ひさね
2025-01-18 22:35:49
17074文字
Public 当該世界の余録と補遺
 

魔法について

本編6話。
魔術と魔法と、因果律の中と外に関する話。

 植物の葉を模した豪奢な窓飾りに、これもまた凝った幾何学模様が彫られた白い石壁と円柱で拵えられた神殿の様な眼前の建物は、この国随一の大型図書館だった。ただでさえ白いこの図書館は、正午の太陽を照り返して尚の事白さを増す。
 平日の昼間でありながら、入っていく人間も出てくる人間も少なくはないようで、人の流れに多寡はあれど途切れる事はない。
 わたしもケントもそこまで食べない性質だったので昼飯は食べず、その流れに乗って入口に伸びる真っ白な階段を登る。
「本離れ、とか良く言う割には人ばっかだよな。学生っぽいのも居るし」
 ケントはそう言いながら、本を両手いっぱいに抱えて、わたし達とすれ違って降りてゆく青年の黒いマントが翻るのを目で辿る。大方、魔術を専門的に学ぶ学生だろう。この国の学校で魔術師――あるいは魔法使いを目指す卵はマントが制服として支給されて、皆こぞって羽織りたがるのだ。
「そりゃね。娯楽小説から歴史書、理学書、魔術書まで何でもござれ、近代以降から現代までの全ての記録はほぼほぼ保管している、なんて宣っているんだから。ずっと魔術師、じゃなくて今は魔法使いと言うべき人間が偉いだけあるよ。科学者とだって仲良いし、記録は何でも残したがる」
「ふうん。じゃ、今も変わらず魔術研究と資料は最先端を行ってるんだな、この国」
「おかげで人倫に悖ったままだけど。……こんな事言ったら怒られるか」
「だろうな。大体偏屈と言うか、保守的な善意が強い奴ばっかだし。そもそもぼくらに言えた道理ではないんだが」
……魔術師がそうなる様に、魔法使いが仕向けたんだからね。混沌から生んだ秩序なのは分かってる」
 たん、と最後の一段を踏んで、越える。会話を盗み聞いていたのか、対面から来た学生数人がこそこそとこちらの影を盗み見るのは気にしない。
 入り口はすぐ目の前で、円の柱に支えられた庇の影の中に踏み入る。
「で、どうやって図書館を荒らさない様にするんだ?」
「黙って見てなって」
 扉の先は陽光とは全く無縁で、四方八方に本棚がそびえ立つ。紙と埃が焼けた匂いが漂う中を、わたしが先導して行く。
 向かう先は中央にあるカウンターだ。丁度先客もなく、貸出の手続きをする客が疎らにいるだけだ。躊躇いなく、検索用の機械と向かい合った司書に尋ねる。
「ここ四、五年前から今までの魔法と魔術の区別に関する論文と書籍と、半年前の発見に関する記事を探しているんですけど上手く見つけられなくて、助けてもらえませんか? あと、印刷の可否とその手続きも教えて頂ければ」
 背後で、これからの事を察したであろうケントが珍しくため息を吐いた。

 ***

 涼やかな風が頬を撫でていき、丁寧に刈られた芝のふかふかとした柔らかさは靴底越しでも感じられる。足元には木々の真っ黒な影が伸びている。強すぎる陽射しは得意ではないが、草花が日を浴びて黄金に輝くのを見るのは好きだった。
 わたしとケントは公園の長ベンチに、珍しく中央に寄って隣合って座っていた。丁度半年前の新聞記事とそれに関連する論文を二つ読み終え、珍妙な読み聞かせの休憩していた。行儀は悪いのだが、お互い端に一人分座れるぐらいに空いたスペースに、雑にクリップで止めた藁半紙の束を置いている。ケントの隣に二つ。わたしの隣に三つ。
 残りは三つか。隣の表紙を撫でれば、ざらざらと上質とは言い難い紙の感触がした。既に知っている前提知識は大幅に飛ばして、要点を掻い摘んで読み上げはしたものの、読み上げる側の負担は大きい。
 これは思った以上に長丁場になる、と一周回って笑いがこみ上げてきた。
 事は数十分前。カウンターでの相談が終わったあの後。
 ピックアップされた論文を流し読み、目当ての記事と一緒に必要最低限を印刷した。本当は、正確性を求めるならばもう幾つか刷るべきではあったが結構な量になる事情と、今日の相方が大層渋ったので、昔から今の多数説の変遷と中世の迷走振りについて、現在の少数説について、そして何より昨今の発見に関して分かりやすく見解が割れたそれが手元にある。
「新聞の内容、本当にあれだけなのか。魔法使いと魔術師が同時に出てきたーってだけで、肝心の内容がないぞ」
「学術的な新聞ならまだしも大衆向けだし、センセーショナルな事実だけ書いているものだよ。だから論文もコピーしてきたんじゃん」
……それにしたってやっぱり多すぎるんじゃないか、その紙束!」
 口を尖らせ、不満と皮肉を述べるケントに、「勝手に付いて来たのが運の尽きだね」と自嘲を絡めて返す。
「大前提、わたしが調べるために刷ったんだから黙って享受しときなよ。これぐらいでパンクする程ちゃちな頭じゃないでしょ」
「知らない事ならまだしも、論文じゃ知っている事ばっかだから実入りもなくて面白くないぞ」
 無関心そうに言ったかと思えば、彼は腕をうんと上げて伸びをした。それから頭を回して。首の辺りからポキポキ言う音が聞こえる。
