えなが
2022-08-01 09:59:10
8170文字
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フィガロがレノックスの羊をイタズラでファウストに変えたカドエピの話

怒ったり落ち込んだりするレノをなだめて一緒に眠るフィガロがいます。




 鈍く白い光を放つ丸い月が闇夜のてっぺんにさしかかるころ、フィガロは一人の晩酌を終えて寝間着に着替えた。
 寝入りのハーブティを飲みながら雑誌のページをめくっていた。最近発行された医療学術にまつわる本で、題目と興味のある記事を拾って読む。情報の精査は頭がしっかりしているときにするとして、軽く見るだけでも専門用語の羅列に自然とまぶたが重くなり、大きなあくびが出た。
 そろそろ寝室に引っ込もうかという時に、診療所の上空にレノックスの気配を感じる。

(ん? 早いな……

 フィガロは今日の昼間、レノックスの様子を見にいった。そこで彼の所有する羊すべてに変化の魔法をかけて、夜にレノックスを尋ねるよう誘導した。ほんのイタズラ心だった。愛らしい白いもこもこが、レノックスが長年かけて探し続けたファウストのものになるよう不思議の力を込めたのだ。
 中身は羊だが、何せ何百年も探し続けていた人と会えたのだ。よっぽど嬉しかったんだろう。すぐさま箒に乗って飛んでくるなんて。
 翌朝の訪問でもよかったのに。フィガロは機嫌良くマグカップに口をつけた。
 そして、彼の控えめなノックを待っていたが、待てど暮らせどそれは訪れない。
 こちらから戸をあけて出迎えるべきかとぼんやり思い至ったころ、家の戸がミシリと軋んで、その直後にバキバキッと雷鳴に似た破壊音が響きわたった。建物全体がずしんと揺れる。

「え……?」

 予測不能の事態に思考が追いつかず、フィガロは目を丸くして大きなまばたきを数回した。
 レノックスが診療所のドアを蹴破った。
 魔法も使わずに、日々の仕事と鍛錬で鍛え抜かれたたくましい脚力を生かして、鍵や留め具、蝶番もまとめて一気に吹き飛ばしてしまった。当の本人は立ち上った砂埃の向こうで険しい顔をして、こめかみに青筋を立てている。 

「え、こんな夜中になに。ちょっと、レノ、怒ってる?」

 慌ててカップをテーブルに置き、フィガロはなだめるように声かけて立ち上がる。両手を胸元にかかげて相手の出方をうかがうように穏やかな声で「ねえ、レノックス」と名を呼んだ。
 しかし相手は憮然としたままの表情で、落ち着くどころかフィガロの反応で更に眉をつりあげた。
 髪の毛がわずかに逆立って、拳をきつく握りしめる音がかすかに聞こえた。グラスにたゆたうワインのような瞳は更に血走って深紅となり、胸を弾ませ、息を荒げている。
 普段温厚な彼のあまりに異なる形相にさすがにフィガロもぎょっとした。今にも人を殺しかねない、覚悟の決まった顔だった。
 殺意を抱いたとき、魔法使いは魔法をとなえて相手を攻撃する。
 人間は違う。不思議の力を持たぬものが誰かを殺すために衝動的に用いる手段は、間接攻撃よりも物理攻撃が主流だ。殴打や刺傷、とにかく野蛮な攻撃が常だ。彼がかたく握った拳には並々ならぬ殺気が満ち溢れていた。
 羊のようにのんびりしたあの彼が、という驚きこそあったのの、圧倒的な魔力を持つフィガロにとって、鍛え抜かれた体躯を持つ大男に明確な殺意を向けられる事にはさして焦りを覚えていなかった。「殺される」という恐怖には全くたり得ず、「あのレノックスを本気で怒らせてしまった」という残念な気持ちと同時に、ほんの少し高揚していたのも事実である。煽る意図はなかったが、口が緩んで微笑した。
 自分に攻撃しようものなら指一本で石に出来る。しかし、レノックス・ラムという男の実直な性格をフィガロはそれなりに評価し、気に入っていた。咄嗟の衝動でお別れするのは少し惜しいが、こちらに危害を加えるのなら仕方がない。敷居をまたいで一歩でも診療所に踏み込んだら最後、苦痛なく終わらせてやろう。フィガロの体が魔力を帯びて淡く光る。力のまま無理矢理使役されることを嫌がる南の精霊たちの気配をわずかに感じた。
 フィガロは相手の出方を伺っていたが、レノックスは診療所の入り口に立ちすくんだまま、一向に動こうとしなかった。膠着状態がしばらく続いた。

