Something in the water

ヴェラン
2019年発行の同人誌から再録

  1

 二十年ほど昔だろうか。
 その冬は特に木枯らしが厳しく、大人たちは今に大雪が来ると噂し合っていた。
 けれども、子どもであったヴェインとランスロットにはまったくかかわりのない話で、その日も草っぱらを抜けて、川岸まで遊びに来ていた。
 ふちのぎりぎりに立つと川面から吹いてくる冷たく湿った風がヴェインとランスロットの頬を撫でる。たまらずヴェインがぶるりと体を震わすと、ランスロットがぎゅっと抱き寄せてくれた。
 夏は小魚を大いに釣った川だが、山の上は凍り付いているのか水流は弱弱しかった。それでも結氷はしていないようだ。
「ほら、あの岩陰だ」ランスロットが指をさす。
 彼はこの冬の川でまるまる太った魚が跳ねるのを見たという。そいつを狙って、ヴェインの腕には素朴な釣竿が握らされていた。
 しかし、ヴェインはランスロットが指さす方向を見たりしなかった。腕を上げたランスロットの袖口から、金のボタンがぽろっと落ちたからだ。その丸いものはぽとんといい音を立てて、水の中に潜っていく。
 慌ててヴェインは川べりにしゃがみこんだ。ランスロットの紺色のコート。少年らしいすっきりとしたデザインがランスロットによく似合っていて好きだった。袖口には大人のような飾りボタンがきらりと光って、それをヴェインはとても気に入っていたのだ。気が付けば、川に向かって手を伸ばしていた。川の水に触れればひどく冷たい思いをするだろう。でも、ランスロットの金のボタンが流れてしまう方がもっと嫌だ。
「ヴェインよせ」
 ランスロットの鋭い声が、乾いた冬の空に響く。ヴェインの手はぴたりと止まった。それどころか普段耳にしない叱責の声に驚いて尻餅までついてしまった。
 腰を河原に打ち付けた痛みと羞恥がじわじわとせり上がってくる。ランスロットは慌てた様子でヴェインを助け起こした。
「ヴェインの手が冷たくなっちまうところだった」
 ランスロットは自らの手袋を外して、ヴェインの剥き出しの手を包んだ。
 実際に水に突っ込んだ訳でもないのに、こすり合わせるようにして温めてくれる。
 そんなことをしなくても、コートのポケットには大好きな祖母が拵えてくれたミトンの手袋が詰まっているのに。でもなぜか、いつまでもそれを言い出せなかった。


  2

 ヴェインとグランのまえには赤々としたリンゴが皿に山と盛られていた。
 ヴェインは大きな手に包丁を構えて、するすると淀みない手つきでリンゴを裸にしていく。ヴェインほどではないが、グランも小型のナイフを器用に使ってリンゴを剥いて見せていた。
 そわそわと見ていたはずのビィは、とうとうみずみずしい芳香に我慢できなくなったらしい。ヴェインから分けてもらったリンゴを皮ごと齧りはじめたから、赤い山はすぐになくなってしまうだろう。
「ビィ、そんなに美味しい?」
 二つ目のリンゴに手を伸ばしたビィを見て、グランが笑った。
「ああ、これはいいリンゴだぜ! 美味しいリンゴケーキが作れるってオイラが保証するぜ」
 ビィはぱたぱたと浮かんで、胸を張って答える。
「ビィくんの保証付きなら間違いないな。ジータとルリアもきっと喜ぶぞ」
 ヴェインの言葉にグランは頬をほんの少し赤くした。グランたちがキッチンで、揃ってリンゴの山に向かっているのは訳があった。
 グランたちが現在滞在するのはフェードラッヘからそう遠くない国の都だ。山や湖に囲まれたこののどかな街に船を止めたのは、一時的にグランサイファーを降りている団員と待ち合わせるためだった。
 待ち人はいつも少し遅れてやってくる。空いた時間を利用して、グランは団員たちと街に降り立った。高度な魔法道具や武器の類はあまり見かけないが、豊かな自然のおかげで商店に食料は豊富に並んでいた。補給に困ることはなさそうだ。
 グランとジータとルリアは、グランサイファーのコックたるローアインたちの手伝いをせっせと行った。キッチンのお使いが終わると、今度は女の子たちの買い物の番だ。
 民芸品の小物や装飾品をあちこち見て回っていたジータとルリアは、とある店の前で立ち止まった。視線の先にあるのは、ガラスのショーケースに収められた色とりどりのタルトだった。美しいフルーツがたくさん載っていて、いかにも美味しそうだ。
 いつもだったら、「お店入ってみない?」とグランはふたりを後押ししただろう。けれど、今日ばかりはジータもルリアも遠慮しそうだ。ルリアは食料や生活用品を買い込んで少々薄っぺらになったグランサイファーの財布を気にしていた。
 だからジータも店の中に入ろうと促さないのだ。だけど、眩しそうにふたりはショーケースを覗き込んでいる。グランは少し考えて、結局女の子たちに声は掛けなかった。
 代わりに、グランサイファーに戻ると一番にヴェインに声を掛けた。お菓子作りが得意な団員はたくさんいるが、女の子たちのためのケーキをつくりたいなんて相談を持ち掛けるのはちょっとだけ恥ずかしい。ヴェインは群を抜いて声を掛けやすかった。
 バター、小麦粉、卵、キッチンに材料は何でもそろっている。
 買い足さなければいけないのは生のフルーツぐらいだが、ビィの強い勧めでリンゴになった。リンゴは美味しいが、見慣れたフルーツでもある。グランの頭に浮かぶのはありきたりのケーキだった。
 けれど、ヴェインは揃った材料を見回すと「タルトタタンにしようか」と言った。
 あまり聞きなれないケーキの名前。ちょっと大人っぽいケーキができあがりそうだ。そう思ってグランはすぐに賛成した。
 今度は四等分したリンゴをたっぷりのバターと砂糖で炒めることになった。タルトタタンの顔になる部分だ。
 砂糖の甘い甘い香りとスパイスの芳香がキッチンを支配するにつれて、グランの表情が険しくなってくる。カラメルもしっかり色づいてきたが、ヴェインの指示によるともう少しリンゴが柔らかくなるまで我慢しなくてはならないのだ。グランは緊張気味に木べらを掻きまわす。
「失敗したらどうしよう」
 普段はあまり聞かないグランの弱音にヴェインとビィは顔を見合わせて笑った。
「リンゴはたくさんあるんだ、また焼けばいいさ」
 ヴェインの指摘通り、これだけの材料があればもう何台かタルトはできるだろう。
「成功しても失敗しても、ビィとヴェインは食べるの手伝ってね」
「どうせなら成功したほうが食べたいぜ」
 ビィがくるくると飛んでグランの左肩に収まった。彼なりの快諾だろう。
 今度はわはははと笑うだけのヴェインに、グランは視線を向ける。
「ランスロットも連帯責任で連れてきてよ」
 ほんの軽口のつもりだった。グランの口から幼馴染の名前が聞こえると、ヴェインはぴたりと動きを止めるではないか。オーブンの準備をしていた彼はグランたちに背中を向けていたが、たっぷり時間をかけてグランたちの方をゆっくり振り向いた。
「ランちゃんかあ、どうだろうな。朝早くからどこかに行ってるみたいだし、今日は忙しいんじゃないか」
「ランスロットならジータたちと釣りに行ってるぜ、まさか聞いてないのか?」
 ヴェインは何でもない風に言ったが、すかさずビィが訊ね返すと困り切った顔をする。
 これにグランは少しだけ驚いた。てっきり、ヴェインも釣りに誘われたのだと思っていた。その誘いをケーキ作りの約束のためにグランサイファーに居残ってくれるのだと考えて、疑いもしなかった。
「なんだ、お前らケンカしてんのか?」
「ビィってば」
 いつものことだけど、ビィがあっけらかんと訊ねる。それをグランがそれとなく諫めるのもお約束だ。
「ランちゃんとケンカなんて……
 しかし、ヴェインがらしくないように肩を落として黙ってしまったので、グランの方こそ踏み込んで質問してしまった。
「もしかして、別れちゃったとか……そんな訳ないよね?」
 だって、ヴェインとランスロットといえば、とにかく仲が良くて、お互い支え合って、片時も離れていたくないようなアツアツぶりだ。もうすぐフェードラッヘに帰国することになっているし、ふたりの未来に何ら陰りはないように思える。
「別れたってなぁ、ランちゃんと俺はその、付き合ったりしてた訳じゃねえよ」
 なるほど、同性同士だからはっきりと言葉の上で交際しているのではないのだろう。
「でも、ランスロットのこと好きなんでしょ?」
 グランはこともなく言った。
 だって、そこに愛情があるのは、子どもにだって分かることだった。
「ああ、好きだよ。好きだけど……あっ! グラン、火を止めてくれ」
 ヴェインが何事か語り出す前に、急に慌てた声を上げた。グランも我に返ってリンゴの鍋を火元から遠ざける。
 グランの手元では、鍋の中でリンゴが見事なカラメル色になっていた。もう少し火にかけていたら焦げてしまったかもしれない。
 鍋の中身がよく見えるように先生役のヴェインに差し出す。チェックしてもらうためだ。
 つやつやのリンゴとそれを検分するヴェインの顔を交互に見比べた。
「それで結局、ランスロットと何があったの」
 我慢できなくて結局訊ねてしまった。
「うーん、それがな、つまりランちゃんに俺が……うん」
「うん?」
「つまり、フラれたんだ」
 ヴェインはほろ苦く笑った。
「ええっ?」「嘘だろ?」
グランとビィの驚愕の声がキッチンを突き抜けた。
「ヴェインがランスロットにフラれたなんて、ちょっと信じられないぜ?」
「僕もそう思う。それって何かの間違いじゃないの? 聞きづらくても本人にちゃんと確認した方がいいよ」
 ヴェインは静かに首を横に振った。
……なんていうか、そんな人生最悪の日にケーキなんかつくらせてごめんね」
「まあ、とにかくとびきり美味いタルトタタンつくろうぜ」
 ヴェインはにっと笑った。あんなに仲が良かったのに、フラれてしまったら立ち直れないのではないか。ヴェインの心の内を思うとグランの方が落ち込んでしまう。
……ヴェイン、本当に大丈夫?」
「ああ、ランちゃんにフラれるのこれで二回目だからな」


