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蒼風小話
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鬼を呼ぶもの
鬼の面に宿った殺意の有意性を問う話。平安時代あたりをイメージしてます。
月ばかりが蒼く輝いている。
さわさわと涼しげに通り抜ける北東からの風に、かすかな身震いを覚えて、春雅は服の襟首をかき合わせた。
そして隣の親友をちらりと盗み見る。都一の弓の名手と名高い、菊成。
菊成は険しい顔をしたまま、大路の前方を睨んでいる。険しさの一方で、その表情がどこか強ばり青ざめて見えるのは、けして春雅の気のせいではないだろう。菊成の右手には、ぴんと弓弦の張られた弓が握られ、背中に背負っている矢筒には、鷹の矢羽が何本も覗いている。
もし姫が現れたら、菊成はその手で矢をつがえ姫に放つつもりだろうか。
鬼となり人を殺めたとはいえ、ずっとずっと想い合っていた
……
おそらくは今でも心の奥底では深く通じ合っているであろう姫君だ。
それとも、他の誰よりも先に姫を見つけだし、その弓の腕で他の者を遠ざけ、姫を追っ手のかからぬ都の外へと逃がすつもりだろうか。
* * *
菊成と中納言の娘・清姫が相思相愛の仲であることは、ほぼ周知のこととなっていた。
出会いは菊成が初の弓の公開試合に出たときのことだそうだ。まだ少年にさしかかったばかりの歳の頃だったが、このときから菊成の弓の腕は秀でていた。凛とした目で的を見据え、弦をめいっぱい引き絞り、真ん中を射抜いたその姿を姫は群集に紛れて見守っていたのだという。
菊成もまた矢を放ち終えたあと、ふと群集に視線を転じ、編み笠を深くかぶり人波に埋もれていた清姫をぴたりと見いだした。
両者の視線が合ったそのときが、すでに始まりだった。二度三度逢瀬を重ねるごとに、互いに強く惹かれあい、この人こそ自分の対となるべき人であると確信したという。
出会いは子供と呼んでもよい歳の頃であったが、互いの想いは年頃になっても変わらず、より一層強い絆となって、二人を結びつけていた。
これほどまでに固い絆には、おそらく前世の縁もあったのだろう。それを携え生まれ落ち、今生でも巡り会えた希有な例だと、親しい者たちは二人の仲を微笑ましいものとして見守っていた。
年頃になった二人は、あとはただ祝言をあげるのを待つばかりであった。
だが、そこに二人の固い絆を破る者が現れた。右大臣の二番目の息子である満永殿が、清姫に懸想したのである。
確かに清姫は、絶世と謳われるほどの美女だった。
しかし、その切れ長の黒い瞳は常に菊成に向けられ、そのたおやかな腕をとることを許されているのは菊成以外にはいなかった。実際何人もの貴公子が清姫に言い寄ったが、誰一人として相手にされなかったようだ。姫の心は固く菊成に預けられていたのである。
そうした二人の仲に割り込むことはとてもできぬと、清姫の美貌は閉ざされた秘蔵の宝として扱われていた。むしろ姫の美しさは、そうした固い恋の上に咲いてこそ、輝きを増すものだった。
しかし満永は、そうした情緒や感傷を解する人柄ではなかった。
どんな手段が講じられたのか全ては闇の中に沈んだままだ。おそらくはその身分に物を言わせ
――
清姫の父である中納言に対して何らかの圧力をかけたのか
――
満永は強引に清姫を我物としたのである。ほぼ無理やりといった形で清姫を自分の妻としたのだ。
この満永の暴挙を誰一人として快くは思わなかった。だが、それをはっきりと表に示すこともできなかった。非難をすれば、それがどれほどの報復となって返ってくるか考えるだけでも恐ろしかったのである。