……この神秘狂いオカルトマニア
 たっぷりの揶揄と、ほんの少しの余白に羨望を詰めて吐き捨てる。此奴の発言の是非はともかく、知識量とその正確さは確かだった。
書籍狂いビブリオマニアの趣味と実益に大人しく付き合わされているだけ感謝してほしいぞ」
「マニアじゃないから」
「何処に噛み付いているんだ、きみは」
 呆れた様に呟いて、彼は彼の隣に置いた、捌き切った方の論文を一つ手に取って、ぱらぱらと適当に捲っている。その目は中の文字を全く辿っていないし、辿れる筈もないので手遊びのお供にしたらしい。
 結局、とケントは口を開く。先程啓くまでもなかったその内容を確かめる様に。
「今の大多数の認識も変わらず魔術と魔法を同一視するのがセオリーだな。説が割れるのは専らそうなる理屈で、理由付けは大抵古代の文献。魔法書も魔導書もあるからな。ただ、その内容が真である保証はないんだが」
「はは、言えてる。魔法書は中身が錯綜して出鱈目で、ナンセンスだし」
「魔術が草に火を点けたり、物を引き寄せたりする傍らで、魔法は初手で山から火を吹かせたり、天体を好き勝手したりするしな」
「今の理論と中身がろくすっぽ変わらない魔術書もどうかしているとは思うけど。誤謬も変化も一見して分からないから、全く別種の何かが混じっても線引きができない」
 何時聞いても、何方も、余りに荒唐無稽で不可思議だから。けらけら、笑い声が重なる。
 魔法と魔術の区別は現代の謎だ。現代に魔法使いは居らず、魔術師だけが存在するとされている。少なくとも人間社会の中ではそうなっている様だ。だから、そもそも魔法と魔術の区別自体が存在したのか否か、そんな大前提が目下の謎である。
 今、魔法と呼ばれ使っている技術は正確には魔術と呼ばれる。生まれつき備わっているか、空気中に漂う力の元を、この世界の仕掛けである因果律、もっと踏み込んで言えば自然法則の様な因果関係に従って、力の元の量と質に見合った想像通りの力――火や水、風、任意の現象に変換する技術。それが魔術だった。古代から全く、不思議な位に形を変えず、伝播されてきた。
 だから古代の魔法書や魔術書を自称する書物が発見される度に、魔法と魔術は別物なのか、魔術は今と違いがないのか、と魔術師はてんやわんやと研究成果と論文を書き散らしている。
 そんな謎を、わたし達は訳知り顔で好き勝手話すのが嫌いではなかった。第三者に聞かれた時の信憑性は考えずとも良かった。何処から如何聞いても、他愛ない妄言で済む事しか話さなかったから。
「魔術の始祖が稀代の大天才なのも考えものだな」
 いや、とケントは言葉を切る。唇の端を目一杯持ち上げて、歪めて、瞼を下ろす。
「一番始めに魔法使いになった人間か」
 ははは、と今度はちっとも可笑しくなさそうに笑声を模った声を上げた。
 虚しくならないのか、と問おうとして止めた。
 ケントの手元の藁半紙から目を離して、正面を向けば遠くで子供が駆けていたから。そのまま論を進める方がわたしの趣味と実益に適っていた。
……見つかっている文献の作成時期も魔法書が先で、魔術書が後なのも嫌だね〜。魔法使いと魔術師が同時に出てくる文が今やっと出てきたんじゃ、今までの理解の整理も大変だ。事実は当時を見るか、当事者でもないと判別がつかない。いや、当時だって混同されていて魔法が滅茶苦茶なっているんだけど! ともかく、今の手元の情報だと焦点が定まらない中、定まっていない事も分かっていないまま、良くやるよ」
「そうだな。効果と結果から帰納したり、性質と根本思想から演繹したり、文献の作成時期から魔法の発展形を魔術としてみたり。統合するために良く色々考えるよな、魔法使いと魔術師が同時に出なかったってだけで。如何にも魔術師らしい」
「流石因果関係を重視するだけある。現代の魔法、つまり古来の魔術と古典の魔法は重なる部分が多いし。どちらも見た目は因果関係を生むもので、違いはスケールの差だけに見える」
「魔術の最終目標を魔法に置くなんて考えもあったな。丁度読んでたやつがそれか。自然法則だって因果律だから、究極それを究明し尽くせばできない事はないってスタンスだな」
「中世の魔法書の何でも出来ると思い上がった出鱈目ばっか信仰した魔法信仰批判の矢先に、それだから」
「傲慢?」
……今も古い信仰を掲げるどっかの家よりはマシか」
「因果関係の中にいるだけ全部マシだし謙虚だぞ」
 ケントは肩をすくめて、開いた紙片を叩いて閉じて、脇に追いやった。そして軽いあくびを一つ。ベンチの背もたれに身を預ける。
「でも何れにせよ、どの魔法書にも書いてあって、どの魔術書にも書かれてない、因果を飛び越える、をちゃんと読めてないよな」
「ほう。興味深い見解ですね」
 突然後ろから知っている声がした。肩が跳ねたが、すぐに振り返る。
 白いローブを羽織った長身の男が柔和に笑っていた。背中に括り付けられた銀色の杖と眼鏡のフレームが太陽でキラリと光る。
 目の前の旅人に会えるとは思っていなかったので、勝手に上がる口角と瞼に反して、話したい言葉はある筈なのに胸の辺りを漂って形にならない。
