ひろか
2025-01-13 00:49:01
5491文字
Public 観劇録
 

*観劇録*『小槌遊戯』感想と考察。

sakura projectさん『小槌遊戯』感想と考察です。⚠︎内容に関するネタバレと深読みを含みます。

⚠︎内容に関するネタバレと深読みを含みます。



sakura projectさん『小槌遊戯』。

サクプロさんといえば(といっても今作が二作目の観劇だが)洗練された和の世界観と素人目にも息を飲むような殺陣のイメージがある。
あらすじを読んだ時に某スマホゲームが頭を過ぎってしまいそのイメージを払拭するのが大変だったのだけど、それだけにサクプロさんの世界観や殺陣がものすごく映えそうな題材だなと思っていた。
単純に主催の朝倉さんが何年もあたため続けていた作品の主演として私の贔屓さんこと髙畑岬さんに声をかけてくれたのも嬉しかったし、今年2月に観劇した『鈍色に滲む虹ー彩艶ー』ではじめて出会った役者さんたちにまた会えるのも嬉しかった。

sakura projectさん『小槌遊戯』、感想と考察です。
作品に関するネタバレと深読みを含みますのでご注意ください。



使役、というのは、主従とはまた違う関係性だと思う。
あくまで使うものと使われるものではあるけれど、使役の場合、使われるもの側が人間ではないかつ存在としては人間の上位互換である場合がほとんどだ。そんな特殊な状況でどんな関係を築いているか、というところに、物語における"使役"の醍醐味があるんじゃないか……と思ったりする。


『小槌遊戯』には七組の使役関係が存在する。

滑瓢護とぬらりひょん。
狸塚八千代と隠神刑部。
鬼童頼光と酒呑童子。
雪永陽氷と雪女・白銀。
烏丸天愛と飯縄権現。
カミラとドラキュラ伯爵。
そして、タマモとフゥ。

タマモとフゥに関しては使役ではなく主従の方が適しているかもしれないけれど、関係性という意味でここでは使役に含めておく。ラストシーンで「あなたと私の契約は……」という文言もあったし、一応は人と人ならざるもののペアではあるしね。


作中で契約シーンから描写される瓢護とぬらりひょんは置いておいて、ほかのペアは物語開始時点までにそれぞれ積み上げてきた時間がある。
その時間が生み出した彼らの関係性はどこをとってもすごく素敵に見えて、物語を観る上で役同士の関係性に心惹かれる傾向が強い私にはまさに目が足りない状態だった。


瓢護に小槌血戦のなんたるかを教えてくれる、戌岡あやめさん演じる狸塚八千代と鈴木将史さん演じる隠神刑部。
この話では八千代ちゃんだけがその家の"当主"ではない。刑部からすればまだ18歳の小娘なんだけど、その小娘に自分の存在を刑部が預けているというのがすごくいいなと思った。悪友のような、おじさんと姪っ子のような気の置けないふたりのやり取りは軽快で、だけどそこにお互いに向けたたしかな信頼がある。自分の力の及ばなさを自覚して基礎を徹底的に磨き上げるスタイルの八千代ちゃんの努力は、頼光の言葉を借りれば「なかなかできることじゃない」し、それをやってのけるからこそ刑部が八千代ちゃんを主として認め、見守っているんだなと思った。

八千代ちゃんと刑部が文字通り使役という関係を超えた絆で結ばれたコンビだとしたら、鬼童頼光と酒呑童子はベストビジネスパートナー。そこにある信頼は狸塚チームのようなあたたかく微笑ましいものではないけれど、お互いの実力に裏付けされた確固たるものだった。
なによりお互いがお互いの得意をわかっているというのがこのコンビの強さ。好き放題行動する酒呑童子と手を焼く頼光……というのも間違いではないけれど、その実酒呑童子が無策に動き回っているわけじゃないことをわかっているから頼光はある程度好きにさせるし、自分よりも頭が回り情報収集や計算に長けていると知っているからこそ酒呑童子は場面に応じて身を引く。遊びでも馴れ合いでもない、大人としての揺るぎない信頼関係があるのがかっこいい。

そのふたりに共闘を持ちかけるのが雪永家当主・陽氷くん。わずか12歳とは思えない堂々たる振る舞いは、彼を小槌血戦の参加者と認めるには充分すぎるほどだった。幼くして両親を亡くし、小槌には両親の蘇生を願う彼の心の傷は計り知れないけれど、それをあたたかく包み込んで支えているのが白銀さんなんだよね。陽氷くんに使役される妖として、年不相応に成長しなければならなかった彼の母代わりとしてそこにいる白銀さんは、いつでもとても優しい目で陽氷くんを見守っていた。
陽氷くんがそんな白銀さんに素直に甘えられないところまで母子のようなふたりは、お互いの存在があるから実力以上の力を出せるコンビだったと思う。白銀さんがいたから陽氷くんは当主として立っていられたし、陽氷くんとだったから白銀さんは血戦のイレギュラー相手に互角に戦えた。

