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しゅらま
2025-01-13 20:00:00
18508文字
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ꪔake you happy
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【朝菊】ꪔake you happy 4
リーマン本田さんがうさりすを拾う話の4話
※うさりすが過去に可哀想な目に遭ってる
※半獣が当たり前の世界
「菊!」
家の扉を開けて中に入れば、すぐさま愛おしい声が聞こえた。ぱたぱたと控えめな足音、くりくりとした翡翠の瞳、揺れる金糸雀の羽のような髪。膝を曲げて両腕を広げ、今日も小さな家族のお迎えを受け入れる。ぎゅうぎゅうと引っ付いてももう暑くなくて、心はぽかぽかと温かい。
「おかえり」
「ただいま帰りました。お留守番ありがとうございます」
感謝の言葉と共に彼の額に口付けを落とすと、アーサーさんはちょっぴり恥ずかしそうに目を瞑って、頬を少しだけ朱に染めた。私が唇を離すと、今度はアーサーさんが私の頬に顔を寄せ、軽いリップ音を立てながら触れる。もう暑い季節はとっくに過ぎたのに、彼の顔はやっぱり赤いままだ。私も人のことは言えないかもしれないけれど。
そうしてお互い顔を見合せて控えめに笑い、次いでリビングへ足を進める。眼下で上機嫌にうさ耳が動いていた。
「ちゃんとお米と風呂用意しといたぞ」
「ありがとうございます。私の家族は優秀で助かりますね」
「ふふん」
今日は彼に炊飯とお風呂の準備を頼んでいた。お米を研いで、お水を入れて、炊飯ボタンをポチッと押すという任務と、湯船にお湯を入れるという役割。アーサーさんは無事にやり遂げてくれたようだ。また謝意を伝えると、今度はアーサーさんは満足気に胸を張る。可愛い。
時間の流れは早いもので、私たちはもう10月の終わりを迎えていた。つい先日まで青々とした葉をつけていた木々たちも、既に紅葉を始めている。
そして、秋といえば矢張り「食物の秋」である。
「(秋刀魚に焼き芋。あとはアーサーさんとお月見もしたいですね)」
この前、月では兎さんが餅つきをしている、なんて話を伝えたら随分と怪訝な顔をされてしまったが──「そんなわけないだろ」と言いたげな表情だった──そういう言い伝えがあるのは事実であるし、兎と縁がある以上、ぜひとも彼とお月見をしたい。
アーサーさんと一緒に暮らし始めてから、前までは気にも留めていなかった行事を大切にするようになった。一人のときは何てことなかった日が特別になった。昔は秋なんて「食べ物が美味しい季節」としか認識していなかったのに、今はそれ以上の意味を見出している。その喜びたるや、筆舌に尽くし難い。
そうしてどこか浮かれ気分のままリビングに入ると、ダイニングテーブルの上に置かれたいくつかの手紙が目に留まる。
「(あ、)」
「そうだ。またたくさん郵便受けに入ってたぞ」
「
…
受け取っていてくれたんですね。ありがとうございます」
何の変哲もない、厚みのある白い便箋がざっと十枚。
菊はそこから一枚手に取って、暫く温度の伴わぬ黒の瞳で見つめていたが、静かにテーブルの上に戻し、いつも通りの笑顔をアーサーに向けた。
「少し早いですがお夕飯にしましょうか」
「
…
? うん」
「今日はハンバーグなんですよ」
楽しみですねぇ、とキッチンに向かう菊の背を見て、アーサーは僅かに違和感を覚える。笑顔が硬かったし、彼の足取りもどこか重いように感じられた。何か様子がおかしい──いつから? さっき、あの手紙を見てからだ。
斜め上に視線を遣り、テーブルの底越しに件の郵便物の正体に思いを馳せる。彼は少しばかり眉根を寄せ、静かに考える素振りを数拍見せた後、椅子に登って手紙を掠め取ろうと試みた。
「おや」
けれど。キッチンから聞こえた菊の声がそれを制する。自身の行動を咎められたかと思いアーサーは肩を揺らしたが、菊の目がこちらを向いていなかったことを把握すると、手紙のことを放って台所へ向かった。アーサーの優先順位はいつだって揺るがないのだ。
菊は僅かに腰を屈め、何やら炊飯器を覗き込んでいた。アーサーが用意したはずの炊飯器からは、本来湯気が立っているはずなのに、それが為されていない。炊けたばかりの新米のいい匂いもしなかった。まさか。彼はほんの少し顔を青ざめさせて、ちょっぴりつま先立ちになりながら、菊と同じように炊飯器を覗き込んだ。
「
……
ごめん」
「いいんですよ。私もよく炊き忘れてしまいますし」
そんなこと言っといて、俺と暮らし始めてから菊がお米を炊き忘れたことは一度もない。
アーサーの予想通り、水が張られたままの炊飯器がそこにあった。水はほんの少しだけ白く濁り、米はどこか悲しげな雰囲気を漂わせながら沈没している。やってしまった。折角菊が頼ってくれたのに。菊の慰めも却って辛く、アーサーは益々自責の念に駆られる。
「(そうだ、風呂)」
アーサーは一度ぴくりと耳を揺らして、目をパッと見開いた。もしかしたらそっちも準備出来ていないかもしれない。血の気が引いて、お米を二の次にしてすぐさま風呂場へ向かう。相当焦っていたらしく、それはもう自動車並みの速度であった。
