みずあめ
2025-01-12 20:54:36
5092文字
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神麗

遅刻誕生日

時計の針が天辺に近づく夜十一時過ぎ。ランニングから帰ってきてシャワーを浴びた俺は、ストレッチをしたら今日はもう寝ようかなぁと考えながら濡れた髪を適当にタオルで拭いていた。
唐突に、ガチャッとドアノブが回される音が部屋に響く。驚いて目を丸くし玄関が見える扉から顔を覗かせてみると、もう一度ガチャガチャとドアノブが動いた。しっかり閉じられている鍵に阻まれてそれが回り切ることはないけれど、こんな時間に鍵のかかったドアノブを荒々しく回すのなんて、不審者以外の何者でもない。
周りを危険に巻き込まないためにも警察を呼ぶか、様子を伺って穏便に済ますことができるか。すぐに判断ができず迷っていた俺の耳に、コン、コン、と弱い力で扉をノックする音が届き、次いで「かみやぁ……いねーのか……」と、声が。
頭の中で考えていた色々なシチュエーションを全て放り投げ、俺は玄関に向かって大股で進みなんの躊躇いもなく鍵を開けた。むこうからドアノブを回されるより先に自分でそれを回し、玄関の扉を大きく開く。
「わ。……んだよ、いんじゃねーか……
「麗、どうしたの? ……酔ってる?」
「よってる。さいあくだ。みず、あるか」
「ある、けど……とりあえず入る?」
「ん」
赤く染まったほっぺたと眠たそうにゆっくりと瞬きをする瞼、甘くもつれる舌で吐き出される言葉にトゲは少ない。部屋の中へ招き入れると麗は玄関に座ってブーツの靴紐に手を伸ばした。
扉が閉じて二人きりになった途端、ふわりと香ったのはアルコールと、麗のじゃない香水の匂いだった。
……誰と飲んでたの?」
「ばかろか。あと、しのぶもいた」
「ああ、芦佳さんの家行ってたんだ」
「ん。……かみや」
「うん?」
「ぬげない」
時間がかかってるなぁと思っていたら、どうやら今の麗には難しいようだった。むすっとした顔で俺の方を振り返って見上げる麗に表情を緩め、麗の正面に回って素足のまま玄関にしゃがみ込んだ。
たぶんちょうちょ結びになっていたはずの靴紐は、今の間に麗が固結びにしてしまったみたいだ。指先を使って丁寧にそれを解いていく。
……かみ、ぬれてる」
「え? ああ、うん、お風呂出たところで」
「んー……ふろ……はいりたい……
「明日にしたら? 酔ってるから危ないよ?」
……
「麗?」
……なんでもねーよ。……みず」
「待って、もう解けるから……、よし! はい、靴脱いで、立っていいよ。立てる?」
「て」
「ふふ、はい、どうぞ」
どれだけ横柄な態度でも、俺に甘えてくれるなら大歓迎だ。俺は麗より先に立ち上がり、両手を掴んでぐっと引っ張り上げた。引かれるままに立ち上がった麗はふらついて俺にぶつかり、理不尽に「おい」と怒って俺を睨み上げてくる。全部が可愛くて笑っちゃっていた俺を見て麗の目つきが余計に悪くなった。
「ごめん、ふっ……、だいじょうぶ?」
「わらってんじゃねえよ」
「んふふ、ごめんね、だって可愛いんだもん」
……
「お水、冷たいのと、あっためたの、どっちがいい?」
……あったかいの」
「了解、じゃああっためよう。歩ける?」
「あるける。ばかにすんな」
「馬鹿にしてるんじゃなくて心配してるんだよ」
片手は離して、でももう片方の手は繋いだままで玄関からリビングへと移動する。麗は普段なら振り払っているだろうその手を繋いだままで俺の後をついてきて、暖房の効いた暖かい部屋に入るとほっと体から力を抜いた。
「座って待ってて。すぐにお水持ってくるね」
「ん」
素直に言うことを聞いてくれる麗って、ちょっと怖い。俺はまだ酔った麗に慣れてないからずっとドキドキしちゃうし、いつ酔いが醒めてしまうか気が気じゃないから。
マグカップに水を入れ、電子レンジをセットする。あまり熱くし過ぎても飲みづらいだろうから弱めに、少しだけ。
「かみや」
「っ、どうしたの? すぐ持ってくから、座ってていいよ」
……て」
