祈るよりも強く

令嬢と没落青年の恋物語

 ――たった一言。言葉に等しい重さの想いをかけてくれたら。

「だから、私を連れて逃げてって言ってるでしょ!」
 燃えるような赤い髪を揺らしてベルリダはアレンを見つめた。
 まっすぐな瞳。いつだってベルリダは、一途で、気高くて、情熱的で。だからこそアレンは彼女を離すことも、引き寄せることもできないでいる。
 真っ赤な髪を持つこの令嬢は、この町でも名高い富豪の娘。
 対する青年は昔こそ裕福な家に住んでいたが、没落して労働者となっている。
 二人が同じ立場で瞳を交わして、話に興じたのは、もうずっと昔のことだ――そして今美しく成長した令嬢は、別の富豪の令息のもとへ嫁ごうとしていた。

「無理だよ。僕にはそんな資格はないんだから」
 他の男に嫁ごうとしているのに止めるそぶりも見せないアレンに、ベルリダは嘆くよりも怒りを覚えて叫ぶ。
「私を愛してくれているんでしょう!」
「ベルリダ。僕はきみの髪がいつでも櫛を通され輝いているのを見ていたい。きみが鮮やかなドレスに身を包んでいるのを見れば、満足できる。その白い手を辛い労働で痛めて欲しくはないんだ」
「私にお飾りの人形になれと言うの? さらなる富をもたらすための道具になれと?」
 顔も見たことのない貴族同士の結婚など、政略的な意味しかもたない。炎のような気性の令嬢にとって、それは我慢しきれることではなかった。
 いや我慢の問題ではなく――
「私は婚約を受け入れた覚えはないわ! 父が勝手に決めたことよ。自分の行き先くらい自分で決めるわよ」
 ただ側にいたいのだというまっすぐな想いは、アレンを更に苦しめる。
「たとえ連れて逃げたとしても幸せにしてあげられる保証はないんだ」
「保証が欲しい訳じゃないの! どうしてわからないの?」
「わかってないのはきみの方だよ。働いても働いても、その日を暮らすので精一杯っていう暮らしがどんなものか。そうやって生きることはけっして楽じゃない。きれい事は通じないんだ」
 きれい事、と言い切られて、ベルリダは唇を噛みしめた。
……私は、あなたの本音が聞きたいのよ」
「本音なんて何の意味も持たないよ」
 パン! と小気味の良い音が響いた。
 アレンの頬を叩くとベルリダは勢いよく身を翻す。そして一度も振り返らなかった。

「できるわけないだろ……
 叩かれた頬を押さえながらアレンはぽつりと呟いた。
 誰よりも彼女の幸せを願うなら、当たり前の結論。自分は男で彼女を守る責任があるから、だから感情だけでは走れない。
 本音を告げれば彼女も自分も苦しむ。
 嘘にしかならない言葉なら、黙っているほうがずっといい。


 * * *


 真面目で正直で優しいアレン。
 家が傾き、すべてを失って貴族から労働者となったときでさえ、彼は純粋なままだった。
 世間を恨むこともなく真っ正直に新しい人生を歩むことにした。優しさだけじゃなく、強さもなければそんなことできない。
 ずっと、そんなあなたを想っていたのに。
 泣きながら屋敷に戻ってきたベルリダは、勢いよく階段を駆け上がり、私室に飛び込んだ。泣き顔など誰にも見せたくなかった。見せれば、つけこまれるに決まっている。
 ――お嬢様。新しい殿方の元に嫁げば、その傷も癒えますよ――
 下手をすればアレン自身が、そう言いかねない。
『本音なんて、何の意味も持たないよ』
 想いだけでは現実は変えられない、と。
「じゃあ何のために言葉があると思っているのよ」
 ベットにうつぶせになり、傍らに置いてある鏡に向かってベルリダは呟いた。心は簡単に見えないから、みな言葉に託して口に出すのに。
 なのに、アレンは何も言ってくれない。
 あなたが思っている以上に、あなたの言葉――本心は、私にとって重大なのに。
 たった一言、本当に愛してるって言ってくれたら――
 言ってくれたら、どうだというのだろう。何も変わらない。変わらないから、しょせんは無駄なこと? 自分のこの想いも、かつてアレンと過ごした日々も。
 だったら自分は何のために生きているのだろう。
 しばらく声を殺して泣いてから、ベルリダは一つの決意を固めると、ローブを纏い、屋敷を抜け出した。 