菊が見ていたら怒られるであろう程の勢いで風呂場の扉を開け、どきどきと鼓動を速めながら、彼は蓋の隙間から湯船を覗いた。すると顔に少し蒸気がかかったため、ほっと一先ず息をつく。最終確認として、その小さな体では有り余るほどの大きな蓋を僅かにずらせば、中から白くほかほかとした湯気が立ち上り、アーサーは力なくその場に座り込んだ。数拍遅れてやって来た菊は、そんな彼の体を抱きかかえ、それから湯船を確認する。彼はひとつ頷き、柔らかな表情を浮かべた。
「しっかり準備できていますね。アーサーさんはお利口さんです」
「菊
……
米は」
「大丈夫ですよ。ちょっと水切りをして炊き直せばいつも通りの美味しいお米ができますし
…
誰だって失敗はするものですから」
「でも、仕事で疲れてお腹すいてるだろ」
「ご飯を炊き終えるまでのちょっとの時間なら待てますよ。
…
アーサーさんの中の私のイメージはどうなってるんですか」
アーサーは思い出す。それはあの夏のキャンプのこと──バーベキュー。菊がほとんどひとりで、山盛りの野菜と肉、焼きおにぎり、引いてはデザートまで平らげてしまったあの日。一日分の食事量(アーサー換算)をいとも簡単に食らい尽くした、この男。
「すごく食いしん坊」
「
……
否定は、しませんが」
菊はきゅっと口を引き結んだ。たくさん食べることはいいことである。恥ずべきことではない。けれどアーサーのちょっと引いた目線を受けると、どうしたって心に来るものがあるのだった。
そんな複雑な気持ちを隠しつつ、菊はすぐさま口元を緩める。今の会話で多少はいつもの調子を戻せたようだが、それでもどこか落ち込んでいる様子のアーサー。そんな彼の頬を人差し指で突いて、笑いかける。
「大丈夫ですよ。どれだけ失敗しても、その分2人でたくさんの成功を積み重ねて行けばいいんです。私たちにはそれをできるだけの十分な時間がありますから」
「
…
うん」
「それに完璧なだけではつまらないでしょう。アーサーさんの失敗、とっても可愛らしいから。これからもたくさん見たいです」
「おい」
むくれたような顔をするアーサーに、菊は謝罪を零しながらもくふくふと幸福そうに笑い、また彼の額に口付けを落とした。アーサーは「誤魔化されてやらないからな」とどこか不満げに、けれども頬を朱に染めながら呟く。彼は菊からのキスに弱い自覚があったし、菊もそれを分かっているのだ。
「俺の失敗を見れるのは今日で最後だからな!」
「なら私は見れて幸運でしたね」
「そ、そうだ!
…
そうなのか?」
「そうですよ。世界一の果報者です」
「それは言い過ぎだろ
…
」
当惑顔のアーサー。菊はぱちりと目を瞬かせて、それから曖昧に微笑んだ。
菊の世界はいつだってアーサーによって彩られている。彼の笑顔、声、成功、失敗。菊の視界に入るものがどれだけ冷たく、色がなかったとしても、アーサーが成すもの全てによってそれは瞬く間に煌びやかなものへと変わる。一種の魔法だ。アーサーの魔法によって、菊の世界は色鮮やかで、温かで、輝かしいものに開花する。それは正しく幸福であり、決して過言などではない。
しかしそんな気持ちを口頭で伝えたとして、きっと彼は信じない。「大袈裟だ」と一蹴されるに決まっている。アーサーは変なところで偏屈である。だから菊も、”大袈裟な”愛情表現を以て──菊としては全然大袈裟などではないが、周りからするとそうらしい──彼に伝えることにしていた。天邪鬼な彼には行動で示すのが一番だった。
「せっかくのお湯が冷めてしまいますし、先にお風呂に入ってしまいましょうか」
「! あ、ああ」
「今日はどの入浴剤を入れましょうか。アーサーさんの好きな薔薇の香りもありますよ
……
アーサーさん?」
何やら反応が鈍い。ちらりと様子を窺えば、アーサーの手が柔く菊の腕の裾を掴む。俯いていて、双方の目は合わなかった。
「きょ、今日も一緒に入るのか」
「え」
ピシャーン、と菊の背後に稲妻が走った。
菊とアーサーは毎晩一緒にお風呂に入っている。それは彼がまだ微熱を出していた頃に菊が世話をしたときの名残であり、「こんな小さい子をひとりで入らせるなんて」という過保護な菊の言い分のもと、その習慣が何となく続いていたのである。
元より、子供扱いをされたくないアーサーはその菊の言い分に少しだけ不満を持っていたのは確かである。けれども。けれども、家族として一緒に入るのは楽しそうな様子だったから
…
。正直に言うと、アーサーとの入浴が毎日の密やかな楽しみであった菊はかなりのショックを受けていた。ああ、これが家族離れ。
「そうですよね
…
アーサーさんも子供ではありませんし、いつまでもこんな爺と一緒に入るのは嫌ですよね
…
」
「あ、いや、ちが」
「そりゃあ嫌ですよね
…
ごめんなさい、貴方の気持ちを汲み取れなくて
…
」
「嫌じゃない!」
突然のアーサーの大声に、菊はまた目を瞬かせた。アーサーは顔を紅潮させて、もごもごと何かを呟いている。
「菊との風呂は嫌じゃないんだ。理由はそうじゃなくて、その」
まず、菊はアーサーのカミングアウトに内心胸を撫で下ろした。自分が何か粗相をしたわけでも、また家族離れでもなさそうである。
しかし次いで湧いて出たのは疑問。「理由はそうじゃない」
…
では本当は? アーサーが自分とお風呂に入りたくない理由とは? ぐるぐると頭を回転させて、菊はようやくひとつの答えに辿り着く。
