溶けかけ。
2025-01-14 21:31:16
910文字
Public ほぼ日刊
 

催涙雨

催涙雨……七夕の日に降る雨のこと。織姫と彦星が天の川を渡れなくなり、涙を流す様子になぞらえている。
「僕のことを嘘でも良いから好きだと言って」と乞われて嘘をついたヌヴィレットと逃亡したフリーナのお話。

 
 人には誰しも、もしも、と思う時がある。
 それは、最高審判官たるヌヴィレットとて例外ではなく、後悔という形で今も彼の心に蟠っている。 
 
 きっかけは、彼が最初で最後についた嘘。
 たった一言────乞われて「好き」と言っただけ。
 それが慈雨のように優しさを伴った嘘だったとしても、破鏡が再び光を照らすことはなかった。

 ヌヴィレットが訪れたのはフォンテーヌ廷はヴァザーリ回廊の一角にあるアパルトメント。
 彼はとある一室の前に立つと、鍵を懐から取り出し、扉を押し開けた。
 本来の主がいた頃とは違い、灰色に染まった部屋をヌヴィレットは無感動に見つめる。
 埃を被った家具たちは、空っぽのまま帰ることのない主を待ち続けていた。
 彼が一歩、また一歩と進む度に積もりに積もった砂埃が朝日に反射してきらきらと瞬いた。
 砂浜の如き床に足跡をつけながら、彼は窓辺へ近づくと窓を開けた。薄暗い部屋に光が差し込むも、部屋の中は相変わらずの曇天色でヌヴィレットの心情を表しているかのようだった。
 彼の視線が水の干上がった花瓶に生けられたルミドゥースベルとロマリタイムフラワーに注がれる。記憶と違わぬ色を纏った二輪の花は静かにそこに佇んでいた。
 ヌヴィレットの指先がルミドゥースベルに触れれば、くしゃりと乾いた音と共に花弁がはらりと舞って、白い床の上に落ちた。
 彼は空虚な瞳で部屋を見回す。
 買い戻した家具が、立ち枯れた花が、何より灰色に染まった部屋が彼のことを拒んでいるようだった。お前のせいだ、という怨嗟の声の幻聴すら聞こえてくる。
「私は主に相応しくないというのか……
 この部屋の主が失踪して早三年。唯一の寄す処は年に一度だけ届く手紙のみ。時候の挨拶も近況も書かれていない便箋の上には「今日も生きてる」という一文のみが踊る。
 数多の旅人たちの手を介して届けられる手紙の出処を探ることなど不可能に近く、最初の一年で捜索は打ち切られた。

 ヌヴィレットは懐から手紙を取り出すと文面を撫でる。
 
 

 ────たった一文しか書かれていない手紙が届かなくなる日が来ることを今は何より恐れている。