反対にイレギュラーであるドラキュラ家と手を組む策略をめぐらすのが烏丸天愛ちゃんと飯縄権現。ふたりを演じた加藤史枝さんと下瑞穂さんは前述のニビニジで観ていたこともあり、人と妖という種族を超えて親友として在る関係にときめいた。
使役関係的には頼光と酒呑童子に近いような気がしていて、天愛ちゃんと飯縄もお互いの得意不得意をよくわかっている。違うのは、前者が"相手の得意は相手に預ける"だったのに比べてこのふたりは"成し得るものが成すべきを成す"スタイルだったこと。相手の苦手な部分を埋め合いながら、双方自分ができる最善を尽くすからこそ、この友情が成り立っていたんだと思う。「飯縄が戦ってくれるのに私が何もしないなんてありえません」と言える天愛ちゃん相手だったからこそ、妖の力を使い尽くすだけ使い尽くす人間を飽きるほど見てきた飯縄がその命を共にする相手として天愛ちゃんを選んだのすごく納得がいく。対ぬらりひょん戦では瓢護の覚醒にさいして万全の状態になったぬらりひょんを見て、心に芽生えた不安を鎮め、勝利を互いに祈り誓うように手を握るふたりの横顔がとんでもなく綺麗だった。

そして今回のイレギュラーとして登場するカミラとドラキュラ伯爵。個人的に血の繋がりは人間が重きを置いているほどの意味はないと思っているのだけれど、それはそれとして血縁が大きな意味を持つこともあるのもまた事実だと思う。大おじいちゃんと孫娘だからこその愛があるドラキュラ家の関係性は、他のどのペアにもないものだった。
小槌への願いが"孫娘を人間に"なのがドラキュラ伯爵の愛だなぁと思って。純粋な人間ではない孫娘がそのことで思い悩んでいるのは、言ってみれば元凶である伯爵的には悩ましいところだっただろう。カミラの一挙一動を後ろから見つめる眼差しは孫に甘いおじいちゃんそのものだったし、事態を静観している時や戦いに赴く時の態度は絶対に孫娘を傷つけさせないという覚悟すら感じられるものだった。
そんなグランパからの愛を受け取っているからこそ、カミラもカミラで人に優しい子に育ったんだと思う。一生懸命話そうとする天愛ちゃんに「聞くよ」と寄り添い、彼女の策を純粋な心で賞賛する。カミラが自分の存在に悩みながらもまっすぐ育ったのは周りの愛ゆえだってことが、ふたりの空気感からはよくわかる。


どの家も、妖と人の間に築き上げてきた関係性がある。
ところが突如としてこの小槌血戦に放り込まれた瓢護と彼が使役するぬらりひょんにはそれがない。それどころか小槌血戦そのものに対する知識も理解もない瓢護に、百鬼夜行の主とまで呼ばれるぬらりひょんがついていたのは不幸中の幸いだった。力で言えば酒呑童子あたりでも十分心強かっただろうけど、事故で父親を亡くしたばかりの瓢護にとってぬらりひょんはこれ以上ないほど心強い相手だっただろう。

実際なにもかもが目まぐるしく過ぎて行く中で絶妙に取り残され気味だった瓢護は、ぬらりひょんと会話する中で自分の願いと向き合って行くことになる。


願いを持つのは人間の特権だと思う。
願いがあるからこそ人は進化してきたし、文明を興したり争ったりしてきた。願いを叶えようと奔走したり努力したりするのは人間の尊さだと思う反面、願いに囚われて盲目になる愚かさもまた人間の人間らしさであるとも思う。
『小槌遊戯』における各々が抱く願いは、本来なら叶わないものだ。頼光や陽氷くんが願う死んだ人の蘇生が一番わかりやすいけれど、世界平和や生まれついて持っているものをあるものを消し去ることも充分人間の力では実現不可能な願いだった。ところが打ち出の小槌の存在があることで、本来叶わないはずの願いが叶うかもしれない状況に陥っているからこそ、小槌決戦が起こり、参加者は願いに盲目になる。

その点瓢護が「おぬしの願いはなんじゃ」とぬらりひょんに問われた時に「わからない」と答えるのは、願いを持たない=人として絶えず進化するには不十分な存在であるということ、そして同時に願いに盲目になり大事なものを見失う恐れがないということを暗に示しているようだった。

