えなが
2024-07-22 00:52:19
6272文字
Public フィガファウ
 

海に抱かれて眠る日

修業時代フィガファウ。コントラバスを弾くフィガロ。

 

「きみは何か楽器は弾ける?」
 箒で先導していたフィガロはひらりと振り返り、後ろに続く彼の弟子に話題を振った。律儀に一定の速度で追ってていたファウストは呼びかけにすぐ顔をあげたものの、何を答えていいか迷い、ええと……と視線をさまよわせる。
 フィガロの問いかけは、何も突拍子なものではない。
 西の国を中心に各地をめぐっている音楽隊が北の国にもやってきた。北と西の国境に近い、あまり雪深くない小さな聖堂で行われたささやかなコンサートにふたりは訪れ、その帰りのことだった。
 フィガロはこの音楽隊を気に入っていて、機会があえばよく足を運んでいた。今は弟子として迎えたファウストと共に生活をしているため、一緒に演奏を聞きに行こう、と彼を誘うのは当然の流れであった。
 音楽の心得はありませんが……とファウストは恐縮したが、真面目な彼が師匠の誘いを断る道理はどこにもない。
 フィガロのあつらえた、モノトーンを基調とした、すこし動きづらい服に身を包む。背筋を正し粗相のないようにふるまいながら緊張していた。コンサートに限らずふたりで出かけるときは大抵そうだった。
 フィガロの勧めた服を着て、彼の言いつけをまもり、彼の品位を落とさぬように気を配る。それを窮屈だ、面倒だと思ったことは一度もない。
 フィガロ・ガルシアという偉大な魔法使いの弟子として、求められることをこなせるように常に心がけていた。
 案内されるままに会場を歩き、時には古くからの知り合いだという魔法使いと言葉をかわす。椅子に腰掛けてようやく一息つけた。
 席が次第に埋まっていき、指揮者が登場して客席に向かって礼をした。壇上に立ち、タクトを振り上げた瞬間、まるで聖堂が一体となったような、味わったことのないような一瞬の緊張が生まれる。
 様々な人が息をそろえ、異なる楽器を演奏するのを、ファウストは生まれてこの方、初めて見た。
 名前も知らない楽器の数々、それらが鳴らす音の種類は全然違っているのに、不思議と調和を生んでいる。息もぴったりな演奏に目も耳も奪われて、心がにわかに高揚した。会場を去った今でもまだ心が浮足立っている。
「ファウスト?」
 顔を覗き込まれ、あ、と小さく声をあげた。そういえば些細な質問をされていた。というのに今日の出来事を頭の中で反芻して、気が逸れてしまっていた。
「そうですね、故郷ではリュートを少し……あ、でも、即興で弾き流すばかりで、今日みたいなきちんとした演奏、みたいなものは出来ません」
「へえ。即興なんてすごい。誰にでも出来るものじゃないよ。今度機会があったら聞かせてほしいな」
「とんでもないです。とてもフィガロ様に聞かせられるようなものじゃなくて……
 ファウストは顔を赤らめて、慌ててかぶりを振った。
 故郷では調律もされていない音の調子が外れたリュートを玩具変わりに弾いてみたりした。革命軍に途中から加わった、音楽に心得のある人たちに、基本の型のような弾き方を教えてもらったことはあるが、楽器の扱いを習ったというよりは、ある程度の音の鳴らし方を覚えたみたいなものだった。
 抑える指の形を覚えて、もう片方の手で弦をはじいて音を出すだけ。酒盛りのときには、即席で生まれた音楽にまわりが食器やタライを打楽器の代わりに打ち鳴らす。そこに男女混声の歌声も加わり、音程の高低も適当で、すべてなんとなくで構成される。そういった楽しみ方しかしたことがない。同じ曲を弾くなんて二度と出来なかった。
 あらかじめ定められている曲を奏でるなんて、譜面を読むなんて、そんな経験、ファウストは一度もない。
