kaede
2025-01-16 13:23:54
2067文字
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一彩くんに抱きつかれた燐音くんが兄を噛みしめるはなし

天城兄弟
⚠️わたしにしか配慮してないので天城兄弟ほぼしゃべってないです

 全部、都合のいい夢なんじゃないか。

 今でもたまに、いや、常にそういった思考が、意識の波間にたゆたっている。そう思う。つまりそれくらい、俺にとって文字通り、夢みたいな、夢だと言われても特に異を唱えるでもなく、なるほどと納得してしまいそうなくらい、現実感がない。そういうことなのかもしれない。
 腕の中にある温かなかたまりの実在を疑う余地なんてない、とわかっていても。

 声をかけたら夢が覚めちまうんじゃねェか、なんて、ありえないことを、今この瞬間も考えている。

 いつだったか……確かあれは忘れられない夏を過ぎて束の間の秋……秋らしいものが来たあと、肌寒く感じる日が増えてきた頃だったか。やや強引ではあるが、まあ、偶然と呼んでもぎりぎり不自然ではないタイミングで、寮の廊下で鉢合わせた弟に誘われるまま、あの子の部屋でお茶をご馳走になって、一方的に話される、弟の仕事やら学校やらの、他愛のない、だが俺にはどれも尊く鮮やかな日々の話の切れ間。不意に訪れた沈黙を数秒見送ったあと、何の脈絡も前置きもなく弟が抱きついてきて、俺はそれですべてを、弟の様子がおかしかったことの理由を悟った。
 悟りながら同時に、大いに焦っていた。俺の記憶の中にいる今より小さな弟は、唯一の兄弟である俺にすら、物心ついて以降はこんな行動をしたことがなかったから。
 抱きつかれたことが一切ないわけじゃない。だが弟がそうする時はいつだって、俺のためだった。俺を死から、あるいは夢から、遠ざけるために。
 ならこれは何から遠ざけようとしているんだ?
 兄と同じ夢を見ることを望んだ弟が、今さら、俺を、何から。
 いや、違う。違うことくらい、わかる。俺はこの子の兄なのだから。
 この子が望んでいることが何なのか、それくらいのことは。

 この子が、自分のために俺に何かを求めたことなんて、かつて一度もなかった。
 弟を愛する兄が夢に見るほど望んだことだったのに、ただの一度も。

 だから、これが夢だと錯覚してしまうのは致し方ないことだ。
 夢にしたいわけではないが。
 そうだ、夢であってたまるか。
 これはまぎれもない現実だ。
 そうだろう、一彩。
 お前はここにいるよな? 一彩。

 急に現実に放り出された俺の必死さが……あるいは単に、愛しくてどうしようもない気持ちがあふれただけかもしれないが。
 俺に抱きついていたはずの一彩をいつの間にか、俺の方が強く抱きしめるかたちになってしまっていて、だから苦しかったのかもしれない。
 一彩が身じろいだ気配に気づいて、すぐに腕の力を緩めた。

「ごめんな」
「ごめんね」

 同じ言葉を同時に発するなんて、つながりの強さの具現化のようで心が弾みはするが。
 どうして謝るんだ。
 俺には謝るに足る理由があったが、お前にはひとつもないだろう。
 だが、理由を尋ねようという気にはならなかった。訊かなくても察しはつくし、訊かれたところでこの子は困るだけだろう。答えられないとわかっている問いで弟を困らせる趣味は俺にはない。
 無理矢理答えさせようとして、一彩を失うなんて失態を犯す愚かさもない。

 一彩のことだ。俺が困っていると、自分の行為を不適切だと結論づけてしまえば、二度と、俺には頼らない。そんなこと、わかりきっている。

 だから、一彩を抱き寄せる。お前の謝罪なんて見当違いなんだと、暗に伝えるために。
 一彩は、俺との間にわずかに空いていた、俺が空けておいた隙間を、自ら、埋めてくれた。

 お前の行動の意味について俺には、誰にも、断言はできない。だが、推測し仮定することはできる。この想像はおおむね合っているという自信がある。俺はお前のお兄ちゃんなんだから。
 たとえお前が、今、自分が何を必要としているのか、頭ではまだうまく理解できていなかったとしても、心が導いたその答えに間違いなんてひとつもない。

 俺はお前に必要とされて、それを迷惑だと思ったことなんて、今までも、これから先も、ないよ。

 故郷とはルールも文化も環境も、何もかもが違う都会で暮らしていくうちに生まれた齟齬を、齟齬の中にある不安や寂しさを、きっとお前はまだ名前をつけられないでいるのだろうが、それでもお前の意識を置き去りにしてじわじわ心を蝕んでいくそれを何とかするためには、俺で上書きすればいい、そう思ってくれて。
 つまり、甘えてくれて。

「ありがとう、兄さん」

 まるで俺の心を読んだかのようなタイミングで発された弟のそれに、迂闊にも喉の奥が詰まった。
 俺を否定する謝罪ではなく、肯定する感謝を口にした弟に。


 返答としては不適当なのかもしれないが、真っ先に浮かんだそれが唯一だったから。

「愛してる」

 そう答えた俺の声に弟の声が寸分違わず重なって、顔を見合わせて二人して少し驚いて、それから、どちらともなく笑ってしまった。


 愛してるよ、一彩。俺をお前のお兄ちゃんにしてくれて、ありがとう。