「え? ……えっと、……はい」
……
…………?」
……よってる」
「う、うん。そうみたいだね……?」
「よってるから、……ついでにからだもかせ」
「え、っ!」
差し出した俺の片手を両手で握って黙り込んでいた麗は、そう言うと手を離して今度は俺の体をぎゅっと抱きしめた。俺は咄嗟に両手を上げて降参のポーズを取ったまま、麗のいつもより高い体温に抱きしめられて固まってしまう。
どうしよう。ていうか、なにこの状況。酔ってるからって、麗からこんなふうに抱きついてくるなんて、夢を見てるみたいだ。いま俺が手を出したら俺が悪いってことになるのかな。
品のないことを考えながら、それでも両手は麗に触れることなく、まだしっかり残っている理性で麗の様子を伺った。芦佳さんの家でどれほど飲んだんだろう。こんな状態で一人で帰ってきたの? これだけ香水が移ってるってことは芦佳さんか篠信くんにもこうやって抱きついたりしたのかな。
……麗」
ピー、ピー、ピー、と無機質な音が俺の言葉を遮る。電子レンジが鳴っていた。音に反応してそちらを向いた隙に、麗はあっという間に俺から手を離して電子レンジの方へ体を向けた。
扉を開いて手を伸ばす麗の肩越しに腕を伸ばし、麗の手がマグカップに触れるより先にその手を掴む。麗はビクッと体を跳ねさせて振り向き、宝石よりも美しく鮮烈な瞳に俺を映した。
……コップ、熱くなってるかもしれないから。俺が持ってくよ」
……
何かを言いたそうに唇を動かして、でも結局何も言わないまま、麗はかすかに顎を引きするりと猫のように素早くキッチンを出て行った。残り香がいつもの麗と違うことで激しく主張していた心臓が少しだけ落ち着く。麗は酔ってるんだから、年上として責任持ってちゃんと部屋まで送ってあげないと。
どうして俺のところに来たの。お水なら、麗の部屋にもあるでしょう? 聞きたい問いは飲み込んで、温かくなったマグカップを持ってリビングへ向かう。ソファーに座っていた麗は俺を見上げてツンと唇を尖らせた。抱きしめられたクッションはぎゅうっと潰されている。
「はい、ちょっと熱いかも。ゆっくり飲んでね」
「ん」
……一人で帰ってきたの? 大丈夫だった?」
「なんで。ふつうだろ」
「だって今日すごい酔ってるから。連絡くれれば迎えに行ったのに」
「おまえの迎えなんていらねー」
……でも心配なんだもん。酔った麗、すごい可愛いから」
…………目が腐ってる」
「ふ。酔ってても酔ってなくても麗は可愛いよ? 俺にとっては特別、他の誰よりも、ずーっと可愛くて仕方ないんだ。ねえ、ちょっとだけぎゅうってしていい?」
……
「ちょっとだけ」
ちびちびと水を飲む麗の手からマグカップを取り上げて、膝の上にあるクッションも俺の後ろに隠してしまう。赤い頬を俺に向けて固まった麗に腕を広げて見せると、麗はぴくっと肩を揺らし、それからゆっくり俺の腕の中に体を寄せた。包み込めるくらいの俺より小さい体を、そっと、ぎゅっと、抱きしめる。
麗、本当にまだ酔ってる? 可愛く染まったその頬はアルコールじゃなくて俺のせいじゃない? 俺のせいだって言って、なんて。必死に抑え込んだ独占欲で心臓が痛む。優しさだけで麗を好きでいたいのに。息を吸って、吐いて、ざわつく胸の内に耐えられず俺は口を開いた。
「麗、やっぱりお風呂今日入ってほしいかも」
……なんで」
「知らない匂いがして落ち着かない。芦佳さんとか篠信くんに嫉妬したくないから、いつもの麗の匂いになってほしい」
…………ばかかみや。今日、ザワに、おまえの匂いするって言われたわ」
「え。……え?」
「ザワにからかわれるし、芦佳には無駄に絡まれるし、最悪だった。そんでザワがおまえのこともからかってやるって、香水振りかけたブランケット被せてきてそれがすげークセェの。……しっかりからかわれてんじゃねえよアホ。全部おまえのせいだ」
……おれの、におい、……麗から?」
俺の顔を覗き込んできた麗は、驚いたように目を丸くした後、くすっと笑って俺に顔を近づけた。こつんと重なった額から熱が混じり合い、至近距離で絡んだ視線が優しく俺を射抜く。
