千代里
2025-01-14 14:06:44
14126文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その30


 
 ***
 
 一行の巡回任務はすでに折り返し地点を過ぎ、順調に帰路に差し掛かっている。すなわち、ここで異端者の野営跡を見つけたということは、シュガーグレイヴの近くに異端者が出没しているのと同義でもある。
 そのせいもあってか、夕飯の際にイレーナは帰路を急ぐ旨を発表した。彼女の報せを聞いてミラベルが安堵の表情を見せたのは、彼もまた町の様子が気になっていたからだろう。特に、孤児院には管理者である大人が、手伝いに来ている青年一人だけであった。彼一人に不安がる孤児の面倒を任せるのは心配だったようだ。
 ノエたちとしても、異端者が町を襲撃するようなことがあったらと危惧する二人の様子を見て、急ぐ必要はないなどとは言わなかった。
 ただの旅人である彼らであっても、町の者が異端者に傷つけられるようなことがあったらと思えば、他人事として片付けようなどとは到底思えなかった。
 そのような理由もあって、夕飯が過ぎても、物々しい空気や、どこか落ち着かない気配は旅宿全体を包み、目に見えぬ形で一行の中へと降り積もっていたらしい。
 おかげで、不寝番以外は眠りにつく夜半になっても、オデットはなかなか寝付けずに、シンと冷え込んだ埃くさい布団の中で意味もなく寝返りを続けていた。
……眠れません」
 仲間同士で交わされる、異端者と出会ったらどうするのかという声。
 もし竜の眷属がいたら、あるいは竜の血をあおって竜へと変じる者がいたら、どのように対処すべきかと交わされる言葉。
 オデットやゲルダには聞かせまいと配慮してくれていたが、同じ建物の中にいるのだ。全く耳にしない方が無理な話である。
 結果、神経が変に昂ってしまったんどあろう。寝床に身を横たえても、オデットの元に全く眠気は訪れてくれなかった。
 だが、眠れないのはオデットだけではないらしい。
 ごそり、とオデットの隣の寝台の布団が動く。寝返りかと思いきや、布団は何度も大きく動き、やがて中にいたはずの少女が布団の外へと一歩踏み出たのが気配で分かった。
「ゲルダ。どこに行くんですか?」
 思わずオデットも布団を跳ね除け、寝台の隣に立つ少女へ問いかける。
 寝床から出てきたのは、隣の寝台で休んでいたはずのゲルダだ。彼女は、外套も羽織らずに、部屋の扉から廊下へと出ようとしていた。
「何だか横になっていたら、気持ちが落ち着かなくて。じっとしていられないの」
「眠れない気持ちはわかります。でも、今は休んでおかないと、体が疲れてしまいますよ」
「大丈夫だよ。私、疲れるって感覚があまりよくわからないんだ」
 それは、ただ興奮し過ぎて疲れを正常に感じ取れなくなっているだけではないか、とオデットは思う。
 だが、彼女の眠れないという発言についても、全く理解できないでもない。事実、オデットも眠れない夜を過ごしている真っ最中だったのだ。
 ゲルダが廊下に出てしまったので、オデットもその後を追いつつ、
「イレーナさんが見つけた異端者の野営跡は、ゲルダさんが前に一緒にいた人たちのものではないかもしれませんよ」
 そっと後ろ手で扉を閉めて、声を押し殺しつつオデットは言う。
 声をひそめているのは、ゲルダが異端者の集まりに所属していたことをイレーナに知らせないためだ。
 ゲルダは、一時期異端者に所属していた。そのことをいまだに気にかけているから眠れないのではないかという推測は、どうやら当たりであったらしい。
「うん。でも……あの人たちが移動して、この辺りに来ている可能性もある」
「そうだとしても、彼らが何をしようと、今のゲルダには何の責任もありません。あの人たちは、ゲルダのお母さんを言いなりにさせようとして、ゲルダを無理やり連れ戻そうとしたんですよ。そんな人のために、ゲルダがそんな困った顔をする必要はないんですよ」
 廊下に灯りは一つしかなく、それとて廊下全てを照らすほどに眩いものではない。わずかな光に照らされたゲルダの顔は影が色濃く現れ、これまで見せていなかった不安を浮き彫りにしていた。
 けれども、当の本人は瞬きを一つしてから、
