有栖川
2025-01-13 21:04:02
10810文字
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きみのとなりでおやすみがしたい①

未来捏造if、記憶喪失でnoeg終了直後まで戻っちゃったkisが恋人を名乗る23歳の41と一緒に暮らす話
攻め記憶喪失のkiis
※実際の医療知識などには基づかないファンタジー記憶喪失なので、フワッと見ていただけると幸いです


01 恋するエゴイストども





「おはよ、カイザー。もう少ししたらコーヒー入るからゆっくり着替えてきて」

 カーテンをめくる軽やかな音がして、朝の光が差し込んでくる。
 初夏を告げる心地の良いまぶしさに軽く目をつむり、瞬きをすると、カイザーはゆっくりと起き上がった。広い寝室には大きなベッドが一台だけ置かれていて、並べられた隣の枕には、すこし前まで誰かが寝ていたことを示すへこみがまだ残っている。見慣れない家での見慣れない暮らし。その不可思議な感触にふうと息を吐き、ゆっくりと寝台を降りた。
 クローゼットに突っ込まれていたジャージを引っ掴んで袖を通し、洗面台へ。日本語が書かれた知らないボトルたちをのけて長年お気に入りにしている洗顔フォームを手に取ると冷水で顔を洗う。カイザーは顔を洗うのは冷水でと決めているのだが、同居人はそうでもないらしく、コックは温水に合わされたままだった。その奇妙なズレにほんの僅か首を傾げつつミッションを終えると、快い香りが漂ってくるダイニングへと向かう。

「今日は目玉焼きを焦がさなかったのか?」

 テーブルに並べられてほかほかと湯気を立てるプレートたちを眺めながらそう呟くと、キッチンからどこかくすぐったいような笑い声が返ってきた。

「当たり前だろ〜、昨日のはたまたまのミス! 目玉焼きぐらい俺だって焼けるっての、毎日朝食用意してんだから俺!」
「まぁ確かにここ数日その姿は見てきたが。お前が料理をする姿というのがどうもしっくりこない」
「文句言うヤツにはご飯あげないけど!? も〜、ほらいいから座って! 早く食べて走り込み行こうぜ」

 言葉こそ焦っているような調子だが、声音は温かく、優しく、怒っているというよりはじゃれ合いを楽しんでいるといった風体だ。
 程なくしてキッチンから焼きたてのトーストを二皿持って戻ってきたソイツは、手早く皿を配膳すると当たり前のような顔をしてカイザーの向かいの席に腰を降ろした。そしてまだぼんやり突っ立っているカイザーを「ほら早く」なんて言って座らせると、パンと手を合わせて「いただきます」をして、それから、小動物のようにモシャモシャと朝食を食べ始める。

「うん、焼け具合ばっちり、今日はトーストも卵も完璧だな」

 目をキラキラして自画自賛するその様子は、とてもじゃないが、御年二十三歳を迎えた成人男性のものだとは思えなかった。
 控えめに言って小学生、もっと言えばやはり小動物ハムスターあたりか。見ていて飽きないことは確かだが、とにかく、こんなヤツが世界のプロリーグで頂点を争うトップ選手であり、サッカーにおいてはカイザーを凌ぐ瞬間さえある世界的英雄スーパースターだとは、俄に信じがたい。
 けれどそれよりも何より信じがたいのは——ソイツが時折垣間見せる、愛おしそうに目を細めてこちらを振り向くその仕草だ。

「カイザー」

 不意に、ソイツの指先が、手に持ったトーストをもたもたとかじっているカイザーの方へ伸ばされた。
 プロアスリートの骨張った指先が、しかし柔らかくカイザーの頬に着地して、慈しむように皮膚の上を滑る。そうして綺麗に爪の切りそろえられたひとさし指でちょんと横顔をなぞると、ソイツは世界でいちばんいいことがあったガキみたいな顔をして、幸せそうに笑うのだ。