  §

 初めてランスロットにフラれたのもやっぱり冬の日だった。
 ランスロットの二十歳の誕生日を迎える前だったから、ヴェインは十七か十八だったはずだ。夜間の警備中にめずらしく雪がちらついて、鎧を身に着けて歩哨するのはひどく冷えた。
 だから交替の時間を迎えると、ただ早足で自室を目指した。
 今日は同室の者たちは留守にしているはずだから、無人の部屋は冷え切っているだろう。冷えた体に熱い湯でも浴びたいところだが、深夜にそれが叶うはずもない。温かい紅茶でも淹れたら早々に眠ってしまおう。そんな風に考えていたのだけど、すぐに忘れてしまった。
 人気のない兵舎の廊下の角から一番よく知る顔が現れたからだ。
「ランちゃん! もう帰ってきたんだ」
 ヴェインはすぐに駆け寄った。口の悪い奴らにランスロットの『犬』と渾名されていることを思い出したが、体は勝手に動いてしまう。
「ヴェイン、寝ちまう前に会えてよかったよ」
 優秀な幼馴染は騎士団長のお供に近くの国へ赴いていたはずだ。移動の疲れもあるだろうに、警備についていたヴェインを迎えにやってきたらしい。胸がじんと熱くなる。
 今日の夜が冷えるせいかランスロットはいつもより青白い顔をしていた。片方の手を握るとやはり冷たい気がした。今度は両の手を掴まえて、熱を送るようにぎゅっと握りしめる。いつかランスロットがそうしてくれたように。
 ランスロットは嬉しそうに「ヴェインの手はあたたかいな」と吐息のような声で言った。たまらない気持ちになる。
 まだ手を握ることしかできないけれど、自分たちは恋をしている、ヴェインはそう思っていたのだ。
 手を繋いだまま薄暗い廊下を渡り、ヴェインたちの部屋に向かう。ランスロットの部屋は別に用意されているのだが、彼が今更部屋に戻るのを面倒くさがってヴェインの部屋に泊まることは幾度もあった。今日もそうなればいい。特にこんな寒い日は同じベッドで丸まって眠りたい。
『ランちゃん、今日は泊まっていく?』
 気の置けない幼馴染だというのに、そんな些細なことも訊けないまま部屋に辿り着いてしまった。扉の前でもの言いたげに見つめてくるヴェインを、ランスロットは不審に思ったらしい。
「ヴェイン、もしかして体に不調があるんじゃないか?」
「不調って? 俺、元気だよ?」
「体だけじゃないぞ。気分が悪いとか変なことを考えるとかそういうのも含めてだ」
「えーと、その……
 すぐに返事ができなかったのは、幼馴染を抱きしめたいと思うのは変なことにあてはまるだろうか考えてしまったからだ。
「やっぱり、ちょっと具合が悪そうだ、早く休もう」
 ランスロットはヴェインの手から鍵を取り上げると、さっさと扉を開いた。部屋の中はやはり無人のようだ。繋がれたままだった手を引っ張られる。ランスロットはあっさりとヴェインの部屋に入ってしまった。
 ぱたんと静かに扉が閉まるとヴェインはランスロットを抱きしめていた。
「ランちゃん、あのさ、泊まっていってよ」
……うん、お前がいいならそうするつもりだったよ」
 突然の抱擁と子どもじみたお願いにランスロットは流石に照れたようだった。けれど、同じようにヴェインの背へ手を回す。
「ヴェインはあったかいからな」
「ランちゃん」
「うん」
「ランちゃん、俺ね」
「ヴェイン、なんだ?」
「俺、ランちゃんが好きだよ」
 とうとう言ってしまった。もっと改まって伝えるつもりだったのに、言わずにはいられなかった。口から勝手に滑り出て来た言葉だったけど、ヴェインが胸に描いた夢のように幸福な未来が言わせた言葉だった。
 けれども、ランスロットの返事はそんなヴェインの期待を見事に打ち砕いた。
「ヴェインよせ」
 そうか、だめなのか。拒絶の言葉に冬の川に落ちたような、心臓が凍るような思いがした。
 気持ち悪く思われたら。見放されてしまったら。そう思うと指先一つ動かせない。それはランスロットを永遠に失ってしまうのではという恐怖だった。
 けれども、ランスロットは「ごめん、ごめん」と言いながらぎゅうぎゅうとヴェインにしがみついてくる。これはどうしたことだろうか。少なくともヴェインの前から永遠に立ち去ってしまうということはなさそうだ。
 そんなランスロットの気持ちを量りかねて、ヴェインはランスロットの顔を覗き込んだ。失恋したのはヴェインの方だというのに、ランスロットの方が血の気の失せたこの世の終わりみたいな表情をしていた。
「ランちゃん、変なこと言ってごめん」
 恋が実らなかったことは悲しくて寂しいが、ランスロットを苦しませる方がずっとつらい。


  3

 先頭を行くジータは長い釣竿を抱え、その後ろにくっついたルリアは空のバケツを手に提げていた。ランスロットは餌の詰まったバケツと網を持って、ふたりのあとを追う。今日のランスロットの任務は少女たちの釣りのお供だ。
 街の北西には大きなおおきな湖水があった。街の人も旅人も湖に釣り糸を垂らして楽しんでいるらしい。その証拠に、湖の周りにはあちこちに貸しボートのロッジがあった。

 湖は穏やかだった。
 借り受けたボートはしっかりしているが古めかしく、木でできたオールは太く重かった。女の子の小さな手には掴みにくいはずだ。オール漕ぎはランスロットが引き受けるつもりで船首側へ乗り込んだが、ルリアとジータは代わる代わるオールを持ちたがった。特にジータが力強く漕いでいくので、ボートはぐんぐん岸から離れていった。
 沖には小島がいくつか浮かんでいた。そんな小島の程近く、水草がしげるポイントに差し掛かったところでボートを停めようとランスロットは提案した。こうした場所に魚たちが住んでいることを知っていたからだ。ランスロットがつけた『あたり』に少女たちは諸手をあげて賛成する。
 場所が決まったら、ボートが風に流されないように鉄でできた錨を慎重に沈めていく。水は透き通っているので、水底に生い茂る藻や岩が見えた。考えていたよりも水深がありそうだ。

