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蒼風小話
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小説 オリジナル
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満天樹海
とある里に伝わる鬼退治の悲恋と真実。
時代は特に定めていませんが、大体平安末期あたりを舞台とした伝承話をイメージしています。
1.蛍火 (ほたるび)
ゆらゆら蒼く淡く揺れる蛍火。
その光が飛び交う闇の中で二つの影が佇んでいた。
片方は美しい乙女。蛍火に照らされ、ぼんやりと衣の裾が浮かび上がっている。彼女の好きな桔梗をあしらった柄。
もう片方は
――
見目麗しいが、どこか人とは違った空気を纏う若者。闇の中で揺らめく赤い髪。乙女を見つめる瞳は、こぼれさす月光のような金色。
乙女が微笑んだ。
「また今年も会いにやって参りました」
その言葉に、若者は金の眼を伏せた。愁いを帯びた顔が蛍火に一瞬だけ照らし出される。
「会いたくは、なかったと?」
問いかけとは裏腹に乙女の口調は、さきほどと同じく甘く優しい。彼が望まなければ、自分がここに居るはずはないと知っているのだ。ようやく若者が面をあげ、腕を伸ばした。そのまま乙女を引き寄せる。
一週間後、乙女は若者の腕の中で息絶えた。
若者は腕の中の亡骸を見下ろし、きつく唇を噛んだ。
いつもどおりの習わし。いつまで、こんなことが続くのか。
何より深い業は、それでも会えれば愛しいと言うことか。
* * *
都から遠く離れた山の奥に『満天樹海』とよばれる森があった。
真昼でさえも影ばかりが黒く広がる鬱蒼とした森。だが、どういうわけか夜が更けると、蛍のような淡い光が、辺りを舞い遊ぶという。これが星がきらめく深き森「満天樹海」のいわれ。
星にたとえられた蛍火は、浄化できずにさまよう魂といわれている。
そんな森でただ一人、高貴な魂を待ち続ける風変わりな鬼が居た。
その鬼は、死を呼ぶ鬼といわれていた。
2.葛木 (かつらぎ)
「誰かッ、誰か! 姫様が、姫様が鬼に!」
女房の叫び声が屋敷にこだました。慌てて衛士が駆けつけたときには時遅く、鬼は屋敷の塀を飛び越え、立ち去るところだった。
月に照らし出されたのは鮮やかな赤い髪。鬼が抱えている腕の隙間からは、姫の艶やかな黒髪と綾絹の裾が月の光を反射して、ひらりと軽くなびいていた。
「おやめください、葛木様! 相手は異形の化け物、鬼なのですぞ。いくら武芸に秀でたあなた様とはいえど、かなうはずがございません!」
「黙れ! ならばこのままおとなしく、姫を鬼にくれてやれと言うのか!?
沙世里姫は我が妻となるはずの方だったのだ。それを浅ましい鬼などに奪われて、どうしておとなしく引き下がっていられようか。何より今一番恐ろしい思いをしておられるのは姫なのだ。それを見捨てて、自分ばかり安穏に暮らすわけにはいかぬわ!」
* * *
昔一匹の鬼が、高貴な姫君をさらっていった。
都でも一、二を争うほど美しい、沙世里姫。
愛しい娘を奪われ、姫の両親は悲しんだ。だが一番嘆きが深かったのは、姫の婚約者である葛木だった。妻となるはずの愛しき姫を鬼にさらわれ、葛木は毎日苦悩し、鬼退治を決意する。
美しい姫を迎えるにふさわしい美丈夫である葛木は、武家に生まれただけあって、武芸の腕にも秀でていた。
――
鬼にかなうわけがない。姫のことはあきらめろ。
周りは必死に葛木を止めた。その制止の声を無視して、葛木は一人、鬼の住む深き森へ足を踏み入れた。
だが、無念にも葛木の願いは叶わなかった。
葛木は姫を奪い返すのに一度は成功したものの、逆上した鬼に追いつかれ、鋭い爪にかかって命を落としてしまう。
その様子を目の当たりにした姫もまた、嘆きのあまり自らの命を絶ったという。
3.沙世里 (さより)
「ばあや。あちらにおわす水のような影が見えて?」
「何を仰せられます、姫様。あちらには、何もございませぬではありませんか」
「そう。ならばいいの」
沙世里姫は、美しい姫だった。艶やかな極上の絹のような黒髪。どんなにすべらかに焼き上げた陶磁すら叶わぬ、白くきめ細やかな肌。熟れた果実のような桜色の唇。そして月影をうつす湖水のように、静かに澄みきった深遠な瞳。
姫はこの瞳に、時折見えぬはずのものを映すことがあるらしかった。
幼い頃より姫に付き従っている乳母は、そのことを敏感に感じ取っていた。
このように美しすぎる姫ならば常人にない力を持っていても、不思議はないことかもしれない。 だが異界を感じ取るその力が、悪い方へと転がらなければよいが
――
。
乳母の予感は当たっていた。
葛木という立派な許婚を持っていた姫であったが、その実心は別の者へと傾いていた。しかし誰にも言うことはできない。
人間ではない、異形のものに心を奪われているなどと
――
。
出会いは月夜。皓々と輝く月の光を愛でていたところへ、ふいに飛び込んできた影。
澄み切った刃のような美しさを持つ、鮮やかな赤い髪の
……
。
4.星影 (ほしかげ)
その寺の和尚は、お茶を勧めながら語ってくれた。
満天樹海に蛍火が舞うようになったのは
――
さらわれた姫君を取り返しに葛木殿が山に登って、返り討ちにあって以来のことだと言われています。
悲恋の涙が、蛍火になったと?