(こいつ、戦場でもこんな顔してたのかな)

 ふとそんな考えが頭をよぎった。レノックスとフィガロはかつて同軍に身を寄せる魔法使いであったものの、客将であるフィガロは危険な前線に赴くことなく、主に怪我人の救護や治療にその力をふるっていた。
 逆に魔力の弱く上背のあるレノックスは人間にまじって最前線に立ち奇襲をかけ、自軍に勝利をもたらした。
 真面目な従者が陣営にてファウストに付き従い世話をやいている姿は何度か見かけたことがある。彼の張り詰めた表情は頭の隅に薄く記憶しているが、戦闘中のような気迫をお目に掛けたことはそういえば一度も無い。
 今目の前に立つ彼はきっとそれに近いのだろう。
 世界中を旅して憔悴してやつれていた姿もだいぶ悲壮が漂っていた。そんな彼も南で暮らすうちにほだされてきたものだと感じていたが、彼はきっかけさえあればすぐに四百年前の闘志を呼び起こせるのだ。
 ドアを破壊されたにも関わらず、フィガロは素直に感心していた。

「フィガロ様」

 入り口のところでずっと立ち尽くしていたレノックスがようやく口を開いた。低くて、ゆっくりとした語調。大きく息を吸って、吐き出す。怒りにまかせて言葉を投げるのではなく、懸命に心を落ち着かせようとしているのがうかがえた。
 次にいったいどんな罵倒や叱責、あるいは謝罪の言葉が飛び出すものかとフィガロは目を細めたが、レノックスの口から漏れた声は震えていた。

「フィガロ様、これは罰ですか」
……罰? どうして」
「あの方を忘れてのうのうと生きている俺へのあてつけですか」

 フィガロは目を見開いて「いや……」と短く答える。言葉を選ぶために一度口をつぐんだ。
 なるほど。そう受け取られちゃったのか。からかい方を間違えたかもしれない。

「違うよ、ごめん。本当に冗談のつもりだったんだ。きみがあの子に会いたがってたからさ、姿を見せたら喜んでくれるかと思って」
「冗談……

 レノックスはフィガロの言葉を反芻し、眉を寄せ、いぶかしむようにじっと目を見つめて、彼の言葉に嘘はないのか見破ろうとする。
 しかし、相手は気の遠くなるような時を生きる神話のような魔法使いだ。彼がつむぐ言葉が嘘かまことか、せいぜい四百年を生きた若輩者の自分には、到底見破ることなど出来るはずもない。
 そう悟ったレノックスはうやむやに目を閉じて、自分の中にかかったモヤを払うように首を左右に軽く振り、より一層深く大きなため息をついた。

「冗談がきわどすぎます」
「よく言われる」
「もう二度とこんなことしないでください」
「うん。しないよ」

 これだけ話せばもう大丈夫だろう。獰猛な獣を落ち着かせるようにフィガロはレノックスに近づき、彼の手をとった。手の甲から腕にかけて優しくさする。
 突っぱねられるかと思ったが、レノックスは存外素直だった。穏やかに腕を撫でるフィガロの手をじっと見つめていた。荒れていた脈と呼吸が次第に凪いでいく。
 立ち話もなんだし、とフィガロは部屋に招き入れて、椅子に座らせた。魔法で軽く入り口の戸も直してみたが、片手間にやったのと扉の金具構造がうまく頭に入っておらず微妙に立て付けがずれた不格好なものになってしまった。
 開くときは問題ないが閉じるときに微妙に木枠に引っかかりがある。明日の朝レノックスにきちんと直してもらおう。
 フィガロはもう一脚椅子を引き寄せテーブルを挟んだ向かいに座る。