 釣りに挑戦してみたいと言い出したのはジータとルリアだった。
 そして、どこの店も大人がいないとボートを貸し出してくれなかったのだともこぼしながら、とぼとぼとグランサイファーに戻ってきたときにランスロットもたまたま居合わせていた。というのが昨日の出来事だ。
 ジータたちが声を掛ければ、釣りに同行してくれる大人の団員はグランサイファーにたくさんいただろう。たまたま居合わせただけのランスロットだが、奇遇なことに子どもの頃から釣りに行くのが好きだった。またヴェインとふたりでボートを漕げばさぞ楽しいだろうとランスロットは二つ返事で釣りのお供を引き受けた。
 しかし、今はランスロットの隣にヴェインの姿はない。ヴェインが今日、どんなふうに過ごすのかさえランスロットは知らないのだ。
 ヴェインは昨晩、ランスロットの手を握って「好きだ」と言った。
『好き』と言っても、色々な意味がある。ヴェインの言う『好き』がどんな意味を持つかはランスロットには分かってしまった。なにせそう言われるのは二回目だ。

「お前まだ俺のことが好きだったのか」
 ランスロットの返事にヴェインは傷ついた顔をしていた。ランスロットは身がずたずたに引き裂かれるような思いがした。

「ランスロットさん、大丈夫ですか?」
 ランスロットが水底へ向かう錨をぼんやり見つめていると、ルリアが心配そうな声を上げた。
「少しぼうっとしていたか、すまない」
 自分が本調子でないことを知っているランスロットは神妙に返事をした。
「朝からずっと溜息ついてたけど、今はすごくひどい顔色してるよ。具合が悪いなら帰ろうよ」
 けれども、ジータの口ぶりからすればランスロット本人が考えるよりひどい顔をしているらしい。しかし、釣りはまだ始まってないのに、引き返すなどとんでもない。
「いいや、体は何ともないんだ。ちょっと考えをしていただけで……
「体は、ってことは悩み事?」
「何か心配事ですか?」
 女の子たちは耳聡く聞きつけた。
「うーん」
 ランスロットは言いよどむが、少女たちの追及は止まらない。
「ジークフリートさんとなかなか合流できないのが心配?」
「そう言えばフェードラッヘに戻ったら、忙しくなるって言ってましたよね?」
「いや、それは前から分かっていたことだから……
「じゃあ、部屋が片付かないこと? それとも、衣装のサイズがひとりだけ違ったことをまだ気にしてるの?」
「じゃあじゃあ、もしかしてヴェインさんとケンカでもしましたか?」
 不意に出て来た名前にランスロットは分かりやすくびくりと肩を震わせた。この反応にジータとルリアはくりくりとした瞳をもっと大きくさせた。四つの眼が真っすぐにランスロットを見つめる。
「ランスロットさん、もし本当にケンカしちゃったなら仲直りする方法を考えますよ」
「大丈夫だって! ヴェインがランスロット相手に本当に怒る訳ないよ!」
 ランスロットはまだ何も言っていないのに、不調の原因がヴェインであると彼女たちは断じてしまったらしい。でもそれは大あたりだった。
……ケンカした訳じゃないんだ、ヴェインはいつもよくしてくれるよ」
「じゃあ、どうして?」
 重苦しい吐息の後に、ランスロットはとうとう口を開いた。
「話せば長くなるんだが……


  4

 ランスロットの言いつけを守って、ヴェインは二度と冬の川に手を突っ込もうとはしなかった。
 その代わりにひたすらを待った。あたたかくなるのを、山頂の雪が融け川の水が増えるのを、原っぱに黄色やピンクの春の花が咲くのを見届けて、ヴェインはひとり川に出かけた。
 ボタンを落としたのは子どもが釣り場にするような小さな川だったが、魚が自在に泳ぐぐらいの川幅はある。おまけに水面は春の光できらきら光って目を眩ませた。
 その中で、水底に並ぶつぶてと同じ大きさのボタンを探そうというのは大変な骨だった。ひとりの時間ができると川に通って、探し物をした。
 たまにランスロットや祖母たちに不審に思われることがあっても、ヴェインは黙って忠実にこのボタン探しを遂行した。
 ヴェインの手元にようやく金のボタンが戻ってきときには、夏が終わろうとしていた。落とした場所からほんの少し下流に探し物はあった。
 そんな風に苦労して探し当てたボタンだが、ランスロットに返却する機会はついになかった。
 季節が過ぎて背がぐんぐん伸びたランスロットに、紺のコートは小さくなりすぎていたのだ。
 ヴェインのお気に入りの紺のコート。実のところヴェインが気に入っていたのはランスロットが着てみせるコートだったが、大人たちはそんなことは知らないので、当然のように件のコートはヴェインの元におさがりが回ってきた。袖口にはランスロットの母親によって既に別のボタンが取り付けられていた。
 行き場のなくなった金ボタンは、今やヴェインの裁縫箱の中で眠っている。
 人が聞けば未練がましいと思うだろうか。けれども、ヴェインに捨てることなどできなかった。

  §

 焼き上がったタルトタタンは一晩寝かせる必要がある。そうすることで型抜きがうまくいくのだ。
 グランのタルトタタンを氷室にうつしたところで、ジータとルリア、それからランスロットはばたばたと帰ってきた。
 どんな顔で迎えたものかと悩んでいたヴェインはぎくりとしたが、ランスロットはヴェインを見かけると心底安心した顔で「ただいま」と告げた。それが嬉しくてフラれたばかりだというのに「おかえり」と飛びつきたくなってしまう。
 小舟で釣りに行ったとビィから聞いていたが、ルリアの抱えるバケツには一匹の魚も入っていなかった。おまけに、ランスロットとジータは頭からずぶ濡れだ。
 グランたちは散々な釣果に首をひねっていたが、三人はとにかく疲れ果てた様子で多くを語らないままよろよろとそれぞれが浴場に向かって行った。

「着替えを持ってきてもらって助かったよ」
 風呂上がりのランスロットが頭をガシガシと拭き上げながらヴェインの待つ部屋に戻ってきた。大所帯のグランサイファーでは、当然のように旧知のヴェインとランスロットは同室に配置されていた。
 昨晩もランスロットは、ヴェインのほんの隣のベッドで眠りについた。もっとも、前回フラれたときなんかは、同じベッドで子どもみたいに眠りについた。
 フラれた男として思うところがない訳ではないが、ランスロットに拒絶の意志がないことに救われもする。
「気にしないでよ、あんなにびしょ濡れじゃ部屋に入れないもんな」
「うん、色々あってな、……結局ボートから落ちてしまって参ったよ」
 立ち尽くしたままのランスロットの説明は言い訳めいて聞こえた。気まずい思いを抱えているから、ヴェインの耳にだけそう感じるのだろうか。
「そりゃ災難だったな、座って体を休めなよ」
 ベッドにふちにすわるヴェインは、目の前にある肘掛椅子に目をやった。ヴェインが促すとようやくランスロットは肘掛椅子に腰を下ろした。
「ヴェインはケーキでも焼いていたのか?」
 しかし、すぐにぱっと立ち上がる。
「えっ、うん、よく分かったな」
「ヴェインから甘い匂いがするんだ」
 ヴェインの肩に手を掛け、シーツの上に膝を乗せ上げてくんくんと髪や耳のあたりを嗅いだ。キッチンに立ち続けていたヴェイン自身には甘い匂いというのはピンとこないが、かわりにランスロットから立ち上がる石鹸の香りを意識せずにはいられない。
「今日は何を作ったんだ?」
 嬉しそうな声。ランスロットが期待しているときの声だ。
「あー、人に頼まれて作ったやつだから」
 だから、ちょっと言いづらかった。
「そうだったのか」
 ランスロットは残念そうに眉を下げた。
 今度はヴェインが立ち上がる番だった。ただまずいことに、ほんの目の前にランスロットが立っていた。体がぶつかると不安定な体勢を取っていたランスロットはバランスを崩して、ヴェインの腕の中へ倒れ込んでしまった。
「ヴェイン? どうした?」
「あのね、えーと、その
 おまけに勢いの良さとは裏腹にヴェインは続きの言葉を見失っていた。『ランちゃんの分もあるよ!』と教えてやりたいが、ケーキのことは明日のおやつの時間まで秘密にするようにグランと約束してきたばかりだ。
 言葉を探すヴェインを不思議そうに見上げていたランスロットは不意に頬を染めた。それから身を固くして縮こまってしまった。それでヴェインもようやく気付いた。
 赤ん坊からの付き合いでも、今はフった側とフラれた側だ。もう少し気を遣うべきだった。下心からの行為ではないと釈明しなくてはならない。
「ごめん、俺そういうつもりじゃなくて」
 ヴェインは慌てた。舌がもつれてしまいそうだ。
「うん、わかってるよ」
 ランスロットはちらりとヴェインを見上げた。弱弱しい返事。ケーキを残念がるよりずっと悲しげな声に、ヴェインはめまいのようなものを感じた。
 ランスロットの腕を掴んだのは、体勢を立て直して身を遠ざけるつもりだった。誓ってそう言えるが、一瞬気が遠くなったうちにランスロットを強く抱きしめていたらしい。
 ヴェインより細身の体、風呂上がりのふわふわの黒髪、気が付けば腕の中にいた。胸の奥からあったかい気持ちが次から次へと湧いてくる。この気持ちを正確に言葉にするのは困難で、気が付けば口から一番簡単な言葉が漏れていた。
「ランちゃん、好きだよ」
 突然の狼藉にランスロットは何も言わなかった。
 それをいいことにずっと抱き込んでいると、ランスロットが腕の中で身じろいだ。すこしばかり力を緩めると、するりと腕を伸ばし、甘い匂いがすると言ったヴェインの耳の上あたりに手を差し込んできた。
 ヴェインはランスロットの頬を包み込むように手を添えた。目を閉じてくれればいいのに。そう思ったのもつかの間、ランスロットは本当に瞼を閉じた。
 顔と顔をぴったりとくっつけて、温かくてやわらかいものが触れ合う。できることなら食べてしまいたい。更にぎゅうぎゅうと抱きしめるとランスロットの身体からはすっかり力が抜けてしまった。そんなランスロットの身体をヴェインが支えてやる。ランスロットは喉を鳴らした。
 十代の頃はいざ知らず。ヴェインはランスロットに何かを望んでいる訳ではなかった。昨晩、告白してしまったのもただ口が滑っただけで、恋人になりたいなどと今更考えてはいなかった。ただランスロットの側にいて、彼を支えることができればよかったと思っていたし、今でも思っている。それなのに、触れるだけのキスでヴェインの下腹部は痛いほど熱くかたくなっていた。薄い生地で作られた部屋着を着ているランスロットも同じように熱くなっていた。
 たまにヴェインの腕は勝手に動く。冬の川に手を伸ばしたときみたいに。それでもランスロットが一言「よせ」と言えば止まっただろうに、彼は何も言わなかった。ただ言葉にならない吐息のような、泣き声のような音を繰り返すばかりだった。