満永には黒い噂が多かった。そしてそんな噂を裏付けるだけの事実もあった。身分や富を奪われた者の嘆きが示す場合もあったし、時には物を言わぬ骸が転がることで示されることすらあった。
世間の目はもっぱら引き裂かれた恋人たち
――
清姫と菊成へと向けられた。二人に対する同情の声はあちらこちらで聞かれた。しかしそれも、さわさわと微風が吹き抜ける程度のものでしかなく、現状を突き破って動かすにはほど遠かった。
この状況の中で一番苦しんでいたのは、当然のことながら、引き裂かれた当人達だ。
清姫が満永の屋敷へ召され、面通りが叶わなくなって以来、菊成は荒れた。菊成とて、清姫に劣らぬ容貌の持ち主だった。いや見目の良さだけで言えば、不本意ながら満永も相当の美男ではあった。だが満永の美貌が、冬の凍気のように冷たい氷をまぶした陰性のものであるとするなら、菊成は残雪の上へ降り注いで雪解けを促す春の陽のような、陽性の健やかさと精悍さを併せ持つものだった。
そんな菊成の様相が、姫を失って以来、すっかり変わってしまった。
苦悩ゆえ食も喉を通らないのか、腕も肩も頬の肉もそげ落ち、柔らかだった面差しが、すっかり鋭利な刃を宿すものへと変わってしまった。酒の量が増えたせいか、かつては慈しむように姫を包んでいた眼差しが餓えた獣のように殺気立ったものへと変じた。些細なことで怒りっぽくなり、喧嘩沙汰を起こすことも増えた。
放っておけば満永の元へ殴り込みに行きかねない様子の彼を、必死になだめて止めて、姫も悲しむと思いとどまらせた結果、菊成は自分自身に鬱屈をため込み、その身を苛むこととなったのだろう。
しかし苦しみに喘いでいたのは、菊成だけではなく、満永の元へ嫁がされた清姫も同様
――
いや、それ以上だったのである。
* * *
姫が満永の屋敷でどのような暮らしをしているのか、菊成には知る術がなかった。
まるで人目を避けるように、姫は屋敷の奥深くに閉じこめられたまま、文すら交わすことができなくなったのだ。
だが、ある夜のこと、姫に仕えていた女房が決死の覚悟で満永の屋敷を抜け出し、菊成の屋敷へと駆け込んできた。
あまりにも姫が哀れです。どうぞ菊成様、お助け下さい
――
。
そう乞われ、また知らせてきた女房自身の様子も尋常ではなかったために、いてもたってもいられず、菊成は満永の留守を狙って、女房の手引きで満永の屋敷の奧深く、姫の寝所へと忍び込んだ。
……
それからたびたび菊成は、満永の屋敷へ忍び入るようになった。
それは、あまりにも危険な行為だ。もし万が一満永にしれたら、ただではすまない。
春雅も当然ながら菊成と清姫の仲は知っていた。菊成がどんな想いでいるかもわかるつもりだ。だが親友の身を案じて、そのような危険な真似は控えるよう忠告した春雅に、菊成は屋敷内で姫が受けている仕打ちのことをうち明けた。
「殴るのだそうだ」
最初何を言われているのか、分からなかった。
とても素面では語れないのだろう。苦痛を飲み干すように酒を一息にあおり、菊成は続けた。
「満永は外で何やら気に入らないことがあると、それを共寝の際に姫にぶつけるのだそうだ。美しかった姫の肌は、今では至る所が痣だらけで、俺が触れることにすら怯える有様だ。心では違う相手と分かっていても、また殴られるのではないかと身体が恐怖を覚えてしまっているのだろうな」
苦いものが腹の底から逆流してきて、春雅は言葉を失った。
「女癖が悪いとは噂に聞いていたが
……
まさか、こういう意味を含んでいたとはな。姫だけでなく他所に囲っている女達も同様の目にあっているようだ」
「そんな
……
女を殴るなど
……
」
「ああ。最低だ」
菊成は吐き捨てたが、その瞳は憤懣に燃える一方で、何もできない自分を責めている色でもあった。
かなり飲んでいるはずだが、酔っているわけではないようだ。いっそ酔えた方が楽になれるだろうにと同情の視線を向けると、菊成はうつむいて、食いしばった歯の隙間から声を漏らした。
