重苦しい空気を蹴散らす駆動音が枕木を盛大に鳴らし反響する高架下。等間隔で仕切られた窓から漏れる明かりが勢いよく夜更けの道路と紫煙燻らす星子の深沈とした顔を撫で逃げして行った。
終電が遠ざかった隙間を埋めるべく高架下から祭囃子が沸き上がる。不規則に明滅を繰り返していた蛍光灯が景気よく反対側の暗闇から点呼よろしく断末魔を上げ、亀裂が走った天井から壁伝いに染み落ちていた水は決壊したらしく行潦が勢力拡大の一途を辿っている。
獲物を待ち構えている高架下の前で佇んでいる星子の足元まで涎が溢れ出す。飲んだくれの吐瀉物の方がマシに思えるほど濃縮還元された腐敗臭は終ぞ凛とした顔を歪ませることは叶わなかった。
「ぬるい先制パンチだな」
肩に乗せていた鈍色に輝く特製金属バットをクルクル回し、飛沫を立てずに歩を進める度に足元の水が澄み渡り鏡面を取り戻す。浄化が忌々しいらしく悪臭交じりの金切声が周囲を震わせる。耳を劈く警告音を合図に身を屈め右足でアスファルト舗装を踏み締め懐に飛び込んだ。
霊感を持たない一般人であれば目に見えぬ鋭利な疾風をレンズ越しに涼しげな眼光でねめつけ、迫り来る脅威を悉く紙一重で避け続けた。何時だって手を抜かない綺麗にセットされた星子の髪形を崩すことも儘ならない苛立ちに高架下に巣食う此度の元凶がヒステリックに現れた。
「ようやくお出ましか」
異様に離れている突出した左右の目はまるで蛙のよう。泥パックを欠かさずしているらしく、でたらめに振り回す腕から爛れた汚泥の袖を周囲に撒き散らす。ついで一丁前に吠えている口から放たれる悪臭と共に星子が浄化した場所を再び穢していった。
心許無い明かりしかない暗闇だけならば、ぎりぎり浮かび上がるシルエットは一般的なサラリーマンの風貌。
結果、傍から見れば厄介な大虎を金属バットで成敗しているのに見えなくもない。
無駄な肉が付いていない引き締まった星子の足がドブ川に落ちたまま碌に乾かさない人ならざるモノを蹴り飛ばす。苦悶の表情を浮かべ唸り声を上げるも厭らしい笑みを人ならざるモノが浮かべる。粘性な水音を立て蹴り飛ばした生足にはさぞ腐った泥がべっとり付着しているかに思われたが、不思議な力を薄い膜のように纏っている星子の足は泥が一滴も付いていない。
ニタニタと厭らしい笑みが消え鈍く痛む蹴られた箇所を目で追う。蹴られた箇所が焼き焦げる音と匂いをさせ浄化されているのを視認した瞬間、癇癪を起こした泥妖怪が憤怒と殺意に満ちた眼光で星子を射抜き足元のヘドロを巻き上げ距離を詰めた。近所迷惑必須な喧しい怒号も周囲に人がいなければ問題無し。行儀悪く飛び散る泥を金属バットで祓った勢いのまま、星子は綺麗なフォームで腐りきったヘドロ頭を振り抜き無防備な首元を晒す相手に追い打ちをかけていった。
物理的な攻防戦、浄化と穢れの鍔迫り合いは呆気ないかたちで終わりを迎えた。
──!!
優勢を保っていた星子の背後からぬうっと伸びる穢れた腕が彼女の上着を掴み動きを止めた。
脊髄反射で視線だけ上着に向ければ、やたら澱んでいる場所から泥パックで遊び過ぎた腕が生えていた。眉ひとつ動かさずに腕が生えている根元を踏み潰す。が、一拍置いて眼前に押し迫っている濃密過ぎる穢れの塊に星子の瞳孔が微かに揺れ咥えていた煙草の燃え尽きた残骸が落ちていく。
嗚呼、分かっていたさ
万全を期して臨んだ除霊
突発で入った仕事だったが、決して根回しを怠ったわけじゃない
これは……、必死になって目を逸らしていた…、全くもって”らしくない”隙が招いたことだ
半ば諦めに近い感情が産声を上げる前に現状を打破すべく脳をフル回転させる。例え──、あと数ミリの距離で喰らったらタダでは済まない済まされない命屠る穢れが押し迫ってきているとしてもだ。
眼前に広がるスローモーションの世界。じりじり血と泥が混ざり合った泥濘が眼鏡のレンズを焦がしていき、目に映る全てが暗闇に閉ざされる刹那、星子の鼓膜を久方ぶりに聞く懐かしい掠れた声が撫でていく。
「なにワシ以外に喰われそうになってんだクソだらあ」
何もかもが遅い世界。その中で重さを一切感じさせない速さが朱い疾風を引き連れ現れた。
星子以上に鋭い蹴りをモロに喰らった泥妖怪の頭はものの見事に砕け散り、やにわの出来事で断末魔を上げる暇すら貰えなかった首なし胴体が力なく弾け飛んだ音と共に膝から崩れ落ち倒れ込む。