いえいえ、あれは星影が奪った乙女の魂が、成仏できずにさまよっているからだと言われております。
ああ。星影とは、鬼の名前でございます。
満天樹林に住まう影ということで、星影、と。
姫をさらい、葛木殿を返り討ちにした恐ろしい鬼に、ずいぶん雅な名前をつけたとお思いで? しかしこの星影は、たいそうな美貌の鬼なのです。それに沙世里姫と葛木殿の悲恋話も実際は異なっていたようですし
――
。
そうですな。星影は鬼というのに、血生臭さがない。白く輝く鋼の刃のような、玲瓏と輝く月のような、透き通る氷のような、と言われておりますが、どこか生彩に欠けた硬質な美を持っているそうです。
まあ母親が、それこそ沙世里姫に引けを取らない、たいそう美しい姫であったといわれておりますからな。
――
そう。星影は、半分は人の血を引く鬼なのだそうです。
そのため、角がない。これもまた鬼らしくないところでございましょうか。しかし血のような赤髪と、月の光を閉じこめたような金眼、鋭く伸びた爪を持っておりまして、侮ると痛い目をみる。なにせ若武者・葛木殿を返り討ちにしたほどの鬼でございますからな。
そもそも沙世里姫を見いだしたのも、母親を偲んで都へと降りてきたときのことだといわれております。
いえ。都では、特に悪さはしなかったようです。身に流れる人間の血ゆえに人里が恋しくなり、ふらふらと都を徘徊するだけだったと。
唯一行った悪さといえば、その沙世里姫をさらった一件のみです。
沙世里姫の美しさは、鬼の心をかき乱すほどのものであったのでしょう。
ですから葛木殿が姫を取り戻しに来て、姫が葛木殿を追って自害なさったとき、星影の嘆きぶりは、そうとうのものだったそうです。
ただ
――
。
あきらめきれなかったのでしょうな。
沙世里姫の命日は、姫の好きな桔梗の花咲く頃でございました。
その頃になると、毎年必ず、年若い乙女が、満天樹海の中で事切れているのが見付かるのでございます。
ええ。これは、星影が沙世里姫を求めて、代わりの娘の魂を奪っているのだと。
――
どうなされました?
どうも和尚は星影を恐ろしいと思っていないようだと?
さきほど、姫と葛木の話も実際は異なっていたようだ、と言っていたが、それはどんな話なのかと?
弱りましたな。では、他言はしないでいただけると、約束できますかな?
なあに。仏につかえるはずの坊主が、鬼を贔屓しているなどと言われると、少々都合が悪いのですよ。
* * *
さらわれた姫と、それを助けにいった若武者の悲しい物語。だがこの話には、もう一幕続きがある。
姫を恋い慕うあまりの執念か。
鬼は毎年、姫の命日の頃に、うら若き娘の魂を奪うようになったのである。
沙世里姫の命日は、姫が好きだったという桔梗の花が咲く頃。その頃にこの鬼に出会った娘は、必ず七日以内に、その命を落とすという
――
。
5.裏話 (うらばなし)
冴えた月明かりの元で、姫は赤髪の鬼を見つけた。
都へ舞い降りた鬼は、屋敷の縁側に佇む美しい姫を見いだした。
神懸かり的な力を持つ姫と鬼でありながら美しさと理知を備えた若者。どちらから言い出したともなく、人目を忍んで逢瀬が重ねられた。
やがて鬼は姫をさらっていきたいという思いにかられる。姫もまた鬼にさらわれたいと願うようになる。
「どうか、共に来てはくれまいか」
「どうか、共につれていってください」
どちらの言葉が先だったのか。
とにかく、それが道を踏み外す合図となったのは確かなこと。
山で葛木が見たのは、鬼に寄り添う姫と姫を優しく包む鬼。
「姫、何故にそのような者と!」
裏切られた者の叫びが森の中にこだまする。
「ごめんなさい、葛木」
姫は耳をふさいで、その場に座り込む。葛木の叫びは正当だ。裏切ったのは自分の方。
憤怒に瞳を燃やして、葛木は鬼
――
星影を見据える。
「姫をたぶらかしおって!」
「それは違います。私は自分から
……
」
「いいえ。違わないのですよ、姫!」
たとえ姫自身が望んだとしても、鬼との恋など許されることではない
――
自分の許せることではない。
星影は、黙ってその場に立っている。
思い返していたのは自分の母のこと。鬼に惑わされ、あまつさえその子供まで身ごもって、最後には狂い死にしたとされる女のこと。
想いに駆られて、あるいは乞われるままに、沙世里姫をつれてきた。だが、本当にこれで良かったのか?