「
……
許せない。いっそ殺してやれたら、どんなにか
……
」
――
そうした清姫の事情を知っていた春雅だ。
だから清姫が狂気にとらわれ、鬼の面をかぶり深夜の都をさまよい歩くとの話を聞いたときにも、恐ろしいと思うより、それも仕方ないことだと思ったのだ。あれほど辛い目に遭えば、鬼となってさまよい歩くのも不思議ではなかろうと。
* * *
いつからか月の輝く夜更けには、衣擦れの音を立てながら都の路地をさまよい歩く、木彫りの鬼の面をつけた女の姿が目撃されるようになった。面をつけていたため、最初はそれが清姫とは分からなかった。
だが目撃者たちの見た背格好、女の立ち去った方角などを合わせると、どうも清姫であるらしいとの噂が立った。
もっとも、鬼の面をかぶった清姫は何をするわけでもなく、ただ都をさまよい歩いているだけだったようだ。どうやって屋敷を抜け出しているのか不思議と言えば不思議だが、満永の元から逃げ出したいという姫の心が、そうした形で現れているのだとすれば哀れとも言えた。
本当に逃げ出すことは叶わない。そうすれば父に迷惑がかかると知っているのか、夜明け前には鬼は元の屋敷へ戻る。
昼間の清姫は相変わらず人前に姿を見せることはなかったが、風の噂にどうやら病に臥しているとのことだった。
この鬼騒ぎと姫の病に屋敷の警戒も固くなったようで、菊成も迂闊に近づけないでいるらしい。ようやく姫の元を訪れることが叶っても、すでに姫の意識は正気と狂気の境目をさまよっているのか、菊成はすぐさま引き返すことが多く、姫の容態のことを聞いても言葉を濁すだけだった。
本当は、皆、望んでいたのかもしれない。
ただ鬼の面をかぶってさまよい歩くだけでなく、その先を。
鬼となったのは、それだけの理由があるはずだと。
期待が実を結んだのか、やがてそれは現実となって現れた。
鬼姿の清姫が見られるようになってから、半年ばかりが過ぎた頃。満永が自分の館の奧で、夜着のまま事切れているのが見つかったのである。胸元に深い一撃をくらっており、それが致命傷となったようだ。
流れ落ちた血は床に血だまりをつくり、そばには根本まで血に染まった短刀が転がっていた。
そこは清姫の寝所となっていた。そしてその夜、添い寝をしていたはずの姫の姿は、どこにもなかった。
* * *
満永の死と、清姫の姿が消えたことは、すぐさま菊成の耳にも入った。
消えた姫を捜して幾人もの満永の家来や役人たちが、都を走り回っているという。だが午を過ぎ、日が沈むころになっても、姫の姿は見つからない。あたりは夜の闇に包まれはじめ、月が空に輝きだして
――
。
菊成は愛用の弓を片手に春雅の元を訪れた。そして姫を捜す手助けをして欲しいと告げたのである。
実は春雅には一つ、特技があった。
忌みの空気を察知するという技能。魔性のものの気配が、それとなくわかるのである。
とは言ってもこれは陰陽道に通じているというほど、大層なものではない。炊き立ての粥の匂いがかぎ取れるように、本当に漠然と「それとなくわかる」といった程度のものだ。だから何の役に立つわけでもないが、凶事をそれとなく避けることができるといった点では有利かもしれない。
いや、それとも逆か。
無意識に忌み事の気配を感じ取れてしまうため、そうした局面に引き寄せられ、望む望まぬに関わらず、その場に立ち会うことが多くなってしまうのかもしれない。
ともかく春雅は菊成に頼まれて、こうして共に、夜更けの大路に立つこととなったのである。
* * *
夜空を流れ移っていく雲の裏に月が隠れた。
蒼白い光が消え失せ、路地は濃い影に包まれる。
「
……
姫は、現れるだろうか」
「絶対に来る」
確信に満ちた声で、菊成が答えた。
深い絆を持つ二人は、遠く離れていても、互いのことが分かるのかもしれない。