「今日は楽しかった?」
「はい、とても、いい経験になりました」
「それはよかった。今日のコンサート、きみには退屈だったんじゃないかと心配していたから」
 ゆったりと紡がれる繊細な音楽は、慣れ親しんだメロディとはまるで違う。
 美しいのはわかる。良し悪しを吟味はできないが、すごいものだというのも感覚でわかる。だが、どう楽しめばいいのかは正直なところ微妙だった。
 興奮した部分もある反面、途中、聞き入っているふりをして居眠りしかけた場面がしばしばある。
 きみにはつまらなかったんじゃないの、そう言われたようで、ファウストは軽く息をのんだ。すぐに「そ、そんなことは……」と弁明するも、あまりに正直すぎる所作に、フィガロはあははと声をあげて笑う。
「いいよ。肩の力が抜けたなら、いい息抜きになったのならそれでいい。明日からまた修行の続きをしようね」
「はい!」
 風を切る音は北の国らしく激しいのに、肌に吹き付ける冷たさは微塵も感じない。降りしきる雪が肌に触れても冷たさも感じず濡れることがない。この国では常に防寒魔法をまとうことが要求され、ファウストも修行の一環として、常に魔法をわが身に張り巡らしていた。
 だが、自身のまとうものよりもフィガロの魔力の気配をいつもこの身に感じている。
 外気の厳しさからフィガロ様に守られている。絶対的な安心感とともに己の未熟さを恥じながら、早く完璧な防寒魔法も難なくこなせばならないと身を引き締める。
 屋敷が見えてきたところで、先導していたフィガロが速度を落とし、隣についた。
「最近、眠れてる?」
「え?」
「目の下のくまが濃くなっているよ。顔色もあまりよくない。強くなるためには修行も大事だけど、自分自身の体のコンディションを整えるのも重要だ。必要なときは休息をとらないと」
 今日、コンサートに誘ってくれたのは、自分のためでもあるのだとファウストはようやく気づいた。
「大丈夫です。フィガロ様とおでかけ出来たのも、誘っていただけたのもとても嬉しくて、その元気がでました」
「そう。ならいいんだけど。俺もなんだか興が乗ったから、もしよかったら俺の演奏を聞いてみる?」
「フィガロ様も何か楽器を弾かれるんですか?」
「うん。昔は、今よりもっと娯楽がなくて暇だったから、色々試して遊んだものだ」
 屋敷につくなりフィガロは自室にファウストを伴い、用意した椅子に座らせた。火をともした暖炉の前に立ち、呪文をとなえて楽器を呼びつける。
 フィガロ様はいったいどんな楽器を弾かれるのだろう。そうファウストが期待しながら眺めていると、想像していたよりも何倍も大きな楽器が表れて、驚きに目を丸くした。
「コントラバス、ていうんだ。知ってる?」
「い、いえ、初めて見ました」
 コンサートにも弦楽器はあったが、どれも容易に抱えあげられそうな大きさで、首と肩に挟んで奏でるものばかりだった。
 張った弦に弓をあてがい弾くのは変わらないようだが、長身のフィガロよりもさらに大きな楽器があるだなんて、そしてそれを操って今から演奏をしてみようというのだから信じられない。
 驚きに、何度も目をしばたたかせる。
「久しぶりだからうまく弾けるかわからない、俺は譜面通りのつまらない音しか鳴らせないけど」
 フィガロは苦笑して言い訳じみた言葉をつぶやいた。エンドピンを床にさし、ネックを軽く手で支えたまま、弦を指で抑えずに、弓だけをあてて腕を振る。
 想定していたよりも重い音が響いて、ファウストは「うわ」と小さく声を漏らした。
 音程の変わらない一律の音を聞いているだけなのに、単純な大小だけでない、ふくらみのようなものを感じる。何度か弓をすべらせたあと、「ピアノの伴奏もあるともっといいんだけど」と言いながら、フィガロは左手を弦に添え、改めて弓を構えた。