迷いがあった。
だから星影は、葛木の刃を受けるつもりだったのか。
葛木の刃がきらめいた。しかし斬られて倒れたのは
――
沙世里姫だった。
「姫!」
身を挺して鬼をかばった姫に、二人の男の声が重なる。だが姫の元へ駆け寄ろうとした葛木に、星影が素早く爪を振るった。
「よくも!」
金の眼をらんらんと燃えあがらせ、沸騰する思いのままに星影は葛木の喉をかききっていた。美しい姿をしていても、半分は鬼。悲しみよりも怒りが先にわきあがったのは鬼の本性。
一方人間である葛木は、血潮吹き出る己の喉に呆然と手を当てながらも、地面に横たわった姫だけを見つめていた。そしてそのまま姫の上に倒れこみ、息絶えた。
星影は姫を助けようと手を伸ばしたが、姫を抱き起こしたときには、すでに姫の息は絶えていた。
あとにはただ、爪先を髪と同じく真っ赤に染めた鬼だけが残された
――
はずだったのだが。
「代わりの身をもって、参上いたしました」
一年に一度、沙世里姫の魂は別の娘の体をもって、星影に会いにくる。
最初は信じられなかった星影も、見知らぬ娘の仕草の中に姫の癖を発見すれば、二人しか知り得ないはずの話題を出されて微笑まれたならば
――
信じざるえない。
それは神懸かった力を持っていたとされる姫の力なのか。それとも姫を恋い慕う、自分の生み出した幻なのか。どちらでも良かった。また愛しい者を、この腕に抱けるなら。
しかし、この逢瀬は長くは続かない。
他人の体を使うことの無理がたたるのか、それともそうした死にゆく者の身だからこそ、沙世里姫の魂が乗り移れるのか。あるいは葛木の怨念が、黄泉の国より舞い戻ってきた沙世里姫の魂を、再び奪うのか。
娘たちは、どんなに長くとも七日以内には、その命の炎を消してしまう。
そのたびに星影は姫を喪った痛みを再度味わう。だがその一方で、恐ろしいことに、また来年、とも思ってしまうのだ。
姫もそれを承知していて、再会を願う言葉を告げて、事切れる。
鬼でありながら、半分は人の心を宿している星影は、思い悩む。
もし姫の想いが何の罪もない娘たちの体を奪って舞い戻り、最後には命を奪っているのだとしたら許されることではない。自分が娘の魂を奪って、姫に見立てているだけなのだとしても同じく許されない。
だが罪深さなら、もう拭いきれないところにまで来ているのではないか?
鬼の自分も、そんな自分に恋心を抱いて、葛木を捨てた沙世里姫も
――
おそらく極楽の光は与えられまい。待ち受けているのは、地獄の業火だろう。
だからか。だから永遠にひとときだけの逢瀬を繰り返すのか? いつも最期を見届けて。
蛍火の一つが嗤った。
――
そんな都合のよい罰など、あるわけなかろう、と。
おそらく、その蛍火は葛木の魂。
いつしか満天樹海には蛍火が舞うようになった。
あまりに強すぎる想いか、業の深さか、罪の色か
――
満天樹海は、飽和しそうな想いに満ちて、あの夜とこの夜の狭間でさざめく。
『愛している』のため息は、星影のものか、沙世里姫のものか、葛木のものか。
『悔しい』とからみつくような無念は、死んだ娘たちか、取り残された星影か、息絶えた沙世里姫か、姫を奪われた葛木のものか。
想いはずっと倦むようにこの森にとどまり続けたまま。そして桔梗の花が咲くと、想いの渦の中から姫は舞い戻る
――
。
「いつまでこの世にとどまり、鬼をおいかけるのですか?」
「あなたこそ、なぜ天へ昇らず、ここに止まり続けるのです?」
「深い執着を抱いていると、引き留められてしまうらしい。あなたとあの鬼のせいですよ、姫」
「
…………
」
「私は、あなたが憎い」
「そうでしょうね」
「が。その想いすら、今は持て余しております。最初は何度も体を得て鬼の元へ走るあなたを見て、気が狂わんばかりだった。心底憎んだ。何人かの娘を取り殺したのは私です。
しかし、あなたは臨終の間際、鬼に向かって言われた。『また来年』と。そのときの私の煮えたぎるような想いを、ご察しくださいますか?」
「
…………
」
「しかし、それも昔のこと。最近ふと思うのですよ。姫、あなたは幸せか?」
「なぜ、そのようなことを?」
「あの鬼が苦しむのはかまわない。が、いつまでも同じ輪の中を回ることは、果たして幸せか? 地上へ舞い戻るごとに、あなたの魂は倦んでやつれていく。毎年一度の逢瀬。最期は必ず離別が訪れる。死の隔たりすら越えるあなたにとって、死別は何の重みももたないかもしれないが、ひたすら繰り返すだけの逢瀬は、幸せか?