春雅はぞくぞくと背筋に寒いものを感じる。北東は鬼門の方角。そこから吹いてくる風は陰の空気を色濃く纏う。菊成に尋ねるまでもなく、春雅にも分かっていたのだ。姫は必ずここに、愛しき者の待つこの場所に、現れる
――
。
そのとき、さっと一筋の光が降り注いだ。
雲間から月光が再び覗いた。同時にひときわ強い風が吹き抜け、大路の橋の向こうに一つの影が浮かび上がった。
風になびく真っ白な衣が、月の光を浴びて清らかに浮かび上がって見える。柄の一つ、しみの一つもない白の装いだ。影は月明かりを背に、橋を渡り、こちらへ近づいてくる。その顔は目元にきつく皺を寄せ、まなじりを高くつり上げ、耳まで口の裂けた鬼の面に覆われている。
鬼の面は恨みの証。
封じに封じた恨みが行き場を失うほど溜まったとき、鬼となって息を吹き返す。それは宿り身に力を与え、恨んだ相手へまっすぐ向かわせる
――
。
「
……
姫」
菊成の呟きが分かったのか、鬼は二人から少しばかり離れたところで、ぴたりと立ち止まった。
面の下の視線は、間違いなく菊成へと向けられている。しかしそのとき静寂を破って、脇へとそれる小路地から声があがった。
「居たぞ!」
人のざわめきの声と荒々しい足音が大きくなる。それに混じって聞こえる金物の音。
姫はおそらく鬼となっている。だとすれば鬼退治には武器は不可欠。姫を捜し歩いていた家来や役人達は、そう考え、おのおのが手に武器を持っていたのだ。
姫が狼狽えるように辺りを見回した。黒髪がなびく。
菊成が、緊迫した声で叫んだ。
「姫!」
その鋼のように固く響き渡った声に、姫が
――
鬼の面が、こちらを振り向いた。
菊成は弓を構え、矢を姫に向けていた。
その心の内にどんな想いがあったのか、春雅には測り得ない。ともかく追っ手たちが姫に襲いかかるよりも早く、菊成の手から矢が放たれた。
矢はまっすぐ吸い込まれるように飛んでいき、鬼の面の額を見事に射た。
乾いた音を立てて、面が左右真っ二つに割れる。そのときにはすでに菊成は飛び出しており、矢を受けた衝撃で気を失い、その場に崩れ落ちかけた姫の身体を自分の腕の中に抱きとめていた。
「姫。しっかりしてください。姫!」
必死で姫を揺する菊成の周りに、追っ手たちが輪を作って群がった。春雅もその中に紛れて、姫と菊成の姿を見守る。
姫が瞼を震わせ、かすかなうめき声をあげて、目を開いた。
その目が一番間近にある人の姿をとらえたとき、姫の口から呟きがあがった。
「菊成さま
……
」
固く張っていた菊成の肩が、安堵のために降ろされるのを春雅は見た。
「菊成さま
……
!」
もう一度確かめるように清姫は菊成の名を呼んだ。そのとたん姫の目から涙がこぼれ落ちる。それから菊成の衣にすがると、その胸元に顔を埋めた。菊成も固く姫の肩を掴んで抱き寄せる。かすかにすすり泣きが漏れ聞こえ始め、やがて隠しようのない嗚咽となって辺りに響き渡った。
菊成は固く口を結んだまま、腕の中の姫をしっかりと抱きしめていた。
* * *
右大臣の息子を殺した罪だ。
本当なら死罪を確定されるところだ。到底許されるようなことではない。
だが菊成は、姫を助けるため、必死に抗弁を繰り返した。今回の事件が必ずしも姫のせいだけであるとは言い切れないこと。また自分も姫に矢を向けたのだから、自分にも姫と共に罰を与えてくれと。
「姫に矢を向けました。私はいくら鬼の姿であったとはいえ、姫を射たのです」
「しかし
……
それは鬼となった者を射たのであるから
……
」
「鬼であったことが理由となるなら、姫もまた鬼に心をとらわれただけと言えるでしょう。姫は心優しきお方です。その方が鬼につけ込まれたのは、そうさせる何かが背後にあったのです」
菊成の言葉を裏付けるかのように、姫が満永に暴力を振るわれていたことが露見した。