「オデット。今の私、困った顔をしてるの?」
「はい。すごく不安そうに見えます」
 言いつつ、オデットはゲルダの両頬を自分の手で挟む。ゲルダの頬はひんやりと冷たかったが、今はその冷たさが彼女の不安そのもののようだった。
「私ね、あの人たちが何をしているかは、そんなに気になっていないの。もちろん、ノエとかイレーナとか、私が今まであの町で出会ってきた人が怪我をしたり死んじゃったりしたら……そんなことになるのは、嫌だって思うけど」
 ゲルダはオデットの手をそっと取り、ゆっくりと下ろす。
「私が気になってるのは、お母さんのこと。ノエに怪我させた飛竜は、オデットの話を聞く限り、お母さんの友達とよく似た姿をしていた。ヤルマルたちがやっつけたドラゴンフライも、竜の眷属じゃないかって話だった」
 ゲルダは、これまでの旅路を辿りながら、ぽつぽつと自分の推測を語る。
「お母さんが魔物に言うことを聞かせるところ、私も何度も見てきた。魔物ってね、お母さんやその友達みたいにお話しすることができないの。食べたいものを食べて、危なかったら逃げて、暮らしやすいところに住み着いて……そういう生き物なら、お母さんは自分の力で操れるって言ってた」
 竜は魔物を眷属として、尖兵として操ることができる。そのことは、オデットもよく知っている。
 ノエの父がいた街では、実際に竜の眷属として送り込まれた魔物と相対する機会もあった。
「でも、人間はそういうことはできないでしょ。何匹もの魔物を操って兵士にしている人間なんて、私、見たことがない。だから、あのドラゴンフライたちは……
「ゲルダ。一回落ち着いて、深呼吸しましょう」
 今のゲルダは、自分で積み上げた思考がますます彼女を追い詰めてしまっている。それを察して、オデットはゲルダを落ち着かせるために深呼吸を促した。
 ぱちくりとこちらを見返す、ゲルダの大きな瞳。オデットが促すように一度大きく息を吸うと、つられてゲルダも深く息を吸う。
「それと、あたたかい飲み物でも飲みましょう。今のゲルダ、すっかり冷え切ってしまってますから。体が冷えている時は、良くないことばかり考えてしまうものですよ」
 オデットに言われるがままに頷くゲルダ。彼女のひやりとした手を引いて、オデットは広間に続く扉を開く。
 そこには予想通り、不寝番をしていた二人分の影があった。ノエ、それにサルヒだ。
「ルーシャンさんですか。交代の時間はまだ……って、オデット? それにゲルダさんも」
 振り返ったノエは、やってきた少女二人に驚いたようで、青銀の瞳を一度大きく瞬(しばたた)いた。
「あの、兄さん。ゲルダさんが眠れないみたいで……何か、あたたかい飲み物でも用意できませんか」
「それなら、私が準備する。ノエ、二人に椅子を」
 不寝番の二人は暖炉の前に置いていた敷布に直に座り、武器を携え、長い夜の時間を過ごしていた。咄嗟のとき、椅子が室内の中央にあったら邪魔となってしまうからだ。
 だが、流石に年少の二人を冷えやすい床に座らせるわけにはいかない。
 ノエが運んできた椅子に腰を下ろし、オデットは隣に腰掛けるゲルダの背中をさすってやる。
「二人とも、上着も着ずにこっちに来たのかい。寒かっただろうに」
「あっ、そういえば……ありがとうございます、兄さん」
 ゲルダが外套も持たずに出てきてしまったので、そのまま後を追ってきたオデットも、ローブの下に着ている質素な服しか纏っていない。
 それでも十分厚手ではあるが、夜のイシュガルドはぐっと冷え込む。暖炉の前に座らせてもらっても拭いきれない肌寒さを追い払ってくれたのは、ノエがこれまた部屋の端から持ってきてくれた厚手の毛織物だった。
「それで、二人とも。こんな時間に起きてくるなんて、何かあったのかい」
 膝を折り、オデットとゲルダの二人に目線を合わせて、ノエが静かに問いかける。彼の真摯な眼差しを受け取り、オデットは小さく息を漏らす。
(ああ――兄さんは、いつもこうしてわたしたちの目を見て話してくれる)
 改めて、ノエの中にある優しさに触れてじんと胸が痺れる。だが、今はノエの優しさに感動している場合ではない。傍らにいる友人が話し出さないので、代わりにオデットが口火を切った。