鬼の瞳の中に、あなたは何を見る? かつての自分の姿か? 喪った日々か?
おかげでこの森には、満たされぬ想いばかりが増えていく。これだけの年月を重ねるなら、いっそ転生するのを待てばよろしいだろう。それだけ業の深い仲ならば、次の生まれ先でも巡り会えることと存知ますが」
「いいえ。業も罪も深い私には、おそらく輪廻の道は開かれないでしょう。葛木殿。あなたは情け深い方です。なのになぜ鬼を選ぶのか、私にもわかりません」
「
…………
やはり私は、あなたが憎い。
おや。また娘が一人、森へ迷い込んできた。
さあ沙世里姫。あなたは、あの娘の体を奪って、鬼の元へ走るがいい!」
葛木の言葉に、沙世里姫は物憂く千里を越える瞳で、娘を見た。
何度も舞い戻り
――
それで、あなたは幸せか?
6.沙良 (さら)
森の中で倒れている娘を見つけて、星影はすぐさま駆け寄った。
もしやという想いに胸をしめつけられながら、手を伸ばして娘を抱き起こす。ぐったりとしていたが目立った怪我はない。どうやら疲労で倒れているだけらしい。
「おい、しっかりしろ、娘」
軽く頬をたたくと、うめき声をもらして、娘は目を開いた。
――
また、戻って参りました
――
。
おそらく自分はその言葉を期待していたのだろう。だが目を覚まし、はっと怯えたように自分を見返した娘の目は、明らかに見知らぬ異形の者を見たときの色だった。ばっと手を振り払われ、慌てて身を遠ざけた娘を見つめて、星影はためいきをつく。
違うのか。ならば用はない。
「娘。ここは魂が惑う森、満天樹海ぞ。とらわれて死にたくなければ、すぐに立ち去れ」
それだけ告げると、星影はくるりと背をむけて、立ち去ろうとした。
しかし娘のおずおずとした問いかけに、足を止めて振り返る。
「あ、あの満天樹海とは?」
思わずくいっと眉をつりあげてしまった。この森のことを全く知らずに来たとは、国境を越えてやってきた本物の迷い人か。だからといって、鬼にものを尋ねるとは、この娘、よほどの世間知らずらしい。
あきれて星影は答えた。答えが無造作になったのは脱力のためか。
「鬼が娘をとって喰うと噂の森だ。こちらの道をまっすぐ下れば、小さな村に出る。そこで一晩の宿でも借りろ」
そういって星影は里への道を指さす。そして、ふと思い出して続けた。
「しかし村に着いても、私に会ったことは誰にも言うな。それがお前のためだ」
そう告げると星影は再び身を翻した。娘が何か声をかけたのが聞こえたが、今度は振り返らなかった。
* * *
鬼が娘をとって喰う
――
。
教えてもらった道をまっすぐ下りながら、沙良は、さきほどの若者の言葉を考えていた。
あれは若者が自分自身のことを揶揄して言ったのだろうか。
助け起こされたの瞬間、目に入ったのは金の瞳だった。思わず怯えて手を振り払ってしまったが、改めてじっくりと思い返してみれば、それほど恐ろしさを感じなかったような気もする。なぜだろうと考えて、すぐに飛び込んできた若者の目が、何やらひどく切なげで、愛しい者を見るような色を浮かべていたからだと気がついた。
鬼ならば、あのような目で、人を見ない。
――
むしろ人の方が、鬼の心を持つものだもの
――
。
自分が逃げてきたときのことを思い出し、沙良は身震いした。
そのとき重々しい鐘の音が、山の静寂をうち破った。
はっと我に返る。前方にぽつぽつと人里の明かりが広がっていた。安堵のため息をついて、沙良は山道を駆け下りた。
しかし村についた沙良を迎えたのは、村人の騒ぐ声だった。
「あ、あんた! まさかあの山を下ってきたんじゃないだろうね!」
その通りです、と口に出しかけたが、この村人のただごとではない様子と、若者の『私と会ったことは誰にも言うな』の言葉を思い出し、すかさず首を横に振った。
ひとまずこの場は嘘をついた方がいい。
沙良の直感が正しかったのを裏付けるように、その村人は胸をなでおろした。
「そりゃそうだよね。けどあんた、こんな所に何の用だい?」
「それは
……
その
……
」
そっと視線を動かすと、ちらほらと村人たちが好奇のまなざしを向けているのに気がついた。いや好奇というよりは、どこか怯えるような、不吉がるような目の色だ。
一体なぜだろう。そんなことを考えつつ、もごもごと口を濁していると、だんだん尋ねてきた村人の目も、いぶかしげなものに変わっていった。まずいと冷や汗が流れたとき、雷光のように一つの考えがひらめいた。
「あの、こちらの住職様にご用がありまして」