  5

「話せば長くなるんだが……
 ランスロットの言葉に、ジータとルリアは興味津々とばかりに頷いた。

 ランスロットがこの緑と湖水の街を訪れたのはこれで三回目になる。
 初めてこの土地を踏んだのは二十歳の誕生日を迎える少し前で、当時の騎士団長だったジークフリートのお供としてのことだった。
 友好国での魔物討伐が目的だったが、ランスロットたちは本当の意味でお供にすぎず、ジークフリートがほとんど片づけてしまった。この常人離れした英雄を、街の人たちはほめたたえ歓待した。ジークフリートは豪華絢爛の宿や食事はほどほどに辞退したが、地元の名士や学者などの来訪は拒まなかった。
 この遠征で、ランスロットはジークフリートと湖の周りを歩く機会があった。早朝と言える時間帯だった。祖国より北に位置する国の北風は身を刺すような寒さがあった。
「散歩に付き合わせて悪いな、ランスロット」
 白い息を吐くランスロットにジークフリートは申し訳なさそうに言った。
「ジークフリートさんをひとりにさせるなと厳命が出ていますから」
 自覚があるのか部下の軽口にジークフリートは「そうだろうな」と口元だけで笑う。
 ジークフリートの活躍により、黒竜騎士団の一行は予定を早めて明日は南下してフェードラッヘに帰還することになっていた。今日はその準備に当てられた休息日だったが、ランスロットは鍛錬にあてるつもりだった。
 いつもどおり師匠であるジークフリートの元を訪ねれば、散歩をしないかと誘われた。少し意外に思いながらもランスロットの中には『ついて行く』以外の選択肢はなかった。
「街の人たちから聞いた話だが、湖の南端に精霊を祀る祠があるそうだ」
 足さばきや身のこなしは普通の人とはまるで違うが、鎧を脱いだジークフリートはどこまでも穏やかだった。他国の書物や土地の者から知識を得ようとする姿は、ときに学者のようにすら見えた。
「祠ですか?」
「訪れた者の願いをかなえてくれるらしいぞ」
「願い、ですか……
「国家の安寧などではなくて、もっと個人的なものだ」
『願い』と聞いたランスロットが考えることなど限られていた。そして、それはジークフリートにはお見通しだったようだ。
「個人的な願いですか?」
「家内安全だとか、ご両親の息災だとかそういうことだろう」
「なるほど、そうします」
……俺は道中の安全でも願うことにする」
 ジークフリートの言葉にランスロットはからっと笑った。
 ジークフリートが率いる、音にも聞こえし黒竜騎士団の凱旋を何が遮ることができようか。
 つまり、祠の精霊への願いことなどは他愛もないまじないで気休めだということだ。
 フェードラッヘが祀る星晶獣のシルフですら、その力や彼女が生み出す霊薬アルマは奇跡のような力を秘めているが、国民にいきわたるほどには作ることができない。つまり、人の願いを何もかも叶えてくれる万能の力などありはしないのだ。
 そこから大人の足で百歩ほど離れたところに祠はあった。
 湖に浮かぶ小島のひとつに、石で組んだ橋が架かっている場所があった。長い橋を渡った先には堂どころか屋根もなく、ただちいさな女神の像がむき出しで建っていた。
 土台は大人の背丈ほど高く造られているが、鎮座する女神の像はさほど大きくはない。それもそのはずで、像はひとつの鉱石を見事に掘り出してつくられているようであった。日の光を受けて、青とも緑とも言えない美しい色が光り輝いていた。よくぞ今まで盗賊たちに目をつけられなかったものだと感心していたランスロットだが、隣のジークフリートが拝礼をはじめたのを見て、あわてて倣った。
 ジークフリートに言われた通り、はじめは故郷の両親のことを考えた。早々と故郷を離れた自身は孝行息子とは言い難い。せめて彼らの息災を一生懸命祈るべきだ。元気に暮らす両親の姿を思い浮かべると、自然にヴェインのことも頭に浮かんだ。家族も同然のヴェインだから、ランスロットはこの自身の考えを不思議に思ったりはしなかった。
 彼の輝かしい未来と健康を祈る中、『個人的な願い』という言葉がランスロットの頭をかすめた。にこにこと太陽みたいに笑うヴェインの笑顔を思い出すと、急に頬がぽっと熱くなった。
 ランスロットが得体のしれない熱に浮かされたとき、同時に奇妙なことが起こった。
 女神の像が不自然にちかちかと光り、火の粉のようなものが溢れだし、その内の一筋ランスロットの胸に降り注いだのだ。
「今、俺の中に光が」
 あわててランスロットが胸元へ手をやると、その淡い光はさっと消失してしまった。
「ああ、湖水の精霊だというから、ランスロットの属性の力と波長があったのかもしれないな」
 光の軌跡をジークフリートの目も捉えていたようだ。ランスロットの見間違いではなさそうだ。
「今のはなんだったんでしょうか……?」
「気になるか? 悪いものじゃなさそうだが、念のため魔導士や医務官に見てもらうか」
 狼狽するランスロットを励ますようにジークフリートは言った。

 黒龍騎士団に帯同していた魔導士は「ほんのまばたきのようなもの」と笑った。
 網のようにはりめぐらされ、空の世界を支える四大元素の力がひずむときがある。大きなひずみが生まれてしまえば大問題だ。そうなる前に均衡を保つために小さく小さくあちこちで撥ねるように放出される。常であれば、人の目に見えるものではないが、湖に充満する水の力が束になって、強い力を持つランスロットに飛び込んでいったのだろう。そのような考え方が、今の主要な学説だと魔導士は教えてくれた。
 水に関わる力と教えられたが、女神の放った光は淡いピンク色をしていたような気がするから、どことなく釈然としない。
 不安な気持ちを抱えたまま、フェードラッヘに戻ったランスロットは真っ先にヴェインに会うことにした。
 王城警備の任務にあたっていたヴェインはいつも通りだった。それどころか廊下で子どもっぽく手を握ってくるくらいだった。ランスロットはすっかり兄のような気持ちになって、遠征先の話を、ジークフリートの活躍をヴェインは聞きたがるだろうなんて考えた。
 はやくふたりでくつろぎたいと、ヴェインの部屋を目指す。
 ヴェインの部屋の扉がしまったとき、何かの暗示にかかったようにヴェインはランスロットのことを抱きしめて、それから「好きだ」と言った。
 心臓が早鐘を打つ。全身を熱いものが駆け巡って、体温がずっと上がったような気がする。歓喜だった。今まで感じたことのない喜びが膨れ上がって来る。
 ランスロットは自分の気持ちにこのときようやく気が付いた。
 ヴェインのことが好きだったのだ。多分ずっと昔から。そして、ランスロットのよこしまな想いを、湖の精霊が叶えてしまった。いや、何としてでも成就させてはならない。
「ヴェインよせ」
 初恋と、しでかしてしまった罪のその両方に胸をつぶしながら、あえぐようにそれだけ伝えるのが精いっぱいだった。

