ゆきち
2022-01-04 01:36:15
4754文字
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【ノラ菊】雨音

はじめての右菊はノラ菊になりました。謎時空、謎時代の謎ノラ菊です。
明治でも昭和でもない。もっと前のような感じも。
4500字程。
短くすることに注力したので展開が早く、接吻もなく未遂でぶつりと終わります。


 五月雨の中、古い空き家の軒下でひとりの男が雨を凌いでいた。十日ほど前に奉公先から暇を出され、行くあてもなくここへ来た。木綿の着物はもっと明るい柿色をしていたが、着古して海老茶色に変わっている。まとわりつく湿気は不快だし、飛んでくる蚊を追い払うのも鬱陶しい。
 長雨はいっこうにやむ気配がなく、男がここで雨宿りをしている間、幾人かの商人や旅人が軒の下へやってきた。

 そのうち、ひとりの旅人らしき男が手ぬぐいを頭にかぶって軒下へ飛び込んできた。
 男はすっかり濡れてしまっていたが、手ぬぐいで頭や顔を拭きながら「あんた、旅してんのかい?」と座り込む男に話しかける。
「いいや」
 男は短く答えた。旅人は興味を持ったのか、少し屈んで男の顔を覗き込む。
「よく見りゃあ、ひでえ傷こさえちまってるじゃねえか。それ、痛くねえのか?」
 旅人の言う通り、男は顔に目立つ傷を持っていた。横にひとつ、縦にふたつの筋になった傷だ。
「古傷だよ、もう痛くもかゆくもねえや」
 男は不愛想に答える。誰かと口を利くのが随分と久しぶりに思えた。
――そうかい、それなら良かった」
 旅人は濡れてしまった手ぬぐいの端を帯に差し込むと、ひとつおおきなくしゃみをした。
「ふう、そういや、このところここいら辺じゃあ、追い剥ぎが出るそうな。あんたも気をつけな」
「追い剥ぎ?」
「そうよ、景気も悪いってんで、山から降りてきた賊だって噂もある。あんたがどこへ行くかは知らないが、気ぃつけな」
「そりゃどうも――
 男がそう礼を言いかけた時、不意に頬に冷たい刃を当てられた。
「!」
「持ってるもん、全部置いていけ」
 旅人の低い声が男の耳に滑り込んでくる。傍に置いていた行李に手を掛けられそうになり、男は咄嗟に伸びてきた手を下から払い除けた。
「何しやがるっ!」
 大きな声を上げると、頬に灼けるような痛みが走った。匕首の刃で切られたのだ。
 咄嗟に頭を仰け反らせて刃を遠ざけ、男は雨の中に転がるようにして身を翻す。
「チッ!」
 旅人のふりをしていた賊は舌打ちし、匕首を振り上げて転がった男を追いかけた。
「服も荷物も全部寄越せっ」
 首を一文字に切り裂こうとしてくる刃を寸前で躱し、男は賊の足を払った。土砂降りになった雨の中、賊が背中から泥の水たまりに落ちる。
「殺してみろッ!」
 男は賊に馬乗りになると、匕首を持っている手首を思いきり捩じ上げた。バキっと鈍い音がして、うがあああッという獣のような叫び声があがる。折られた手から匕首が滑り落ちた。
「殺してみろぉおお――!」
 男は叫びに乗せて拳を高く振り上げ、痛みに呻き続ける賊の顔を叩き潰そうと振り下ろす。
 その手を掴む者がいた。
「やめろ」
 低い声と共に、男の拳は見知らぬ男の手に包まれていた。そう小さな手でもないのに、男の拳がすっぽり隠されるほどの手のひらで握られた上に、動かせない。
「なっ!」
 離せよ――!!
 男がそう叫ぼうとした時、組み敷いた賊が激しく暴れ出した。その頭を、突如現れた男が横から蹴っ飛ばした。
――!!!」
 賊は頭を蹴られた衝撃で失神し、両手を投げ出し横たわる。その体に跨っていた男は賊と傍に立つ男を交互に見てぽかんと口をあけた。
「殺してもいい奴かもしれねえが、面倒だぞ」
 やっと手を放されよく見れば、立っている男は大きな番傘を差していた。
「早くこっちに来い。役人が来たら面倒だ」
 傘の影になって、男の顔は良く見えない。だが、役人が来たら、という言葉に反応して立ち上がった。
「こっちだ」
 もう一度言われ、男は男の後を追う。奪われかけた行李を背負い直し、近くの長屋の裏口に連れてこられた。
 土間に続く引戸を開き、入れと言われる。この男も物盗りか?さっきの賊の親玉じゃあないだろうな。ついてきた男はそんなことを考えたが、雨と空腹で思考が限界に来ていた。
 さっきは生き死にの狭間を感じて体が動いたが、もう何日もまともに食っていない。
「お前さん、名前は?」
 答えたくないという意思は残っていた。まだ素性の分からない男だ。自分の身分も卑しいが、だからってすぐ名乗る道理もない。
――まあいい。ボロボロで野良犬みてえだから、勝手にノラ坊って呼ぶぞ」
(はあ?)
 ノラ坊と名付けた男は重たそうな番傘を軽々とたたみ、引戸の奥に立てかける。傍に吊るされた手ぬぐいを何枚か手に取ると、ノラ坊に差し出した。
「体を拭け、いま風呂を沸かしてやる」
……待てよ」
「ん?」
「なんだってこんな事するんだ」
「こんな事?」
「さっきの賊の仲間か?」
 ノラ坊の言葉に、男はくっくっと小さく笑った。ばかにされた気がして、ノラ坊がカッと顔を赤くする。
「何がおかしいんだよ!」
「いやいや、すまん。お前、何日も前からあそこにいただろう。いねえときもあったが……。客が恐がって何とかしてくれって言ってきたもんでな」
「客……?」
 改めて連れてこられた長屋を見渡せば、ここが商店であることがわかる。何日もいた軒下は店のはす向かいあたりだ。
「俺は別に何もしてねえよ」
「知ってるよ。おとなしく座ってただけだもんな?」
 またくっくっと笑われ、ノラ坊は面白くない。
「さっき見ただろう。このあたりじゃあ、最近ああやって物盗りが出る。客が怯えるのも仕方ねえのさ」
 しかしきったねえな。泥だらけじゃねえか、と男は続けた。