 横でケントが「あ!」と慣れた様に元気良く声を上げて、器用に満面の笑みに切り替えた。見る人が見れば、彼のそれは向日葵や太陽にでも喩えるのだろう。間近で見ていたわたしでさえも、先程まで魔法使いも魔術師もこき下ろしていたとは土台思えなかった。
「賢者のデウテだ」
「大賢者のデウテさん、ね」
「名前だけで良いのですよ、なんてお約束のやり取りですね」
 漸く出た声で不躾な呼び方をするケントを諌めれば、くすり、と笑みを向けられた。お約束、と言ったのだからわたし達の事は認識しているらしい。
「えー、本人の前でやってたか?」
 飽くまで旅の事は覚えていない振りで、ケントが白々とすっとぼければ、デウテさんは柔らかい表情は変えないまま、少し首を竦めた。
「それはもうバッチリと。図書館の前でやっていましたよ、隣国のだったかもしれませんが。初対面でそう呼ばれるのも、訂正されるのも初めてでよく覚えてます」
「ふうん。そうなのか」
 自分から尋ねておいて、返答には興味もなさそうにケントは返す。
 どうやら、そういう風に改変されているらしい。この国の外、草原が広がっている平野。そこで魔物に不意打ちを食らう寸前だった所を助けてくれたのが、本当の出会いだったのだが。
 何故か胸は痛むより先に、喉が閊えた。そこを擦る。この所、頻繁に何かが詰まる。大賢者とて人間なのだし、致し方ない。そう自分に言い聞かす。態々言い聞かせる程には動揺していたらしかった。
「ケントさんは変わりありませんか。隣国は状況が芳しくないと聞いていたので気掛かりで」
 デウテさんがケントに向かって尋ねれば、ケントはまたけらけら軽薄に笑って肩を竦めた。
「一周回って普通だぞ。今なら出るのも入るのも全部有耶無耶になるからな」
「成る程、それは大丈夫ではありませんね。入るのももっと後に日を改めた方が良さそうだ」
 デウテさんは呟きながら、後ろに顔を向けた。すると、背中からひょこり、と黒髪の少年が顔を出す。橙色の目が無機質に光っていた。
 偉大なる大賢者の唯一の弟子。そして失われた旅の元凶たる呪い、が人間の様な器に入ったものだ。大層な面子が揃っていた。
「レクスじゃん。元気してた?」
「お陰様で、なんとか」
 その名前を気安く呼べば、彼はよれた黒いマントを肩に掛け直しながら、真横にすっと伸びた眉はたっぷりと下げて、至極穏やかに答えた。随分やわっこい表情をするようになった。目を見張りつ、殊の外嬉しかったものだからゆるゆる口の端が持ち上がる。
「デウテさんの所はどう? 結構厳しい?」
……禅問答の様なものが多く、中々」
「それは……ハードだね。倫理の勉強が中心か、デウテさんも酷な事しちゃって」
「ふふ。答えは出なくとも、人間の生活には何かと付いて回るものなのですから。考える体力は付けておくべきかと」
 彼はレクスと共にわたし達の前に回り込みながら答えた。
 本当に生活に付属するかはともかく、名誉に見合った答えだ。きっと本人は他人から貰った、そんなつまらないものに頓着しないで答えたのだろうけど。でも、だからこそ。
 この国で偉大なる大賢者の称号を象徴する白いローブが輝く。
 彼は、国から名誉を授かった一角の人間だった。
 大賢者の定義とは。この国では専ら偉大な魔術師に送られる称号だ。魔術を発展させただとか、研究に寄与しただとか、そんな分かりやすい成果では与えられない名誉だった。頭が切れる事は必要かもしれないが。
 魔術師は因果関係のでものを極めていく。世界のから因果律を辿って、伝って、昇って、真理を見つける。これが究極命題だ。
 だから、真面目に魔術と向き合った人間は、必然か偶然かは知らないが、大抵哲学者じみてくる。命題を見つけて、考えて、答えを出して、そして誰にもそれを言わずに匂いだけを残して生涯を閉じる。
 だから、要件は抽象的で不明瞭で、単純明快だ。
 ものの道理を知っている事。
 年齢も性別も血筋も関係ない。これだけが条件だった。これだけの事が中々どうして難しい。
 だから。どうにも。
 歴代最年少であったらしい目の前の大賢者は、わたしの隣に積んだ紙束を見て「おや」と呟いた。
「丁度最近の。魔法使いと魔術師が同時に出た文献に関する論文ですね」
「そう。図書館で印刷してきた。今日の読み聞かせのメイン」
「此奴、これに関連するやつ全部刷ろうとしてたんだぞ。玉石混淆だって言ってんのに」
「だからこそ、でしょ。色々な説が出る所が見たくて」
 芯を食ったものもあるかもしれない、と言いかけて止めた。これではまるで答えを知っている様な口振りだ。言う訳にはいかないのに追求されては敵わないので、ふふ、と笑っておく。
「所持金の兼ね合いで諦めたけど」
 それから肩をすくめて、他愛ない事実を付け足した。
 今朝の見物料は二人分払った。そこに、幾ら安い印刷料とはいえ、量があればそれなりの出費になる。財布の中身は既に砂埃ぐらいしか入っていない。だから嘘はついていない。後ろめたくはない、筈である。
 レクスは少し驚いた様にぱちくりと瞬いて、大賢者は静かに笑みを湛えた。