また姫自身は鬼の面をつけてさまよい歩いたこと、また満永をその手にかけたことを、全く覚えていないのだという。
「覚えていないことが、罪を免れることにはならないと分かっております。けれど私は
……
満永さまから手酷い殴打を受けることが、あまりにも辛くて、いっそ、そのことを忘れたいと願ったのです。
添い寝のたびに行われる責め苦の最中、私は自分の心を封じました。私はただの物であると、ただ風に枝を揺らすばかりの堅い木となろう、石を投げ込まれても波紋を広げて静かに飲み込む池であろうと、ずっとずっとそう思いながら月日を過ごしていたのでございます」
実際姫の身体にはいくつもの殴打の痕があり、その深さがしれると姫の話が嘘ではないことが伺えた。
ぼんやりと自分の身をよその物として考えている空白の心の内に、いつしか鬼が住んだのだ。そう考えれば鬼となることも、またそのことを覚えていないのも無理からぬことと思えた。
また。満永のこの性癖が姫相手だけではなかったことも発覚した。
姫の事がしれると、「実は私も」と満永と関係のあった女性が何人も名乗りをあげ、ある一人の女性に至っては、満永に殴られたのが元で、命を落としていたことが分かったのである。
恨んでいたのは姫一人ではなかった。
他の女たちの積もりに積もった恨みの念も重なって、鬼を生みだしていたのである。
このことが広まると世間には殺された満永を悼む声より、姫に対する同情の声の方が大きくなった。
――
こうしたいくつもの事情が重なり、姫は何とか死罪を免れ、都を追放されるにとどまったのである。
* * *
菊成はそんな姫に付き添い、共に都を去る決意であるという。
追放された姫と共に行くのだから、二度と都に戻ってくることはないということだ。本当にいいのかと尋ねたら、何を構うことがあると菊成は笑い返した。
「親友のお前に会えなくなるのは辛い。だが俺はあの人の側に居たいんだ。俺にとって姫が必要なように、姫にとっても俺は必要なのだしな」
迷いなく笑った菊成
――
。
その顔を思い返しながら、春雅は真っ二つに割れた鬼の面を前に、考え込んでいた。
あの事件の夜、春雅は菊成が弓で射たこの鬼の面を、どさくさに紛れて持ってきてしまったのである。
こんな気味の悪い物を持ち帰るような物好きが、他にいなかったこともある。春雅とて決して好きだと思って、持ち帰ったわけではない。ただ、何かが引っかかって、手元に置いておきたくなった。
最初の数日は、その引っかかりがなんであるか分からなかった。だが、ふと一つの考えが浮かび、この面を持って確かめに行ってみた。
結果、春雅は、ある事実を知ることとなった。
* * *
満永の喪が明け、都を去る間際になって、菊成が最後の挨拶に訪れた。
色々忙しかったらしく、菊成に会うのは久しぶりだった。一瞬、春雅の心にためらいが浮かんだ。だがこれが最後となるかもしれないのなら、事実をはっきりさせたいという気持ちの方が強かった。
手に二つに割れた面を持ち、春雅は告げた。
「
――
菊成。この鬼の面を清姫に渡したのは、お前だな」
春雅の問いかけに、菊成の顔が引き締まった。
いつもの感情豊かな目元の光が奧へと引っ込み、菊成には珍しい固く平坦な表情になる。
「ちょっと気にかかってな。この面を彫った者を探してみたんだ。なんとか探し当てることができて誰の注文だったか聞いたよ」
ふっと菊成が口元を微笑ませたのが見えた。
思わず春雅は目をそらし、無理矢理意識を別のところに向けるように続ける。
「一つわかったら、他のことも解けていった。満永は刺した短刀は根本まで血に染まっていたそうだな。その一撃で命を奪われたと。非力な女性でも、激情にかられて身体の重みを全部刃にかけたなら、できることかもしれない。でも姫の性格と、か細い腕で?