  §

「そのあとすぐに、ランスロットはこの街に戻ったんだよね?」
 ジータの言う通り、ヴェインの告白を受けたランスロットは、すぐにジークフリートの許しを得て、この湖水の街へ戻った。これが二度目の来訪だ。
 街をかけずり湖の精霊に関する伝承について調べたが、願い事を破棄する方法は見つからなかった。それどころか、「あれはおとぎ話だよ」と笑われてしまう始末だ。祠で日がな一日過ごしてもみたが、妖しい光は二度と見ることは叶わなかった。女神像はただそこに佇むばかりだ。
「ああ、手は尽くしたが何もできなかった。あれから何年も経って、今更できることがあるだろうか……
「でも、私たちには心強い味方がいるでしょ? ねっ、ルリア」
「はい! 精一杯お手伝いします!」
「そうだったな、ふたりが居てくれて心強いよ」ランスロットは頷いた。
 実際、この件に関して、ジータとルリアはは特に頼もしい味方だった。
 ルリアはランスロットに手をかざし、集中するように瞼を閉じた。体こそランスロットの方を向いているが、どこか別のところを見ているような虚ろな顔つきになる。はっと細い体から力が抜けるとルリアはすらすらと喋り出した。
「ランスロットさんの体からは、かすかに湖の持つ力と同じ力を感じます。これが精霊の力なんでしょうか?」
 近頃ランスロットは、女神像が不思議に光ったのもヴェインの告白もすべては幻だったのかと思うようになっていた。熱に浮かされたように突然ランスロットを好きだと言ったヴェインは、一晩経てばいつも通りだった。ふたりの間でこのことが再び話題になることはこの数年間で一度もなかった。
 しかし、今のルリアの言葉ではっきり分かった。ランスロットは今度こそこの呪いじみた精霊の力を打破することを心に誓う。
「その可能性はあるよね?」
 ジータが顎に手を添えて言った。
「うん、ヴェインがまたおかしくなったのは、この街に来たせいだと思うんだ」
「そっか……、それを確認するには精霊に会ってみるのが一番だよね」
「ああ、その祠まで行ってみたいと思うんだが、どうだろうか? ボートがあれば、そんなに時間はかからないはずだ」
 ランスロットはオールを握り直した。湖を横断するように進めば南端まではそんなに遠くない。
「もちろん、いいに決まってますよ」
 ランスロットを鑑定するときには神秘的な雰囲気をまとっていたルリアだが、うってかわって元気な声を上げた。青い髪がぴょこんと跳ねる。ジータもうんうんと頷いた。

 ランスロットが水面を触ると、ボートの周りが冷やされ、氷の粒がちかちかと光り出す。そのままオールを動かすと氷の上をすべるようにボートはするすると動いた。
 そうしてあっという間に辿り着いた湖の南端では、ランスロットの記憶の通りに、小島がいくつか並んでいた。その内の一つに立派な石橋が架かっている。
 鉱石でできた美しい女神像というのは女の子たちの興味をそそったらしい。ランスロットもついに長年思い悩んできた問題が解決するかと思えば期待せずにはいられない。
 胸を膨らませ石橋を渡った三人は、祠を前にしてそれぞれ驚愕の声を上げた。
「これは」「ええっ」「どうして」
 小島の上はのどかだった、草が生い茂って猫や鳥たちが一休みしている。
 しかし、それだけだった。何もなかったのだ。土台の上にあるはずの、鉱石でできていたという女神の像は姿を忽然と消していた。よく見れば、すっぱりと切れたように、女神の足元だけがそこには残されていた。
 島をくまなく探したが、鉱石のかけらひとつ見つからなかった。
「盗賊が持っていったのかもしれない。そんな大きいものでもなかったし、あの土台の上に剥き出しだったんだ」
 ランスロットは冷静に言ったが、その顔には失望の色が浮かんでいた。
「そんなあ」
 行きとは対照的に、とぼとぼと石橋を渡って帰る。湖の中ほどや北側にはたくさんのボートが浮かび賑やかな空気があったのに、この南端のエリアは釣り人の姿もなく静まり返っている。それがまた三人の空気を重苦しくさせる。
 それでも前向きに考えて、貸しボートのロッジにでも戻って、店主に女神像のことを聞こうかと話がまとまりかけたところで、ひとりのおじいさんが三人に話しかけてきた。
 湖の周りで見かける人のほとんどが釣竿を抱えているというのに、そのおじいさんは釣り人という風体ではなかった。地元の人が散歩に来たようないでたちだった。
「あんたたちも釣りに来たなら、もっと北に移った方がいいよ」
「ここら辺は魚が釣れないんですか?」
「魚はたくさんいるんだよ。ただここいらは『主』のなわばりだから、おっかなくてね」
 ルリアが礼儀正しく答えると、おじいさんは首を横に振った。
「主?」
 ジータは聞きなれない言葉を拾って繰り返した。おじいさんの他にも、いかにも釣りの初心者っぽいジータやルリアに、「ここは釣れる」だとか「あっちは根掛かりして駄目だ」とか、声を掛けてくれる人はいた。だけど『主』というのは初めて聞いた言葉だった。
「ここにはでっかいブロシェがいやがるのさ。地元の人間はそいつを『主』って呼んでいる。……ファータ・ブロシェって聞いたことないか?」
「知らないです! その、ブロシェって言うのは何ですか」
「魚だよ。ただ普通のブロシェっていや、大きくたって肘から指の先くらいだけど、女神像を食っちまうようなバカでかいやつがここいらに住み着いてるのさ」
 おじいさんはやれやれとばかりに唸った。
 三人はそれぞれ顔見合わせた。
 ジータが代表して「もっと詳しく教えてください!」と取りつくと、きょとんとしながらおじいさんは話をつづけた。
「去年のことだけど、嵐で水かさがうんと増えた時だね。ブロシェのとびきりデカいやつがぴょんと跳ねて、女神像をひと飲みしたんだ。嘘みたいな話だと思うだろ? でも、ここの漁師が確かに見たっていうんだ」
「でも、でも、あの女神像は足元からすっぱり切れてましたよ」
「奴の牙はそこらのなまくら包丁なんかより、ずっと切れるのさ。なあ兄ちゃん、分かっただろ? 危ないからお嬢ちゃんたち連れて北側に移ったほうがいいよ」
 おじいさんは引率者と目したランスロットを諭すように言った。
「そのお魚って食べると美味しいですか?」その心配をよそにルリアがのんびり訊ねた。
「えっ? ああ、ブロシェっていうのは脂がのっててな、焼けば身がほくほくして美味いもんだよ」
 おじいさんは面食らった様子だ。
「グランとビィさんにも食べさせてあげたいですね」
 そんなことお構いなしに、ブロシェの味を想像してルリアはえへへと笑う。
「決まりだね」
 ジータが勇ましく、そらに釣竿を突き上げた。

 ブロシェの刃は鋭い。
 鉱石まで削り取ってしまうのだから、普通の針と糸では意味をなさない。おじいさんの知り合いの漁師から、わざわざブロシェ釣りのために作られた特別製の針と糸をゆずってもらい、三人は揚々と釣りに出た。
 釣り人の少ないこの南端では魚は簡単に釣れた。顔より大きな川魚を一匹仕留めると、今度はそれを餌にブロシェを狙うことにした。ジータがえいと投げ入れると遠くまで届いた。
「上手じゃないか」
「さすがジータです!」
 ランスロットとルリアに褒められると、ジータは満更でもない顔をする。
「えへへ、……あれ掛かったかな」
 投げ入れてすぐにジータの釣竿が突然動かなくなった。
「岩に引っかかったのかもしれないな」
 ランスロットが釣竿を確認すると今度は大きくしなった。竿が折れてしまいそうだ。よっぽど大物がかかったらしい。
 ジータは力をこめるが、その細い上半身はぐいぐいと引っ張られ、ほとんどボートのへりから身を乗り出していた。このままではボートの下に落ちてしまう。ランスロットはそれを助けようと横からジータの釣竿を掴んだ。
 その瞬間、ランスロットとジータはとてつもない力で釣竿ごとボートから引きずり落とされたのだった。