衰えていない動体視力でも捉えるのが困難な相手が丸くなった腰に両手を当て無言で佇む星子を皮肉たっぷりな夜闇に光る黄色い目で嘲笑した。
「少し見ない間に随分とシケた面するようになったじゃねえか」
「そういうお前えこそ視力落ちてんぞ」
「ハッ。その軽口いつまで持つか──」
楽しみだ。
皺だらけの老婆の顔が真横に傾くや否や、顎関節の機能を放棄した口が恐ろしいまでに開き星子目掛け飛び掛かる。
咄嗟に後方へ飛び退こうにも想像以上に穢れが足に溜まってしまい一歩後退るので精一杯だった。またもや来る遅すぎる世界に飽き飽きしたところで何も変わらない。そして、妖怪の口の中は須らく吐き気を催す臭さかと思っていたが案外そうでもないらしい。
鼻を掠める嗅ぎ慣れた弔う匂い。迫り来る暗闇は先程と比べ不思議と嫌悪感と恐怖を抱かない。星子の視界が朱色を伴った黒に閉ざされたのに合わせ彼女の意識もそこで途切れた。
然程時間を掛けずに人ひとり丸呑みし終えた老婆が熱の宿らない瞳で辺りを睥睨する。
三下の死体はとっくに泥と化し其処彼処に残っている泥と共に瘴気を振り撒き続け不快なこと極まりない。体が弱い人間が近付こうものなら忽ち魂を脅かされる汚らしい泥濘を老婆は至極つまらない溜息を鼻でひとつ吐き、曲がった腰に両手を回した状態で軽く周囲を蹴り飛ばした。鋭い蹴りは辺りに散りばった穢れを泥ごと物理的に吹き飛ばし、老婆が羽織っている半纏と長いぼさぼさの白髪が落ち着く頃には何の変哲のない高架下に戻っていた。
「──めんどくせ」
黒く鋭い爪が生え揃っている手で膨らんでいない腹部をひと撫でした老婆は助走も何も付けずに裸足でアスファルト舗装の道を駆け抜けていく。人影も疎ら車一台通らない、よくてイキっているバイク集団を適当に驚かして追い抜いて行った先、静まり返っている鳥居の前にピタリと立ち止まった。
心底面倒くさそうな面持ちで鳥居をくぐり深く大きな息を吐いた。伏し目がちに見慣れた石畳を見下ろし、胃の底に収めた者を吐き出すべく嗚咽をくり返す。程なくして老婆の喉元がペリカン並みに膨らんだのち、サンダルが脱げている星子の足が飛び出した。
老婆はずるずると星子を吐き出し続け、プッとサンダルを彼女の横に吐きつけ、最後に喉奥で引っ掛かっていた金属バットをずるり手で抜き横たわっている星子の傍に置いて自身の口許を手で拭った。
「はぁ。いやだいやだ。これだから……」
顔に刻まれている皺を一層深くさせ屈んだ老婆が気を失っている星子の頬に触れかけた手を引っ込め軽く握り締める。触れてしまえば蓋をして閉じ込めている何かが溢れ返ってしまいそうで、老婆はそれを認めたくなくて顔を逸らした。
だが、冷たさを忘れた魂に手繰り寄せられた体は本来の姿を解き白い招き猫の姿へと変わる。住めば都なんて皮肉を胸中独り言ち、当初窮屈で屈辱的な入れ物に無理やり押し込められた憤りを懐かしむ。老婆らしい骨と皮だけの手と違い、愛らしい丸みを帯びている手を見下ろす目が規則正しく呼吸を続けている星子、明かりが消えている綾瀬家の賑やかさを辿り見上げる。
「…ワシらしくねえ……」
センチメンタルな気分は性に合わない。ただでさえ何かにつけて言い訳したがるのを振り切るため「天下のターボババア様が多寡だか幾許か慣れ合った人間に絆されちまって世話ねえや」とぼやいた。夜風にかき消される自嘲めいた声音をこれまた控えめな腹の虫が訴えるように鳴いた。
綾瀬家を出て久しく感じていなかった空腹。白い手で千万両と書かれている大判を擦り──、未だ目を覚ます気配がない星子の手を掴み人差し指に猫らしい小さな牙を立てた。柔い皮膚を微かに裂き滲む赤い命を啜る。忘れかけていた人間の味。さり…さり…と血が止まるまで舌を這わせた。
これは所謂証。この獲物は誰の物で、ツバ付きなのを知らしめる印。手を出したらどうなるか分からさせるマーキング。
「ワシに喰われるまで死ぬんじゃねえぞ」
やおら元の姿に戻りながら歩いて鳥居をくぐっていく老婆の背中を薄ら視線だけで追っていた星子は言の葉を乗せずに口だけ動かして「このバカチンが」と呟き見送ったのだった。
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