何よりあの夜、姫の衣も腕も真っ白だった。返り血はなかった。
……
お前が、満永を殺したんだな」
菊成は軽く微笑んだまま、肯定も否定もしなかった。
春雅は目を閉じる。菊成がその手で満永を殺めている場を想像してしまったのだ。その場には清姫も居たのだろうか。居て、すべての凶事を見守ったのだろうか。それともそんな場に姫をおいておくことが忍びなく、早々と菊成がどこかに逃がしておいたのだろうか。
菊成がふと口を開いた。
「でも、お前はあの夜、忌みの気配を感じたんだろう?」
「ああ。感じたさ」
からからに喉が干上がっていて、乾いた声になった。確かに感じた。だが、あの気配が誰のものであったか、そこまでは春雅には分からない。心の奥底でふつふつ煮えたぎるような、禍々しくて、根深く熱い闇。それを一番匂わせていたのは、誰?
面をつけ、鬼に操られていた振りをしていた清姫か。
何食わぬ顔ですぐ隣にいた親友か。
それとも世間の言うとおり、全ての恨みを象徴するかのような鬼の面そのものに宿っていたのか。
誰からだったか分からない。そう答えると、菊成は笑った。
「それが真実だろう。鬼とはそういうものだよ。春雅」
「なぜ、こんな事を?」
「それを聞くのか。聞かなくても分かっているだろう」
「違う。どうしてこんな形を取ったかと聞いているんだ。姫に鬼のふりをさせ、射るような真似までして! 罪だって軽くなるとは限らなかったろう! お前姫が大切じゃなかったのか!」
――
全ては計略のうち。
だがそれはあまりにも危険の大きい、粗さの目に付くものでもある。姫に鬼の姿をさせて夜の都を出歩かせ、最後は弓で射てもいるのだ。それを目撃させるために春雅をつれていった。あとは姫の罪を軽くするよう必死で訴えるとはいえ
――
。
ぽつりと菊成が言った。
「満永に殺された女が居たことがわかったろう?」
「あ、ああ」
「放っておけば姫もいつかはああなる。俺が思うんじゃない。姫が自分でそう言ったんだ。いや姫は、こんなことが永劫続くなら、いっそ死にたいと漏らしたよ」
菊成が一呼吸分口をつぐんで、平らな口調で続ける。
「そのとき本気で満永を殺すことを考えた。でもそれは俺が自分一人で勝手にやろうと思っていた。たとえ見つかって死罪を受けることになっても、それで姫が助かるならいいと思った。姫に自ら死を選ばせるくらいなら自分が身代わりになるさ」
その言葉に偽りはないだろう。熱くて、まっすぐなところが菊成の美点だ。そこに姫も惹かれたのだ。
「だが姫は、それは許さないと言った。俺が死んだら私も後を追いますときっぱり告げた。難しいな。互いに相手のために、自分の命を捨てられる。でも、だからこそ自分が一人で先に逝ったら、相手もそれを追うことが分かるから動けなくなったんだ」
「だったら二人で共にと? しかし、必ず成功するとは
……
」
分かってないなと菊成は笑った。
「なあ春雅。その鬼の面打ち探すのに、とてつもない苦労はあったか?」
「いや
……
」
実際大した苦労があったわけではない。
面打ちを見つけたものの、きっと最後まで依頼人の名は知らぬ存ぜぬで通されると思っていたのだが
――
いくらか小銭を握らせたら、あっさりと面打ちは菊成の名を告げたのだ。