 そして彼は「失敬」と、わたしの隣から紙束を手に取る。黙ってぱらぱらと捲って眺めたら、一ページ目を閉じる。それから何かに納得した様に頷いた。
「この半年前の発見、と言うよりもこの研究と言うべきですね。これには私も一枚噛んでいるのですよ」
 論文をわたしに手渡しながら、さらりとそう言いのけるものだから、間抜けな声どころか掠れた息だけが出た。ケントが一足先に、少し浮かれた早口で食いつく。
「本当か! 共同著者とか、そういう奴か?」
「ふふ、実は。名前は変えていますけどね。どうにも、称号が色眼鏡になってしまうのは避けたくて。研究者としては、他人から勝手に呼ばれたもので、真相でないものが真実になるのは嫌ですから」
「権威が邪魔なんだな」
「そういう事です」
 デウテさんは眼鏡の奥で目尻を下げる。ケントは態度を崩さない彼を見て、足を組んだ。良く見る姿勢に、つい眉を寄せる。
「で、どっちが偽名なんだ?」
 ケントは意図的に意地の悪く他人を揶揄う時、わざと姿勢も悪くする。癖ではなくそういう演技だから何時も大げさな動きになる。
「秘密ですよ」
 彼は弧を描いたままの唇に人差し指を立てた。それを見たケントは猫背にもなって、からから乾いた笑声を上げた。
「じゃあ、デウテの見解はどうなんだ。魔術と魔法の違いについて」
……はて。何かを試されている様な気がしますね?」
「真逆! スラムの男に、賢者の何を試せるって言うんだ?」
 にやにや意地悪そうに目を細めては、また賢者とわざとらしく強調したケントを咎めようとしたが。
「そういう所ですよ。飄々として答えを知っている様な素振りと」
 デウテさんはふふ、と顎に指を乗せて、それでもとにこにこと柔らかな笑みは崩さない。
「矛盾を見つければ執拗に追い詰めて来そうな姿勢。それだけで、研究者には十分なプレッシャーになります」
……ソウにも似た事言われたな。足元を見てるって、昨日」
「やっぱり、きみ本当に性格が悪いんじゃないの?」
「良い自覚もないけどな」
「とんでもない」
 デウテさんは首を横に振って、わたしの言葉を制した。真っ白なローブとは対象的な黒い髪がさらさらと顔にかかって、それを指で整え直してから続けた。
「研究者としての素養が既に備わっている、という意味です。……同業者としては反対意見に立たれると少々比重を置いて警戒しますが、味方ならば心強い事この上ない」
 分かるでしょう、と彼はわたしに尋ねてきた。結局の所、敵に回すと面倒臭いという文脈はあった訳で。迷うまでもなくこくり、と頷く。話題の本人は隣で「えー!?」とわざとらしく頬を膨らせているが、昨日の厄介なしらばっくれを披露してきた時点で答えなど既に決まっている。
……それは置いておいて」
 ケントは口を尖らせたまま組んだ足を元に戻して、すっと姿勢をまっすぐにする。そしてデウテさんの細い目を見上げて、今度ははっきりと口を開いた。
「結局どうなんだ。魔術と魔法は同じなのか、別物なのか」
 デウテさんはふっと真顔になって、ケントの紫の瞳を真っ直ぐに見つめる。お互い、黙っていた。遠くで遊ぶ子供の笑い声と草葉の擦れる音がする。それから、大賢者の後ろで小首を傾げるレクスも居た。数秒間の事だった。
 この場の沈黙を一番に破ったのは、やはりデウテさんだった。
「私は別物だったと思っています。ケントさんの因果を越える、とは違った理屈ですが。これって所謂イントロダクションやはじめに、に当たる前書きに出る表現が元ですよね?」
「さあ。実物は見た事……あるけど、古代語なんか読めないから分からないぞ。そもそも今の字も読めないし」
「それでも魔法書の内容を知っているんですね?」
「知り合いから聞いた話をたまたま覚えていただけだぞ」
「ほう。誰から聞いたのですか?」
……一人はスラムのまとめ役の前任者。大体皆に長って呼ばれている老人だぞ」
 ただ、とケントは目を伏せた。髪色と同じ銀色の睫毛の影が微かに頬に落ちる。
「耄碌しててな。古い魔法信仰も混ざって、因果の外から弄って死者蘇生するとか、運命を変えるとか、うわ言ばかりの古い人間になって何が何やら」
 まるで言うのも憚る様な表情に反して、声に悲壮感はなく、つらつらと言い淀まずその人を皮肉っていく。
 魔法信仰、と呟くデウテさんに彼はそっと言い添えた。
「昔は現実主義者だったんだけどな。ま、もう興味ないからどうでも良いんだぞ」
 ぱちり、と瞼を上げて、気を取り直した様に破顔して、言う事がこれだ。話した対象を心底軽蔑しているのを隠しもしないので、わたしは眉をひそめる。
「育ての親に対して薄情な奴」
「信仰までされたら、切れるもん全部切った方が得だろ」
 ケントは流し目でわたしを見て、肩をすくめる。
「究極、責任転嫁に繋がってくるし。謂れのない罪なんか……
 彼はそこで言葉を詰まらせた。かと思えば、首を横に振る。「脱線したな」と、デウテさんに視線を戻す。そして今度は軽やかに、本当に楽しそうに話し出した。
「で、二人目がぼくの相棒。相棒は古代語に興味があって、その連れが、まあ、ちょっと。何やかんやで隠してあった魔法書と魔術書を見つけてきて、相棒に押し付けたのを見せて読んで貰った事があるぞ」