とっさに思い出したのは、山の中で聞いた鐘の音だ。おそらく近くに寺があるのだろう。そこの住職なら、この村人のことも、あの不思議な若者のことも教えてくれるかもしれない。
「ああ、円慈さまかい?」
「えんじ
……
そうです! そのような名前の住職様が、こちらにいらっしゃると」
思わず意気込んで答える。沙良の読みは当たったらしい。
「そんなら、あそこの角を曲がってまっすぐいった、明成寺っていうお寺だよ」
相変わらず怪訝な顔をしていたが、何やら深いわけがあるのだろうと解釈した様子で、村人は道を教えてくれた。
「ありがとう」
沙良はぴょこんと頭をさげると、寺へ向かって走り出した。
* * *
「なんと、あの森を抜けて来なさったとな。しかも金眼の若者に会ったと!」
「はい」
お茶を勧めてくれた住職は、沙良の話を聞くと目を丸くした。
――
他言するなと若者は言ったが、村人たちのあのような過剰な反応を見せられては、気になって仕方がない。
それにあの若者の自身のことも気になるのだ。あの不思議な姿と何かを待つような愁いを帯びた瞳。そして魂惑う満天樹海のことも。
「しかしまあ、星影と会ったとはのう。しかも物寂しげな様子じゃったとな」
考え込むように和尚は腕を組んだ。
「星影?」
「ああ、鬼の名前ですじゃ」
「鬼? あの若者が、本物の鬼だと!?」
思わず叫んだ沙良に、これ声が大きいと人差し指を立て、和尚は頭をかいた。
「満天樹海には、このようないわれがありましてな」
和尚は読経するときのような朗々とした声で語ってくれた。
森に住む、半分人の血を引く、美貌の鬼のこと。
その鬼が都の姫をさらったこと。
姫を取り返しに言った若武者が、返り討ちにあったこと。
姫も嘆き悲しんで、後追い自害をしたこと。
それ以来姫を求めて、星影が娘の魂を奪っていること
――
。
そこまで聞いた途端、沙良の顔は真っ青になった。
自分はあの鬼に会ってしまった。しかも今は終わりかけているとはいえ、桔梗の花咲く頃ではないか。
しかし慌てるなと、和尚は手をかざした。
「星影は沙良殿を見て、がっかりしたような顔をしたんじゃろう。しかも山を下れと言った。ならば沙良殿は違うのじゃろう。おそらく、大丈夫じゃ」
「
……
違う?」
やれやれ、と和尚はため息をついて、茶をかえてから、飲み干した。
「儂が言ったとは言わんでくだされよ。仏を信じているはずの坊主が、鬼を贔屓しているなどといわれると外聞が悪いのでのう」
そう前置きしてから話してくれた話は、たった今教えてくれた話とは正反対のもの。
姫が焦がれていたのは鬼の方で、姫が死んだのは鬼をかばって葛木の刃を受けたから。魂を奪っているのは鬼ではなく、姫か、葛木か、娘自身の寿命だったのか、分からない
――
。
頭がこんがらがりそうになり、沙良は思わず尋ねていた。
「住職様、どれがまことの話なのです?」
「さあのう。儂にはとんと検討がつかん。星影や姫たちも、おそらく分かってはおらぬじゃろう。人の心の生み出した不思議なんて、誰にも解きあかすことなどできん」
独り言のように告げた住職に、沙良は静かにきいた。
「でも住職様は、あとに話された話の方を信じておられるのですね」
「なぜそう思われる?」
「話しぶりから、住職様は星影を悪しき鬼とは考えておられないようでしたから」
「先先代から聞いた話じゃ。昔この寺に、鬼の子を身籠もり、産み落としたとして、祈祷を受けにやってこられた奥方がいらしたそうな。結局は祈りの甲斐もなく、奥方は気が触れてお亡くなりになったとの話じゃが」
「
…………
」
沙良は話をしてくれたお礼に畳に座ったまま手をついて、そっと頭を下げた。
その夜、寺の一室を借りて休んでいた沙良は、寝付けずにぼんやりと天井の格子を見つめていた。
考えているのは、もちろん昼間会った鬼のことだ。星影という名の美貌の鬼。死した姫を思い続ける影のある若者。
もし自分が沙世里姫の魂を持っていたら、どうなったのだろう。星影は喜んで、沙良を腕に抱いたろうか。しかし、それは沙良であって沙良でない身。しかし沙世里姫であって沙世里姫でもない身なのだ。
人間にも鬼にもなりきれないあの若者にとっては、身体と心の違いなどどうでもよいということか。
……
何を考えているんだろう、私。
顔を赤らめて、沙良は自分の頬をぴしゃりと叩いた。
あの鬼の金の眼がよみがえる。ただ一度、言葉を交わしただけの鬼だ。
それともこの恋慕に似た想いこそ、沙世里姫の魂なのだろうか。ならば、ならば自分は
……
?
