腐った血肉が豪雨で泥濘む地面に染みこみ漂う重く湿った臭い。鼻に突き嘔吐く穢れた死臭に顔を逸らさず手で遮らず快、不快を覚えぬようになったのは果たして人の頃であったか。
掠れ褪せた遠い日に置いてきた繭のように覆う倦怠感。ガレージに犇く大蛇の身体が微睡んでいた意識が明瞭になるに連れ這いずり回る。
忌々しくも懐かしい色香に吹き返した残滓が此度の原因だろう。開けるのも億劫な瞼を開け灯の消えた無機質な天井を仰ぐ。賑やかで矢鱈構いたがる世話焼きの姉弟に、まあまあ激甘判定で供物と称して渡されたビーズクッションから屋跨斑──【ダラさん】と呼ばれる6本の腕と半人半神の身体を持つ者が沈んでいた身体を彼女にしてはたっぷり時間を掛け起こした。
「うぅむ…。慣れてきたとはいえ、この離れ難き思いが募る依存性の高さ改めて恐ろしいな」
三対あるがうちの二対でクッションを整え、残り一対でほろ苦い明晰夢を解すように目頭と渇き張り付いている喉を揉み擦った。寝起きの一杯に以前もとい勝手知ったる第二の我が家の如く、本来の家主に断りなく「沢山パチって来た! 好きなだけ飲んで!」と、置いて行ったお湯で溶かす顆粒のカフェオレでも飲もう。
気分転換するに越した事は無い。尤も姉弟に出会う前であれば沢の水を飲み、ブラックコーヒーよりはるかに苦い偏った夢に魘される事自体無かった事だ。
寒さ暑さ痛みでさえ忘れたこの身体。常軌を逸し人間の理から外れた存在になり果て久方振りに味わう肉体的精神的疲労感。
いっそ自嘲してしまえばいいなどと鼻で笑ったところで気休めにもならん。
「──体調が万全じゃないのを勘付かれぬようにせねば」
勘のいい子供は嫌いじゃないが、時に勘弁願いたい時がある。そう今現在進行形で、だ。
祟り神と化した影響か碌にこの数百年間健康を害す病気はおろか怪我を負ったのが無いゆえ…、そのなんだ常備薬の類が一切合切ない。手つかずの戸棚から出土した随分古めかしい救急セットの中には包帯や絆創膏、湿布系統しかおらんかった。
「いや、この身体で効く薬があるかどうかすら……」
怪しい。要らぬ考えに頭を使った所為か頭痛まで併発してきた、ような気がする。
大蛇の尾並みに長い嘆息が切れる寸前、身に沁みついた癖とは斯くも恐ろしいのをスマホの通話ボタンを押してから気付いたのだった。
「ヘイッ 神隠し一丁」
曇天を晴天に変えてしまうくらい溌剌とした声音。遠慮と恐れを知らぬ姉弟の姉である三十木谷日向を異界に招いてしまったダラさんの心は早速後悔の洗濯機で勢いよく回っていた。
「(じゃが儂自ら招いた手前、日向が満足するまで付き合うのが儀であろう)」
この祟り神、実に義理堅く真面目で優しい性分である。
だが、体調が芳しくないのもあってか普段であれば鳥居ポータルからダラさんハウスまでもとい玄関を潜ってもテンションの高さを維持し続ける日向が口数少ない山の神の違和感に視線を終始注いでいるのを察知出来ずにいた。
漸くおかしいと思った時には、普段であれば鼻歌まじりに作りかけのプラモデルの箱やら道具やらをセッティングするというのに居間に通すや否や澄んだ宵の瞳が片時も逸らさないで。
「ダラさん、今日元気ないね」
気遣いが鼓膜をそっと撫でた時だった。
二十歳にも満たない少女の真剣な面持ちと大人びた気配に上手い言い訳が咄嗟に出るわけもなく、ただただ途切れ途切れの喃語染みた音を喉奥から出すのが関の山。
誤魔化す術や取り繕う時間さえ稼げない結果、申し訳なさそうに眉尻を下げ膝を屈めずに立っていた日向が苦笑交じりな顔で玄関先を指差してしまった。
「無理言ってごめんね。ウチ帰るわ」
ダラさんお大事に、そう言いかけていた口の動きを咄嗟に日向の上着の袖を掴み言葉を被せ遮る。
「か、帰ってくれるな」
余りにもか弱く縋り付いていると過言ではない勝手に溢れ出た無意識の想い。
間髪置かずに言った当人が内容を反芻するのに合わせ羞恥に顔が紅潮していく。それはもう穴があったら入りたいレベルを優に超えてマントルを突き抜ける威力を誇っていた。
自分がいま何をしているのか葛藤している震えが指先に伝わるも長く細い大人の指は決して少女の上着を離さない。日向の微かに瞠った目が上着を掴む指、戦慄いている表情と追う。理性と感情の鍔迫り合いをやや驚いて眺めていた日向は、つと虚空を見遣り再び視線を茹蛸のように真っ赤に顔を染め上げ俯いているダラさんに向けた。
「分かった」
澱みの欠片もない了承に顔を上げれば、はるか年下というのに朗らかな笑みを湛え見詰める日向にダラさんの変に力が籠っていた指先が緩む。
そして、またまた次の言葉を紡げずに日向が踵を返して居間に膝を揃え腰を下ろす様を目で追い──。