「イレーナさんの話を聞いて、ゲルダさんはお母さんがまだ異端者たちと一緒にいるんじゃないかって、不安になったそうなんです」
 オデットはゲルダが語った言葉を、できるだけ憶測を交えず事実だけを抜き出して、彼女の懸念を語った。
 話を聞き終える頃、オデットの鼻は刺激的なのにどこか食欲すら刺激する香りを嗅ぎ取っていた。見ると、サルヒが暖炉にかけていたケトルを備え付けの鉄鉤から外し、用意していたカップの中に中身を注ぎ入れているところだった。スパイスを混ぜたのだろうか、仄かな香ばしさは少し辛そうでもあるが、寒い夜にはうってつけだ。
「ドラゴン族であるゲルダさんのお母さんが、すでにゲルダさんが離反したはずの異端者たちにいまだに味方する理由がわからない、というのとですか」
「ゲルダ。あなた以外に、その竜に関係している人間が彼らの中にはいなかったの?」
 サルヒは、カップをゲルダへと差し出す。受け取りつつ、ゲルダは首を横に振った。
「ううん。お母さんが知っている人間は私だけだよ」
「そう。だったら、その竜が私的な理由で気にかけている人間が異端者の中にいるという可能性は低そう」
「それに、お母さんはまだ私の所に来てくれない。声は遠くから聞こえるのに、姿を見せてくれない。いつもなら、すぐに私も見つけてくれるのに」
 ゲルダは母親の気配は近づけば分かると話していたが、母竜の方もゲルダを見つけるための方法を持っているようだ。
 しかし、待てど暮らせど母竜はゲルダの前に姿を見せない。微かに気配は察知できているのに、影だけが差し込んだかのように姿は曖昧なままだ。
 耳に聞こえる咆哮すら一度も拾えていないのは、一緒にいるノエたちも知っての通りである。
「ゲルダさんを探しに行かない理由、あるいは探したくても探せない理由があるとは、考えられないでしょうか」
「それか、母竜の方にゲルダよりも優先することがあるのかもしれない」
「サルヒさんっ」
 ゲルダの心を傷つけるようなことを言わないでほしいと、思わずオデットは声をあげる。
 サルヒは「ごめん」と一度謝罪を挟んでから、
「けれど、可能性は全て考える必要がある。普段とは違うことが起きているのなら、ありえないと思う事象も全部洗い出すべき。旦那様も以前そう言っていた」
「お母さんにとって、私よりも大事なこと……
「ゲルダ、何か思い当たることはありますか」
 オデットの質問に、ゲルダは考え込んでみたものの首を横に振ってしまう。
「私、お母さんが何を考えているのかよくわかってなかったのかも」
 竜の生きる年月は人間のそれより遥かに長い。その深遠なる思考を全て把握しようなどというのは土台無理な話なのかもしれない。
 それに、ゲルダはノエたちに出会った時は、自分の意思を前面に押し出すことすら不得手だった。
 そんな状態では、彼女を保護した竜がどんな風に思考を働かせていたか、などとはなかなか考えられないだろう。
「では、仮に何か理由があり、ゲルダさんの母親が異端者たちに未だ協力を続けているとします。その場合、彼女が協力する理由に思い当たることはありますか」
 異端者と竜の眷属が出没した事例に因果関係がなければ、それはそれでいい。
 だが、もしもということもある。
 異端者と竜の眷属が手を組んだ時の厄介さは、ノエは父の治める街で嫌と言うほど思い知らされていた。
「それも、分からない。元々、私に異端者と一緒に行動したらって言ったのは、お母さんだったけど」
「たしか、ゲルダさん自身も異端者だと言われたことがあって、その後に自らを異端者と名乗る集団に出会ったという話でしたよね」
 ゲルダは首を縦に振り、ノエの要約を肯定する。
 彼女はカップに口をつけ、唇を少し湿らせてから、
「お母さんに出会ったときは、周りに人間はいなかったの。私は、私が誰かもよく分からなくて、ただ雪原の中に転がってた。今みたいに服も着てなくて、白い雪の上にモノみたいに落ちてたの。お母さんがそれを見つけて、お母さんの家に運んでくれた。人間風に言うなら、寝ぐらってことになるんだろうけど」
「服も着ずに落ちていた……?」
 オデットは既に聞いていた話であったが、改めてそのことを知らされたサルヒとノエは揃って顔を見合わせる。
