いを
2025-01-11 17:47:08
3487文字
Public ブツメツフツマ
 

永日に重なる傷痕

無告
・公紲さん【higasa_onink】
お借りしています

 非常勤といえど、いち教師として生徒に贈り物をすることは眉をひそめる行為だろうとは分かっている。分かっていながら無告は鞄の中に忍ばせたのだ。
 エメラルドグリーンの箱にかけられた真っ白なリボン。その中にはずっと使えるであろう、真鍮のボールペン。じき彼も大学生になる。これくらい持っていてもおかしくはないだろう。そう思うのはただの――言い訳、だろうか。
 どこもまばゆい。光が右目に直接吸収されるようで、暗い夕方でもこの時期はサングラスがかかせなかった。コートのポケットに手を入れると、レシートが出てきた。目をこらしてみれば去年のもののようだ。手のひらで再びくしゃりと丸めて、また同じようにポケットに入れる。ここにはごみ箱がない。時計を見てもまだ時間はきておらず、コンビニの照明をみとめて、足は自然とそちらに向かう。
 百円のホットコーヒーを買って、ミルクを入れ、そろそろとコンビニの外に再度出た。コンビニに入るひとたちの邪魔にならないように、すみのほうでコーヒーをすする。こんなふうに人と待ち合わせするのは久しぶりだ。約束でもなければ、気安く会えるような関係ではなくなってしまった。いや、約束すらも禁忌となってしまうのだろうか。教師と、生徒というものは。
「無告くん」
 白い水蒸気がかすかになびいている。視線を動かすと、公紲が立っていた。すこし、急いできたように見えた。
「公紲くん。こんばんは」
 そっと微笑むと、彼も同じように笑う。チカチカとまるで急かすようにイルミネーションが瞬いている。
「寒いですね。とはいっても、ホワイトクリスマスにはならないようですが」
 なにかの言い訳のように伝えると、公紲はそっと目を細めて「そうですね」と答えた。できるだけ自然に見えるように、視線を下げて鞄の中をさらう。
「クリスマスですから。ほかの生徒さんには秘密ですよ」
……無告くんから……?」
 驚いたように彼は目を軽く見開く。すこし照れたふうに、頷いた。エメラルドグリーンの箱を差し出すと、彼は両手でそっと受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
……せっかくですし、私の家に来ませんか? 家といっても実家ですが……
 ここだと実家である寺が近い。今住んでいるアパートよりも。
「あ、君がよければ、ですけれど」
 断れないような、狡い言い方になってしまっただろうか。言い淀みながら、公紲を見上げた。
「ぜひ」
 懐かしい、とふと思う。
 彼のほんの少し照れたような、それでも嬉しそうな表情が、懐かしい。
 心の内側で安堵しながらコンビニに背を向ける。息が白く、からだの芯からかじかむような寒さだ。手袋はもとからしているからよかったが、それでも手先は冷たさが染み入る。
 ここから数分歩くとすぐ境内だ。少し離れたところに滑り台やブランコがある小さな公園もある。そこを通り過ぎると日本家屋の広い家があった。
 自室には外から直接入れるため、沓脱石に靴をおいて自室に入った。
「どうぞ」
「お邪魔します」
 公紲も靴を脱ぎ、揃えて部屋に上がる。滅多に帰らないがそれほど殺風景というほどではない。が、暖房器具は石油ストーブではなく、エアコンだけだ。リモコンで起動させると、すこし煙っぽい空気が流れた。
「すみません。エアコン、掃除していなくて。ちょっと埃っぽいですね」
「いえ。あまり、帰っていないんですね」
「お恥ずかしながら。近頃はアパートと学園の往復だけです」
……忙しい、でしょうね」
 ぽつりとこぼす。彼は優しいから、きっと気を遣ってしまうだろう。座布団を押し入れから取り出して、畳の上に敷いた。促せば公紲はゆっくりと、そして慣れたように座った。
「そうですね。師走といいますから」
 彼は手のひらにおさまっているエメラルドグリーンの箱を見下ろしている。
「どうぞ、開けてみてください」
「あ……。ありがとうございます」
 はっとしたように、彼は顔をあげた。それから、リボンを指で器用にほどき、箱を開く。薄いベージュ色をしたシルクの布の中に、ボールペンが行儀良くおさまっている。