「あはは、ほっぺたにパン屑ついてる」
……うるせ、クソ余計なお世話」
「いーの、余計なお世話焼くのが楽しいんだから」
「なんでだよ」
「理由なんて要る? だって俺たち恋人同士なんだよ」

 対面の、幼くあどけなさを残した頬が、バカみたいに緩む。
 カイザーはそのクソ間抜けなツラを見て、僅かに眉間へ皺を寄せる。

「恋人、ね……
「うん」
……何度言われても慣れねぇ、クソ妙な感じする」
「でも、ホントだよ」

 微笑むソイツの目の前で、カイザーは思いきり鼻を鳴らして唸った。
 ほんの一週間前に始まったこの生活に、それほどの不満があるわけではない。いやむしろ生活環境としては以前より遙かに向上していると言えるだろう。朝が弱いカイザーのために毎朝起こしてくれるヤツが同じ家にいて、朝食まで作ってくれる。日々のロードワークを一緒にやるヤツが出来て張り合いも増えた。日中の練習の疑問点は帰宅中の車ですぐ検討解消が出来るし、家に帰れば、心ゆくまでサッカー議論を交わすことだって出来る。
 朝起きて夜眠るまで、一秒たりとも欠けることのない充足した日々。
 何不自由のない暮らしだ。——ただひとつ、自らの恋人だと名乗るこの男と、付き合った記憶なんぞどこにもないという違和感にさえ目を瞑れば。

「だとしても俺の中のお前はクソムカつくエゴイストでブッ潰すべき敵でしかねぇんだよ、世一」
「俺もだよ。そのうえで、大切な恋人でもある。……俺はそのつもりだから、カイザー」

 カイザーが困り果てたように舌打ちをしても、男は、カイザーが知る限り世界最悪のエゴイストである潔世一というヤツは、全然まったく機嫌を損ねたふうもなく「な!」なんて頷くばかりだ。
 カイザーは左手で頭を抱え、深く溜息を漏らした。ワケが分からない。分からないのに、この空間は恐ろしいほど居心地が良く温かい。

「っとに世一くんはお人好しねぇ……

 オマケで煽るような声音で呟いてやっても、世一は楽しげに笑ったままで、調子が狂うったらありゃしない。
 カイザーは嘆息し、肩を竦めるとリビングの窓の外を見た。晴れ渡った青空は眩しくカイザーを照らし出している。
 まるでどこにもこの奇妙な夢・・・・からの逃げ場などないんだと囁いてくるかのように。

 ——二〇二六年六月、オフシーズンを迎えたばかりの初夏の朝。
 カイザーには過去の記憶が無かった。
 正確には、新英雄大戦ネオ・エゴイストリーグを終えて以降七年間分の記憶が——ごっそりと抜け落ちてしまっているのだ。




◇ ◇ ◇




 記憶喪失になったのは、先日交通事故に遭ったそのせい、であるらしい。

 目覚めていちばん最初に見たのは見知らぬ清潔な部屋の天井。着せられた衣服や、慌てた様子で世一が呼んで来た白衣の連中を見て、カイザーはここが病院であることを理解した。だがまだ分からない。どうして世一がここにいる? そして何故カイザーは、祖国の病院に入院などするハメになっている?
 だって記憶にある限りカイザーは、『青い監獄ブルーロック』プロジェクトに参加している最中であり、まだ日本にいたはずなのだ。
 日本の病院にブチ込まれているならまだ百歩譲って分かるが、まさか、知らない間に飛行機に押し込められて、ドイツまで空輸されたとでもいうのか?
 そうカイザーが訊ねると世一は怖々とカイザーの顔を見て、それから医者と看護師の方を見遣り、震えるような声で「先生、コイツは、」と言った。