物語開始時点の瓢護は鬱々としていて友達もおらず、そんな状況からまるで隠れるように生きていた。けれどこの血戦を通して自分の願いと向き合い、「きみ(=ぬらりひょん)を守りたい」という願いを抱いたあたりから精神的にとても強くなる。
一方で、願いを持っていないからこそ手の中にあるもの、たとえばぬらりひょんだったり八千代ちゃんだったり、そういうものを自分で大切にできる存在でもあった。このあたりはカミラが白銀と相打ちになったグランパに取り縋りながら「グランパがいなくなるなら願わなかった」と泣く場面に通じているけれど、願いに盲目ではない彼だったから、人が願いを抱く行為そのものを尊ぶ気持ちを持てたのだと思う。それはもしかしたら、血戦の参加者でありながら願いを持たない自分を自嘲した部分もあったかもしれない。それでも瓢護のその感覚は、物語を大きく動かすことになる。


結局のところ、人の願いを叶えるのは打出の小槌ではなく、人だった。
打出の小槌を求める行為自体、自分の願いを叶えようと参加者たちが足掻いているということで、その時点で彼らの願いは彼ら自身が叶えようとしていると言っていいんじゃないかと思う。それを我欲に塗れて醜いと思うか、一生懸命で美しいと思うかは紙一重の感覚なんだよね。

瓢護は血戦の参加者たちの願いや彼らの姿を、美しいとは言わないまでも尊重すべきものだと考えた。
少なくとも、人が願いを叶えようと足掻く姿を面白くて滑稽なものとして捉えて娯楽として楽しむフゥの態度は、瓢護にとっては到底受け入れ難いものだった。人が人として抱く願いを踏み躙る行為に怒り、人の願いを護ろうとする姿は、物語冒頭のおどおどした彼ではなかった。


ここまでの物語を見ていると、明らかにフゥ、つまり妲己は悪役だと言える。
けれど瓢護が戦いの後に「大事なことに気づけなかった僕のようだ」と妲己を評するように、彼女もまた物語冒頭の瓢護のように願いを持たない存在だった。いや、願いを叶えるために足掻く必要のない存在、と表現する方が正しいか。

妲己はその美貌で自分の願いをすべて誰かに叶えてもらってきた。
人が抱く願いは叶うものも叶わないものもあって当然で、だからこそ願いを叶えるために努力や改革が必要なわけだけれど、妲己にはそれがない(個人的にはその美貌を維持するところも努力だし、自分の武器を効果的に最大限使いこなしているという点で妲己が努力していないと評するのは嫌なのだが、今回は物語の流れ上そうであるものとする)。果ては打出の小槌を手に入れた彼女に叶わぬ願いは無くなってしまった。それはもう願いを持っていないのとほぼ同義なのではないだろうか。

彼女もどこか哀しい人だと思う。間違ったことをしているのにそれを誰からも指摘してもらえず、ちやほやされてばかりの人生。表面上は満たされても心から満たされることはないから、人生に飽き飽きして永遠の愉悦を求めた。
タマモこと九尾も彼女を止めたいと願いつつも契約に縛られてそれが出来ずにいた。けれど瓢護たちの活躍でようやく契約から解き放たれた時、気が動転して騒ぐ妲己を抱き寄せて魂だけでもともにと願ってくれるところに彼から妲己への想いが契約以上のものだったとわかって少し救われる思いがした。そのことに妲己がもう少し早く気づけていたら、なにかが変わっていたかもしれない。


私個人の感覚で言えば、『小槌遊戯』で描かれた彼らの血戦は、決して美しいだけのものではなかった。自分の願いを叶えるために他人を蹴落とすことは全体的に褒められたものではと思うから。
だからこそ酒呑童子は「叶わなかった願いの上にお前の願いがある」と瓢護に言い含めるし、瓢護自身ずっとそのことを気にしていてラストシーンではみんなに謝罪をする。

だけどあのシーンで瓢護を責める人は誰もいなかった。
その光景が、ある種全員の願いが叶った光景でもあったように思う。
親を失い、子を失い、その異質さから孤独を感じ、心を許せる者がいなかった彼らが一堂に会して笑いあう様子は、間違いなく小さな世界平和だった。

あの瞬間誰も寂しくない、というこの話の結末が、私はけっこう好きだ。


〈『小槌遊戯』公演情報〉※敬称略
制作:sakura project
公演期間:2024年10月24日〜10月27日
会場:シアター・バビロンの流れのほとりにて
作・演出:朝倉利彦