 魔法書と魔術書と聞くなり、デウテさんの顔がぱっと明るくなって、ケントの相棒の話もあってか、何時も落ち着いた彼にしては珍しく息巻いて質問をぶつける。その勢いに少し身を引くケントも居た。
「その魔法書と魔術書は、もしかして未発見のものですか? だとしたら何処にあったんでしょう。それに、その方は読めるのですね、古代語!」
「さあ。今何が見つかってるか知らないし、本の真贋も知らない。見つけた場所は知ってるけど……まあ、ぼくから言うと色々面倒ではあるな。相棒のは独学で解釈が正しいかも分からないぞ」
「ならこの目で確かめてみないと、ですね。ううん、何時行きましょう」
 曖昧な付言にも即答した彼にケントは呆気に取られた様子で、瞳を少しだけ小さくして。それから、眉根を下げてふわりと笑った。
 穏やかな表情に、珍しいものを見た、と思った。人間味、という単語が過って、何故か胸の辺りがすかすかした空洞みたいになった。
 デウテさんはレクスの方を振り返る。
 隣国に行く計画を立て始めた自分の師匠に、レクスはちょっと眉を上げて、淡々と横槍を入れる。
「明後日からは城での会議で寿司詰めになっているから来月までは無理だと思う」
……会議の代理出席は駄目ですかね」
「当然認められていないだろう。称号で名指しされているのだし。おれが行った所で何だ、という問題もある」
「そうですよねえ。早いに越した事はないのですが。やっぱり当初の予定で行くべきか……
 ぶつぶつ呟くデウテさんにケントが不可解そうに首を傾げる。
「隣国の情勢を気にする割に予定を急ぐのは何でだ? 行く目的が研究なのは大体予想がつくが」
「近況が危ういからこそ、ですよ。騒動の最中に焼失紛失諸々の可能性は十二分にありますから。……第一著者の彼女は現地で派手に対立してしまってもいますし」
「ああ、アリストス関連か。彼処も魔法信仰やってるし、燃やしそうだもんな。目と鼻につくものは全部!」
 愉快そうに全方位に煽り散らすケントの耳を「こら」と引っ張る。何やかんやと喚いているが頭に入れずに、昨日のニアとハチに教えてもらった事を思い出す。
 半年前からマリィの国民とアリストス家が対立していて、その発端は魔法信仰と新発見の文献とのズレにある、と言っていた。つまり、第一著者はマリィの所の人で、きっと意見はデウテさんと同様だ。そうでもないと共同著者にしないだろうし。対立があるのであれば著者は身の危険を慮ってか、出禁になったかで隣国には赴けないのも予想がつく。共同研究者たる彼が資料や情報を集める役割も担っているらしい。
「そういう事でもあります。が、やはり、先程のケントさんのお話と件の書物を実際に見聞きしたいのが専らの動機ですね」
「ふうん。……長は外の人間が嫌いだから多分会えないとは思うが、相棒なら会ってくれると思うぞ」
「おや、それは有難い。来月頃に約束を取り付けたいのですが、そこも期待しても良いですか?」
「動機次第だな。魔法と魔術を区別する理由を教えてくれれば、やぶさかではないぞ」
 ケントはにっと白い歯を見せて指を立てる。デウテさんはその指の先を見詰めて、一瞬細い目が微かに開いた、気がした。それからふっと口元を手で覆って、ゆっくりと喋り始めた。
「魔法信仰です。中世の、荒唐無稽と言っても良い信仰が現実に存在した事実が理由ですね」
「信仰が魔法を裏付けるんじゃ研究者らしくないな」
「そうですね……正直に申し上げると私自身、腑に落ちる説明ができず困っているんです。理由がない、勘でしかない。そう言われればそれまでだとは承知しています」
 デウテさんはふにゃ、と眉を下げる。
「それでも説明する努力をすれば、信仰の基盤、生きる上の拠り所とするには相応の説得力がなければいけないから。そして似通った事ができそうな魔術は実用的な技術のまま保存されたから。この二点は挙げられます。……多分」
 頭も口も良く回る性である彼にしては精彩を欠く説明だ。それだけ、魔法と魔術の区別というものは、人間にとって最先端で不確定事項が多い事柄であるのだろう。
 予測を巡らすわたしの横でケントと大賢者の問答は続く。
「でも魔法の内容は自然法則を滅茶苦茶にする、もっと言うなら因果関係を弄くり倒すナンセンスでしかないぞ。聞いた所では! それの何処に拠り所になる要素が?」
「ナンセンスだからこそ、ですね。この世界の仕組みと不条理を余す所なく説明できる、一定の事実と理屈として不条理で超常的な真実味はあったのかと」
……人間は実のないものに事実じゃなくて夢を見ると思ってたんだぞ」
「夢を見ますよ。実現できない様な可能性は大きければ大きい程、事実は霞む。でも、可能性だけを信じるのでは少々覚束ない。そこまで盲目になる事もできない、とも思うんです。何処かで因果律に支配されている事を、否めない以上は」
「因果律か」
 ケントは忌々しそうに、その言葉を口の中で転がした。その時ぴゅう、と丁度風が切ったものだから、大賢者の耳には入らなかった様で、船を漕ぐ様に論をどんどん先に進めて行く。