 ——御影コーポレーション謹製のイヤホンを通した自動変換では絶対に有り得ない、どこか外国人訛りのクセを感じさせるドイツ語で。

「やはり事故の影響で、記憶野に障害が現れたものかと……

 それから鬱陶しい問診と検査とを経た後に医者が下したのはそんな結論だった。
 打ち所が悪くて、というヤツだ。どうやらカイザーがふざけているという可能性も低そうだと理解したあとの世一は、なんとも名状し難い表情をして、何度も、何度も、カイザーの顔色を恐る恐るうかがっていた。
 自動車に跳ねられて横転し、軽度の怪我を負ったほかには、脳への大きな損傷なども特に見られないという話だったが、とにかく話が合わないので、そう判断する他ない、経過観察をしましょうというのが医者の言だった。そうして記憶喪失になったカイザーに誰かが付き添っている必要がある、家族は、という話になったときに、それまで黙ってじっと話を聞いていた世一が挙手をした。

「俺が一緒にいます。カイザーには家族がいませんし——世間には公表していませんでしたが俺はコイツの恋人です。同棲もしています」

 記憶がないんだから当然だが初耳だった。老齢の医者は意外に柔軟な思想のリベラリストだったらしく、その告白カミングアウトに対して必要以上の驚きを表すことはせず、だったらそれが一番いいでしょうと頷いた。
 かくしてカイザーは世一と共に暮らすことになった。世一が運転する帰りの車の中で(コイツが免許を持っているという事実が、今がカイザーの自認から遙か未来であるということを証明していた、だってあの頃世一は十六歳だったのだ)、カイザーは世一に何も聞かなかった。何を話していいのかわからなかったのだ。
 ただでさえ潔世一という男は頭の中の構造が意味不明なヤツだったというのに、それがさらに七年も歳を取ったとなれば、コイツは、見知らぬ他人のようなものだった。

 だからカイザーは黙ってスマホを操作して、抜け落ちた七年間の情報を集めようとした。スマホのロック番号は変わっていなかったが、待ち受けには、知らない世一の写真が使われていた。本当に付き合っていたのだろうか。電話帳の中にも最低限の連絡先に加えて世一のアドレスが入っている。首を振って検索エンジンに単語を入力。調べるのは勿論——『Yoichi Isagi』。
 結果はすぐに出た。日本の青い監獄ブルーロックプロジェクト第一期生にして、監獄の申し子。U−20W杯で日本を優勝に導いた立役者のひとりであり、監獄のプログラム終了後はオファーがあった『バスタード・ミュンヘン』下部組織ユースへ所属、その後トップチームへ昇格して大いにブンデスリーガを沸かせる。W杯でも日本のエースストライカーとしてファインプレーを演じ、一昨年からはスペイン『レ・アール』に移籍して活躍中。

「おい、『レ・アール』所属って、……じゃあなんで今ドイツにいるんだよお前」

 検索結果に引っかかるところがあり、思わず控えていたはずの声が漏れる。世一は目線をフロントガラスの向こうから外さず、「来季からバスタードに戻るんだよ、まだ未公表だけど」とだけ答えた。そういえば今はオフシーズンに入ったばかりの時期か。であるならば未公表で移籍の話を進めているというのはない話ではない。だがそれならそれで、まだもうひとつ、気になることがある。

「二年も……離れていたのか? …………付き合っていたのに?」

 転がり出た声はどこか拗ねたような調子で、口にしてしまってから、なんだかやってしまったなと思った。
 自分の声ではないみたいで気持ちが悪い。だいたい世一のことなんてクソほどムカつくブッ潰したい敵以上でも以下でもないっていうのに、どうしてこんなことを訊いてしまったのだろう。

「ん〜? 遠距離恋愛ってやつ」

 対する世一の方は、そんなカイザーの内なる葛藤などまるでどこ吹く風という調子で、あっさりそう言い切った。

「遠距離……恋愛?」
「そー、お互い、恋人であると同時に、互いを喰らい合ってより高みを目指すプロ選手同士なわけだし。いちゃつきたいからとかいう理由で成長のチャンスを逃すのは本末転倒だろ? 合意のもとの契約ってやつ」
「契約だぁ? 離れてても一緒だ、とかクソ腑抜けた言葉でも抜かしたってのか? ……まさか俺が?」
「ん、ハグとセットでね」