* * *


 戸を叩いたベルリダを、老婆が迎えた。
 町外れの庵には腕のいい術師が住んでいる。金貨さえ積めば毒薬でも媚薬でも何でも調合してくれる。更には念じるだけで相手を不幸に貶める、呪いまでもかけてくれるという。そうした力が必要なことも多い、貴族達の間ではよく知られた話だった。もちろん、どこまでが真実で、どこまでが噂かはわからないが。
「こんな夜更けに、いいトコのお嬢さんが何の用かい」
「頼みがあるんです」
 わがままかもしれない。だが、どうしても試してみずにはいられなかった。
 たとえ、この命をかけることになっても。


 ベルリダの話を聞くと、老婆は眉を寄せた。
「あたしゃ感心しないね。あんたの行いは、人の心を試すことだ。そんなことして何が得られるって言うんだい」
「嘘を抱くことでしか生きられないなら、死に近い場所ででも真実に触れたいんです」
 一途なベルリダの視線に、さすがの術師もため息をついた。
「あんたのその純粋さは称賛に値すると思うよ。けど命を懸ける価値があるとは思えない」
「同じことです。何もせずに後悔して、このまま一生を抜け殻で過ごすなら」
「抜け殻になるとは限らないだろう? 相手の男も案外良い奴かもしれないじゃないか」
 だがどんなに言葉を尽くしてもベルリダは折れなかった。
 結局折れたのは、老婆の方だ。
「あんたも不思議なお嬢さんだよ。こういう場合、大抵は惚れ薬をつくってくれって頼みに来るんだが」
「私はアレンの心を縛りたいわけではないもの。ただ本音を聞きたいの」
「男と女は違うよ。女は素直に言葉をぶつけられるが、男はそうはいかないんだ」
「それで大切なものを失うことになっても?」
「そうやって待つのが女だ――と言っても、あんたは納得しないんだろうね。あんたの祈りが通じるように願ってるよ」
 複雑な顔をして、老婆は告げた。通じなかったときの恐ろしさを知っていながら、ベルリダは微笑んで見せる。
「ありがとう。私もそう願ってるわ」


* * *


 ベルリダの婚礼が中止になった、という話を聞いたのは旅先でのことだった。
 さすがに彼女の婚礼に出席する気にはなれず、アレンはなけなしの貯金をはたいて、あちこちを放浪していた。いっそこのまま戻らず、新たな地で新たな生活を営むのも悪くはないかもしれない。
 アレンに、家族はいなかった。
 そもそも父の死が破産の間接的な原因であり、母は再婚して別の貴族の家に収まった。もう十分な年だったからこそ、アレンは一人で生きる道を選んだのだ。隣で語らう彼女の姿を思い描かなかったといえば、嘘になるが――
 婚礼中止の話に、なぜか不吉な予感を覚えて、アレンは町へ帰ってみることにした。
 ベルリダが必死で抵抗して、けっきょく破談になったのならまだいい。だが、あのときの彼女の思い詰めたような視線が蘇る。
 もしかしたら自分は、何か大きな間違いをおかしたのではないだろうか。

 そして彼は町にたどり着き、その予感が正しかったことを知る。
 婚礼の前日、ベルリダが花嫁衣装を纏ったまま毒をあおったと。幸いなことに一命はとりとめたが、仮死状態のまま眠り続けているのだと。


* * *


 言葉と心、どちらの方が重いのか。
 きみが望む言葉を捧げたいのは本当なのに。


 ベルリダの屋敷へ向かおうとしたアレンを老婆が呼び止めた。ぶしつけにアレンをじろじろ眺め、腕を組んで言う。
「成程。お嬢さんが入れ込むだけあって、なかなかの色男じゃな」
「! ベルリダのことを……
 顔色を変えたアレンに、老婆が一通の封筒を差し出した。そしてベルリダの策略をうち明ける。
 ――自分を永遠に眠らせて欲しい。目覚めたときアレンが側にくれるように。アレンにだけ解けるような、そんな呪術を自分にかけてくれと――
「何を考えてそんな……
「術をとく方法はお嬢さんがその封筒にしたためてある。あとは、あんた次第だよ」
 そう言って老婆は姿を消した。
 アレンはそんな老婆に声をかけるのも忘れ、急いで封筒を開いた。