 体を拭き、風呂場に案内されるまでの間、ノラ坊は素性を聞かれた。商家の下男として奉公していたが、暇を出され行くあてがないこと、もう金がなく途方に暮れていたことを話すと、男はそりゃあ可哀想に、とありきたりなことを言った。
「風呂でまず泥を落とせ。体もくせえから、隅々まで洗ってこい」
 風呂場の前まで案内されたが、ノラ坊は中に入っていかない。
「どうした、入れよ」
「なんでこんなことしてくれるんだ」
 俺のこと野良犬だなんて言っといて、と続けると、男はふーと息を吐く。
「正直に言うが、お前はたぶん、顔がいい」
――は?」
「遠くから顔を見てたが、なかなかいい顔してそうだから、小綺麗にして働かせようと思ってな」
……
 後で読み書きができるか聞く。出来ねえなら力仕事をやらせる。悪くないだろう?
 男はノラ坊の泥だらけの頬を撫でてそう言った。泥がこびりついてべとべとになった髪を耳にかけてやり、だから早く洗ってこい、と続ける。
 悪くない話だ。男の身なりは大層良く、この店の主なのだろう。部屋の隅っこでもあてがってもらい、下働きできるなら儲けもんだ。
 ノラ坊は咄嗟にそう思った。
 商家の奉公はしんどく、ひどく自尊心を傷つけられてばかりだった。この店主はどうだ。まだわからないが、大柄な体格のわりに物腰穏やかで優しそうに見える。
「風呂……もらいます」
「お、敬語か? 立場がわかったみてえだな」
 男はノラ坊に菊田と名乗った。

 風呂に入ると、ノラ坊は飯を食わせてもらった。何日も食っていないため、卵と青菜の漬物を刻んで入れただけの粥を出される。だがノラ坊にはそれだけで十分にありがたかった。白湯を何杯も飲まされ、雨で冷えた体を温められる。
 その間どの程度読み書きができるか調べられ、ひととおりのことができるとわかると菊田は嬉しそうだった。
「ちょうどこないだ、奉公してたやつが死んだんだ。ちょうど良かった。読み書きができるなら、任せられるな」
「死んだんですか」
「おうよ、さっきのノラ坊みたいに賊に襲われたんだ。藩兵は何もしちゃくれねえ。一応死体を改めて、犯人を捜すフリだ」
 預かってる身としちゃあ、親御さんに顔向けできねえ。
 菊田はそう言って、優しそうな顔を少し曇らせる。
「さっきの奴、殺せばよかったですね」
 ノラ坊がそう言うと、菊田は「そこはちょっと違う」と微笑んで見せた。同時に頭を撫でられ、ノラ坊は恥ずかしくなってその手を払う。
 気を悪くしたそぶりも見せず、菊田はまた笑った。