  6

 タルトタタンは昨日のうちにあらかたできあがっている。今日できることは、ケーキに添える甘いクリームと、美味しい紅茶を用意することくらいだ。
「ジータもルリアもおやつの時間には帰ってこないよね」
 やることがなくなったグランが頬杖をついた。
「よっぽど釣りが楽しいみたいだなあ、その割にバケツに一匹も入ってなかったけど」
 すっかり手持ちぶさたになったビィも机に寝そべったまま言う。
「ジータが今日こそ大物釣って帰るって朝言ってたんだろう、期待して待とうぜ」
 ヴェインだけが三人分のカップに新しく紅茶を注いでやり、鷹揚に言った。にこにこしていないときのほうがめずらしいのだが、今朝のヴェインは特に機嫌が良さそうだった。
 ヴェインは余裕たっぷりと自分のカップを手にとって、琥珀色の紅茶の香りをたしかめるように顔に寄せた。グランはちらりとヴェインを見た。
「朝って言えばさあ、ヴェインたち」
「うん?」
 ヴェインが朗らかに答えた。
……見送りの時にキスしてたでしょ。仲直りしたの?」
 さすがにちょっと言いづらそうにグランが声に出す。ヴェインの手からカップが滑り落ちていく。
「うぇええっ?! ……って熱ちぃ!」
「何やってんだよ、ヴェイン! カップは割れてねえようだな」
 紅茶はすこし溢れてヴェインの指に掛かったが、陶器のカップは間一髪のところでビィがキャッチした。
「ビィくん……ありがとう……
「言いたかねえけどよぉ、ヴェイン。ああいうのは人目につかないところでやってくれよ」
 カップをソーサーに戻しながら、ビィは追い打ちをかけた。
「ビィくんも見てたのか……
「僕たちすっごく心配してたのにさ、あれじゃフラれたとは言えないよね」
 グランは呆れた顔で肩をすくめた。
「いやいや、これには訳があってな……俺自身もよくわかんないんだけど」
 ヴェインがいよいよ慌てると、グランはぱっと表情を変えた。
「冗談だよ! 僕たちの心配事もなくなったことだし、ジータたちのところに差し入れに行こうと思うんだけど」
「オイラもそのタルトタタンってやつをはやく食べてみたいぜ!」
「ヴェインも持っていきたいでしょ? ランスロットのところに」
 グランは口元をにやっとゆがませる。
……そうだな」
 ヴェインは苦笑いした。年下にいいようにからかわれて情けないが、本音を言えば今すぐランスロットに会いに行きたい。
「お前まだ俺のことが好きだったのか」そう言われたときはひどく傷ついて、外の湖に身投げしたいような気持ちになったが、「付き合えない」とか決定的は答えを聞いた訳じゃない。
「なあ、変なこと言ってもいいか?」
 ピクニックのために取り出したバスケットのふたを開けながら、ヴェインが口を開いた。
「なに? 湖は広いけどビィに上から見てもらえれば見つかると思うよ」
 タルトタタンを慎重に切り分けているグランは、ヴェインの方を見もしないで返事した。
「多分だけど、ランちゃんは俺のこと……」ヴェインは小声で続ける。
「だから、そうだってば!」グランは憤慨した。たんとナイフをカッティングボードにたたきつける。
 こうしてタルトタタンは見事に切り分けられたのだった。


  7

 ランスロットは愁いを帯びた端正な横顔を俯けた。
 血の気が失せて白くなった顔は、ますます作り物めいている。水面を渡る風がその黒髪を揺らしていかなければ、まるっきり船首飾りの彫像のように見えたことだろう。
 しかし、ランスロットは人間らしい深いふかいため息をついた。昨晩しでかしたとんでもない『あやまち』を思い出して、今日も朝からひたすら落ち込んでいたのだ。
「ランスロットさん、大丈夫ですか?」
「昨日より顔色が悪いよ」
 ジータとルリアが顔色を窺うと、少女たちに聞かせられないような悩みを抱えたランスロットはとっさに顔を腕で覆い隠した。
「俺は本当にどうしようもない……
 ランスロットの苦悩は、昨晩正気を失っているヴェインとベッドの上でいやらしい行為に及んでしまったことにあった。男同士だからか行きつくところまでは至らなかったのが救いだったが、ヴェインに求められれば応じていただろう。男と寝たことがないランスロットには、行きつくところというのがぼんやりとしか想像できないというのに。
 ヴェインのことになると、どうして、こんなにも考えなしの向こう見ずになってしまうのだろう。
 騎士団長に取り入ろうとする者は少なくない。今までも数多の誘惑を受けたが揺らいだことはなかった。自制心には自信があったのに、ヴェインとキスしただけで、体がふにゃふにゃになって、その温かでたくましい体にすがりたくなってしまった。
 赤ん坊のころからの付き合いの幼馴染なのだから、今更抱擁するくらいなら問題はなかったはずだ。
 問題はどうしてキスしてしまったか、ということだ。ヴェインはキスをするなどと宣言したりはしなかった。ランスロットも同様だ。それなのに、昨晩はいつのまにか顔がくっついて、口が溶けてしまいそうなくらいそれを繰り返した。今朝も出発のあいさつの途中に、意味がありそうに視線がからみ、そのまま吸い寄せられるようにキスをした。それも一度きりじゃなくて、二度三度と続けた。
 ヴェインは正気を失っているのだから、これはランスロットの『願い』がさせるのだろうか。
「ヴェインと何かあったんだろうけど、とにかく今はブロシェだよ。その悩み事は『主』を釣り上げてからゆっくり考えようよ」
 かーっと耳まで赤くなってきたランスロットを横目に、ジータは淡々と言った。
 すっかりボートの操縦をマスターしたジータは、ランスロットからオールも漕ぎ手の席も取り上げていた。

 昨日、ボートから見事に転落したジータとランスロットは、もう『主』を竿で釣り上げようとは考えていなかった。撒き餌やボートを使って『主』を浅瀬まで誘導し追い立てていき、剣を持って討伐しようというのが今日の作戦だ。このシンプルで分かりやすい作戦を遂行するために、ボートには釣りに似つかわしくない剣や長槍、大楯が積み込まれている。
「お魚さんどうですか? 美味しいですか?」
 作戦の決行にあたって、早速ルリアが上機嫌で小エビをボートからバラ撒いていく。歌でも歌いだしそうな様子で、釣りというよりは餌付けのようなのどかさがあった。
 一番の問題点は、小エビのサイズだった。ルリアが朝から市場でわざわざおつかいしてきてくれたものだが、狙いに対してどうも小ぶり過ぎる。ボートの周りには次々と影が寄って来るが、それらは全てちいさな小魚たちだった。
「『主』は大人の背丈よりもずっと大きいっておじいさん言ってたよね」
「ああ」
 ジータも同じ懸念を抱いたらしいが、口に出すのはしのびないようだ。
「ルリア、撒き餌のことだが、」代わりにランスロットがそれとなく伝えることにした。
……気配がします!」
 しかし、ルリアははっとしたようにそれを遮った。
「ランスロットさんに感じたものと同じものですよ……」ルリアがそう続けるのと同時に、何かが爆発するようなすさまじい音が上がった。
 それはばしゃんと大量の水がたたきつけられるような音であったらしい。
 轟音と共に、巨木を切り出した丸太のごとき巨大魚が水面を割って跳ね上がった。そうかと思えば、小魚を飲み込もうとしてか、巨体を激しく左右に揺する。湖なのに大きな波が立って、ボートはゆらゆらと揺れた。
 大人の背丈の二倍もありそうな大物だ。これが『主』に間違いないはずだ。『主』はルリアが撒き餌で集めた小魚たちに寄ってきたようだ。
「ルリア! さっすがぁ!」
 ジータは歓声をあげると、ボートを全速力で漕ぎ始めた。