「すみません。だいぶ取り乱しました」
「まあ、珍しいものも見れたし、俺も悪かったのかな。おあいこということで」
「許してくださって、ありがとうございます」

 真面目な男の数百年をからかうような非常にたちの悪い冗談と、怒りにまかせて扉を壊したこと、天秤にかけたところでおあいこにはならないな。そう、発言したフィガロ自身感じていた。
 力を振るって物に当たるのは褒められたものではないが、どう考えても先に仕掛けた方が悪い。もっと責められても仕方がない事案だというのにレノックスは「おあいこ」を受け入れた。両者のゆるやかな納得と信頼のうえで互いを許しあう。
 レノックスの実直さはこれまで何度も目にしてきたが、今回ばかりは申し訳なさが勝った。フィガロはばつがわるそうに片手をくゆらせ呪文をとなえる。
 空中に浮かんだポットで、先ほどまで自分が飲んでいたのと同じ、濃いめのハーブティをカップに注いだ。仕上げにまじないを込めていくつかのシュガーを投入して相手に差し出す。
 果たして飲んでくれるだろうかとそわそわ見守る。レノックスは大人しくフィガロのほどこしを口にし、少ししょっぱいですね、と小さく笑った。わずかな笑みを見せてくれることで、フィガロもにわかにほっとした。
 フィガロからしてみれば、まだまだ年若い部類の魔法使いの機嫌を伺うのはなんだか不思議な心持ちだった。
 自分たちはつくづく奇妙な縁だ。一年の修行時代を経た愛弟子よりも長い年月を同じ国で共に過ごしている。あの子がいなくては我々の関係はなりたたず、それと同時に、彼の存在がときに柔らかいトゲのように心の内側を淡くむしばむ。
 ただそのトゲに傷つけられるのも、心地よく、互いに取り除こうなどとは絶対に考えられない。
 静かな部屋に、マグカップをテーブルに置く音がコトリと響いた。一息ついて、次に口を開いたのはレノックスのほうだった。

「あなたは耳にしていないから」
「なにを」
「ファウスト様の呪いの声を」
「そうだね」
「火刑に処されたあの方を助けたとき、酷く肉体も心も傷ついていた。ひどいものです。喉も焼かれて声を出すのも苦しかったろうに、あの方はずっと、どうして、どうして、とうわごとのように言い続けていたんです。自分を処刑したアレク様を、人間を呪うあの声を、俺はずっと忘れられなくて……
「うん」
「いや、ずっと忘れられなかったのは嘘だ。久しぶりに思い出しました。あの方の声を」
…………

 フィガロのイタズラでは羊たちの姿を変化させたもので、幻聴を聞かせるコントロールは一切しいない。ただ、視覚情報から過去の記憶が一気に蘇り、動揺に加えて普段聞いてる羊の鳴き声が、自分を責め立てる音に連鎖して聞こえたというのはありえる話だ。つくづく悪いことをした。

「だから当てつけだと思ったの」
「いえ……なんだろう。あなたのしたことが許せなくて、頭に血がのぼって、衝動的に扉を蹴り飛ばして……。なのにあなたの顔を見たら、無性に侘しくなって、それで、ふと、これは罰だったのかと思ったわけです」

 これは罰ですか、フィガロ様。覚えのある声をフィガロもまた頭の中で反芻していた。レノックスの声ではない。
 自分に縋る人間。畏怖し崇める人々の声。自分は何度も耳にしたことがある。自分にゆるしを乞う人間をあるときは救い、許して、あるときは罰した。フィガロもまた過去の音を久々に思い出していた。
 フィガロはレノックスの眼前に片手を掲げた。