「だから不条理に対する論理付けを求める。でも魔術は因果律を大前提に置く論理的産物です。故に、元からナンセンスだった魔法が充てがわれる。古来からの魔法書や伝承によって、仮にペテンであったとしても外観上の事実が存在している以上、魔法の存在は少なくとも抽象的な概念として認められた。だから信仰が発生した――と今までは思っていたのですが」
 落ち着いた論調から一転、まるでジョークでも飛ばすように明るくデウテさんは逆説を口にした。
「今回の発見と、ケントさんの発言が重なって事実としても存在した、と言えるかもしれない、と思っています」
「ぼくの言葉で?」
 デウテさんはしっかりと頷いた。影響をはっきりと明言して、自分と切り分ける所は彼の美徳だった。それに納得したのかしていないのか、ケントの眼差しは益々不可思議そうな色を帯びて、微かに眇められる。
「今回発見された文献は魔術師と魔法使いが明確に区別されて登場する事が注目されていますが、それだけではないです。魔術師が因果の理解に基づいて魔法使いを批判する物でもあった。……精査中なのでまだ明確に解釈はできないのですが」
 デウテさんは気を引くようにパチリ、と手を合わせる。太陽光を反射した眼鏡がキラリと光った。その奥で細い目が更に細くなっていく。
「魔法は因果の外まで飛び越えて、魔術は因果の中で働きかける」
「それは?」
 デウテさんの後ろで瞬きながらレクスが尋ねる。
 唾を飲み下す。空気と共に飲み込んだせいで、喉が膨れた感覚で突っぱっていた。
 気分は余り良くない。
 烏が飛んでくる。木に突っ込んで影がさざめく。ゆらゆらと影が止まる間も待たずに、ガアガアと鳴いて、足元の影は止まらなくて喧しい。
「これは件の文献の中の一文です。魔法の方は魔法書に頻出しますし、魔術の方は、態々言葉にはしませんが、底に因果関係が根差しています。……内容解釈は未だ完全ではないと前置きしますが、これが単なる皮肉で書かれたとは思い難い」
「つまり、それが性質的な違いだって言いたいのか?」
「そうです。因果律の外か、中か。それが問題だ、と言えるかもしれないという訳です」
 新聞には文献の中身までは載っていなかった。だから論文を引っ張って来たのだけれど。問答ばかり気にしていて、まだ手に持ったまま所在なげなそれに目を落とす。
 シャロン・オールディス。著者達の先頭に立つ名前だ。大した発見をしてくれたものである。
 それにデウテさんもデウテさんだ。発見を理論として形にして、論理世界に結びつけて、妄言が妄言である事を許さないのだから。
 目を上げればそこに居る大賢者の様にわくわく浮き立つような気持ちにもなれない。寧ろ明かされれば明かされる程、沈んで、追い詰められていくばかりな気がした。魔法がろくでもない代物だと、身を以て理解しているからだろうか。ものの見え方。解像度の差。それだけがこの不快の理由であるとするなら、余りにも。
「因果の中と外で、何が違うのか」
 レクスの声がして、白いローブへと視線を戻す。ふむ、と半ば癖で呟いた彼はちょっと空を向いて思案顔だった。
 わたしとケントは黙っていた。
 そして烏がカア、と鳴いた時。デウテさんは口を開いた。話し始めるときの癖か、注目を集めるためか、レクスの前に指を立てて、ゆっくりと。
「例えば、烏は白いを証明するために、そこの烏を魔術で白くしたとするでしょう。どうなると思います?」
 後ろに立つ木――丁度烏がいる所を指して、彼は唯一の弟子に問う。レクスはしまった、と雄弁に揺れた瞳を慌てて伏せて、静かに考え込む。喧しかった烏も図った様に静かになって、まるでレクスの答えに耳を傾ける様だった。
「烏は白くなる。……が、命題の証明と言うのなら」
 訥々と言葉を落としながら、反面、顔を上げてデウテさんを真っ直ぐと見上げる。
「その烏を白くできたとしても、全ての烏を白くした訳ではない。仮に全ての烏を白くしたとしても、わざわざ白に変えた時点で、烏は白ではない。そういう因果だから、翻って魔術で変化させたものは物理的な刺激を与えなければ、一時的か部分的な変化に留まってこの世に存在し続けられない。……実態としてすぐに反応を返す世界だから、その烏は魔術を解かない限り白いままだが、解こうと思えばすぐに解ける。これが今の、昔から不変の原理とされていて、ならば尚の事命題は偽である、と思う」
 長い陳述を終え、レクスは一息吐く。ちら、と師の答えを仰ぐ橙色の瞳は無機質に光るが、何処か迷子の様でもあった。デウテさんはゆっくりと頷いた。
「魔術の基礎を絡めた魔術師らしい答えですね。魔術の性質は概ねその通り。では魔法で、因果関係の外から変えたとしたらどうなると思いますか?」
……因果の外というのが、よく分からない。刺激したら反応が返る以上、魔術であれ何であれ因果関係の始点と終点になる。そうである以上、外側には出られないような、気がするのだが」
 彼は眉間に小さく皺を寄せて困惑していた。
「今の所、答えを出そうとすれば何度日が沈むか分からない。客人もいるのだし、今日の所は師の意見を仰ぎたいのだが」
「それは山々なのですが。私も貴方と同じ矛盾に至って答えがないのですよ」