 ジータの構える大楯を足場にして、ランスロットは空に向かって跳ね上がった。
 目標は、浅瀬に追い込んでやってもなお人を寄せ付けないほどにじたばたと暴れる巨大魚だ。
 落下の加速を利用しながら、ランスロットは双剣で巨大魚の横腹を斬りつけた。常人が一撃を振り下ろすよりも短い時間で、ランスロットは腕のしなりを使って二度三度と同じ場所に的確に連撃を叩きこんでいく。
 この猛攻に、巨大魚は怒りをあらわにますます暴れ狂った。そんな巨大魚の尾びれをひらりとかわし、魚の頭を足蹴にしてランスロットはもう一度跳躍した。『主』から十分距離を取って湖の中に着水する。浅瀬と言えど、水の深さは腰元まであった。魚にとってもだが、人間にとっても動きやすい場所ではなさそうだ。
「だめだな……刃が通らないな」
 氷の力をまとった双剣は鋭利に研ぎ澄まされている。分厚い甲羅を持つ魔物だって真っ二つにしてきたというのに、ぬめった鱗は刃を滑らせた。斬りつけた感触があっても、皮と脂がぶ厚く、魚の動きを止めるほどの致命傷にならないようだ。
「氷漬けにしちゃうのは?」
 ジータはボートの上から声を掛けた。浅瀬の中でオールを杖のように使いボートを動かして、ランスロットの近くまでやってきたようだ。
「それは最終手段だな」
 ジータの指摘通り、ランスロットなら巨大魚を丸ごと氷漬けにすることもできるが、『主』の腹に収まった女神像にどんな影響が現れるか分からない。
「そっか……でもわかったよ、斬りつけるより、叩いた方がまだマシな感じがする」
 ボートの上からきりりとジータが言った。その意見にはランスロットも同意だ。
「そうだな、だいぶ皮が厚いから、攻撃は集中して一気に叩き込む必要がある」
「今日の装備にガントレットとかは持ってきてないんだよね」
 あーあとジータが声を上げる。ランスロットの得物は得意の双剣で、今日のジータが手にするのは大楯と長槍だった。
 ランスロットは少し考え込むように、ボートのへりに手を掛けた。
 ふたりの手勢で、不安定な足場で、どうやって総攻撃をかけるか。また、巨大魚の反撃に対する対処も考えなくてはいけない。
 ランスロットもジータも細身なタイプだが、人並み以上に膂力はある。相手はそんなランスロットとジータふたり相手に力比べで勝った相手だ。どうやって屈服させるか。
「作戦があるんだ」
 ランスロットはへりを掴む腕にぐっと力を入れ、湖水から体を浮かせた。そして滑り込むようにボートに乗り込むのだった。

 ランスロットが、ジータたちと示し合わせて作ったのは大きな氷塊だった。
 巨大魚の頭上にあられのように降らせれば、剣で斬りつけるよりも、多少はダメージを与えられたかもしれない。しかし、それは巨大魚にかすりもせず、次々と湖へ着水し派手な音共に波を立てた。その波は、浅瀬で暴れていた魚の巨体を押し出して、彼を自由に泳げる湖の中ほどへ運んだ。

 巨大魚は全身の筋肉をうねらせ、歓喜を表すように大きく跳ねた。
 そしてそのまま湖を深く深く潜っていく。逃げ出したのではない。この水場の王者たる彼は、自由を脅かす者を排除しようと心に決めたのだ。
 水底から見上げると、ボートは黒い影のように見えた。彼の巨体に比べれば、小さな影だ。この真下からくらいついてやれば、影ごと人間たちを丸飲みにできるだろう。
 巨大魚は翻って水面を目指した。

 巨大魚が湖にもぐりこんだのを見届けて、ランスロットは力を集中させた。青い光がボート全体に集まってくる。真冬のような容赦のない冷気がボートの上を支配する。
「大きな影がついてきます」状況報告を任されたルリアが懸命に叫んだ。
「ジータ!準備はいいか! ルリアはしっかり捕まっているんだ!」
 ランスロットが指示を出すと、少女たちは元気よく了解を返した。ルリアはあわてて身を隠すように床の上で丸くなり、それを見届けるとジータは盾を構えた。

 巨大魚は持って生まれた闘争心で、ぐんぐんと破竹の勢いでボートに近づいて行った。
 勢いを殺さずそのまま突進すれば、木でできたボートはひとたまりもなく木の葉のようにバラバラになるだろう。
 あたりがだんだん明るくなっていく。水面はもう近い。
 今だ!
 巨大魚が待ち望んだその瞬間、彼の身に思いがけぬことが起きた。

「やったぁ!」
 爆発を思わせる衝撃の中で、一番に大楯をつかんだままのジータが立ち上がり、叫んだ。ボートの床で必死に丸まっていたルリアは、その声を聞くと、はじけるように身を起こしジータに抱き着いた。
「ジータ、無事だったんですね!」
 ジータはそんなルリアを受け止めてぎゅっと抱きしめる。
「うまくいってよかったな」そんな少女たちを見守りながら、ランスロットがふうと息をついた。三人とも傷ひとつなく、ボートも粉々になっていない。
 アタックによって、体がバラバラになるような衝撃を受けたのは巨大魚だけだった。
 今やまるまるした体を自在に跳ねさせることもできず、ただぷかぷかと湖面に浮かんでいる。
 巨大魚の突進は、ジータの発動した反射〈リフレクション〉によってそのままはじき返したという訳だった。防御に徹するダメージカット系の技と違って、反射ではすべては防ぎきれない。現にランスロットのシャツは衝撃で袖のところが破けてしまった。しかし、ボートがばらばらになることも、ランスロットたちが湖に投げ出されることもなかった。
 ボートはランスロットのつくる厚い氷の装甲で覆われていた。表面には雪がまとい、美しい真白のボートに変貌していた。
「こんな大物、ボートには積み込めないよね。ロープでくくっていくしかないかあ。せっかくランスロットが氷の船にしてくれたのに」
 巨大魚の脂ののった体をしげしげと観察してジータがこぼした。
「氷の船なら魚を新鮮なまま運べそうですね……そういえば、どうやってお腹から取り出すんですか?」
 ルリアはアウギュステで魚を釣ったことを思い出したらしい。ルリアの質問はもっともだ。ランスロットとジータは顔を見合わせた。
 それから、ランスロットはうんと頷いた。
「料理の得意な者に頼むしかないだろうな」
 三人の頭にちょうどひとりの男の顔が浮かんだ。彼のために女神像を奪還しようとしているのに、結局手間をかけてしまうらしい。
「とにかく早く引き上げようか」
 ジータは長槍を銛代わりにその巨体へ突き立てて、慎重に手繰り寄せる。
 ぐいっと引き寄せると巨大魚の口から、ぽろりと何かが飛び出て来た。緑や青に光る細長いものを見て、ランスロットが呆然と言った。「女神像だ」
 ランスロット、ジータそしてルリアは慌てて手を伸ばしたが、きらきらと輝く女神像は一瞬の間にぽちゃんといい音を立てて消えてしまっていた。
 少女たちが呆然としている間に、ランスロットは大きく息を吸った。
「手間が省けたな、すぐに拾ってくるよ」
 そして、女神像を追うようにあっという間に水に潜っていった。