「もしかして
…
」
「!」
「もしかして、どこか悪いんですか!?」
アーサーは項垂れた。
「怪我か病気を患っているんですか? だから私との入浴を避けて、それをバレないように
…
?」
「いや違」
「あ! そういえば最近逆上せやすいですよね。それも病気と関係して」
「!!ちが
…
! ああもう、一緒に入るよ!」
益々顔を赤らめた彼は、正しく脱兎として菊の腕の中から逃げ出した。ヒュン、という効果音が聞こえるほどの素早さだ。兎とは言えど、相変わらず彼の速度は凄まじい。
菊はアーサーを抱きかかえていた腕をそのままにして暫く固まっていたが、ぱちぱちと数度瞬きをした後に、洗面所から入浴剤を取り出して湯船に入れた。薔薇の芳醇な香りが風呂場を満たしていった。
「ア、アーサーさん。ちゃんと体は洗いましたか?」
「洗った。これ以上ないほどに完璧だ」
「そ、そうですか」
二人で洗面所に入ると、アーサーはすぐさま服を脱ぎ、すぐさま風呂場に突入した。そして菊が洗面所で呆気にとられている間に、彼は素早く体を洗い上げ、家主が風呂場に入る頃には既にお風呂に浸かっていた。なぜか、背を向けて。
菊は頭上に疑問符を飛ばしながら、風呂場の椅子に腰をかけ、蛇口を捻った。お湯が頭上から降り注ぎ、彼の濡鴉の髪をしっとりと濡らしていく。全身にお湯を掛けながら横目でアーサーの様子を盗み見れば、ばちりと翡翠の瞳と視線が合った。が、すぐに目を逸らされてしまう。
しかし菊が気になったのはそこではない。問題は、アーサーの顔が紅潮し、既に逆上せていると見受けられる点である。これはあまりにも速い。
「大丈夫ですか? やはり、どこか具合が悪いのでは
…
」
「違う。これ以上ないほどの健常者だ」
「そ、そうですか
…
」
またもや食い気味に否定された。菊の頭はさらに混乱する。何やらずっとアーサーの様子がおかしい。矢張り何か──怪我などを隠しているのだろうか。
菊は密かに探るような視線をアーサーに向けた。入浴剤でお湯が白く濁っているため、彼の身体に傷があるかどうかの確認はできず、肩から上の状態を目視で確認する。刻まれているのはかつての古傷ばかりで、生傷などの新しいものはなさそうである。少なくとも肩から上の範囲は、だが。しかし湯船に浸かってから痛がる素振りも特にないし、大丈夫というのは本当かもしれない。
「何見てるんだ」
気づかれた。アーサーは変わらず背を向けながら、少しばかり顔を振り向かせ、ちらりと片方の翠玉のみを覗かせた。口元はちょっとへの字に曲がっているものの、声色は比較的穏やかなもので、どうやら本気で怒っているわけではなさそうだ。
「すみません
…
アーサーさんの傷が薄くなってきて、よかったなぁと思いまして」
「
…
」
嘘ではない。そう思ったのもまた事実だった。
アーサーは菊の言葉に一瞬目を見開くと、すぐさま視線を逸らし、顔を正面に戻して、ぶくぶくと体を湯船に沈めてしまった。全部白濁の中に消えてしまったわけではなく、顔の半分ほどまで、双眼を残すくらいまでだった。
ちょうどそのとき体を洗い終えた菊は、穏やかな笑顔を携えながら湯船に入った。アーサーの真隣だ。大人ひとり入ったために水位が上がり、縁のぎりぎりまでお湯が迫る。顔を限界まで沈めていたアーサーは、目に水が入ってしまったのか、顔を上げて目をしぱしぱとさせていた。
「アーサーさん」
赤く上気した頬に手を添え、彼の顔を上向かせ、親指を目の下に置いた。翠玉をじっと覗き見る。そして充血していないことを確認し、僅かに安堵の息を漏らした。余程のことがない限りは大丈夫だろうけれど、入浴剤の混じったお湯が目に入ってしまったのはほんの少し心配だった。過保護と言われようが何だろうが関係ない。
方やアーサーは。急に狭まったその距離に、ぽぽぽ、とさらに顔を紅潮させた。菊はぎょっとして、慌てて彼の名前を呼ぶ。
「大丈夫ですか!? やはり体調が悪いのでは」
「へ、平気だ。ただの湯あたりだから」
「それにしても顔が赤いですよ。もしかして熱があるんじゃ
…
!」
焦りのあまり、菊は自らの手をアーサーの額に当てて確認しようとした。ただ風呂でどちらも体温が上がっているため、そんなことをしても正直全く意味がない。そのことに菊も遅れて気づいた。
けれどアーサーはそれどころではない。垂れ耳をピーンと張り、目をぐるぐるとさせながら、「う、あ」と母音を途切れ途切れに発していた。すぐさま菊もアーサーの異変に気づくが、彼が何らかのアクションを起こす前に、アーサーは勢いよく立ち上がった。凄まじい勢いで湯船から出て、そのまま浴室から退出する。菊の前だったためか、その勢いとは裏腹にドアの開け閉めは実に丁寧なものだった。
「ア、アーサーさん?」
「やっぱり少しだけ逆上せたみたいだから先に上がってる。そんな酷くないから菊はゆっくり浸かっとけ」
「大丈夫ですか? 目眩とか
…
」
「大丈夫だから。心配するな」
アーサーの声は少し上擦っている上に早口だった。口を挟む暇もなく矢継ぎ早に答えを並べ立てられる。何事かを隠すかのように。
曇りガラス越しの問答に違和感を覚えた菊は、長風呂とアーサーの異変とを天秤に掛けて、案の定すぐさま傾いた。
「アー
…
」