『あなたがこの手紙を読む頃、私は死に等しい眠りに落ちていることでしょう。あなたは怒るでしょうね。何て馬鹿なことをしたんだと。あるいは嘆くかしら? 私を連れて逃げなかったことを。
 術師のおばあさんには怒られました。私のしようとしていることは、あなたを試すことだ、と。
 人の心をもてあそぶことは、最も深い罪悪だとわかっています。けれど、どうしても私は、あなたの本音を聞きたかった。
 ねえアレン。あなたは私のことを、本当に愛していますか?
 建前や立場なんか抜きにして。心からの、本当の言葉を聞かせて下さい。
 たった一言、正しい重さで「愛してる」と言ってくれたら。そうしたら、私はきっと目覚めるでしょう。
 考えるのは怖いことだけど、もしあなたが私を目覚めさせることができなかったら。
 それでも構いません。私はあなたを、けして恨みません。
 ……あなたは怒るかもしれないけど、私はこの方法を、後悔はしてないのよ。
 本当は逃げも含まれているんでしょうね。目が覚めなかったとしても、私は意に添わぬ結婚を避けることができるんですもの。
 私が目を覚ましたときは、あなたの腕の中にいられるよう祈りを込めて』

……ベルリダ」
 思わず手紙を握りつぶしそうになって、慌ててアレンはそれを押し留める。こんな真似をしなくても僕の気持ちなど解っているだろうに。
 手紙を注意深く折り畳むと、アレンは急ぎ足でベルリダの屋敷へ向かった。
 簡単なことだ。ただ愛していると言えば済むことなのだから――


* * *


 ベルリダの屋敷に着くと、とたんに大騒ぎとなった。
 かつて貴族身分だったころアレンはこの屋敷によく訪れていたし、この屋敷の令嬢が彼に想いを寄せていた、いや今も変わらずに寄せていることを知らぬ者はいなかったからだ。ましてや、これ以上はないほどの立派な形で、他の男との婚姻を拒絶したあとのことだ。
「何をしに来た」
 詰問してきたのは屋敷の主人である伯爵――ベルリダの父親だった。相手をいすくめるような強い視線は、ベルリダにそっくり受け継がれている。
 アレンは手紙を渡すと、今さっき老婆から聞いた話をそっくりうち明けた。
 憤怒に赤く燃えていた伯爵の顔が、娘の手紙を読むと白く変わった。嘆くような、呆れたような声でうめく。
「愚かなことを……!」
「僕を疑わないんですか? もしかしたら、僕がベルリダをそそのかしたのかもしれませんよ」
 ちらりと伯爵は顔を上げると自嘲気味に笑った。
「 私はきみの人柄は高く買っているのだよ。きみはそんなことができる青年ではあるまい。過激だとは思うが、確かに娘のやりそうなことだ。それにきみなら解っているはずだ。こんなことをしても何も変わらないということに」
「ええ」
 純粋でまっすぐなベルリダ。だけど、愚かで、幼い。そんなきみの輝きを愛しているんだけど。気持ちだけでは動かないことは、この世に山のようにあるというのに。
 ――僕と一緒になったら、きみだけではなく、『家の名前』にも傷がつくんだよ。
「きみは、娘を起こすことができるのか?」
「はい」
 愛しているのか? との質問に迷いなく答えた青年に、伯爵はため息をついた。
 そして、ふと思い出したように問いかける。
「それにしては、ずいぶん来るのが遅かったな。婚礼は一ヶ月近く前だったはずだが」
「町を出ていましたから。ベルリダとはずっと会っていません。これから先も会うつもりはありませんでした」
「そうか」
 ぽん、と伯爵はその肩に手を置いた。その重さが、娘を助けてくれとの願いにも、アレンを慰めているようにも感じられた。


* * *


 ベルリダの部屋に通される。
 ベットに寝かされたベルリダは、花嫁というより、気高い聖女のように見えた。純白のドレスがそう見せているのかも知れない。そしてたった一つ鮮やかに色を放つ、赤い髪。生命力に溢れていた強い瞳は、閉じられたままだ。
 こんな形ではあったが、こうして彼女にもう一度会えたことは、嬉しかった。
 陶磁器のような頬に手を伸ばし、髪をかきあげてやりながら、アレンが告げる。どこか泣き笑いのような顔で。
「愛しているよ、ベルリダ。本当に。きみにはわからないかもしれないけれど」
 連れていってあげられなくて、ごめんね――