沙良の目が、大きく見開かれた。
寺の天井の格子。そこをゆらりと舞い飛ぶ蛍火
――
そして。
* * *
次の日、和尚が起こしにいったとき、沙良の姿はすでになかった。
消えていたのは沙良だけではなかった。寺の奥に安置してあった破魔矢と調伏弓が、そろって消えていた。破魔矢は飾り用のものではなく、矢尻が鋭く磨かれた実戦用の矢に祈祷によって霊力を込めたものだ。
そう。たとえば鬼退治に使うときのような
――
。
7.再会
森の奥に構えた庵で休んでいた星影は、気配を感じて目を覚ました。
身体を起こして見れば、庵の入り口のところに一つの影が佇んでいる。庵の入り口には、戸などしつらえてはいない。ただ雨よけの屋根と寝床、煮炊きする竈があるだけの簡素な庵だ。こんな森の奥に、鬼を訪ねてやってくる者など居やしない。
もし居るとすれば
――
。
「
……
お前は
……
」
頭上高くで結わえられた髪。華奢な肩と色白の首元。
そこに立っていたのは昨日の娘だった。なんだ、と口を開きかけたところに、顔を伏せたまま、娘が告げた。
「再び舞い戻って参りました」
思わず息をのむ。
「
……
姫?」
そろそろと問いかける声が、かすかに震えた。
毎年、と思っていても、それを絶対に信じているわけではない。
いつもいつも思うのだ。もう今年は来ないかもしれない。もう二度と会えないかもしれないと。だから
――
。
ゆっくりと影が面を上げた。
しかし、その目の輝きには懐かしい姫の湖水のような面影はなかった。ましてや昨日の娘のものでもあり得ない。もっともっと鮮やかな憎しみに咲いた炎。にやりとその唇がまがまがしくつり上がったかと思うと、すかさず矢をつがえた弓が構えられた。
「お前
……
葛木!」
「残念だったな、姫でなくて」
沙良の顔をしたまま、あざ笑う声が響いた。そして、そのまま流れるような一連の動きで、矢が
――
。
――――
やめて!
悲鳴のような声が辺りにこだまし、星影は燃えるような痛みを感じた。
我に返った沙良は、左肩を押さえ、もがき苦しんでいる星影を見て、愕然と弓を取り落とす。
寺の蔵から弓矢を取り出したことも、山をのぼってきたことも、矢を射ったことも覚えはある。だが、それは全て夢をみているときのような感覚だった。あれが身体を乗っ取られるという感覚なのか。
星影が自らの手で、肩に突き刺さった矢を引き抜いた。
途端に鮮血があふれ出て、星影の纏っていた衣を赤く染め上げる。思わずもれたうめき声にはっとして沙良は駆けより、星影をしっかり押さえつけると、自分の衣の裾を破って肩をきつく縛った。
そんな沙良の肩を、星影がきつくつかんだ。鋭く伸びた爪先が頬に触れそうになる。
「
…………
ひ、め?」
「そ、うです」
焦点の定まっていない金の眼を見返して、沙良は泣きそうになりながら答えた。
* * *
幸い森の中には血止めの薬草がはえていた。それでなくても鬼の回復力には目を見張るものがあり、三日間は高熱にうなされていた星影も、四日目には何とか起きあがれるようにはなっていた。
「さすがに心臓を貫かれていたら命はなかったがな」
床に伏していたとき、ぼんやりと独り言のように星影は呟いた。いっそ命を落とすことを夢見ていたような響きに、沙良は何も答えなかった。
沙良もまた星影に付き添う間に、ぽつりぽつりと自分の身の上を話した。
沙良の両親は、沙良が十になろうとするころ亡くなった。その後親戚だった叔父夫婦の家に預けられたが、性悪だった親戚の叔父叔母は沙良に満足な食事も与えず、こき使うばかり。だが、それでも持ち前の美貌が花開きかけた頃、そんな沙良を是非にと願う、金持ちの息子が現れた。
もちろん叔父叔母夫婦が断るはずもなく、沙良本人に何の相談もないまま、縁組みの段取りはすすみ、沙良はいつの間にか嫁にやられた。だが、この婿殿がこれまた最悪で、色気狂いなところがある上、気に入らないことがあれば沙良に暴力を振るうという、とんでもない男だった。
ある日とうとう耐えきれなくなった沙良は、家を飛び出し、追っ手の届かぬ遠い地をめざして旅に出た
――
。
「詳細は知りませんでしたが、この森に鬼が出る、ということは、それとなく聞きました。けれど何より人が通らない山であるということは、私には都合が良かった。ひとたび消息を絶ってしまえば、追いかける方も捕まえにくくなりますから」
「もし私が本当の鬼で、喰われても良かったと?」
沙良は目を伏せた。
本当のところは、自分でもよく分からない。死を望むなら何も逃げる必要などなく、首をくくればすむこと。
だが、その一方で、どうなってもよいというような気があったのも確かで
……
。
もし、あの話が本当なら、すでに沙良は星影と出会って五日がたとうとしている。あと二日で命を落とすことになる。
いっそ沙世里姫に身体を明け渡し、星影の腕の中で死ぬのも悪くないかもしれない。そんな思いがよぎることを、沙良は否定できなかった。しかし葛木は一度現れたものの、沙世里姫の気配はなかった。
* * *
もうすぐ桔梗の花も終わってしまうのに姫は現れない。
森でしぼんだ桔梗の花を見つけて、星影はためいきをつく。代わりに側にいるのは沙良という娘だ。