 何らかの事故に巻き込まれたのだとしても、衣服すら吹き飛んで人間の体だけ無事であるという状況がノエたちには全く想像ができなかった。それとも、本人が忘れているだけで、竜の血を飲むなどして出会った直後に傷を癒してもらったのだろうか。
 彼らの反応を無視して、ゲルダは続ける。
「その時のことは、実はあまりよく覚えてなくて。ただ、なんとなく、この翼の下にいれば安心できるってことだけは、ずっと昔からそうだったみたいにすぐに分かったの。お母さんは、私を何と呼ぶか悩んでいたみたいだった。出会ってしばらくしてから『ゲルダ』って呼ぶようになったの」
「お母さんは、ゲルダを守ってくれていたんですよね。たしか、食事も持ってきてくれて、話し方も教えてくれたって」
「うん。お母さんの言葉は私の口じゃ発音できないから、人間の話し方も少しだけ教えてもらった。食事はもらったけれど、こんな風に器に入ってなくて、木の実や動物の死骸をそのまま食べてたよ」
「それは……よくお腹を壊しませんでしたね」
 想像以上に野生味溢れる発言に、ノエは自分の予想を遥かに上回る環境でゲルダは育ったのだと改めて知らされた気持ちだった。
 少し考えれば分かることだが、竜が人のように食べ物を調理ができるわけがない。与えられるものは必然的に、周辺に生息している食べ物をそのまま提供という形になったのだろう。
「お母さんは、人間はすぐに寒さで死ぬって言って毛皮をくれたんだけど、私はそんなに寒くなかったの。でも、雪の中にずっといると体が動きづらくなるから、自然と毛皮を着て外に出るようになったかな」
 ゲルダには羞恥心らしいものがあまりないようで、同行している今もオデットがゲルダに着替える場所を教えていた。そのちぐはぐな感性も、衣服の必然性を感じにくい体質や、育った環境によるもののようだ。
「ある日、お母さんと家の外を歩いているときに、他の人間に出会ったの。その人は、竜と一緒にいる私は異端者だって怒鳴って、石を投げて追い払おうとした。そういうことが、何度もあった。時には、武器を持った人が私を追い回して、お母さんが彼らを追い払うこともあった」
 人間とは恐ろしい生き物ではないか。自分はあれと同じ生き物なのか。ゲルダは漠然とそんな疑問を抱いていた。
 そんな折に、転機が訪れた。
 新たにゲルダの元に訪れた人間の集団がいたのだ。彼らは竜を見ても怯えず、寧ろ敬いの姿勢を見せつつ、こう言った。
 ――あなたは竜と行動を共にしている。だが、今のイシュガルドではそのような振る舞いは認められていない。
 ――私たちは、イシュガルドの今を憂い、変えようと考えている者だ。
 ――あなたも我々と行動を共にして、今のイシュガルドを変えていかないか。
「私は、お母さんやお母さんの友達が人間に、追い回されないようになるならいいなって、そんな世界ができてほしいって思った。お母さんはどう思うのって、私は聞いたの。お母さんは『それならお前は彼らと行動するといい。私はお前と共に行く』って言った」
 その一言が決め手となり、ゲルダは彼らと行動を共にすることにした。
 竜の血を求められたといは、人間の考え方を変えるために必要ならばと、母竜は自ら血を流すことを受け入れた。
 だが、竜の血を無理やり飲ませて、異端者に引き込むような考えをゲルダは受け入れられなかった。だからこそ、今彼女は離反してノエたちの元に身を潜めているのだ。
……それだけでは、何とも言えませんね。もしかしたら、ゲルダさんのお母さんは異端者たちと関わる理由があり、ゲルダさんは切っ掛けに過ぎなかった可能性もあります」
「だけど、竜が異端者に何を望むの……?」
 サルヒに質問されて、ノエも答えに窮してしまった。
 邪竜の尖兵であるらしい他の竜にも、人を憎む個体は数多くいると聞いてノエは育ってきた。竜は人と手を組まずとも容易に人を屠る強さを備えている。わざわざ異端者に血を横流ししたり、眷属を貸し与える必要などないはずだ。そんな回りくどい根回しをしている前に、竜自らが赴いて人間を踏み潰した方がずっと手っ取り早い。
 それをいうならば、邪竜が今すぐ人々の住む街を焼き払わない理由も分からないままではあるのだが。