引き戸を開けて名前を呼びかけ、しかしその続きは空中に溶けて消える。彼の着替えはなく、バスタオルは中途半端な形で洗濯機にかかり、床には数滴の水溜まりができていた。そしてそれを成した張本人は既にこの場にいない。
菊は数度ぱちぱちと瞬きをした後、やや呆然としながらアーサーのタオルを洗濯機の中に入れ、また新たなバスタオルを手に取った。そのまま顔を埋めると、ぽすり、という情けない音がして、控えめな柔軟剤の匂いが鼻腔をくすぐった。次いでぐりぐりと額を押し付ける。
こんなこと始めてだった。アーサーが変に挙動不審なのは今に始まったことではないが、問題は「私が彼の意図を汲めなくなっている」ということだった。今までは彼の考えが手に取るように分かったのに、今回はこれっぽっちも分からなくて、それが酷くもどかしい。
彼の不安はできるだけ取り除きたかった。それをアーサーが望んでいなくても、菊の自己満足だったとしても、彼の歩む道は長閑なものであってほしかった。だからアーサーのことは何だって知りたい。彼の好きなこと、嫌いなこと、苦手なもの、恐れていること。アーサーを成すもの全てを理解したい。今まではそれが難なく出来ていた。困ったことなんて一度もなかった──それなのに、今になって分からなくなっている。もう出会ってから一年も経とうとしているのに。
「(彼は我慢する節がある
…
矢張り怪我を隠している? でも痛がる素振りは確実になかった
……
)」
でも、絶対に何かを隠している。知りたい。けれど彼が「隠すべき」と判断したのなら、その選択を尊重するべきなのではないか。彼を信頼するべきなのではないか。それでも、何かあってからじゃ遅いし──
…
アーサーさんを幸せにするための、一番の道は一体どれだ。
「わからない
……
」
ぜんぶ、分からない。
「(『分からない』は、悲しい)」
「あいつ、人の気も知らないで
…
!」
うさぎのアーサー、年齢はひみつ。でも恋に悩めるお年頃。
浴室から出た後、急いで体を拭き、一瞬にして着替えた彼は、ぽこぽこと可愛らしい怒りを滲ませながらリビングに出た。まともに水気を拭っていないせいで、小麦色の髪からぽたりと水滴が一定間隔に落ちる。これじゃあ怒られる、とタオルを取りに踵を返そうとしたところで、菊が浴室から出てきた音が聞こえたため、歩みを止めた。後で拭こう。
ぺたぺたという音を鳴らしながら、裸足でフローリングの上を歩く。ひやりとした感触が心地いい。変に体が火照っているから尚更だった。
別に怪我があるというわけじゃないし、菊との風呂が嫌なわけでもない。というか嫌なわけないだろう、俺にとってただひとりの愛すべき人との入浴なんだ。これ以上の至福の時間はない。風呂の時間が迫ると浮き足立つし、そわそわして、他のことに手がつけられなくなるくらいには、正直楽しみにしてしまっている。
「(でも、絶対にバレる)」
何がって、俺の菊への気持ちが。俺が菊を大好きなのはあっちも知ってるのは分かってる。でもそうじゃない。別ベクトルの話だ。菊から向けられた「愛してる」という言葉とはまた毛色が違った、俺だけの感情。ただでさえ日常生活で隠すのもやっとなのに、一緒に風呂なんて入ったら確実にバレる──
…
ああ、でも。あいつ、妙に目敏い癖に変なところで鈍感だから案外気づかないかもしれない。まぁ結局は俺の心持ちの問題なのだ。
あの夏の日からずっと身を焦がし続けている熱の正体に名前をつけた後、悩みに悩んだ末、俺はこの気持ちを隠すことにした。この今の温かな関係性を壊す可能性があるのはもちろん、伝えたとして、菊を困らせるだけだろうから。
菊が俺の気持ちに応えることは決してない。それはあいつの大人としての矜恃で、俺と菊が家族として在る以上、決して曲がることの無いポリシーだ。 でも、菊のことだから。もし伝えたら俺の気持ちを否定する真似はきっとしない。丁寧に、真綿に包むように優しく受け止めてくれる。あいつは俺のことをできるだけ傷つけたくないと思ってるから。だからこそ、俺を振ることに、きっとたくさんの心を使うのだろう。胸を痛めて、俺以上に苦しい思いをして、そして返事をするのだ。ごめんなさい、って。
それは嫌だ。菊を苦しませるなんて言語道断だ。
だから俺はこの秘密を墓場まで持っていくことにした。先のない感情に見切りをつけるため、伝えるという選択肢があることは確かだが、俺の優先順位は何よりも菊が一番だから。それに、菊との関わり合いで生まれたこの感情を無下にしたくはなかった。菊に出会うまで蔑ろにされてきた分、どれだけ苦しい思いをしたって、この小さな花に水をやり続けると決めたのである。
「(もし、体が大きかったら)」
あいつの庇護下にいるのではなく、対等な関係でいられたら。多分、後先考えずに告白してたんじゃないかと思う。そんなどこかの俺が心底羨ましくて
…
でも、この体じゃなかったら、この運命的な出会いはなかったから。だからいい。これもまたひとつの恋心の在り方だ。
秘め事、隠し事。
「あ」
そういえば、あいつも何か隠してた。
アーサーは濡れ髪をそのままにダイニングテーブルの方へ寄った。椅子に登り、机の上に置かれたものを覗き見る。
この白い封筒が来たのは今日が初めてではなかった。一週間ほど前から毎日のように来ていて、最初は一通だけだったものの、日が経つにつれその量は増えていた。