「満永の胸の傷な。狙い過たず、急所を一突きだ。見る者が見たら、やったのは男か女か、武術の心得があるかどうかくらいは簡単に分かるだろう。返り血のことも姫が屋敷を抜け出したことも、分からないことではないんだ。ちゃんと調べて考えを巡らせれば、分かることなんだよ。現にお前は見抜いたしな」
「何が、言いたい?」
「これは一種の賭けだよ。失敗したら、それでも構わないと思ってた。でも全てが成功したら
――
計画したことが全部うまくいって、みなが真相に気付いても口をつぐんでいてくれるなら、俺達は赦されて二人で暮らせる」
「菊成! 違う。それは違う!」
春雅は首を真横に振った。
そんな言葉で、そんな理屈で、正当化できることではないのだ。罪は罪。それ以外の何者でもない。
「その面を持っていって公に訴えるか? 春雅。そうすれば簡単に俺達を捕らえることができるよ。そして満永に続いて、二つ分の首が飛ぶ」
「
…………
」
春雅は観念したようにうなだれた。
真相を知ったとき、どうするか迷った。だが最初から、できないという結論だけは出ていたのだ。
ずっと淡々とした口調で菊成は語っていたが、それは彼が心にかぶせた鬼の面
――
別の人格を演じていたものでもあったのだろう。不意に菊成が口調を変えて告げた。親友を巻き込んだことを真に済まなく思う
……
謝罪の意をこめた、本音を。
「姫に矢を向けたときが一番怖かった。でも、あそこで失敗していたら、遠慮なく俺も死を選ぶことができたよ」
「私が頼んだことです」
別の声が会話に混じった。
細く透き通る女性の声。春雅が顔をあげると、菊成の背後に清姫の姿があった。
おそらく菊成が連れてきていたのだろう。初めは自分一人で挨拶してくると、清姫には外で待っているように言っていたのかもしれない。だが、なかなか出てこない菊成の姿を案じて、春雅の屋敷に足を踏み入れ、そこで会話を聞いてしまったようだった。
「私が自分から頼んだことです。菊成さまに、私を射るようにと」
こうして間近ではっきりと清姫を拝見するのは初めてだった。
すっとまっすぐ斜め上に伸びた眉と、切れ長の瞳が涼しげだ。だがその涼しさには、鋭さと儚さが不思議な混在を見せてもいる。ふと誘われたように春雅は尋ねていた。
「菊成を信じていたからですか? それとも菊成の手にかかるなら本望だったからですか?」
清姫が一瞬目を伏せた。
だがすぐに顔をあげ、まっすぐに春雅を見つめた。
「信じてもらなくても構いません。ですが私は本当に満永さまとのことと、鬼の面をかぶったときのことは、まるで夢の中を彷徨っていたかのような朧な心持ちで、はっきりと覚えてはいないのです」
それが本当か嘘か、春雅にはわからない。
だがそう告げて、まっすぐに春雅を見つめる姫の顔を見て、そのどこか水のような密やかな美しさを見て
――
ああ鬼だ、と思った。多分これが鬼というものだろうと。
都を出て二人は共に暮らすのだろう。やがてそっと祝言をあげるのかもしれない。罪を背負い、互いにおのおのの手を染めた罪悪感と連帯感を抱きながら共に生きていくのだ。菊成が隣にいれば、清姫の身体と心の傷も少しずつ癒えていくだろう。
――
手に残された鬼の面だけが、いやに重たく感じられた。
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