 ま、お前、連絡不精だからメッセとか全然くれなくて、電話もしたがらないし、遠恋の間はもっぱらチャンピオンズリーグで当たった時に顔合わせるのが殆どだったけど。
 そう話す世一の口ぶりはいっそ呆れ返ってしまいそうなぐらいあっけらかんとしていて、そのせいだろうか、確かに自分は誰かに束縛されたりマメに連絡をするとかそういうのは嫌いなたちだったから、そういうもんだったのだろうか——と、妙に納得させられてしまった。

 一時間ほどを車に揺られて戻った自宅は、カイザーの記憶にない一軒家だった。世一が慣れた手つきで電子錠を開けるのを見ながら、知らない扉を潜り、知らない家の中を案内された。「俺がコッチ来て大分経った頃に買った家だから、見覚えはないかもだけど、基本カイザーが自分の使いやすいように整えてたしすぐ慣れると思うよ」と世一は無責任に笑っていた。
 案内された部屋のうち、寝室と思しき部屋はとっちらかっていて、ベッドの上も下もいかにも「ヤッたあとです」と言わんばかりに汚れていて、生々しかった。まるで他人の情事を覗き見てしまったかのような最悪の心地がしたが、ベッドの上に落ちているグラデーションで青に染められた金髪の抜け毛が、このベッドを汚した犯人が誰なのかということを克明に語ってきていて眩暈がする。

「本当に俺たちは付き合っていたのか」

 しわくちゃのシーツを剥がして新しいシーツを掛けようとしている世一に問いかけると、世一は、やはり、当たり前のような顔をして、「まーね」と頷いた。

「付き合ってたよ。そーいうこともしてたし。でも今のカイザーは、別にそのへん、気にしなくていいよ」

 世一の言葉は穏やかで、慈愛に満ちていて、ただひたすらに労るように優しかった。

「急にそんなこと言われても困っちゃうだろうしさ。お前のことが心配だから俺はそばにいたいけど、恋人としての振る舞いをしてほしいとは言わない。ただ、ここにいさせてくれればいい。ベッドだって気になるならもう一台用意するから気にすんな」
「そういうことじゃ——
「ああ、新英雄大戦終ネオ・エゴイストリーグわった直後って、俺たちまだ友達ですらないんだっけ? でもまぁ一応ほら、チームメイトではあったわけだし。同じチームの中で潰しあってばっかではあったけど。だからそういう感じでさ、ルームシェアだと思って、……仲良くやってこうぜ」

 そこまで言い終わると、左手で外したシーツを持ったまま右拳を突き出してきて、「な!」と善意の押し売りなんぞし始める。

 こんなヤツと本当にやっていけるのかよ。

 正直心底からそう思ったが、今のカイザーには、世一以外頼る術がないことも確かだった。調べた限り現在のバスタード・ミュンヘンにはネスやグリムなんかの顔見知りもまだ在籍しているはずだったが、グリムとかゲスナーに頼るという気分にはなれなかったし、ネスに今会うのは、正直気まずかった。カイザーの自認では、ついこの前、「新しい王を探せ」と言ってネスを棄てたばかりだったからだ。
 今更どのツラ下げて転がり込ませてくれと言うんだって話だ、まぁこのツラなわけだが。
 とにかく他に簡単な道はなかったし、今から別の手段を探そうと思うには、いささかカイザーは疲弊しすぎていた。