人の郵便物を勝手に見るのはいけないことだ、分かってる。でも妙に胸がざわついて、あの菊の反応がどうにも引っかかっていて、それが俺の非常識な行動を駆り立てた。
一通手に取った。封を開く。ぽたり、と髪から一滴落ちて、白い紙に丸い染みができた。
「───」
手紙を元に戻し、椅子から降りる。そこで暫し立ち止まっていると、洗面所からひょっこりと顔を覗かせた菊が、俺を見てちょっと呆れたように笑った。
「ああ、髪が濡れて
…
そのままだと風邪を引いてしまいますよ」
「うん」
「ドライヤーしましょう」
菊が居間でドライヤーの準備をし始めたため、俺もそれに従って、菊の足の間に座った。柔らかな温風が髪を揺らし始める。
「音は煩くありませんか?」
「大丈夫」
菊の嫋やかな指が髪を梳き、濡れた髪は徐々に軽やかな手触りへと変わっていく。うさ耳もいつも通りのふわふわとした毛並みを取り戻していった。
ドライヤーは俺にとっては重くて使いづらいから、普段は菊にしてもらっていた。自分の濡れ髪を二の次にして世話を焼いてくれるあいつの手つきはとても優しくて、いつもこの時間は眠気に抗うのに必死だ。
でも今は違う。
「なぁ、菊」
「なんですか、アーサーさん」
「菊は隠し事しないよな」
ドライヤーが終わったタイミングで、俺は声を出した。突拍子もない質問に意表を突かれたらしい菊は、目をぱちくりとさせて、何ともない風に言う。
「しますよ」
「
…
するのか」
「はい。私も一人の人間ですから、隠したいことは山のようにあります」
「山のように?」
「山のように」
菊は俺の髪を櫛で梳かしながら続けた。
「ですが、私はできるだけ正直にいたいので
…
何かを秘めていても、きっといつかはアーサーさんにお話します。相手の『隠し事』は、理解できるものではあるけれど、矢張り悲しいものでもありますから」
「
…
”いつか”」
「ええ。ですから
…
」
そこまで言って、菊は少し言葉を濁した。いつも整然とした言葉を紡ぐ彼にしては珍しく、何かを言うのを迷っているようで。だがその迷いも一瞬にして隠された。
「いえ、なんでもありません──
…
そうですね、ではここでひとつの隠し事をお話します」
菊が上から俺を覗く。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「実は今日のハンバーグ、良いお肉を使っているんですよ。しかも美味しいケーキもあります」
くふくふと上機嫌に笑うと、菊は「サプライズです」と付け加え、そのまま自分の髪を乾かし始めた。
「そうだ。晩御飯の前に床の水滴を拭いておいてくださいね」
「
…
分かった」
「よろしくお願いします」
立ち上がり、アーサーはタオルを取りに洗面所へ向かった。棚からふかふかの手触りのものを取り出して、暫しそれを見つめ、やがてぽすりと顔を埋めた。
「いつか」じゃなくて、「すぐに」がよかった。
*
翌朝。アーサーと2人で朝食を食べていた菊のもとに一つの連絡が届いた。
机の隅に置いていた菊のスマホが鳴り響き、アーサーにひとつ断りを入れた後、彼は席を立ちながら電話に出る。相手は休日出勤中のはずのフランシスからだった。
「はい本田です。どうされました?」
『──────!』
「え」
一瞬息が詰まった。どくどくと鼓動が忙しなく、少し震えた声で言葉を零す。
「どうしてそれを
…
」
『俺もさっき知ったんだよ。さっきあいつが来て』
『キク!』
『あっおい、アルフレッド!』
男性にしては高めの、少しばかり子供らしさが滲む声が電話越しに聞こえた。どうやらアルフレッドも向こうにいるらしく、さらに言うならフランシスからスマホを奪取したらしい。
『ストーカー被害なんて、一体どうして相談してくれなかったんだい!? 俺たち友人じゃないか!』
「それは、その
…
申し訳ありませんでした。ですがどうしてそれをご存知なんですか?」
『君んとこの家族が昨晩教えてくれたんだよ。俺宛のメッセージ履歴を後で確認したらいいさ』
「え」
告げられた真実が信じられなくて、表情を強ばらせながら彼の様子を盗み見た。朝食を既に食べ終えたアーサーは、食器を片付けることなく、じっと俯いたまま椅子に座っている。
『あー、キクちゃん?』
「フランシスさん
…
」
『薄々分かってたかもしれないけど、犯人は前キクちゃんに振られた子だって。今連行されていったよ』
「はい、ありがとうございます」
深呼吸をして動揺を抑えようと試みたが、結局失敗に終わった。スマホを持つ右手はずっと僅かに震えている。
『重複しちゃうけどさ、なんで相談してくれなかったの?』
「騒ぎ立てるほどのことではないと思いまして
…
警察に相談することで変に日常が崩れるのも嫌でしたから」
『まぁ分からないでもないけど。俺としては相談するべきだったと思うよ。愛しのうさぎさんにも被害が及ぶ可能性だってあったんだから』
一瞬呼吸が止まった。最悪の事態を思い浮かべ、すぐさま血の気が引いていく。鼓動は速まっていくばかりだった。
『まぁ自分でも知らないうちに気が動転してたんだよ。うさぎさんのことまで気が回らなかったなんてさ』
「は、はい
…
その、すみませんでした。ご迷惑をおかけして
…
」
『
…
勘違いしないでね。被害者はキクちゃんで、そっちに悪い点なんて一つたりともない。悪いのは加害者側だ。それでも、友人として。頼ってほしかったし、自分のことを大切にしてほしいって思うんだよ』