 あたりは水を打ったようだ。フィガロの屋敷の中は、どれだけ外が猛吹雪で荒れていても、絨毯に吸い込まれてしまうわずかな足音すらはっきり聞こえるほどの静けさをたたえていた。
 フィガロが小さく息を吸う。そのわずかな息遣いすら、つぶさにはっきり聞き取れた。
 弓をひくと共に、ヴォン、と重く低い音が空気を震わせる。
 それは、フィガロが腕を振るごとに、あたりを飲み込むようにまたたくまに広がった。
 ファウストは思わず背筋を正した。きちんと聞きなさい。そう厳しく言われたわけでもないのに、自然とフィガロの音を聞く姿勢になった。
 視線が、楽器を奏でるフィガロの指に注がれる。わずかな所作も見逃さぬように、彼が生む音を少しも聞き洩らさぬように、ファウストは知らずうちに呼吸を詰めて魅入っていた。
 スローテンポで紡がれる雄大な曲は、なぜだか海を彷彿とさせた。
 ファウストは海の存在しない中央の国の出身で、北の国に来るまでその大きさや波の激しさを知ることはなかった。
 また北の国の海を見たと言っても、修行で訪れたその場所はあまりに過酷で厳しく、自らの体温を、気力を、魔力をまたたくまに奪われる恐ろしい場所として記憶に刻まれている。
 荒々しく激しくて、強くて、気を抜けばあっというまに命を失ってしまう場所。
 そういった認識が確かにあるはずなのに、フィガロが奏でる大らかで穏やかな音をまるで大海のようだと感じた。
 ファウストは沖に出たことはない、海原を知らない。なのに潮のかおりを感じる。そこに北国の凍えるような寒さはない。
 ぐ、とフィガロが身をかがめて、楽器に、音に身をゆだねる。弦を滑る手は思っていたよりも大きくて、長い指を震わせて、細やかなビブラートを生んだ。体を揺らし、まるでコントラバスを抱きこむようにして演奏する。すがるようにも見えるその所作に、なぜだか胸がどきりとした。
 弓を握る腕は大きく左右に振られ、浮き出た筋からファウストは目を離せないでいた。
 フィガロがちらりとファウストを見やった。前髪ごしでもわかる強い視線と絡み合い、ファウストは咄嗟に目をそらした。
 熱心に見つめていたのを知られるのが恥ずかしいと思った。だが、またすぐにフィガロを見てしまう。この瞬間を失うのが惜しい。生み出すものを鼓膜で、網膜で感じたいと強く願った。
 人を助け、癒し、人を救い、時には鋭く強い魔法を放つこの人の、新たな一面を目の当たりにする。
 聡明な方だとかねてより敬愛していたが、何より大胆で力強い所作に、彼の普段見れない顔を見たように感じた。
 物理的には人の身の丈ほどの存在、しかし彼は、千年をゆうにこえる魔法使いだ。言葉でも魔力でもない、感覚としてまとわりつく。ただただ心底聞きほれた。
 最後の一音が深く響き、あたりは再び静寂に包まれる。しかし、余韻と高揚が長くファウストの胸をざわめかせ、静けさを感じることができなくなっていた。



 遠くから聞こえてくる耳慣れない低い弦楽器の音色に、ファウストはまぶたを引き上げた。
 今日の授業は午前で終わり、ちょっとした依頼で東の国に行く予定だったが、それが突然なくなった。
 手持ち無沙汰になったので、いい天気に誘われて、ひとりで魔法舎の外をぶらついた。ちょうどいい木陰にシートを敷いて、遅めのランチを口にする。
 たまごとツナとレタスを挟んだパンを頬張ったあと、満腹感とちょうどいい気候に身をゆだねながら魔法に関する本を読み、そしてそのまま寝入っていた。
 いつのまに寄ってきていたのか、傍らで寝そべる猫のやわらかい毛並みをほぼ無意識に撫でながら、体を起こし、楽器の音がするほうを見やる。
 遠くでフィガロがコントラバスを奏でているのがわかった。彼の向かいの切り株にはリケとミチルが座っていて、さながら小さな音楽会のようだった。