……こんだけくっついてたら、うつるだろ」
すりっと擦り付けられた鼻先。囁き声どころかかすかな呼吸音すらも聞こえる距離感は、たしかに、匂いが移るには十分すぎるくらい近い。
麗が瞼を閉じると意志の強い瞳が隠れて可愛いお人形のようだと、きっと言ったら怒るから心の中で思うだけにして俺も静かに瞼を閉じた。唇の位置は目を瞑っていても間違えない。重なった唇はいつもより熱かった。
「うらら、まだよってる?」
……よってない」
……酔ってないの?」
「よってたら、おまえ、抱いてくれねえだろ」
肩を押されてソファーに倒れ、麗が俺の上に跨った。くしゃっと乱れた前髪からまぁるいおでこが覗いてる。もうほっぺただけじゃなく、顔全部が真っ赤に染まってた。
「誕生日プレゼント寄越せ」
「ぷ、プレゼント……。でもこの前、なんもいらないって」
「気が変わった。おまえをもらう」
「え。……っ、まってまって、プレゼント! 本当に用意してあるやつあるからそれももらってほしい!」
「はぁ? なんだそれ。この前渡せよ。なに遠慮してんだバカ」
「だっていらないって言われたらショックだし、絶対受け取ってもらえるようになるまで取っとこうと思って」
「わかった、後でな。あー、風呂入ってねえんだった……。『待て』できるか?」
「そんな犬みたいな……。ていうか、まだちょっと酔ってるでしょ? お風呂、一人じゃ危ないよ」
……えっち」
「!? ち、ちが、そういう意味じゃ……やっぱりまだ全然酔ってるよな!?」
「ふ、酔ってねー」
ちゅ、ちゅっ、と甘い音のキスを数回して、麗はご機嫌に笑いながら俺の頬を両手で包んだ。準備をしていない麗をこのまま抱くことはできないのに、深くなるキスといつもより曝け出されている麗の可愛らしい素の表情に熱が上がっていく。
「かみや、かお真っ赤んなってる」
「当たり前だろ……!」
「いい気味だ。もっと余裕なくなってろ」
「いやだ。うららのこと、大切にしたい」
……もう十分してもらってる」
聞いたことのない優しい声に驚く間も無く、麗の手が俺の服の中に入り込んでくる。わぁっ!?と声を上げる俺を見て口角を上げるいたずらっ子の手を掴んで止めると、麗は舌打ちをして俺の鼻にかぷりと噛みついた。
「すんの、しないの」
……おふろ、入るんだろ?」
「あー、そうだった……チッ……。んじゃ、『待て』だ。いい子にできるか?」
……わんっ」
「コレ、抜くなよ。そのまま待っとけ」
「え、うそ」
「『待て』だろ? 無駄打ちしねぇで大人しくしとけ」
「っ……、うー……
「ふ。それ、抜いてから準備すんのでもいいけど」
……うららのなかでいきたい」
……チッ。……すぐ終わらせてくるから待っとけ」
言い捨ててちゅっとキスをした麗は俺の上から下りて足早にリビングを出て行った。すぐに浴室の扉が開く音が聞こえ、少し経ってからシャワーの音が聞こえる。その間ずっとソファーから起き上がれないまま、俺は両手で顔を覆って唸り声を上げた。
「プレゼント……渡して良かったんだ……
それなら当日、ちゃんと渡してあげればよかった。特務のみんなでお祝いをして直接おめでとうは伝えたけれど、想像していた通り麗はあんまり誕生日自体を喜んではいないようだったからそれ以上に二人きりで祝う勇気が出なかった。たぶん今日の芦佳さんの家での飲み会もわざと当日からズラした誕生日祝いなんだろう。からかわれたとか絡まれたとか言っていたけれど帰ってきたのがこの時間であれだけ酔っていたということは麗も芦佳さんたちとの時間を楽しんだはずだ。いろいろと文句は言うけれど、麗は気を許した人と過ごす時間は嫌いじゃないようだから。自惚れて言うと、特に俺とか。
少し時間を置いてようやく気持ちが落ち着いた俺はソファーから起き上がり元々乱れてはいなかったベッドをきちんと整えた。枕元に必要なものを用意して、冷蔵庫の中で冷えていたペットボトルの水をテーブルに置いておく。
プレゼントは、明日の朝にしようかな。今は麗が戻ってきたらすぐに触れたい。誕生日プレゼントで俺をねだってくれる可愛い恋人を、もう一秒だって待たせたくないから。