 あっけらかんと素直に告げた自分の師匠に、レクスは立ち眩んだ様に目を押さえて、小さく息を漏らした。
……でも問いにはするのだな」
「問いの共有ですよ。恐らく、これから良く目にする事になる……かもしれないので」
 先の事を断言せず曖昧に、でも愛嬌たっぷりに言うから、レクスは怪訝そうに肩を竦めた。「消化不良」ともごもご呟くのをデウテさんはしっかりと聞いていた様なので、腕を組んで代案をちょっと考えているようだった。
 そして、わたしの足元の辺りをゆっくりと見渡す。先生が生徒に問題を投げた後の雰囲気に、良く似ている。
 これは、と思ったら、ふと、と言うには非常に作為的に目が合った。
「シオンさんはどう思いますか?」
 揺らがずわたしの目を射抜くので、どうしようかと考えていた。
 適当に受け流すのでは誠意がないのは分かっている。失われたとて、恩人である事は確かだったから。それに今回の発見と研究が魔法と魔術を分離させる向きに、正しい方向に進むだろう。魔術師も研究者も同一化に拘泥している訳ではなく、因果関係の中で生きる者として、文献と論拠と再現性がある筋の通った論理を選ぶのだ。
……文献も手記も何もないなら研究に使ったりしないんだよね?」
「物理的な信頼性を重視する風潮がありますから、そうなりますね」
「そう。なら良かった」
 だから、魔法を知っている身として、当事者として、それの概要ぐらいは語っても外道ではなくなったのかもしれない。何処か安心している自分が可笑しかった。外道でないから何だって言うのだろう。何も、変わる訳でもないのに。良く分からない感情だった。自分が感じた事を、次の瞬間には自分で否定していて。頭の中の訳が分からないものから逃げ切るために、口を開く。
「烏は白くなるよ。だから命題は真」
 その矢先、枝葉の影が、バサバサと羽切る音を立ててさざめく。何とも間の悪い。頭上の実物を視界に収めれば、黒い烏が飛び去り、胡麻のようになっていく。
「因果律の外から因果律を直接弄るのが魔法なんだって。昔、母親から聞いた話でしかないけど。だから、魔法を使えば、因果が改変されて烏は始めから白くなる」
 母の話だと強調しながら苦笑する。胸のあたりがすかすかして、くつくつ掠れた声が自然と漏れていた。自分で言葉にして、魔法とはどれ程強力な力なのだろう、と思った。
 そうだった、わたしはこれに惹かれていたのだった。運命とか、定めとか。そういう、知りたくて、覆したくて、忌々しいものがあった。魔法なら、何でも変えられると思った。そうやって惹かれて、掴んだ結果は散々だったが。
「全ての烏を白くするのとも訳は違うのだろう。結論が真だと言うのだから」
 懐かしい感傷に足先が浸かる前にレクスが問うた。少し背筋が伸びて、それを隠す様にちょっと悩む様に指先を顎に乗せて、考える間を演出してみる。
「その通り。母曰く、運命とか因縁の改竄で、ズルだって。白い烏に則って分かりやすい例を挙げれば、黒いものを元から白いものであると性質を書き換えられたから産まれてくる子供もちゃんと白い、とかね」
……ああ、だから対象が天体と自然に行くんですね。自然法則は一番分かりやすい因果だから」
「呑み込みが早いね~。流石研究者」
「しかし、結局の所何かを変えている以上、それを越えてはいないのでは?」
 失われた旅に合わせて記憶を改変されたデウテさんがそう言うのだから、説得力がある。皮肉にも。大賢者であれ、誰であれ、例外なく、改竄されていようがいまいが、因果の糸からは逃れられないのだ。だから反論はない。全く以て、彼が正しい。魔法に夢すら見ない今ならば、すぐに分かる事だった。
「魔法は自己矛盾で出来ているから」
 降参を含んだ答えを返せば、デウテさんもレクスも飲み込めないといった神妙な顔をした。それからすぐに、デウテさんの方はまた首を傾げて少しだけ視線を上にやって、頭を回している様だった。
「自己矛盾?」とレクスはぽつり、と尋ねる。
「うん。外側で運命を変えても切っても、結局それに従うしかない……なんて言っていたよ」
「因果を好き勝手できるのに? 逆説的だな」
「デウテさんが言ってたでしょ。信仰には不条理を含む超越的な真実味が要るんだって。魔法が自己矛盾を含む強大な力なら、それは凄く不条理そのものらしいし、信仰の要件を満たすでしょ?」
「それは。……そんな気もする。因果関係を覆す様な祝福や呪いが、人間は好きだから」
 不思議がっていたレクスは目をちゃんと開いて、すっきりした顔でこくりと頷いた。腑に落ちた部分があったのかもしれない。
 信仰やら魔法やらに食いつきそうでずっと黙っていた隣の奴をちらりと見やる。ケントは目を細めて、微かに眉間に皺を作って、デウテさんを観察していた。まるで次の発言を警戒している様だった。わたしもそちらに意識をやる。自己矛盾と答えてからだんまりで、目を伏せて、顎を右手で押さえている。魔法の何を考えているのだろう。聞きたい自分と、どうでも良いから終わらせようとする自分がいた。
「まあ……母は魔法使いになろうとしたけどなれなかったひとだから。魔法の実態として正しいかは知らない。だからこの話はお終い」