矢に貫かれた痛みの中で、つい間違って、沙良を姫と呼んだことを覚えていた。
間違えるほど顔が似ているわけではない。せいぜい名前の響きが似ている程度。ただのそれだけで愛しい者を間違えることができる自分が、一番疎ましい。
本当は、姫でなくてもよいでは、と思える瞬間が一番怖い。
姫の魂を抱いてくる娘は、しかし皆違う姿でやってくるのだ。もちろん姫のことは忘れていない。笑い声も話しぶりも。だが、それは昔々の出来事を思い出しては、塗り重ねているだけのもの。幾度となく重ねても、けして積み上がることはない想い出
――
。
* * *
六日目は沙良も星影も特に変わりなく過ごした。
七日目の朝、星影は告げた。
「今すぐ、この森を下りろ」
沙良は何も言わない。
「麓の寺の和尚から聞いたのだろう? 鬼と出会った娘は、遅くても七日目にはこの森で亡骸で見付かると」
沙良がかすかに笑った。
「下りたくないと言ったら?」
「沙良!」
「ようやく、まっすぐに名前を呼んでくれましたね」
「え?」
「いつも私の名を呼ぶとき、ためらいがありましたから。おそらく私の名が、沙世里の音に通じるから」
見抜かれていたことに星影は唇を噛んだ。
ふわりと沙良が腕を伸ばした。そのまま星影の髪に触れる。
「あなたは人ではないかもしれないけれど、鬼なんかじゃない。こんな悲しい目をした鬼なんて居ないもの」
その瞬間、ざわりと星影の身体が総毛立った。
――
かつてこれと似た場面があった。鮮やかに月を映していた屋敷の庭の池の側で。
『綺麗な夕日のような髪の色。あなたは人ではないかもしれないけれど、鬼なんかじゃない。こんな綺麗で悲しい目の鬼も人も居ないもの』
優しく髪に触れて、微笑んだのは
――
。
「沙世里姫」
はっと沙良が息をのんだ。その目が最後の最後で道を踏み外したという後悔の色を浮かべた。愕然とした想いで星影は沙良の
――
沙世里姫の肩をつかむ。
「いつから!? どうして!」
沙良が微笑んだ。
「矢が放たれて、叫んだときから」
ならば、ほとんど最初から
……
!
星影の思いを見透かしたかのように姫は続けた。
「でも、私は半分だけしか移れなかった。あなたと過ごした間の大半は、この娘、沙良自身の意識のまま動いていたわ。私はその中で夢うつつに感じていただけ」
星影がゆるゆると首を横に振る。何を否定しているのか、自分でもわかぬまま。
肩をつかむ手をふりほどき、沙世里姫は無理矢理笑って言った。
「さよなら」
8.満天樹海 (まんてんじゅかい)
森の奥へと消えた姫を慌てて星影は追った。だが、どうしたわけか姫は
――
沙良の影はどこにもない。
それでも森中をかけて、ようやく森の切れ目に出たときだった。
「
……
姫」
森の切れ目の切り立った崖のその突端に、姫が
――
沙良が、背を向けて立っていた。
しかしくるりと振り返ったその手には、弓矢が握られていた。
さすがに二度目とあっては驚かなかった。
「姫はどうした?」
「居ない。もう来ない。二度とな」
カッと星影が瞳を燃やした。
「葛木、お前が姫を
……
!」
「違う。お前のせいだ。お前だって気付いているはずだ。たとえ姫がどんなに黄泉から舞い戻ろうとしても、地上側から呼ぶ声がなければ出られないことに」
もちろん気付いていた。
――
舞い戻って参りました。
毎度つげられる言葉。その声をきくために、自分もずっと呼び続けていたのだから。
しかし、こうして呼ぶことに、続けることにためらいを覚えてしまったら?
同じように重ねられる逢瀬と別れ。
「よけても構わぬぞ」
凛とした姿勢で弓を構え、まっすぐに胸にねらいを定めて葛木が言った。
「ただしお前がよけたら、この娘は崖から飛び降りる」
「卑怯なことを」
「何を言う? これまでだって娘たちを殺し続けてきたではないか。そこに連なる亡骸の数が一つ増えるだけのこと。
そうやってお前は姫を呼んできたではないか。そのたびに私がどんな想いをしてきたのか、お前にわかるのか。妄執のあまり天にも昇れず、嫉妬の炎に身を焦がし続けてきた私の苦しみ、そのかけらでもお前になどわかるものか!」
灼熱の炎のようにたたきつけられた言葉は、しかし葛木の本心だった。返す言葉もなく星影は黙り込む。葛木は続けた。
「鬼。これは慈悲だ。私がこうして出たのも、お前が私を呼んだからだ。姫を呼ぶ声よりも深いところで。お前、本当は殺されたいのだろう?」
星影は答えられない。
「姫に尋ねた問いを、お前にも向けよう。鬼よ。ひたすら繰り返すだけの逢瀬は幸せか? 毎度姿を変えてやってくる娘たちの中に、お前は一体何を見ている。かつての姫の姿か、喪った日々か?」
出会って分かれ、蘇っては別れ
――
。
ぐるぐる回る逢瀬の輪は、幸せなのか、苦しみなのか。
「望んでいるのは続けることか、終わらせることか?」
きりきりと葛木が沙良の腕で、つるを引き絞る。『舞い戻りました』『さよなら』と告げる姫。
「来るか来ぬか待ち続ける身よりも、舞い戻る身でありたかったろう?」
葛木の言葉が胸に突き刺さる。亡骸を腕に抱いて取り残されるよりも、言葉を告げて消え去る身の方が。
いっそあのとき殺されていれば、悩みながら待つことなどなく。
生と死と、本当はどちらを望んでいた?