「忘れさせてあげようか」
「嫌です」
「言うと思った。安心して。きみの気持ちを俺は尊重するから」

 手をおろし、膝の上で指を組む。レノックスはだいぶ落ち着いてきたようだった。

……南のフィガロ『先生』は優しいですね」
「まあね」
「これから先、長く生きていくうえで、忘れたほうがいいんだと思います。そのほうが楽になれる。だけど俺は絶対にあの方を忘れたくない」
…………
「こんなに長く生きるつもりなんてなかった。なのに結局、俺はあの方のいない世界で生き続けてしまっている。羊飼いの生活に不満があるわけじゃないんですが」
「うん。わかってるよ」
「この国は本当に居心地がいいんです。麓の人たちはみんな優しくて、最近はチレッタやルチル、新しく生まれてくる子供のことを考えることが多くて、そんな中のことでしたから。あの方が俺の中から剥がれ落ちていく気がして、あの方を忘れた俺は、果たして俺といえるのかわからなくて急に不安になってしまいました」
「あの子へ執着しつづけることがレノそのものだと」
「はい、数百年、ずっと、俺はそうして生きるのだと思っていました」
「なるほど。人生の大半をかけてしまうと、そういう考えになるんだろうな。俺は嫌いじゃないよ。でもさ、南の国の羊飼い、レノックス・ラムのことも受け入れてあげてよ」
……はい」

 眼鏡の奥の瞳が揺らいで、またしても沸き立つ不安や衝動を抑えるようにそっと目を伏せた。

「今日はもう遅いし、泊まっていきなよ」
「いえ、帰ります」
「そんなこと言わないで。壊した戸は誰が直すの?」
「それは……

 あなたがさっき魔法で直したでしょう。そう言わんばかりの表情で眉を下げた。しかし自分が破壊した手前、断るのはしのびない。

「見た目は直ったけど、立て付けが今いちなんだ。ガタついてる」
「はあ。じゃあ、明日改めて見てみます」





 フィガロの診療所兼自宅でレノックスが寝泊まりするのは別段珍しいことではない。
 山から降りてくる秋から冬の間は麓の人たちに誘われた。その輪の中にはフィガロがいることも多く、その流れで最後は二人で静かに飲んで、泊まっていくことが多かった。
 フィガロから借りた部屋着は彼の持ち物にしては少し大きめに感じた。肩も胸もそこまできつく感じなかった。
 そのことを告げる前に、「次にレノが来たときのために用意してたんだよ」とフィガロはすこし照れくさそうに笑って頬を掻いた。
 枕を増やしてベッドのサイズを広げた。それでも平均より大きな成人男性二人がくっつき身を寄せないと眠れないほどの狭さだった。
 照明を消して、窓から月明かりが差し込む部屋で眼鏡を外すと、闇の影しか見えなくなる。ヘッドボードに眼鏡を置いて、ベッドに潜り込む。フィガロがあとから入ってきて、レノックスの腕に自分の腕を絡め、肩口に顔をすりよせた。

「おやすみ」
「はい。おやすみなさい」

 シンと静まりかえった部屋に、秒針が一定のリズムで時を刻む。風が窓を鳴らし、葉擦れと枝擦れの音がざわめいた。
 目が冴えて眠れない。どうすれば眠りにつけるのか、わからなくなっていた。それでもレノックスは眠ろうと努力した。ゆっくり息を吐いて、同じぐらいの速度でゆっくりと空気を吸い込む。寝返りを打とうとしたがフィガロが身をぴたりと寄せているのでかなわなかった。
 レノックスは眠れずまぶたを引き上げた。裸眼のぼやけた視界では、真っ白な天井のしみすらもろくに見られない。
 眠れぬ気配に、隣のフィガロがみじろいでゆっくりと体を起こした。顔にかかった水灰色の横髪を耳にかけ、ベッドに手をついて、レノックスを見下ろしている。片手をのばして前髪をはらって、額から頬にかけて撫で下ろし、「眠れない?」とたずねた。レノックスは小さく頷いた。

「じゃあ、よく眠れる魔法をかけてあげようか」
「はい、ですがその前に」
「なにかな」
「ファウスト様に変化してください」

 フィガロは息をのみ、逡巡した。レノックスがフィガロに自分本位の頼み事をするのは非常に珍しい。
 羊をファウストに変えたことで、レノックスを想定以上に傷つけてしまった。
 その償いができるのなら、それを自分が与えることが出来るのなら、なるべく彼の望みをかなえてやりたいと思った。いつも自分が人に施しを与えていたように。

……大丈夫? きみは」
「平気です。俺は平気です。だから」
「じゃあ、少しだけ……《ポッシデオ》」

 小さな声で呪文を唱える。淡い緑の光をまとい、フィガロの体格と相貌がみるみるうちに変化した。髪がふわりと浮き上がって、クセの強いやわらかなオリーブへ色づく。
 かつて中央の国で革命を起こした英雄、聖人として讃えられた凜と澄ました表情に何かをなしとげんとする青さと情熱が潜んでいる。レノックスはその顔を食い入るように見つめた。
 フィガロは所在なげに眉をひそめる。