「
…
はい。ありがとうございます」
向こう側で、アルフレッドが溜息を吐く音が聞こえた。
『詳しいことはこれから聞くよ。じゃあ事情聴取を』
『あー!まぁ俺からやろうよ。それで一日潰れるだろ?』
『一日潰れるって
…
どれだけ話すつもり? 俺も暇じゃないんだぞ』
『まぁまぁ。キクちゃんはまた今度にしよう。じゃ、ゆっくり話し合えよ!』
『あ、ちょっ』
テロリン、と通話の消える音が聞こえて、菊は暫しスマホを見つめたままでいた。様々な考えが頭を過ぎり、整備されていた脳内が乱雑になり始める。ぐちゃぐちゃと思考が纏まらない。でも、一番初めにすべきことは分かっていた。いつだって菊の優先順位は揺るがない。
「アーサーさ」
「俺は」
声をかけようとして、しかし遮られる。菊は開きかけていた口を閉じて、アーサーの独白に静かに耳を傾けた。
「相談してほしかった。もっと頼ってほしかった。菊が俺の事を思って隠してたのは分かってる。でも俺だって菊を守りたかったんだ
…
あの日、菊が手を取ってくれたみたいに、抱き締めてくれたみたいに。俺だって守りたい。だけど、おれは
…
おれは、頼りないから」
「そんなこと、」
「そうだろ。だから何も相談しなかったんだ。もっと俺に力があれば、きっと
…
」
雫がアーサーの頬を伝い、テーブルの上に落ちる。
怒ってるわけじゃなかった。ただ今のアーサーの胸中にあるのは大きな無力感。今までも密かに感じていたこと。そして見て見ぬふりをしていたこと。それが今回、膨らんでしまった。
「俺だって、菊に『幸せにしたい』って言いたい。でもそれに見合うだけの力がない」
結局、大きな体じゃなくてもいいなんて、ただの強がりでしかなかった。
「おれも
…
おれも体が大きかったらよかった。大きかったら、風呂上がりにドライヤーをしてやれるし、ご飯も作ってやれるし、代わりに掃除だってできる。手を引っ張られるだけじゃないし、俺から菊を思いっきり抱き締められる。俺がいつも菊にしてもらってること、なんだって。俺も菊を幸せにしたい。でも
…
できない。実際は米だって炊けないし、体も小さくて頼りない。菊に何にもしてやれない」
声は震え、呼吸は荒い。その小さな手で痛いほど胸元を握りしめ、小さく零す。
「俺、なんにもない」
菊は目を揺らしながら彼の話を聞いていた。自傷行為にも取れるその呟きに、ただただ言葉を無くしてしまった。
ああ、私は、この子に。なんてことを言わせてしまったんだ。
「アーサーさん」
情けないことに、未だ声は震えていた。
「例えば、アーサーさんは四つ葉のクローバーを簡単に見つけられたでしょう? 私ができなかったことを、いとも簡単に。それはきっと貴方の視線が低いからで、アーサーさんだからこそ成し遂げられたことです。私が見落としてしまったものを貴方は見つけられる才能があります。他にも、私より耳が良かったり、足が速かったり
…
アーサーさんにしか出来ないことがあるんです」
私の気持ちがどうか伝わってほしかった。
「私の大好きなアーサーさん。そんなに自分を卑下なさらないで。貴方の紅葉みたいなちっちゃな手も、私の身長の半分程の小さな背丈も、私にとっては全てが愛らしくて、私の心を満たしてくれる素晴らしいものなのです」
アーサーは俯いたままだ。
「私は両親を早くに亡くしまして。そのせいか『家族』という存在に淡白であると同時に、強い憧憬を抱いていました。そうして貴方と出会って、家に待つ人がいるという幸福を知って
…
それら全て、アーサーさんが私にもたらしてくれたことです。ありがとうございます──アーサーさん。私は今の貴方に出会えてよかった。もう十分に幸せにしてもらっているんです。だから
…
だから、何にもないなんてこと言わないでください
…
」
しかし菊の必死の言葉も虚しく、アーサーは力なく首を横に振った。そして「ちがう」とも。
「ちがう、分かってるんだ
…
菊が俺と一緒にいるだけで幸せだってことは知ってる。我儘言ってるって、菊のこと困らせてるんだって分かってる。だけどそうじゃなくて
…
」
「アーサーさん
…
」
そう言ったきり彼は口を閉ざしてしまった。菊も何も言えず、ただ時計の針の刻む音がやけに耳につく時間だけがその場に流れる。重苦しくて、息がしにくかった。
やがて、菊がばちりと自らの両頬を叩いた。これにはアーサーもギョッとして、思わず顔を上げて菊を見遣る。当の本人は何やら決心したような表情で、ひりひりと痛む頬をそのままに、アーサーに向かって口を開いた。
「アーサーさん!お出かけしましょう!」
「えっ」
こういう時の菊の勢いは半端じゃない。彼は一瞬にして身支度を整えると、財布と交通系ICカードのみを持って、アーサーを外に連れ出した。アーサーは未だ怒涛の展開を飲み込めないでいた。
元々今日は家でゆっくりするつもりだったのだ。外出なんて予定はなくて、だから今、菊がどこへ行こうとしているのかも分からない。ICカードを持参している上に駅にも辿り着いたため、電車を使おうとしているのは確かなのだろうが
…
「あ、スタンプラリーありますよ!やってみましょう!」
困惑する彼を他所に、菊は笑顔でスタンプラリーの紙を手に取った。次いで売店の弁当を物色し始め、アーサーは益々菊の意図が分からなくなる。スタンプラリー? 何か他に目的があるんじゃないのか?