矢がぎりぎりまで引き絞られたその刹那。
「だめです!」
聞こえたのは女の叫び声。そして見えたのは、まっすぐ天に向かって射られた矢と、ふわりと崖からその身が投げ出されようとしている、沙良の姿だった。とっさに星影は駆け寄り、腕を伸ばす。そして叫ぶ。
「沙良!」
姫の名ではなく、その体の本来の持ち主の名前を。
* * *
星影の声を耳に聞きながら、沙良はゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏の闇に舞い散るのは蛍。満天樹海の夜、蛍火があたりを舞い遊ぶ。蛍火は人の魂。残した想い。
行かないでくれと、星影がうめく。
待っていて、と沙世里姫がささやく。
なぜだ、と葛木が嘆く。
どうして
――
と死んだ娘たちが悔しがる。
ごめんなさい、と沙世里姫が泣く。
許せない、と葛木が叫ぶ。
わからない、と星影が悩む。
戻りたい、と沙世里姫。
幸せか、と葛木。
いっそ死のうか、と星影。
死なないで、と私。
――――
愛している、と蛍火が光る。
* * *
「沙良殿。沙良殿」
自分を呼ぶ声に、沙良は目をさました。円慈和尚の顔がすぐ間近にある。
「
……
私?」
「森の入り口のところに倒れておったのを村人が私に知らせてくれました」
身を起こした沙良は何気なく頬に手をやり、涙で頬がこわばっているのに気がついた。泣いたから、あれだけの蛍火をみたのだろうか。それとも全ては夢の中の出来事だったのだろうか。
そんな沙良の頬を暖かな光が照らした。
「八日目の朝です、沙良殿」
和尚の言葉に再び沙良の目に涙があふれた。
* * *
この里に伝えられている話である。
『都から遠く離れた山の奥に満天樹海とよばれる森があった。
真昼でさえも、影ばかりが黒く広がる鬱蒼とした森。だが、どういうわけか夜が更けると、蛍のような淡い光が、辺りを舞い遊ぶという。
これが、星がきらめく深き森
……
「満天樹海」のいわれ。
星にたとえられた蛍火は、浄化できずにさまよう魂といわれている。
そんな森でただ一人、高貴な魂を待ち続ける、風変わりな鬼が居た。
その鬼は、死を呼ぶ鬼といわれていた。
昔一匹の鬼が、高貴な姫君をさらっていった。
都でも一、二を争うほど美しい、沙世里姫。
愛しい娘を奪われ、姫の両親は悲しんだ。だが一番嘆きが深かったのは、姫の婚約者である葛木だった。妻となるはずの愛しき姫を鬼にさらわれ、葛木は毎日苦悩し、鬼退治を決意する。
美しい姫を迎えるにふさわしい美丈夫である葛木は、武家に生まれただけあって、武芸の腕にも秀でていた。
――
鬼にかなうわけがない。姫のことはあきらめろ。
周りは必死に葛木を止めた。その制止の声を無視して、葛木は一人、鬼の住む深き森へ足を踏み入れた。
だが、無念にも葛木の願いは叶わなかった。
葛木は姫を奪い返すのに一度は成功したものの、逆上した鬼に追いつかれ、鋭い爪にかかって命を落としてしまう。
その様子を目の当たりにした姫もまた、嘆きのあまり自らの命を絶ったという。
さらわれた姫と、それを助けにいった若武者の悲しい物語。だがこの話には、もう一幕続きがある。
姫を恋い慕うあまりの執念か。
鬼は毎年、姫の命日の頃に、うら若き娘の魂を奪うようになったのである。
沙世里姫の命日は、姫が好きだったという桔梗の花が咲く頃。その頃にこの鬼に出会った娘は、必ず七日以内に、その命を落とすという
――
。
鬼は娘たちの身体を使い、姫を黄泉から呼び戻すのだ。
反魂の術はたった七日しかきかないと知っているのにも関わらず。
そんなある年のこと、一人の娘が麓の寺へと立ち寄った。
和尚から無念の蛍火舞う満天樹海の話を聞いた娘は、弓を手に山へ登る。七日七晩すぎた朝、娘は見事鬼を討ちとって里へと戻ってきた。
そののち満天樹海で赤髪の鬼の姿を見たものはただ一人もなく、娘が森で命を落とすこともなくなった。
満天樹海を舞う蛍火も消え、いつしか満天樹海の名も消えた』
どこまでが真実かは定かではない。
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