 しっかりとした黒い色のボールペンには、彼の名前の一文字が彫られていた。
「ボールペン……ですか?」
「ええ。近々、使うと思って」
 そう言うと、公紲はボールペンをそっと持ち上げた。くちびるが、「重い」と象ったように見えた。
「真鍮でできています。長く使えると思いますよ」
「真鍮……
「書きやすくて、経年変化も見やすい。育てる、といっては言い過ぎかもしれませんが、きちんとケアをすれば十年はもちます」
 鞄を開けて、ペン入れから自分のボールペンを取り出す。
「私も持っているんです。もう、五年くらい使っているかな。持つひとの手の脂、指紋やキズ。それらが間違いなく刻まれていく。やり直しのきかない、人生のようなものですね」
 口をつぐむ。
 すこし説教くさかっただろうかと思ったのだ。彼の顔を見ると、すくなくとも穏やかなものだった。
 ペンを再度箱の中に入れて、そうっと、宝物に蓋をするように閉じた。
「ありがとうございます。……とても嬉しいです」
「よかった。君もじき、あの学園から卒業しますし、大学生になっても使えるいいものをと、よく考えた甲斐がありました」
……無告くん」
 静かな声だった。
 さらりときれいな髪の毛がゆれる。
「寂しい、ですか?」
……そうですね。寂しい。卒業してしまうのは……。いえ。教師がこんなことを言ってはいけませんね。すみません。忘れて――
 忘れてください、とはあまり、言いたくはなかった。
 そっと生ぬるい酸素をのむ。そして、ゆっくり吐き出す。
……何人も何人も卒業していく生徒を見て、そう思ってしまったことも、確かです。たしかに、私は」
 寂しい、と――
 彼はくちびるを閉じて、静かに聞いている。膝の上に置いた手を丸めて、爪を手のひらにあてがう。
「私の、ことも?」
 そして、彼はそういった。
「私が卒業するのも、寂しいですか?」
 まるで、念を押すように、確認するように囁く彼の目を見る。彼は、公紲は――無告を好きだ、と言った。その心に、気持ちにうそ偽りがないことは痛むほど分かる。彼はおそらく〝大人という存在〟に頓着していない。〝大人〟を〝ひとりの人間〟として捉えている。〝大人だから〟と、言わない。だから、〝大人である黛無告〟という存在に、特別を見いだしていない。〝ひとりの人間である黛無告〟を、彼は見ているのだと、うぬぼれている。
 だからこそ自分も――無告も、〝ひとりの人間である隠岐路公紲〟を見なければいけない。否――義務ではなく自分の胸中で感じ、見たものを伝える日がきっといつかくるだろうと――
「寂しいです」
 今は、これが精一杯だ。
 彼が大学生になれば毎日顔を合わせることもない。ここよりもさらに大きなコミュニティの中に入り、さまざまなものを、そしてさまざまなことを学び、吸収し、自分のことを自分で決めるようになる。――なれる。きっとこれを世間は大人になるということなのだろう。
……とても、」
 寂しい。
 大人になるということは変わることだ。変化することだ。羽化、といってもいいだろうか。無告はとっくに変わり、変化し、彼と初めて出会ったときにはもう、羽化は終えていた。――その変化の前を、彼は知らない。変化する前にはもう戻れないからだ。だから、彼が好きな「黛無告」は、変化した先の「黛無告」なのだ。だから――だからこそ素直に安心し、彼の好意に触れることがゆるされた。
……すみません。せっかくのクリスマスなのに。ケーキなんかはありませんが、お菓子なら……
「いえ……。いえ。無告くん」
 それが聞けて嬉しいと言うように、彼はほほえんだ。
 つねにやわらかい態度の公紲は、きっと下の学年の子や同級生にも人気があるのだろうと想像する。知らないうちにだれかから好意を寄せられているかもしれない。ひとまわり以上離れている自分よりも、年の近い子と親しくなったほうがいいのではないか、と思うが、そう考えるほど無意識に胸に鈍痛がうまれる。とても醜い、坊主にはあってはならない欲だ。それでも、と思う。幼い頃から見てきたこの子を、今さら手を放せない。積み重ねてきた過去を、なかったことにはできない。
「無告くん……?」
「君は、どんな大人になっていくのでしょうね」
 そんな、苦し紛れのようなことを、呟く。