 ふっと息を吐く。もう何も話すつもりはなかった。
 なのに、デウテさんはがばりと面を上げて、わたしの目を見つめた。そして。
「シオンさん。魔法使いになる要件って――
 鐘の音で声は途切れた。三時だった。
 レクスが自分の師匠に淡々と告げる。
「そろそろ城に行かないと、事前打ち合わせの時間に間に合わない」
「それは、そうですね」
 デウテさんはちょっと名残惜しそうに、目を伏せた。他でもないわたしの友人なのに、鐘が鳴った瞬間、少しでも安堵した自分が急に恥ずかしくなって、彼が言いかけたそれを聞き直さないと済まなくて、「あの」と手近な言葉を引き出した。すると彼は首をちょっと横に振って、気を取り直した調子でわたしの言葉の先を塞いだ。
「それはまた会ったときに話させてください。その時にはきっと色々整理できている筈ですから」
……はは。お互い旅しているのに、都合良く会えるものかな。来月には隣国に籠ったり、また何処かに行ったりするんでしょ?」
「そうですね。だから、私の運と直観次第にはなりますが」
「じゃあ、期待してる」
 では、とデウテさんとレクスは軽く頭を下げて、後ろの街へと続く舗装された歩道を歩いて行った。
 その背中がすっかり見えなくなるまで見つめ続けて、レンガの赤褐色の道だけが見えるようになってから、伸びをする。ベンチの背に思いきり背中を預けた。知らない間に背筋を伸ばしていた様で、少しだけ背中が痛む。
「いやあ、びっくりした。まさか本題の当事者が来るとは」
「本当にな。……何処まで聞いてたんだか」
「ああ、話しかけられるまでの会話?」
 ケントは大賢者を観察した時の細い目のまま頷く。ふと感化されたように柔らかく笑ったかと思えば、途中からずっと警戒していたのが不思議だった。
「別に良いでしょ。魔法の一番の核心は誰も言っていないんだし」
「気が付くのも時間の問題な気はするぞ。デウテは勘が鋭いからな」
「それは、まあ、分からなくもないけど」
 最後に魔法使いになる条件を聞いてきたのだから。研究者らしく、何かの仮説が立ったからそれを口にしようとした。そして、それは多分殆ど正しかったのだろうと確信している。何と言ったって大賢者だ。真理への直観は鋭くて、推論が正しくなければ道理など分かる筈もない。鐘が鳴ったとき、彼は一番ではないが、でも一つの核心をきっと手にしていた。
「にしても良く長々と喋ったな。魔法の事」
 漸くケントはわたしの方を向いて――それでも左目を眇めたまま、皮肉も込めて聞いてきた。
「きみも話してたでしょ。育ての親と相棒を盾にしながら。相棒の事認められたらにやにやしてたし」
……嘘は言ってないぞ。それに、自分が勝てない相手を人に認められれば嬉しいもんだろ」
 嬉しくなる、と思ってもいない台詞が返ってきて、うわ、と無意識に目を見張る。
「ちゃんと人付き合いしてたんだ。意外」
「きみはぼくを何だと思っているんだ」
……人でなしの同類?」
「自分で言ってて空しくならないのか」
「別に。事実でしょ」
 くわ、とあくびが出る。涙がうっすらと視界に膜を張って、景色を曇らせた。日差しを照り返す芝生も、遠くでボール遊びをする子供も、ぽつんと立つ時計もぼんやりとして輪郭を失っている。
「今も、魔術師じゃない魔法使いが居るって知られたら、どうなるんだろう」
 視界と同じぐらい頭の中がぼんやりとして、そう呟いた。
「だから何なんだ。それで何かが変わる訳でもないんだぞ」
……それもそうかあ」
 それではとても寂しくて。寂しくて、何だったんだろう。自分で感じた筈の事が、次の瞬間には流れ去ってしまっていて、最早もう一度掴むのは不可能だった。
 ケントが吐き捨てた尖り声を聞いて、指で目元を拭えば、視界はすぐに明瞭さを取り戻す。単純な話だった。ケントの言う通り何も変わらないのなら、魔法使いの事が知られた所で意味などなかった。
 それに、わたしは早く帰って、いい加減ロイの依頼に基づいた文章を、幾つか書かなくてはならないのを思い出した。思った以上にぐずぐず、ぼんやりしている暇はない。
 だから、何かを訴える様に喉が閊えたのは無視して、ずっと手にしていた論文を彼に手渡した。
 はて、と首を傾げながら受け取ったのを認めて、わたしは自分の隣に置いていた紙束の一つを取り上げて、表紙を捲る。
「じゃあ続き、始めよっか」
「もう帰る流れじゃないのか?」
「そんな事はないけど。後二つだし、二、三時間で終わるでしょ。ほら、これ、最近の発見を受けても魔法と魔術を統合させたいタイプだよ」
……なんかトンデモ理論な気がするんだぞ」
「読んでみないと分からないでしょ」
 けらけら笑って、「帰りたければ勝手に帰れば」と言ってみれば、ケントはわざとらしくため息をついた。が、帰る素振りはなく、顎で手元の論文を示す。さっさと読めと言いたいのだろう。何だかんだ気にならない事はないらしい。こういう素直な様な、素直でない様な微妙な所が、今は面白かった。
 だから、相手には聞こえる様にはっきりと、ゴシック体の題名を読み上げた。