「菊。どこに行くつもりなんだ。目的は?」
菊が鮭弁当を手に取った辺りで、アーサーはやっと疑問を口にした。
「ありません」
「はっ?」
しかし菊はこともなげに言ってのけた。
「目的
…
強いて言うなら、スタンプラリーですかね」
「今決めたやつじゃないか」
「そうです」
「
…
」
俺は菊のことを全く理解出来ていなかったのかもしれない。
自分も弁当を選ぶように促されたアーサーは、渋々と陳列棚から昼食を選んだ。正直どれでもよかったし、そんなにお腹も空いていなかったから、適当にサンドイッチを手に取った。
それから改札を通って、ちょうど来ていた各駅停車の電車に乗った。スタンプラリーの紙に載っていた駅の度に降りて、判子を押して、また電車に乗る。四回ほど路線を乗り換えたりしていれば、最初は人がいっぱいだった電車は、休日にも関わらず人気が全くない様相に変化していた。俺と菊のいる車両には誰もおらず、何なら隣の車両までガラガラで、ぽつりと二人座っていた。朝までは気まずい雰囲気が流れていたし、席も有り余っているのだから離れて座ればいいものを、ほんのちょっと合間を作るに留めて、俺たちは隣合っていた。
ガタンゴトンという音と、体に伝わる僅かな振動が心地良い。でも眠る気にはなれなくて、ぼんやりと窓の外を見つめていた。ムラの少ない暗灰色が空全体を覆い、太陽をすっかり隠してしまうほどに厚く垂れこんでいる。近頃は晴天が多かったのに、今日に限って空模様はどんよりと沈んでいた。
紅葉のトンネルを抜けると、やがて目の前に一面の青が広がった。もちろん快晴が現れたわけではない。
「わ、海ですよ、アーサーさん」
「うん」
空模様が悪いため水面はやや灰色にくすんでいたし、夏の湖ほどの感銘は受けなかったが、その海原の広大さには驚かされたし、それでも充分美しかった。
スタンプラリーの欄にもあるということで、俺たちはその駅に降り立った。無人駅で、すぐそこが砂浜だった。頬を撫でる潮風が心地良く、やけに鼻につく匂いがする。これが磯の香りか。
また一緒に判子を押して、それから改札を出る。砂浜に踏み入ると、ぐっと足が重く沈む感覚がして、思わず慌てて足を上げた。菊はくすくすと笑って、ちょっと悪戯っぽく言う。
「抱っこしてあげましょうか」
「
…
いい!」
「ふふ、そうですか」
ずかずかと前進する俺を見て菊が笑う気配がした。それがちょっぴり悔しくて、俺は益々歩むスピードを速める。でも置いてかれまいとする菊にすぐさま追いつかれてしまって、何だか虚しかった。
海の手前に辿り着いた頃には靴の中は砂だらけだった。試しに靴を脱いでひっくり返せば、ザザザ、と音を立てながら勢いよく砂が流れ出て、それを見た菊がまた笑う。一々砂を抜くのも面倒くさかったから、俺は靴と靴下を脱ぎ捨てて裸足になった。菊もそうした。砂浜には大小違ったサイズの靴と、ビニール袋に入った昼食が置かれた。
潮騒とカモメの音、磯臭い匂い、冷ややかな風。
菊の大きな足が一歩前へ進み、漣の中に踏み入る。俺もそれに倣った。秋の海はひやりとしていて、過ぎる冷たさだった。
「夏だったら入れたんですけどね」
さすがに秋は風邪を引いてしまいます、と菊が呟く。
「それでも、偶然にしても良かったです。湖だけじゃなく、いつかはアーサーさんに海も見せたいと思っていたので。初めての海はどうですか?」
「
……
悪くない」
「よかったです」
菊はやんわりと微笑んだ。アーサーのその言葉が最上級の褒め言葉だということを知っていたから。
ちょっと恥ずかしくて、それを隠すかのようにアーサーはざぶざぶと前へ進んだ。菊が「あんまり行くと危ないですよ」と声をかけようとしたその前に、アーサーは足を取られ、ぐらりとバランスを崩してしまう。
前方へ倒れそうになったその刹那、後ろに腕を引っ張られた。ザバン、と豪快な音が閑静な海辺に響き渡る。
「き、きく」
後ろに手をつく菊の胸元にアーサーはいた。彼自身はあまり濡れなかったものの、菊はずぶ濡れだった。濡鴉の髪や服が海水で濡れそぼっている。
彼は僅かに体を起こしたが、変わらず座り込んだままで、顔も俯いていた。下から翠玉が覗き込む。
「ごめん、大丈夫か」
「
…
アーサーさん。目を瞑っていてください」
「う、うん」
アーサーは怖々と目を瞑った。最近こんなことばっかりだ。失敗し続けて、ずっと菊に迷惑をかけてる。俺の事嫌になったかな、どうしよう、菊。
しかし、そんなアーサーの考えと反して。ばしゃり、と顔に水がかかった。彼は思わず目を開ける。頭上にはしたり顔の家族がいた。
「仕返しです」
「
…
」
「あっ、やりましたね!」
アーサーは無言で仕返しした。菊も続いて水を掛け返し、また水を掛けられ
…
それからはもう繰り返し。五分ほど経った頃には、せっかく庇ったアーサーは濡れ兎になってしまったし、元からずぶ濡れだった菊はさらにびしょ濡れになっていた。スマホは何とか無事だったが、ポケットの中にあったスタンプラリーの紙は悲惨なことになっていた。もう使えそうにない。
「いっそのこと今から海で泳ぎましょうか?」
「さすがにやめとけ」
このままでは電車にも乗れないとのことで、少し遅めの昼食を取った後、二人でぶらぶらと砂浜を歩くことにした。タオルを買いに行けばよかったのに、菊がその案を言い出さなかったから、アーサーも何となく言わないでいた。ただ秋風が冷えた体に染みていた。
そこで、アーサーの視界にきらりとしたものが映り込む。しゃがんで拾って見ると、指の関節一個分ほどの大きさの、青い宝石のような物体だった。
「シーグラスですね」
「シーグラス?」
聞き覚えの無い言葉にアーサーが首を傾げると、菊はひとつ頷いて説明を続けた。
「元は小さなガラスの欠片なんです。それが何度も波の中を行ったり来たりすることで、丸みを帯びて、綺麗な宝石のような形になります」
「へぇ
…
」
「私も実物は初めて見ました。砂利浜だとたくさんあるとのことですが、そちらには行ったことがなくて
…
砂浜だとあまりないみたいですし」
菊が手渡してきた靴を履いてから、アーサーはまじまじとシーグラスを見つめた。元はただのガラス片でしかなかったものが、こんなにも綺麗で、価値のあるものに変わるのか。