「ゲルダのお母さんは、倒れていたゲルダを助けてくれたんです。……竜は怖いものだと思いますが、わたしはゲルダが信じているものを否定したくはないです」
 不穏当な会話を交わすノエとサルヒに向けて、オデットはぽつりと漏らす。
「そうだね。最悪の可能性は、頭の片隅に置いておいた方がいいとは思うけれど。でも、仮定ばかりを重ねて実際あったことから目を逸らしては本末転倒か」
「私は、ひとまず警戒を続けておく。たとえゲルダの母親でなくても、竜が異端者に協力している可能性は考えられる」
 サルヒの脳裏には、ノエたちと別れた後に戦った、猟師の村で依頼されたドラゴンフライ討伐の様子が浮かび上がっていた。
 普段はてんでばらばらに活動するはずの魔物が、不気味なほどの連携を見せ、サルヒたちは苦戦を強いられた。あの統制が取れた行動は、間違いなく魔物が身につけた知恵の領域を超えている。
「もし、本当にゲルダさんのお母さんが異端者に協力していたとしても、何か理由があるのでしょう。異端者がお母さんを騙している可能性もあります」
 言いつつ、ノエは自分が対峙した竜――ランドンの言葉を思い出した。
 ランドンは、何らかの誤解を重ねた上で人への襲撃を続けていた。言葉の内容から察するに、彼は大昔共に行動をしていた人間の姿を今も追いかけ続けていたのだろう。
 今回の件でも、そのような不幸のすれ違いが生まれつつあるのかもしれない。
(だとしたら、今ならまだ止められる。ゲルダさんはここにいるのだから)
 心の内にもう一つの仮定を載せた上で、ノエは「二人とも、そろそろ部屋に戻るといいよ」と告げた。ちょうど、話をしながらカップの中身も飲み干した頃だった。
「じゃあ、私が二人を送っていく」
「わたしたち、二人だけでも戻れますよ。サルヒさん」
「二人がちゃんと眠ったか、確認してから戻る。気が休まらないとしても、睡眠は必要。寝不足のまま手綱を握っていたら、チョコボから落ちてしまう」
 敢えて第三者が混ざることで、夜ふかしのお喋りを防ぐという意味もあるのだろう。サルヒに促されて、二人は立ち上がった。
 まだゲルダは不安げにしていたものの、ノエに一度振り返り、
「私、今はお母さんを信じて待つことにする」
 ノエが最後に言っていた「何か理由があるのだろう」という言葉は彼女にとって励みになったようだ。小さく頭を下げてから、オデットに手を取られるようにして寝室に続く廊下へと消えていった。
 残されたノエは、置き去りになったカップをお盆の上にのせて片付けを始める。
 ケトルの中身はまだ残っている。眠気覚ましにもう一杯、自分の分を注ごうかとノエはケトルを傾きかけ――
「サルヒさん?」
 ぎい、と扉の軋む音が響いた。
 彼女がもう戻ってきたのかと声をかけるも、返事はない。
 続いて聞こえたのは、ごつと響くブーツの重い音。サルヒの靴音ではない。彼女の足音はもっと軽い。
 ノエは漸く背後へと視線をやり――瞠目する。
「ミラベルさん。どうしたのですか、こんな夜更けに」
 まさか、不寝番の手伝いに来たのだろうか。彼はあくまで同行者にすぎないので、休んでいて構わないと最初に言っておいたはずだが。
 疑念を半分持ちながら、彼の次の行動を待っていると、
「人の気配がしたので、目が覚めてしまったのです。良かったらそちらのものを一杯、いただけますか」
 ノエの持っているケトルを指されて、ノエは素直に頷き、中身を空いていたカップの中に注ぐ。
 それを差し出すと、ミラベルは無言で受け取り、湯気の揺蕩う表面をじっと見つめてから、
「先日の件について、一度あなたと話をしなければと思っていました」
 不意に、そう切り出した。
 何の話だろうと思いきや、「占星台でのことです」と彼は付け足した。
「思うところはありますが、あなたに掴み掛かるような真似までするべきではなかった。まず、その件について謝罪をさせてください」
「あなたも訳あってのことでしょうから、その謝罪は受け取れません……とは言わない方がいいのでしょうね」
「ええ。そうしてもらえると、私としても気が楽になります」
 相手に害を及ぼすような行為をした場合、加害者からの謝罪というものは、結局は自己満足に過ぎないのだということをこの青年は理解している。