「ウェルカムッ!!」
大層自信に満ち溢れた眩しい笑顔で太腿を叩き乾いた音を居間に響かせる姿に大変困惑した。
さりとて、慣れ親しんだ日向の態度にフッと息を吐き誘われるように後頭部を揃えられた膝の中心に置いた。野山を駆け巡る健脚に違わぬ弾力性に富んだ肉付き。女性なのも相俟って頭を優しく包み込む柔らかさと温もりは人工物と比べ一線を画す。
「……少々恥ずかしいな」
「ん~?」
見上げた先にいる薄い影を背負い見下ろす日向の微笑みがまたむず痒く照れてしまい敵わん。
傍から見れば大の大人が年端も行かない少女に甘えている構図。同性と謂えど大人の矜持もさることながら健全とは言い難い。
だが、如何せん濡羽色を手櫛で梳き頭の形に添って撫でつける手の心地よさを失うのは惜しい。
「今はあんませんけど、薫が幼稚園に行ってた頃はよくやってたんだ」
「…そうか」
「不安で心細かったり、単純に甘えてくれたりさ。ウチ、お姉ちゃんだし──」
「………」
「薫にはナイショにしとくっから」
「…嗚呼、頼む……」
相手が何を言おうとしているのか言葉少なで充分伝わる。
日向の思慮深くて悪戯っぽく笑う様につられ耳まで裂けている口が弧を描く。所なさげに畳の上を撫でていた三対のうち一対を腹の上で組み、もう一対は扇のように畳の上に広げ、最後の一対は慈しみ撫でている日向の頬に触れ愛い癖っ毛を耳に掛け不器用にじゃれ付いた。
姉や両親ですらしてくれなかった慈しみ籠った手で撫でられる安心感。想い人とはまた違う心穏やかになるひと時にありもしない情景が上書きされていく感覚に陥る。
目に映る日向に姉や両親の面影を重ね諦めていた無償の愛を希い、それは遠い昔に置いてきた【子】を歪な形で呼び戻す。黒く重い籠った息が漏れ、日向の頬を撫でていた手でセンスが独特な上着の袖を捲り上げた。
眼前に曝け出される少女の腕。半身を微かに起こし首を捻って健康的で細い手首を視界に収めた。
頭上から何やら気遣う声が降るも何分ノイズが混じり聞き取れん。なに然程気にせんでも良かろう。
暇を出していた二対の腕で可愛らしゅう誰ぞを呼ぶ少女の顔を撫で小さき身体を掻き抱き寄せる。早鐘を打たぬ胸と脈に自然と笑い声が口端から転がり落ち、震えもしない柔肌に手を這わせた感触に生唾を飲下す。
目の前にある腕は誰のものぞ
嗚呼、嗚呼──
姉様のでありましたか
頬を裂き大きく開けた口で腕にやおら牙を喰い込ます。皮膚がぷつり弾け裂く小気味よさ。浅く肉に埋もれじわり滲む温かな命を舌で舐めとり啜った刹那、性質の悪い微睡みから覚醒した。
今し方した己自身の愚かな行い。それを口腔内に残った日向の血と共に理解し飲み込むのに時間は掛からなかった。すぐさま噛んでいた腕から離れるも噛まれた日向本人は恐怖や失望に彩られた表情をせずに噛まれた日向以上に怯え震えているダラさんに開口一番。
「ウチの腕、メカメカしいやつになるチャンス無くなった」
と、まあ緊張感もあったもんじゃない。飄々と言ってのける光景にダラさんは面を喰らった。
噛み跡を水で濯ぎ急いで搔き集めた薬草をあっという間に塗り薬にして傷口に塗り込む手際の良さを日向は関心頻りに眺めていた。幸い傷は浅く健康体である日向であれば数日で塞ぐ深さにダラさんは安堵の表情を浮かべすぐ曇ってしまった。
「大事に至る前で良かった」
喉奥から絞り出した後悔宿る声色。震えてはいないにしろ、ありありと浮かぶ「やってしまった…」という姿に手当てし終わった腕を軽く振るい手の平をダラさんに見える形で日向は開閉して見せた。
「まあ、腕無くなったら替えの腕が出来上がるまで不便だし」
「不便の一言で片付けるのか」
「ダラさん製のカッコいいの付け損ねたのはまっこと残念であります」
「そりゃあ不自由ないのを作──。いや、そうじゃな日向が好むのを作ろうて」
「・・・ただ自分の手でダラさんや薫、みんなをぎゅっと出来なくなるのは寂しいかな。だから、手残してくれてありがと」
日向の屈託のない笑顔に心が痛む隙すら貰えずにダラさんは彼女の胸に抱かれ包まれた。
怖くて痛い目に遭っても尚、負の感情に囚われない。それどころか思っている以上に悪戯が大変な事になってしまい焦りたどたどしく謝罪をくり返す弟と同じように幾ばくかのしょうがなさと愛おしさを込めた腕で殆ど泣き出しそうになっているダラさんを抱き締めた。
その顧みを求めない優しさを享受する資格はない。己自身に強く言い聞かせた所で、三対の空に漂っていた腕はゆるゆる小さくも大きな幼い姉にしがみ付き離す事そのものを放棄したのだった。
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