ、でもそれを言うなら…今の君のこともこの世界の名前で呼んだ方が良いのかな?」
そう聞いてから彼のこの世界の名前を聞いていなかったことに気付いた。数カ月前に再会してからもずっと、今まで通り彼は僕を"指揮官"と呼んでいたし、僕も彼のことを"リー"と呼んでいた。そう呼ぶのが僕たちにとって普通だったから。
リーは僅かに考えるような仕草を見せた後、小さく微笑みを浮かべながら口を開いた。
「確かに、僕の名前は別にありますが…今まで通りで構いません。貴方には"リー"と呼ばれたいんです」
「良いの?折角他の名前があるのに」
「えぇ。レイヴン隊が…貴方が、この"リー"という名前を特別なものにしたんですよ」
…かつては一時的に与えられたコードネームだと思っていたその名を、これからは己が一部と誇りにして、最後のその時まで戦うつもりです。
いつしか彼から聞いた言葉が頭の奥で揺れる。
「…そっか」
もう戦う兵器でなくとも、その名で呼ばれたいと望まれるなら僕はそう呼び続けよう。そのために、この世界でも…繋いだ手を離さないでいようか。
「リー」
たった二文字、鈴を転がすような音の名前を呼ぶ。その名を明日も呼べますようにと、想い、願う。
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