 その自己満足を受け取れと自覚した上で、先ほどの発言をしているのだ。
 ともすればミラベルの発言は開き直りとも取れるが、これが彼にとっての精一杯の誠意なのだとノエは受け取った。ならば、頑なに拒むつもりもない。もとより、ノエは彼に謝罪をしてほしいとおもってはいなかったのだから。
 一つ頷き返してから、ノエは尋ねる。
「まず、と先ほど仰いましたが。それは、他に話したいことがあるからですか」
「ええ」
「オデットのこと、ですよね」
 念のため尋ねると、果たしてミラベルは深く頷いてからカップの中身に口をつけた。少し眉を寄せたのは、中身が熱かったからか、それとも刺激的な味に驚いたのか。
 唇をカップから離すと、暖かな湯気が彼の口からも漏れた。白い吐息のようなそれが消え終わってから、
「この数日の旅路で、私はあの子の戦う姿を見てきました。その上で、認めましょう。あなたが言うように、彼女はただの子供ではなく魔道士としての才を見つけた戦力になり得る者だ」
「ミラベルさんにそう言ってもらえたのなら、オデットもきっと喜ぶでしょう」
「ですが、それでも私は言い続けます。彼女を、イシュガルドに留めるべきではない」
 きっぱりと。
 彼は言う。
 冷然と告げた声に温もりはなく、情に訴えかけようという気配もない。
 先だって『認めた』と言ったときは声音にわずかな温もりが宿っていたが、それすらもあっという間に拭い去られている。
 だからこそ、容易に彼が揺るがぬだろうこともわかる。
「記憶をこれ以上探さずとも、あの子の居場所はすでにある。私が言わずとも、あなたももう分かっているでしょう」
……それを『はい』と言えるほど、僕は自惚れてよいものかと思っているところです」
「ならば、あなたが認めずとも、私が代わりにあなたを頷かせます。あの子の心の拠り所は――ノエさん。あなたである、と」
 オデットの心の拠り所。
 それは、ノエがオデットの記憶に触れるたびに、彼自身の心がどこかで望み続けた称号だ。
 過去を思い出しても、オデットが最後に自分の隣を選んでくれたら嬉しい。願望というより欲望に近いノエの気持ちを、オデットは受け入れてくれた。
 そして今、当事者でもあるミラベルすら、肯定してくれた。
(なのに、なんでだろう。僕は、素直に彼の言葉を受け入れられずにいる――
 この感情はあくまでノエの中から生まれたものだ。他人に認められたくらいで、たとえそれが当事者であるミラベル本人からの言葉であろうと、簡単に覆していい迷いではないのだとノエ自身も気がついていた。
 ノエが沈黙を保っているのを、了承ととったのか。ミラベルは、カップの中身を勢いよく流し込んでから、
「だから、あなたしかいないのです。あなたがあの子の手を引いて、イシュガルドから離れるしかない」
「先だっても言いましたが、僕はイシュガルドに残るつもりです。この場所で、僕は自分の為すべきことを見つけたんです」
 事実上、先ほどの言葉はミラベルがオデットを託す相手としてノエを認めたと言ってるも同義だ。
 だが、容易に首を縦に振れない事情もある。
「だから、僕はオデットと共にイシュガルドを離れるつもりはありません。オデットにも、このことは伝えています。彼女も、僕の決意を認めてくれました」
 使命と言えるほど大層なものでもない。誰かに頼まれたわけでもない。
 だが、ノエがやりたいと思えたことだ。
 ほんのわずかな抵抗にすぎずとも、この地に響く嘆きを一つでも消す手伝いをしたい。そのために剣をとり、盾を翳し続ける。
 ノエは、自分が決めた道を翻すつもりはなかった。
 だが、ミラベルは紫紺の双眸をノエへと向け、
……私は、今から非常に私的且つ我儘なことを言います。本来、ただのゆきずりの知り合いであるあなたに言うべきことではないのでしょう。ですから、ミラベル司祭ではなく、ただのミラベルとして発言させてもらいます」
 鋭く釣り上がった瞳に、揺らがない意志を湛えて。
 彼は前置きを挟み、言う。
「それがあんたの夢なら、あの子のためにあんたは夢を捨ててくれ」
――――
 なるほど、それは彼が前置いた通り、とても我儘な発言であった。