……ベッドは、とりあえずコレでいい、とにかく俺はもう疲れた…………

 意味不明なことが多すぎて頭がパンクしそうだ。
 部屋に掛けられたカレンダーが二〇二六年を示しているのも、知らない家に自分が暮らしていた痕跡が腐るほどあってそのことを当たり前のように世一が受け止めているのも、この理解不能なエゴイストとこれから暮らしていかないといけないことも、自分が置かれた状況の何もかもが、考えるほど気が狂いそうになって、頭が痛い。

(いや……あるいはもう、とっくに壊れているのか……

 その果てに、己は悪夢を見ているのだ。そうに違いない。そうだったらいくらも救われる。
 そんな思いを胸に、その晩カイザーは、はじめて、自分以外の人間とひとつのベッドで眠りに就いた。世一との間には十五センチの距離が開いていて、そのときカイザーには、そのたかだか手のひらひとつぶんほどの空白が、マリアナ海溝よりも深い溝のように思えてならなかった。

「おやすみカイザー」

 電気を消す前、世一はそう言ってから、躊躇いがちにカイザーの方へ腕を伸ばしてきて、そっとカイザーの頬を撫で、そして手のひらを握り取った。

…………

 カイザーはその声に応えなかった。どうしていいかわからなかったから。そして、目が醒めたら今までの全てが全部悪い夢に変わって過ぎ去っていて、いつも通りの、一人暮らしのアパートに戻っていればいいのにと思った。
 けれど儚い望みは叶うことなく、目が醒めたあとも己の身体はばかでかいベッドの上に横たわっていて、そして隣で世一が寝こけていた。——これが一週間ほど前の話。




「どう? ちょっとは慣れた? ここでの暮らし」

 日課のロードワークと軽い自主練を終え、ついでに買い出しも済ませて戻って来た昼下がり、リビングで試合の録画を見ていると後ろから世一がやって来てぽすんと隣に腰を降ろされた。今日は安息日だから、バスタードの練習施設があいておらず、やむなく、自分が知らないこの七年の間に行われた数々の試合を確認する時間にあてているのだ。
 リビングに設置された8Kテレビのレコーダーには数年分の試合が録りためてあって、見るものには困らなかった。それで気まぐれにノアの引退試合をつけていたところ、世一が釣れたというわけである。

「正直わからん。変わらないと言えば、ある意味、俺の記憶にある時期とそんなに大きな変化もないしな」

 テレビから視線を動かさないまま、適当にそう答える。カイザーの私生活は基本的に試合と練習と休日の読書だけで成り立っていた。そしてカイザーが記憶喪失の影響を受けているのはどうやらエピソード記憶の部分だけらしく、サッカーの技能にはあまり差し障りがなかったのだ。
 七年の間に自分が開発した新技も、過去の試合映像などで記録を見ればたちどころに勘所を掴み、修得することが出来た。身体が覚えていて無意識に使えたものもある。基礎のフィジカルだって明らかにカイザーが記憶していた頃より向上しており、このぶんであれば来季以降もプロとしてやっていくのに差し支えはないだろう。行きつけの酒場クナイペも元気に営業しているのを確かめたし、本当に、変わりは無い。コイツの存在以外は。

「慣れないのはお前が当たり前みてぇな顔して俺の隣にいることぐらいだよ」

 だから割と本気で、あとちょっと当てつけがましくそう言ってやったのだが、世一ときたら気まずそうな表情ひとつせず、「そっかー」なんて呑気に語尾を伸ばして手を握り締めてくるのだった。

「はは、まぁ、俺もそれはそうかも。俺本当に最近ドイツ戻ってきたばっかりでさ、二年間は、カイザー、ずっといなかったから。……そばに元気なお前がいてくれるだけで、なんか、こそばゆい」

 目の前でモリモリ飯食ってんだもん、あのミヒャエル・カイザーが。
 そう言ってふっと総合を崩す世一の表情は、見覚えのある笑い顔——ピッチの外で、監獄組の連中と馬鹿話をしている時によく見せていたようなアホ面——に似ていて、けれど、記憶にあるよりもすこし大人びて見えた。
 それに身長も、どうやら多少は伸びているらしく、こうして近くに寄られると「思ったサイズと違うな……」と思う時がちょくちょくある。

