溶けかけ。
2025-01-19 13:08:54
1865文字
Public ほぼ日刊
 

落花流水の情

国を想うフリーナとフリーナを想うヌヴィレットのすれ違いのお話。


「なるべくなら傷つけたくなかったのですが……あなたが余りにも逃げ回るもので、こちらも少し手荒くなってしまいました」
 不気味な笑みを口元に湛えた男は倒れ込むフリーナの背後に立つ。手に携えたナイフには深紅の液体がべっとりと付着し、ぽつぽつと滴っては床に同じ色の染みをつけていく。
「さあ、一緒に死にましょう? 現世で結ばれぬのなら、違う世界で幸せになればいいのです」
 ナイフの切っ先がフリーナの足をなぞるように触れた。
……ッあ!?」
 短い悲鳴を上げ、体を丸める。じんじんと熱を訴える創傷からは夥しい量の血が溢れ、フリーナの体温は反比例するように下がっていく。寒い、痛い、──怖い。
「ああ……すいません。手が滑ってしまいました……。ですが、良いですよね。これから死ぬのですから」
 男が恍惚とした表情でナイフを握る腕を高く掲げる。振り下ろされる寸前、雷光が走り、弾丸の雨が降り注いだ。
  
「フリーナ……!」
 診療所のドアを乱暴に開けたのは、いつもの正装を着崩したヌヴィレットだった。髪はボサボサ、襟は裏返り、コートを着ていないところを見るに相当急いでいたようだ。
「やあ、ヌヴィレット。どうかしたかい?」
 名を呼ばれたフリーナが手元の書籍から視線を上げる。病衣の隙間から垣間見える肌の色とは違う白にヌヴィレットの眉が跳ねる。
「君が誘拐され、あまつさえ、大怪我をしたと聞いたの、で……
「心配して来てくれたんだね。でも僕は大丈夫さ。ちょっと怪我をしただけでこうして、元気だしね」
 フリーナが自慢げに胸を張る。それから「いてて……」と言いながら身体を丸めた。
「無理をするな。傷口が開いてはいけない」
 近くの呼び鈴に手を伸ばすヌヴィレットをフリーナが押し留めた。
「いらないよ。ちょっと笑って痛んだだけなんだ。医師も暫くは痛むだろうって言っていたしね。それより、お見舞いに来てくれたんだろう? 立ち話もなんだから、座りなよ」
 フリーナがベッドの真横に置かれた椅子を指し示す。ヌヴィレットはそこに大人しく座すると膝の上に結んだ手を置いた。
「────君に危害を加えた者のことだが……
 言葉にしてから、もっと他に言うことはなかったのか、と自身に落胆する。
……続けて」
 ヌヴィレットの内心を知ってか知らずか、フリーナは真剣な表情で先を促した。
「私が判決を下すことになった。君には酷なことかもしれないが、被害者として証言してもらう」
「なんで?」
「それは君が被害者で……
「ああ、すまない。そうではなくてだね。──たかが、一般人の誘拐殺人未遂なんて些事……キミが出る幕はないだろう?」
「────────………………は?」
「忙しいキミの手を煩わせるわけにはいかないだろう? 僕の裁判には別の者をまわすといい」
 なんだ、それは?
 事実上の戦力外通告にヌヴィレットは奥歯を噛み締める。自分がいるから安心しろ、と言うつもりは毛頭なかったがこれほどまでに蚊帳の外に放り出されるとは思わなかった。
…………被告人が君との心中を望んでいる」
「クロリンデがいるだろう? それに、僕にも心強い護衛がいる。キミに守ってもらわずとも平気さ」
 自信過剰に言い放つフリーナにヌヴィレットは腹の底が熱くなるのを感じた。込み上げてくるものを必死に喉元で押し留めて言葉を紡ぐ。
「『心強い護衛』と言うには随分と粗末な仕事をしてい────」
 ダンッという鈍い音にヌヴィレットが口を噤む。音のした方に視線を向ければ、怪我をした左手をテーブルの上で握りしめているフリーナがいた。ベッドを跨ぐように設置されたテーブルは強く殴打された名残りで僅かに揺れる。
「それ以上……僕のサロンメンバーを悪く言うことはキミであっても許さない」
「フリーナど……
「帰ってくれ。明日の裁判に僕は行かない。──行く必要もないだろう?」
 それきり、フリーナが顔を上げることはなかった。ヌヴィレットは静かに立ち上がると「また来る」と言い残し、部屋を後にした。室内に残されたのはマグマを腹内に抱えたフリーナと申し訳なさそうな顔をして辺りを漂う頼れる従者たち。
 落ち込んだ様子の三人に痛む体を無視して手を伸ばし、いっぺんに抱き締めた。
……大丈夫。キミたちのせいじゃないよ。キミたちは僕の従者としての役目を立派に果たしているからね」
 おずおずと顔を上げる三人に微笑んで見せる。彼、彼女たちの気遣うような視線には気づかないふりをした。