「俺にとって大事なのは、あんたの夢じゃなくて、あの子が無事にこの先、幸せに生き続けることだ。あんたなら、あの子を託しても見捨てるような真似はしないだろう。少なくとも、あの子はあんたを信じている」
「そう言っていただけるのは光栄ですが、僕は僕の望みを捨てるつもりはありません」
 一瞬虚を突かれたが、ノエは言葉に流されなかった。真っ向から、ミラベルの願いに相対する言葉を選び、ぶつける。
「それに、僕がオデットのために自分の夢を捨てたら、オデットは一生それを後悔するでしょう。僕が言うのもなんですが、オデットは、僕が一生懸命に走ってくれる姿を好いてくれているようですから」
 ありし日の誓いを思い出し、ノエは苦笑する。
 お互い、難儀な形で互いを好いてしまったものだ。もしオデットがここにいたら、顔を合わせて同じことを言い合っていたことだろう。
「たしかに、イシュガルドには危険が多い。僕も、この数ヶ月で何度も死にかけるような目に遭いました。寒さや飢えの危険もあります。オデットを置いて、僕が先に死んでしまう可能性もゼロではないでしょう」
 もしそうなったら、を考えると底の見えない奈落を覗き込むような寒気を覚える。
 だが、ノエは不確定な不安を振り解くために、更に言葉を並べ立てる。
「ですが、その危険は、イシュガルドに限った話ではありません。グリダニアでも、他の地域でも、生きている限り危険はどこかにある。僕は、できる限り最善を尽くしてオデットを襲いくる危険から守ります。もし、オデットがイシュガルドにいるのを嫌がったのなら、信頼できる外の冒険者に任せることもできます。無理に彼女を引き止めるような真似はしないと誓いましょう」
 もしそのようなことになっても、ヤルマルやオランローなら、オデットを任せられる。
 戦いの生活から遠ざかりたいなら、ディアヌやエメーヌのようなかつての依頼者でもある、信用できる知り合いに預けてもいい。オデットの母と親しかったディアヌなら、オデットを娘のように遇してくれるはずだ。
「ミラベルさん。あなたが、彼女の未来を憂いていることは十分に伝わっていると思っています。その上で、僕もわがままを言わせてください」
 胸に手を当て、ノエは告げる。
「僕とオデットが自ら選び取った道を行くことを、どうか見守っていてくれませんか」
 かつて、オデットの手を引いた兄に向けて。
 今、オデットの手を取っている青年は、誓う。
 きっとこの人が心から安心して見送れるような道を、自分はオデットと共に歩んでみせると。
 だが、ノエの言葉を聞いても、ミラベルの顔は晴れない。何度も薄い唇を開け閉めしている様子は、何かを言いたいのに必死に堪えているように見えた。
「ミラベルさん。僕たちのことが信頼できないというのなら、どうかシュガーグレイヴに滞在しているときだけでも構いません。僕たちの様子を見ていてもらえませんか」
……そうじゃないんだ」
 ミラベルはゆっくりと首を横に振る。ゆるく結えた銀髪が触れて、銀色の軌跡を残していく。
「あんたがあの子を守ってくれることを、疑っているわけじゃない。いや、少しはそれもあるのかもしれないが……俺がイシュガルドに残るなって言ってるのは、そういう理由じゃない」
「では、何か別の理由があると?」
「あの子自身に関わる問題だ。あの子がそう望んだわけじゃなかったとしても」
 答えを聞き、ノエはふとオデットを保護したときの状況を思い返す。
 拘束の跡が残った手足。微かに負った火傷。そして、保護したオデットの手には、貴族の印章が入った指輪があった。
(貴族がらみの問題に巻き込まれてしまう可能性がある、ということか? でも、あの貴族の家はすでに潰れて久しいと、ユーガンさんが言っていたはずだけれど)
 イシュガルドの貴族の家で執事をしていた男性に、オデットが持っていた指輪を見せたときのことだ。彼は、この紋章を持つ家は、当主が絶えた末に没落したと話していた。
 それでは手がかりにならないと、ノエは一旦指輪については棚に上げ、今もそのままになっている。
(言われてみれば、占星台の記憶や救貧院の記憶ばかりが気になっていて、僕と出会う直前に何があったかについては調査の範疇に入れていなかったな)