 似ているのに知らない横顔。

 潔世一は七年経って大人になった。酒だって飲むし免許も持ってる、そのせいか、目下一番の心配だった「あの口を開けばクソ暴言しか出てこない男と同居とか、一日と経たず血管ブチ切れて死ぬのでは?」という懸念も、結論から言うとまったくの的外れに終わった。
 ピッチ上に立っていない時の世一は穏やかで優しく、よく気がついて、理想的な隣人だった。掃除も洗濯もそれなりに出来て、料理の腕も悪くない。「母親に習った」という日本料理の味はなかなかのもので、口に出して言ってこそいないがこの一週間ですっかり気に入ってしまった。それにサッカー以外でもカイザーのクセや好みのようなものをいい感じに把握しているみたいで、会話のテンポも呼吸も心地が良い。はっきり言ってこの暮らしは悪くない。
 そう、世一は大人になったのだ。今の潔世一は、ミヒャエル・カイザーからして見れば、四つ年上の、大人びた隣人なのだ。
 しかもピッチに立てばカイザーすら息を呑むようなあの頃からさらに進化したシュートも難なく撃てるようになって、本当、まるで全然知らない赤の他人みたいになってしまったはずなのに、

……うん、あったかい。生きてる。……ゆっくり、なだらかに、ドクドク言ってる、……良かった」

 ——だというのに時折あの頃と同じような大きくてまるい瞳を覗かせてカイザーを見上げてくることがあるのだから、……たまったもんじゃない。

「チッ、クソ気色悪い、何処触ってんだよクソ世一」

 いつの間にか勝手に左胸へ伸ばされていた手のひらを払いのけ、カイザーはかぶりを振った。ああ、これだ。この落差がよくない。大人びた仕草と、監獄で散々煽り散らかしてきたあの幼い顔付きとのギャップが、ムカつく敵でしかないはずの世一に、奇妙な吸引力を生んでいる。そうとしか思えない。
 そのせいで、世一なんかに密着されたぐらいで、こんなになってしまう。どうとも思っていなかったはずの相手に、何か、理解しがたい感情・・・・・・・・を、想起させられそうになる。
 あの満月のような瞳に覗き込まれるだけで、心臓がドッと跳ね上がるような感触がして脈拍が早くなる。
 そしていったんそうなってしまうと、コイツはアホの世一なのだと言い聞かせても心臓が言うことを聞かず動き回りやがって、カイザーはもう、「どうかこの鼓動が世一にバレませんように」と祈ることしか出来なくなってしまうのだ。

(こんなのバグだ、世一と付き合ってたらしいこの肉体に植え付けられた、すこぶるタチの悪いウイルスに違いない)

 十九歳のミヒャエル・カイザーは潔世一と友達ですらないはずなのに。
 なのに一緒にロードワークに行って一緒に買い物にいって一緒に練習をして一緒に余暇を過ごしてそして夜には一緒のベッドに入る。まるで全部嘘みたいだ。
 こんな生活させておきながら「恋人だったことは気にしなくていいよ」とか、どんな神経してたら言えるんだよ、この最悪エゴイスト野郎は。

「ああ、ごめんな、気に障ったならもうしないよ」

 わりかし強い力ではね除けたというのに世一は文句のひとつも言わず、すっとカイザーから離れて行く。そのいかにもこっちは大人ですからというような対応も気に食わない。ムカつく。ムカついてムカついて仕方が無い。
 なあ潔世一、お前は悔しくないのかよ。
 恋人が、車に跳ねられたからとかいってたったの一晩でこんな他人行儀のいけすかないガキに変わっちまってさ。
 本当に恋人だったって言うのなら、なんとか言えよ、早く元に戻ってくれよとか、そういう自分本位な我が侭でもみっともなく言ってみせろよ、それこそが生粋のエゴイストである潔世一という生き物なんじゃないのかよ。