「どうせなら持って帰りましょうか。アクセサリーにも出来るみたいですし、記念品です」
「
…
ああ」
でも、手元にはひとつだけ。
「菊の分も探そう」
「え、ですが私は
…
」
「お揃いにしたいんだ」
菊は一瞬虚をつかれたような表情をして、それから少し照れくさそうに笑った。
砂浜だとあまりないというのは本当らしく、シーグラス探しは難航した。小さな欠片ひとつもない。俺自身はそこまで気に入ったわけではないし、菊に見つけたものを上げたっていいのだが、俺がこれを気に入ったと勘違いしているらしい菊は「アーサーさんが見つけたものですから」と受け取ろうとしないだろう。ちょっとでも喜ばせたいのに、それが上手くいかなくてもどかしい。
そして無慈悲にも空模様は巡る。
最初は白い砂浜にいくつかの丸い染みを作るのみに留まっていた雨足は、徐々に激しさを増し、途中から雷も伴い始め、最終的に嵐の訪れのような天候になった。
俺たちは走った。駅は屋根がなかったし、どこかに洞窟があると信じて、泥に足を取られながらも、ひたすら一方向に走った。
身が凍えるほど寒いし、せっかく乾きかけていた髪や服は張り付いて、靴はとっくに水浸しで走る度にぐぽぐぽと重い音が鳴るし、下着までびしょ濡れで気持ち悪い。雨が目に入りそうになる度目を瞑って、でも結局遮れなくて、もう何もかもが最悪だった。
「ッふふ、
…
」
けれど、隣から笑みが零れる声がした。
「最悪!」
俺はぎょっとした。だって菊があまりにも晴れやかな顔をしていたから。最悪なんてとんでもない、まるで「最高だ!」って叫んでるみたいに、髪を額に張り付かせながら、輝かしい笑顔を浮かべていた。
そこで、俺は。やっとこの旅の真意が分かった。菊が俺に一体何を伝えようとしているのが何となく理解出来てしまって、ただ震える口を引き結び、ひたすら前を睨んだ。
程なくして洞窟に辿り着いた俺たちは、勢いよく駆け込んで、服の裾を絞って水気を落とした。とても丈夫な菊のスマホは、三十分後に雨が止むことを教えてくれた。
ふたりぼっちの雨宿り。菊は岩壁に背を預けながら座り込むと、立ちすくむ俺を手招きした。それに従うと、向かい合うようにして俺を抱き締める。
「あったかい
…
」
最初は濡れた服と服とが当たって冷たかったが、すぐさまお互いの体温が伝わった。触れ合う場所がじわじわと熱で溶かされていくようだった。
外から雷鳴と雨音が響くだけの時間が数分ほど続いた。その沈黙が心地良い一方で、ずっと鼓動が忙しなく、心臓が耳元で拍動しているようだった。菊にも聞こえてるんじゃないかって思うくらいには煩くて、とっとと静まって欲しかった。そんなの無理だって俺が一番よく分かってるけど。
「アーサーさん」
程なくして、菊の甘く低い声が耳に届いた。
「色々ありましたけど
…
お出かけ、楽しかったですか?」
「
…
うん」
「よかった、私もです」
彼の穏やかな声が静かな洞窟に反響する。暗く何も見えない洞窟で、菊の輪郭だけがはっきりと浮かび上がっていた。
「目的地のない無計画の旅に出ること、肌寒い秋にびしょ濡れになること、それに突然の雨に遭うことだって。一人なら嫌なことでも、アーサーさんと一緒なら素敵な思い出に変わります。『不幸なこと』を『まぁいいか、二人なら』と前向きに思えるようになる──これを『幸せ』と呼ばずして何と呼びましょうか」
菊の手が俺の頭を撫でる。酷く優しい手つきだった。
俺はただ、菊の胸元の服を強く握りしめていた。
「アーサーさんは『俺も幸せにしたい』って、そうおっしゃるけど
…
私はもう十分に幸せにしてもらっているのです。だから、私の大好きな人のことを、そう見下さないでください」
いつの間にか外の雨足は弱まっていた。
「件のことを隠していたのは申し訳ありませんでした。ですがその選択は、アーサーさんが頼りなかったからとか、信用してなかったからとか、決してそういうわけではありません。それは分かってほしいんです」
「
…
うん」
「今度からは自分だけで抱え込まないようにします。矢張り、隠し事は悲しいですから
…
その代わり、アーサーさんもいつか話してくださいね。ご自身のペースでいいので」
「うん」
ぐり、と額を菊の胸に押し付ける。頭上から菊が笑う気配がした。
「(でも、)」
でも、菊。本当に俺は何もしてやれてないんだ。
菊の腕が俺の背中に回ってる。だけど俺は、俺の短い腕じゃ完全に抱き締め返すことだってできない。腕の中に閉じ込めることもできない。守ることなら尚更だ。
菊は十分幸せだって言うし、実際その通りだと思う。だって彼の顔がそう語ってる、「私はこの世界で1番の果報者です」って、そう言ってる。
だけど俺が納得いかないんだ。だって本当に俺は何にもしてない。守ってやれてないし、夏祭りだって、キャンプだって連れて行くこともできないし。俺といるだけで幸せだって菊の言葉を信じてないわけじゃないけど、もっともっとって欲張りになっちゃうんじゃないかっていうのが怖くて。物足りないと感じられてしまうんじゃないかって、恐ろしくて。そばにいてやるだけでは足りない。俺はもっと特別なことがしたかった。菊をもうひと段階幸せにするための『特別なこと』をして、菊を俺だけで満たしたい。他なんていらないって思うくらいに──でもそれは俺にはできない。この小さな体では。
決して卑下しているわけではないし、『この体で生まれたくなかった』と思ってるわけでもない。この形で生まれなければ、きっと俺はこんなにも素敵な人に出会えなかったから。だからこれは俺の我儘でしかない。ただただ悔しいだけなんだ。もっと俺に力があればって
…
満足できないだけなんだ。
やがて雨が止み、外は晴れ間が差し込んでいた。雨水で濡れた砂浜と海が、夕日の光を反射してきらきらと輝いている。
「あ!」
菊がひとつ声を上げ、小走りで砂浜を駆けてゆく。
「(──俺にしかできないことって、本当にあるのか?)」
そしてある地点で立ち止まり、しゃがみ、振り向いて、こちらに何かを掲げた。半透明な緑色の物体が閃く。
「シーグラスありましたよ!」
ああ、ほら。菊だって見つけられるじゃないか。
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