『ねえアレン。あなたは私のことを、本当に愛していますか?』

 答えなど当たり前だと思ったし、簡単なことだと思った。自分の心など自分が一番よく知っていると。
……ベルリダ?」 
 氷のような冷たさを感じながら、アレンは名を呼ぶ。だがベルリダは答えなかった。
 その瞳を固く閉じたまま。


* * *


 ベルリダの屋敷から、どこをどう辿ったのか覚えていない。半狂乱のようになった自分を、使用人達が取り押さえて、外へと追い出したことは朧気に覚えている。
 気がつけばアレンは術師の老婆の庵へ訪れていた。
 自分の心が自分を裏切るはずはない。何か、手違いがあったとしか思えなかった。
 だが老婆はそんなアレンの希望を打ち砕いた。
「やっぱり、無理だったかい」
 その口調にアレンは思わず息を止めた。
……どういうことですか。失敗するとわかっていたと? じゃあベルリダは……いや、そもそも彼女にかけた術とはどんなものなんです!」
 血を吐くようなアレンの叫びに老婆は暗い目をして答えた。
「あたしが与えたのは言霊に反応する眠り薬さ。最後の仕上げ――言葉で術をかけたのは、あのお嬢さん自身だよ」
 薬を飲む際、一つの言葉を念じながら飲み干すこと。その言葉の音と力が術の解除になるからと。老婆が与えた術はそうしたものだった。
 ベルリダが言霊として用いた言葉は『愛してる』
 そのとき重要なのは『たった一言、正しい重さで「愛してる」と言ってくれたら』
「正しい重さ?」
「彼女がその言葉に託したのと同じ気持ちで告げろ、ということだよ」
 アレンの顔つきが鋭くなった。
「僕の気持ちがベルリダより軽いとでも? そんなこと……
「違うよ。あんたの気持ちは本物だろう。けど、それじゃ駄目なんだ。あの子の望む形で、言葉にしてやらないと」
 不可解な顔をしているアレンを憐れみながら、老婆は続けた。
「男と女は違う。どうしたって感性の違いは出るんだ――ましてや愛なんて抽象的な感覚には。何度も注意したさ。この術に抽象語を使うなってね。人名でも何でもいい。物体を指す言葉なら記号として効いたろうに」
 しかし彼女の目的がそこにある以上、老婆の注意など何の役にも立たない。
 ベルリダが選んだのは最も難解で危険な方法。
 愛という、不確かなものを測ることだ。
 徐々にその難しさが飲み込めてきたアレンは蒼白になる。測る方も測られる方も、何を基準にすればいいのかさえもわからないのに。
 老婆はぼそりと呟いた。
「あんたにゃ悪いが、あたしにはこれは緩慢な自殺としか思えなかった。賭けるにしちゃ、あまりに穴だらけとしか言いようがない」
「じゃあ、どうして薬を……
「やらなきゃ、あの子は本物の毒を飲んだろうよ!」
 その言葉にアレンの顔が苦痛に歪んだ。ベルリダの性格を考えれば確かに老婆の言うとおりだった。
 待ち望んでいたのは死だったのか、自分なのか。
 ――ベルリダ。きみの気持ちがわからない。
「これが手助けになるかどうかはわからないけど」
 うち沈んだアレンを見かねたのか、それとも責任を感じているのか老婆が言った。
「あの子は、あんたの気持ちを疑っていたわけじゃないんだ」
……え?」
「あんたが自分を愛してくれていることは知っていたってことさ」
 それはアレン自身もそう思った。答えなど聞かなくてもわかるだろうに――と。
「それとね。あんたの立場も察していたと思うよ。おそらく、どうすることもできないんだろうってことも」
「そこまで知っていたなら、どうして……
「だから、かもしれないだろ。八方ふさがりなら、どんな方法をとっても同じだとね。人の心に寄り添う方法の一つは、その人の立場になって考えることだ。お嬢さんと一緒に過ごしてきたあんたなら、彼女の想いがわかるんじゃないのかい?」


* * *


 人の心なんて見えない。ましてや愛なんて、どうやって測ったらいい?
 どんなにきみを想い、きみを愛しているか、きみにだってわからないだろう。
 そんなこと当人しかわからない。
 いや、もしかしたら当人にだって――