(なのに、なんだってんだよ、その慈愛の眼差しは、)

 まるでカイザーが世界一大切な宝物だからと言いたげな目をして。
 大事だからこそ、その苦しみに寄り添いたいんだと言わんばかりに目を細めて。
 挙げ句の果てにお前はお前のままでいいと全てを肯定するように頬を緩め、すべてを受け入れる準備はいつだって出来てると言う代わりに、ただ黙って手のひらをなぞり合わせる。

(ンな顔されて俺にどうしろってんだ、……今まで誰も、俺にそんな目を向けてはこなかったのに)

 ——こんな風に優しくされる経験は、カイザーにはないのに。
 というか無遠慮に優しくされること自体そもそも同情や憐れみを向けられているようでムカついて拒絶してきたはずなのに。
 コイツのそれはどうしてだかうまく拒むことが出来なくて。
 でもそれは、ついこのあいだ「愛されたかった」という原体験を思い出したばかりの身には、……あまりにも甘すぎて。
 どう向き合っていいか分からなくなる、お前の愛にも、そして、己の中にとぐろを巻いている言語化できない何かにも。

……なあ、世一。お前は俺に記憶を取り戻してほしくないのか?」

 心臓からは跳ね飛ばしたものの、左手からすら振り払うほどの勇気は持てなくて。カイザーは手を握らせたまま息を吐くと、何かを誤魔化すようにぶっきらぼうな声で問いかけた。世一はそこで初めてすこし驚いたように息を呑み、ふるりと首を振って、カイザーの問いに答える。

「いいよ、べつに。思い出さなくても、どっちでもいい。カイザーが幸せならそれが一番だよ、……それが俺の幸せでもあるから」

 世一の言葉は、透き通って、やわらかく、温かかった。
 本当に嘘偽りなくそう考えているのだろうと、根拠もなく信じられるような、真っ直ぐな言葉だった。
 そのぶんだけカイザーには分からなかった。——どうしてそんなものがお前自身の幸せだと、こんなにもハッキリ言い切れる?

……なんだよソレ……

 調子が狂う。心臓はまだ所在なさげに跳ね回っている。「なんだよソレは」カイザーは息を詰め、己を宥めるように強い語気で悪態を吐いた。「お前はそんなヤツじゃなかっただろ世一、もっと傲慢で、もっと自由で、もっと悪辣で、……もっと自分勝手なクソ野郎だったはずなのに」けれどカイザーがどれほど語気荒く罵っても、世一は怒りも嘆きも悲しみもなにひとつ見せてはくれないのだ。

「俺は今も傲慢で、自分勝手なままだよ」

 そうして呟いた世一は、顔は穏やかに笑ってるくせして、目は、全然笑っちゃいなかった。

「だからカイザーの幸せを勝手に願ってる——俺はねカイザー、お前が幸せでいてくれるなら、どんな代償を支払っても惜しくはない」

 これから神でも殺しに行くのかと聞きたくなるぐらい、真剣で、確からしくて、強かだった。
 十九歳のクソガキ如きの悪意になんて負けないと言わんばかりに。
 大人ぶってるみたいで、クソ腹立たしくて、——だけど不覚にもその眼差しが綺麗だと、思ってしまった。

「クソ意味わかんねぇ、イカれてんのかお前」

 呟くと世一はあははと可愛らしく笑って頷いた。

「そうかもな。——でもまぁイカれてるぐらいが、お前の隣には相応しいだろ? 仲良くやってこうぜ、ミヒャエル・・・・・

 そのくせ微笑む唇の端にしっかり挑発を含ませてくるのだから、本当に心底どうしたらいいのかわからなくて、カイザーはチッと舌打ちをして目を逸らした。
 目の前の世一からも——そしてばかみたいに五月蠅く鳴り続ける、己の心音からも。