 明確になっている所から調査を進めていった結果、オデットの出生や教会の悪質な事業に巻き込まれた経緯、占星台にいた老女に保護されたまでの経緯はかなりはっきりと分かってきている。オデットも、当時の記憶を断片的に思い返し、懐かしむそぶりを見せている。
 だが、ノエと出会う直前に何があったかについては、オデットはいまだに明言していない。
「僕と出会ったとき、オデットは怪我をしていました。ミラベルさん、あなたはこの件について何か知っているのですか」
……やっぱり、あんたが会ったのはあの時だったのか」
「何か知っていることがあるのですね。だったら、それを教えてもらうことは」
 コンコンコン、と。
 ノックの音がした。
 
 まるで、勢い込むノエを押さえつけるかのように。
 今まで話に夢中になっていた二人には、その重たいノック音は随分と大きく響いて感じられた。
 ミラベルはノックを聞いた瞬間口をつぐみ、警戒するように扉を向いている。どうやら待っていても、彼が話の続きを口にすることはなさそうだ。
「はい。サルヒさんでしょうか」
 この音は、廊下から響いてきている。
 だとすると、サルヒがゲルダたちを寝かしつけて、戻ってきたのだろうか。
 ミラベルは口を噤み、ドアを見つめている。オデットが信用するノエはいざ知らず、他の面々についてはミラベルはまだ完全に気を許したわけではないようだ。
 ノエの返事を聞いて、ぎいと蝶番が軋む音を響かせて扉が開く。
 こつ、とブーツの音を響かせて姿を見せたのは、
「よお。こんな夜更けにこっそりパーティか? 随分といい匂いがしているが」
「ルーシャンさん。ルーシャンさんまで、目が覚めたのですか?」
「何となく風の音がうるさくて落ち着かなくてな。少し早いが、不寝番の交代をしようかと思ったんだ。次、俺がサルヒと交代だろ。サルヒはどこに行ったんだ?」
「彼女なら、ゲルダさんたちを寝かせにいきましたよ」
「おや、お嬢ちゃんたちも夜更かしか。ってなると、入れ違いになっちまったな」
 まいったなあと笑いつつ、ノエに軽く手を振ってみせるルーシャン。続けて、彼は深い蒼の瞳をミラベルへと向ける。
「で、そっちの兄さんはノエと何を話してたんだ?」
「オデットのことですよ。ミラベルさんは、オデットのこの先を心配して僕と話をしていたんです」
「そいつはまた、随分と慈悲深い司祭様だな。どこの誰とも知らない子供にまで目をかけるなんて。いや、知り合いではあるんだったか?」
 ルーシャンは片眉を持ち上げ、口元を釣り上げる。
 その様子を見て、ノエはおやと思う。
 言葉だけを追うなら、ルーシャンらしい揶揄いの一つに過ぎない。けれども、今の彼の瞳は言葉とは裏腹に――随分と、冷えている。
「それで、ノエ。もう話は終わったのか?」
「いえ、あの――
「もう終わりました。不寝番の交代ということでしたら、お邪魔でしょうから私はこれで失礼します」
 先ほどまで外していた司祭の顔をつけ直し、ミラベルは粛然とした面持ちで頭を下げる。
 彼はルーシャンの横を通り過ぎ、開いた扉を閉じて廊下の向こうへと消えてしまった。
「じゃあ、俺はサルヒに交代を知らせてくるか。ちょっと待っててくれ。悪いな。話の邪魔をしたみたいで」
「いえ、構いません。また機会はあるでしょうから」
 ミラベルには聞きたいことができてしまったが、シュガーグレイヴに滞在すれば会話の機会はまだあるだろう。
 出会った直後の反応から察してはいたが、彼は警戒心の強い人物のようだ。皆がいる前では先ほどの話はしてくれないだろう。オデットにも聞かせたくない内容ならば、二人きりになる機会を探すしかあるまい。
 サルヒに話をするため、部屋を去っていくルーシャン。彼の背中を見送り、ノエはカップを載せた盆を見つめ、
……あ。ミラベルさん、カップ持って行っちゃったのか」
 朝になったら回収しておかないと。
 そんなことを思いながら、ノエは途中になっていた片付けを再開した。
 *
 ぱたん、と扉を閉じてからルーシャンは暗闇に沈む廊下を見つめる。
 そこに、ミラベルの姿はない。おそらく、部屋に戻ったのだろう。
 すうと目を眇め、彼は音にならないほど密かに息を漏らす。
……さてはて。調査人さんは、一体どこまで気付いているのかね」
 低く漏らした呟きは音になることもなく、虚空へと溶けて消えた。