 吹き付ける風に揺られた葉擦れと、調子のいい鳥の声の間を縫うように、昼の明るいうちに浴びるには早いような、大人びた重厚な低音があたりの空気を震わせる。ミチルもリケも膝の上にでこぶしを握りしめて、いつもとひとあじ違うフィガロの所作に魅入られ、奏でられる音楽を真剣に聞いているのがわかった。
 フィガロが最後の一音を弾き終わり、弓を弦から離して、腕を拡げて拍手を浴びる。
「すごいですフィガロ!」
「先生すごい! かっこいいです! 南の国ではどうして演奏してくれなかったんですか?」
「うーん。南の宴会だと手ごろで打ち鳴らす楽器がちょうどよかったからね。こういった大仰なものは、あんまり演奏する機会がなかったから」
 子供たちの感激の声と拍手に交じり、満更でもなく嬉しそうな声をあげてフィガロは笑った。
 ファウストは、昔を思い出していた。四百年前、彼の屋敷で披露してもらった音色を思い出すために記憶をたどりながら、先ほど耳にした音と聞き比べ、その違いについて考えていた。
 曲調もテンポも今のほうが軽快で明るかったが、根底にあるものは変わっていない、自分だけがわかる、地続きの音楽。
 傍らにいたはずの猫は、いつのまにかどこかへ消えていた。

「おはよう」
……
 フィガロは子どもたちと別れたあと、まっすぐファウストのほうへとやってきた。不躾であるとわかっていながら、眉をひそめて睨むように彼を見上げる。
 差し伸べられた手を無視して立ち上がる。細かい草や土埃をはたいて、シートやランチバスケットは魔法で片づけた。
「さっきの演奏、聞いてた?」
「うん。素敵だったよ」
「本当?」
「ああ。僕は音楽のよしあしはわからないけど、あなたの演奏は好きだ」
 フィガロは意外そうに目を見開いた。それに、とファウストは続ける。
「思い出していたよ、あなたの屋敷で楽器を弾いてもらったときのこと」
「そんなこともあったっけ」
「僕は昔、あなたの演奏を手放しに褒めていたなと」
「ん? あれはフィガロ様の世辞だった? 本当はお気に召さなかったとか」
「そうじゃない。あなたの演奏は今も昔も好きだよ。ただ、言いそびれていたことがあったことを思い出していた。言ってもいいものかわからなかったから」
「なに?」
 親友に裏切られ、傷つけられたファウストは、ずっとひとけの無い谷に引きこもっていた。ひとりで生活しているなかで、フィガロの奏でる音をたびたび思い出した。
 彼が弾けるリュートはコントラバスの音には似ても似つかない。それでも、フィガロのメロディを追うようにして、たどたどしく指を動かす夜もあった。
 フィガロの演奏を思い出すたび、大きな海に抱かれている心地になった。前半の重い曲調からは信じられないほど最後はとても軽やかで、ドラマティックな最後を迎える。
 すべてを飲み込むようでいて、海面から差し込む一筋の光を見つけて、それをたぐりよせればいつか浮上できるような期待が込められているような曲。
 彼の声の調子はコントラバスには似ても似つかない。でも、演奏を思い出すたびに、フィガロの声が聞こえる気がした。拍動と血潮と魔力のうねりが音をあげるのならきっとこういう風になるのだろう。
 傷ついたファウストはフィガロを思い出し、抱かれ、そうして彼に癒された。
「僕は今も昔も、あなたの演奏に、海を見ていた」
 彼はまたわずかに目を開いたあと、すぐに細めて薄く微笑んだ。そう、と小さく呟く。
 丁寧に配置された譜上の音符のように、淀みない正確な音が揺らいだ。
『譜面通りのつまらない音しか鳴らせない』
 かつてフィガロはそう言った。決してそんなことはないとファウストは思う。外れた調子のあなたをもっと知りたい、暴きたい。到底書き起こせないような、五線の外側に隠れようとする姿を。