 あれから数日間。ベルリダの屋敷に出かけ、何度も囁いてみたが、すべて失敗に終わった。答えの糸口すら見つからず、アレンは毎日を思いわずらったまま過ごしていた。けれど自分がベルリダを目覚めさせる鍵である以上、自ら死を選ぶことも発狂することもできない。
 来る日も来る日も、彼女のことを想うだけ。
 そんな想いのまま町をさまよい歩き、いつの間にかアレンは、あのときベルリダと別れた公園の裏口に立っていた。あれが動いているベルリダを見た、最後だった。
『だから、私を連れて逃げてって言ってるでしょ!』
 ――連れて逃げていればよかったのか?
 叩かれた頬の痛みを思いだし、アレンは弱々しく笑う。頬よりも、心に直接むち打たれたような気がして痛かった。あのときベルリダは何を思っていたんだろう。
……私は、あなたの本音が聞きたいのよ』
 鮮やかな赤い髪。まっすぐな目。悲痛な声。
 まったく同じ気持ちだった。
 ベルリダ、きみは何を望んでいる?
 たった一言教えてくれたら。そうしたらその通りに――
 でも、けっきょく同じだ。愛してるの言葉が欲しいなら、いくらでも言ってあげる。けれどそれでは駄目なのだと。
『本音なんて、何の意味も持たないよ』
 ぞくりとアレンは震えた。そう答えた自分を思い出したのだ。その言葉が自分に鋭く跳ね返ってきている気がした。
 ――自業自得、かな。
 思考能力など麻痺しきった頭で、ゆらりと笑おうとしたその瞬間、不意に何かが胸を突き、アレンは目を見開いた。


* * *


 屋敷にやってきたアレンを見て、伯爵はため息をついた。どんなにやつれても失望しても、彼はまだここにやってくる。
 彼を追い返そうとは、思わなかった。娘を救えるのは彼だけなのだし、ここまでくれば、いっそ同情すら寄せていた。
 要求された通り、心を込めて愛を告げ――だが、裏切られる。しかも何度も失望させておきながら、諦めるという方法はとらせない。眠ったままの横顔は動き出すことを待っているようで、次は、明日は、もしかしたらという望みをかけさせるから。
 これほど残酷な仕打ちも他にないだろう。必死にアレンがすがるさまは、見ていて痛いほどだった。憔悴しきっているのは伯爵も同じで、むしろ何もできないからこそ言いたくなってしまう。
 ――もういい、と。
 娘もこれで本望なのだろうと。
 実際あと一歩のところで言いかけ……その言葉を呑み込んだ。
 アレンは伯爵にも気付かない様子で、そのままベルリダの部屋へと消えた。いつもの思い詰めたような表情ではなく、もっと透明な表情のまま。

* * *

 眠ったままのベルリダを、アレンは静かに見つめた。
 今なら毒でも何でも飲める気がした。そっと腕を伸ばして、彼女を起こし、そのまま抱きしめる。柔らかな体は記憶よりも細くなっているようで。波打つ赤い髪に顔をうずめると、かすかに甘い香りがした。
 悲しみも焦りも懐かしさも、そこにはなかった。
 ましてや自分の身分も互いの立場も、失敗した策略なども綺麗に消えて、もっともっと純度の高い気持ちで。
 ただ――愛しく。
「愛してるよ」
 抱きしめたまま、アレンの目から透明な涙が落ちた。
 すべての想いを込めた結晶のように。


 ふわりと軽く、ベルリダの腕がアレンの背に回された。我に返ったアレンは硬直したまま動けなくなる。そんなアレンの耳元でベルリダの声が響いた。
……ごめんなさい」
 かすれた声は泣いているようだ。
「夢を見たわ。あなたが苦しんでいる夢を」
 アレンは何も言わず目を閉じ、力を込めて、ベルリダを抱きしめる。
 それはきっと報いだろう。
 ――真剣に願った。きみの気持ちが知りたいと。たった一言。本当に心からの言葉を聞かせて欲しいと。
 なのに僕は「本音など意味がない」と返した――
 愛していると自分では思っていた。
 けれどいつの間にか、愛しているつもりになっていたのかもしれない。
 いろんな隔たりが道を遮って、それを仕方ないとしか思わなくなっていて。
 祈るような、それでいて祈るよりも強いこんな想いを、僕はきみに伝えられていただろうか。何よりも先にあるはずの本物の想いをちゃんと言葉で伝えていたろうか。
 恋人達はただ静かに、固く抱き合っていた。


* * *


 ――こののち。
 アレンの母が、息子を引き取るための正式な手続きを交わした。再婚相手も承知したそうだ。
 そこにはベルリダの父の強力な働きかけがあったという。ベルリダは純白のドレスを纏い、今度こそ幸せな花嫁となったそうだ。