「これでいい?」
「はい」

 フィガロの変化は声帯を真似ることまで完璧だった。四百年ちかく前、軍を率いた若く凜々しい魔法使いに軍人も民衆も、魔法使いも人間もあこがれ魅了された。男所帯の戦場にありながら清廉であり続けた若い男の姿がそこにあった。
 忘れもしない、忘れられないレノックスの拠り所だった。

「あのたくさんの羊たちを見て、思い出したんです。ああ、あの方はこんな顔をしていたなって」

 ファウストに扮したフィガロは不思議そうに首をかしげた。

「あの子の顔、覚えてない?」
……しっかり記憶しているつもりでした。髪や目の色、雰囲気も。目をとじればまぶたの裏にあの方の笑顔が浮かぶようで……ただあの頃には俺の目はだいぶ悪かったみたいで」
「そうなんだ」

 欠落した腕を再生できないように、なくした視力は魔法でも癒やせない。それでも戦時中に気づけていたら進行を防げたかもしれないが、自分の視力が人並みより劣っていると気づいたのは、何度目かにフィガロのもとを訪れた時に指摘を受けてからだった。

『レノックス。目が悪いんだろう。だってきみは遠くを見るときに目をぎゅっと細めて焦点を合わせようとするじゃない。その顔がちょっと怖いからさ、聞き込みにも支障が出るんじゃない。こういうものを身につけたほうがいい』

 そう言ってフィガロに矯正器具を持たされて、世界がよりはっきりと自分の視界にうつるようになった。
 最初は丸い汎用フレームでレンズも分厚かったが、次にフィガロに会ったときには「こっちのデザインの方が似合うよ」とスクエア型の眼鏡を渡された。
 フィガロは何かとアドバイスや旅に役立つアイテムを渡してくれることがあり、眼鏡もその一つだった。施して与えて、ファウストの情報を一向に得られずあてなく彷徨う自分を、最終的には南へと促し導かれた。
 ファウストの姿になったフィガロの頬に手をのばす。
 もし、自分にフィガロほどの魔力があったとして、こんなに精巧に再現出来ただろうか。
 目の前にいるのは確かにファウストだと思われるが「本当に?」と問い始めるとわからなくなる。
 彼の眉の細さや輪郭やあごの形、鼻筋も淡い色のくちびる、彼を形作る顔面の細部が自分の記憶にわずかな差異が存在する。これは、フィガロから見たファウストの姿だ。
 長い時を生きたフィガロにとって、ファウストとの修行の期間、軍にいた時間など吹けば飛ぶような短いものだろう。そのわずかな時間で得た彼を、フィガロはきちんと覚えているのだ。
 フィガロの心の内側にも、救えなかった彼が横たわっている。

「フィガロ先生も、俺と似た傷を抱えていたんですね」
「どうかな、きみほどの情炎が俺にはないから、傷になっているのかどうか」
「そうでしょうか。そうでなければ、こんなに鮮明にあの方を再現できない」

 レノックスの言葉にフィガロはまた眉を寄せて、目を伏せた。小さくつぶやき、そっと変化の魔法を解除した。

「どうされましたか」
「きみの、俺を見つめる表情が……たまらないから。俺に見せるものじゃないなって。もったいないなと思っただけ」

 レノックスの鼻先にキスをして、隣に寝そべった。掛け布団を肩までひきあげる。

「俺はおぼろげな記憶をくっきりと鮮明に蘇らせることもできるよ。どうする?」

 首の後ろのくぼみにレノックスの腕をあてがい、寝心地のいい場所を探る。毛先があたって少しくすぐったい。

「また俺が、旅に出ることがあったらお願いします」
「わかった。そうするよ」

 おやすみ、と寝入りの挨拶を小さく呟く。レノックスは隣の体温をぐいと引き寄せた。足を絡めあって、より密着する。互いの息がかかる距離だった。

「落ち着いたね、心臓の音」

 フィガロがぽつりと呟いた。