 ランスロットは水を掻き分けて、底を目指していった。
 湖底は考えていたより深いようだ。重りになるものを持ってくればよかったとランスロットは後悔し始めていた。もっとも鎧では重すぎるけど。苦い思い出まで蘇って来る。
 水の中を闇雲に進む中で、幸いなのは女神像を見失う心配がなかったことだ。
 深く潜れば潜るほど、陽の光が遠くなるのに女神像は奇妙なほどに輝いていた。
 青や緑の織りなす光を追いながらふと気が付いた。
 いくら何でも底が遠すぎやしないだろうか。随分と長い時間泳いでいる気がするが、どうしてこんなに息が保つのだろうか。
 次々と疑問が浮かんでくる。水を掻く手を、水を蹴る足を止めると、ランスロットは湖底に立っていた。
 まるで白昼夢を見ているようだ。湖の底では、浮力を取り払ってしまったように地上と同じように体を動かすことができた。呼吸ができなくても息苦しさはまるで感じない。
 もっと不思議なことがあった。あの女神像だ。
 女神像はまるで人が腰かけるように、平らな岩の上に鎮座していた。おまけにキィーンと不思議な響きと共に、女性の声までが聞こえてくる。すぐに女神像が語り掛けているのだと気が付いた。
「なんてきゅうくつだったのかしら、あなたのおかげで助かりました」
 可笑しいのはファフニールの腹の中にいたシルフと似たような感想をもらすことだった。
「お願いがあるんです」
 ランスロットはとっさに口を開いた。声と共に空気の泡が漏れでるが、滑らかに喋ることができる。
 しかし、すべてを申し出る前に、女神像は「いいえ」と遮った。
「ごめんなさい。一度叶えた願いを覆すことはできないんです、時間を巻き戻すことはできないから」
 この神秘的な精霊はランスロットの思惑すら見抜いているようだ。
「そうですか」
 ジータたちを巻き込んでまで、危険な魚釣りに挑んだのは八年前のランスロットの願いを帳消しにするためだった。ランスロットはひどく落胆した。
「かわりに別の願いを何でもおっしゃって。恩人のあなた方には報いたいですから」
 気を取り直すように、女神像は優しく呼びかけてくる。
 ランスロットはずっと考えていたことを声に出した。
……では、ヴェインが、俺の幼馴染が、本当に好きな人と結ばれるようにしてください」
『本当に好きな人』口にした言葉はランスロットの胸を苛んだ。
 ヴェインはランスロットのせいで短くない時間、心を操られていた。
 この呪いのような想いから解放されるのは当然として、この呪われた八年間を覆すくらいには幸せになってほしい。
「聞き届けました」
 鉱石でできた女神像だが、ほほ笑んだように見えた。
 ランスロットを包み込むように光が満ちてくる。赤みを帯びた優しい春の花のような色だった。

 ぐいっと何かがランスロットの腕を掴んだ。そのまま力強くランスロットの体が水中から地上へ引き上げられる。
「ぷはっ」
 湖底では息をしなくても平気だったのに、急に思い出したように苦しくなって、肺いっぱいに息を吸った。陽の光がまぶしくて視界をちかちかさせたが、ランスロットは青い瞳を真んまるに見開いた。
「ヴェイン? どうしてここに」
 水に浮かぶランスロットはヴェインの腕の中にいた。ヴェインの金髪も濡れてしまって、いつもみたいに元気に跳ねてはいなかった。ヴェインも水に潜っていたのだろうか。
「ランちゃんよかった! 本当に、よかった!」
 ヴェインはぎゅうぎゅうとランスロットを抱きしめるばかりで、質問に答える気がないようだ。
「ランスロット! 全然戻ってこないから心配したんだよ」
「ランスロットさん、無事でよかったです」
 ボートの上からジータが声を張り上げた。ルリアははらはらと涙を流している。
 ふたりの姿を見つけてはっと思い出したが、いつの間にかランスロットはその腕に女神像を抱えていた。あれは白昼夢ではなかったようだ。
「俺はそんなに長く水の中にいたのか?」
「ランスロットが、溺れちゃったと思って怖かったぁ」
 とうとうジータまで鼻をすすりだす。
「とにかくボートにふたりを引き揚げようよ」
 ヴェインとジータとルリアは泣くばかりで、まともに返事ができないようだ。ランスロットが混乱していると、別のボートが近づいてきて、そこにはグランとビィが乗っていた。
「グランとビィまで……潜っている間に何があったんだ?」
「そういえばさ、前もこんなことあったね」
「ランスロットたち、水場じゃ本当についてねえよな」
 ヴェインとランスロットにそれぞれ手を差し出しながら、グランとビィは答えにならない返事をした。



 ボートに引き揚げられたランスロットは、すぐにグランサイファーまで担ぎ込まれ、浴場に押し込まれた。シャワーを浴びると体のあちこちを検分されて、問題ないと判断されると今度はそのままベッドに寝かしつけられた。一連の動きはすべてヴェインが主導して行ったもので、ランスロットは手を引かれるままだった。
 しかし、女神像はまだランスロットの枕元にあるし、キッチンは巨大魚を捌くのに大忙しだという。
 ランスロットは自分だけ寝ていられないと意見してみたが、ヴェインは聞き入れなかった。とうとうヴェインの大きな手が、子どもを寝かしつけるみたいにぽんぽんと肩のあたりを叩いた。この徹底的な扱いに、逆らうのは得策じゃないことをようやく悟った。ヴェインの言いつけ通り瞼を閉じてみる。身体に蓄積した疲労は、あっという間にランスロットをうたたねに誘った。

 次に目を覚めたとき、部屋のランプが灯っていたのでランスロットは慌ててしまった。夜まで寝過ごしてしまったかと思ったのだ。
 しかし、窓の外はまだ明るかった。
 かわりに、枕元ではヴェインがなにやら縫物をしていた。そのための照明だったらしい。手にはランスロットのシャツを持っている。釣りの最中に破いたシャツを直しているのだろう。
「悪いな、ヴェイン」
「ランちゃん、もう起きちゃったの?」
 ランスロットが声を掛けると、ヴェインはぷちんと糸を断ち切って机の上にシャツを置き直した。繕い物はもう終わってしまったようだ。
「病人じゃないんだから、いつまでも寝ていられないさ」
 ランスロットはベッドからさっさと体を起こした。
「たまには昼寝でもしたらいいのに」
「みんなが忙しくしてるのにか?」
「魚はローアインたちが引き受けてくれたから問題ないってよ、食堂に行く? グランがケーキを作ったんだ」
 裁縫箱を整理しながら、ヴェインがのんびり言った。
「グランが?」
「ああ、タルトタタンっていうリンゴのケーキだよ」
 タルトタタン。聞いたことのある名前だが、どんなケーキだったかは思い出せない。それも、グランがつくったというなら是非食べてみたい気もする。
 いいや、とランスロットは首を横に振った。
 ランスロットは、望まないにしろもう何年もヴェインの心を縛り付けていた。一刻も早く、この呪いを解いてやらねばならない。
「ヴェイン、あのな、俺はヴェインに話さないといけないことがあるんだ」
 緊張して喉がごくりとなった。
「うん、なんとなくはジータたちから聞いたけど」
 ヴェインはこめかみのあたりを指で掻く。
 事情が伝わっているなら、話が早い。ひと思いに言ってしまえ。
「ごめん、ヴェイン……こんなひどい話は謝っても許されることじゃないけど、お前が俺を好きだって言ってくれたのはまちがいなんだ。好きになってくれるように俺がこの土地の精霊にお願いしたせいなんだ」
 ランスロットの言葉に、ヴェインは目を丸くした。どんな風に批判されたって当然だ。ランスロットが身を固くしていると、ヴェインはすぐにわははといつものように笑いだす。
「なんで笑うんだ」
 ヴェインのこの反応に、ランスロットは色をなす。
「だって、ランちゃんがおかしなこと言うから」
「おかしなことじゃないよ、あの女神像のこと聞いただろ?」
「いいや、ジータから聞いたのは、ランちゃんも俺のこと好きだから、まだあきらめない方がいいんじゃないか、ってことなんだけど」
 ヴェインは思わし気にまばたきする。
「そうだよ! 俺はヴェインのことが好きだ! だから、こんな長いこと、お前は俺を好きだって思い込まされているんじゃないか」
 ランスロットは自棄っぱちで叫ぶようにに言った。
「思い込みじゃないよ、俺はちゃんとランちゃんが好きだ。さっきだってランちゃんが湖に潜ったまま戻ってこないって聞いたときは心臓が止まるかと思ったよ」
「うっ……、それは悪かったよ」
「まあ、それは友達なんだから、心配するのは当たり前だけどさ。一昨日フラれた時はそれこそ湖に落っこちてしまいたいって思ったし、昨日ランちゃんがキスさせてくれた上に、俺の腕の中でふにゃふにゃ可愛いことになってた時はここで死んでもいいかもって思ったよ」
……だから、ヴェインがそんな風に思ってくれるのも、全部精霊が作り出した、うその気持ちなんだよ」
 ヴェインがそう言うと、ランスロットは先ほどまでの元気をすっかり失い、打ちひしがれたように返した。
「ランちゃんがいつ精霊なんかに会ったかは知らないけど、俺は絶対にその前からランちゃんのことが好きだったはずだよ」
「どうしてそんなことが言い切れるんだ」
 ランスロットの声が震えている。
「そんなの、子どものころからずっとランちゃんが好きだったからに決まってるだろ?」
 ヴェインのポケットには金ボタンが入っていた。二十年も昔に川底で拾ったボタンの重みがこの恋を証明してくれる。
 ヴェインは愛情と自信を持ってランスロットに口づけた。

 枕元の女神像は願いは叶えたとばかりに淡く光った。


2019/5/3(全空の超覇者発行)