 この店では奉公人はふたつ隣の長屋で寝泊まりすることになっている。番頭に伴われ、衝立で四つに区切られた座敷に案内された。
「扉に近い方がお前の寝床だよ。朝、時間になったら起こしにくるから、すぐ起きて顔を洗いなさい。布団は畳んで端に寄せておく。隣の座敷で朝飯を食ったら店に来るんだ」

 早口で言われたが、ノラ坊は覚えるつもりがなかった。
 同じく奉公しているものたちに形式的に頭を下げ、すぐさま床に入る。
 皆が寝静まった頃、ノラ坊はそっと寝床から抜け出した。
 持ってきた行李を開け、中から静かに短刀を出す。昼間の雨が降り続いているせいで、長屋じゅうにざあざあという音が響いていた。お陰で足音がわからない。
 土間に降りて草履を履き、軒下を伝って濡れないようふたつ隣の長屋に忍び込んだ。
 すっかり闇に眼が慣れ、艶やかに磨かれた床板もやがて見えるようになる。
 足音を忍ばせいくつかの座敷を開いて回り、盗めそうなものがないか物色した。壺などの大きなものは持ち出せない。昼間の内にざっと店の中を見ておいたつもりだが、意外と菊田がぴたりと傍にいて叶わなかった。だがそれも、この雨音の中だ。
 いまゆっくり見ても気づく者はないだろう。
 やはり金目の物はあの男が――菊田が管理しているのだろうか。だとすれば、菊田が寝ている部屋に行くしかない。
 ひといきに首を突き、殺してから金品を奪えばいい。
 ノラ坊はそう考え、菊田の寝ている座敷を目指した。
 基礎がしっかりしているのか、ここは床板が軋まない。あるいは長雨のせいで湿気を吸った木が膨らんで柔らかくなっているのかもしれない。
 ノラ坊はすこし汗をかいていた。
 あの穏やかそうな男――昼間に自分を止めたときの力は相当なものだった。ひとおもいにやってしまわないと、こちらが危ない。
 やがてゆっくりと開けた襖の向こうに床が敷かれ、男がひとり眠っていた。
 探していた菊田だ。

 ざあざあとここまで雨音が響いてくる。そっと布団にいざり寄り、眠っているか確かめる。
 ゆっくりと布団が上下し、菊田は目を閉じていた。
 暗闇で慣れたノラ坊の目が、その容貌を初めてじっと見る。こんなに鼻梁の高い男をノラ坊は見た事が無かった。深い彫りが目のあたりに影を作っている。
(いい男は殺すのが惜しいな)
 ふとそう思った瞬間、菊田が目を開いた。
(うっ……
 ノラ坊の体が硬直する。菊田は首をゆっくりと動かして此方を見た。
「どうした、ノラ坊」
 眠れないのか――
 どこまでも優しい声がノラ坊の耳を撫でる。
 自分の話を信じて、行くあてがなく困っていると信じて――
 我こそが、ここいらで罪をはたらく賊であるのに。

 ごそ、と音を立てて菊田が掛布団をめくりあげ、体を起こそうとした。ノラ坊の心臓は弾けそうな強さで拍動し、いまにも口から飛び出しそうだ。
「ノラ坊?」
 訝し気にこちらを見ている菊田の着物がはだける。胸元が大きく開き、つややかな胸がすべて見えそうになっていた。起き上がろうとして動かした足は着物の合わせ目からこぼれ、太腿のあたりまでがあらわになる。
 ちらりと見えた下帯に、ノラ坊の喉がごくっと鳴った。

「俺を殺すのか? それとも、夜這いか――?」
 伸びてきた手が頬を優しく撫でた。ノラ坊は短刀を隠すように背中側に回した手で握っていたが、それをぽとりと畳へ落とす。
「夜這いです」
 思わずそう答えて、菊田の上に覆いかぶさった。



 終