溶けかけ。
2025-01-08 23:18:47
2963文字
Public ほぼ日刊
 

ふたりでいっしょに。

パンケーキを作るフリーナとゲストのヌヴィレットのお話。
ほのぼのです。

 フライパンを火にかけて、ある程度温まったら濡れ布巾の上に置いて少し冷ます。そうすることでフライパンの温度が下がり、気泡が出来ず、焼き色が均一になるらしい。
 フリーナは流行り歌を口ずさみながら、レードルで生地をひと掬いすると高い位置から落とした。生地はゆっくりと広がり、ある程度大きくなると動きを止めた。
…………
 フリーナはフライ返しを片手に真剣な表情で焼けていく生地を見つめた。
「それっ……!」
 小さな気泡が出てきたタイミングを見計らい、勢いよく裏返す。このとき、躊躇わずに素早く行うのが綺麗なパンケーキを焼くコツだ。
 しばらく待ってから、火が通ったのを確認して皿へと移す。表面は綺麗なキツネ色。正しい手順で混ぜられたからか、ふわふわだ。
「ふふんっ……! 僕にかかれば、ふわふわパンケーキを焼くくらい簡単なことなのさ!」

 フリーナはパンケーキを三枚焼くとそっと、皿の上に積み上げた。バターをひとかけ乗せれば、まだ温かいキツネ色の上を溶けたバターがとろりと滑っていく。────その様子に腹の虫が鳴き声を上げた。
 空腹は最高のスパイスというのは本当のことであったらしい。
 フリーナはメープルシロップの入った瓶を片手に携えると、待ち切れないというように早足でテーブルに着いた。
 テーブルには既にナイフとフォークが用意されている。熱々のカフェオレには砂糖を入れていない。メープルシロップの甘さを充分に堪能するためだ。
 さあ、いざ! フリーナはメープルシロップの瓶の蓋を開ける。───同時にノックの音が響き渡った。
「もう……。良いところだったのに……!」
 フリーナは瓶の蓋を閉め直すとほかほかのパンケーキに後ろ髪を引かれつつ席を立つ。
「どちらさま?」
 扉を開けて、まず目に入ってきたのは見覚えのあるジャボ。ゆっくりと視線を上に上げれば、無感情な朝焼け色と目が合った。
「ごきげんよう、フリーナ殿。君の提出した書類に不備があったので持ってきたのだが……すまない。食事中だったのだろうか?」
 ヌヴィレットの瞳に映った姿に、フリーナは自身がエプロンを外し忘れていたことに気づいた。待ち切れないとはいえ、エプロンくらい外しておくんだった──自身の失態を恥ずかしく思いながら、フリーナは咳払いをした。
「こほんっ……! まあ、食事中だったことは置いておいて……不備はどこだい?」
 ヌヴィレットから書類を受け取り、ぱらぱらと検める。彼が時折入れてくる、指摘の合いの手に従って書類を修正していった。
「これで大丈夫かな?」
「ああ……。ご協力感謝す……
 くううぅぅ、とヌヴィレットから音がした。
「ヌヴィレット、キミ、今……
 目を丸くして、彼の腹へとフリーナの目線が刺さる。
「忘れてくれ」
 顔を背け、追求を逃れようとするヌヴィレットがおかしくて、笑いかける。
「ふふっ……。キミの好きな汁気の多い料理は出せないけど、ご一緒にランチはどうだい? 最高審判官様」
 フリーナがヌヴィレットに手を差し出せば、「ご相伴に預かろう」と彼がその手を取った。

 客が一人増えたとて、フリーナの作るものは変わらない。
 なぜなら、誰かに自信を持って勧められるものがそれしかないからだ。フリーナは先ほどよりも慎重にパンケーキを三枚焼くと積み上げて、バターを一欠片のせ、彼の待つリビングへと向かっていった。
「召し上がれ」
 フリーナはほかほかと湯気を立てるパンケーキをヌヴィレットの前へ置くと、その向かい側の席について、メープルシロップをたっぷりかけた。
……かけすぎではないかね? それでは健康を害する可能性が……
「かけすぎなくらいが丁度いいんだよ。キミもやってみるといい」
 フリーナがヌヴィレットの手にメープルシロップの瓶を握らせる。困ったように眉を下げる彼に、彼女は、にっ、とニヒルな笑みを浮かべた。
 彼女の表情に敗北感を覚えながら手の中の瓶を傾ける。フリーナに倣うようにたっぷりと回しかけ、蓋を閉める。
「ほら、食べてみて」
 促されるまま、パンケーキにナイフを入れて口へと運ぶ。
……!」
「口にあったみたいだね」
 ほう、とフリーナが安堵の息を吐き出し、微笑んだ。
 美味しい、なんてありきたりな言葉を返していいのだろうか、と考えながらヌヴィレットは彼女の言葉に頷いた。
 厚く、ふわふわなパンケーキと塩味の効いたバター。彼女の言う通り、メープルシロップはたっぷりで良かったようだ。
 それに、なにより────、
「こうして、共に同じ食卓を囲むのは久しぶりだね」
 フリーナがヌヴィレットの心情を読んだかのように、ぽつりと呟いた。
「一人で食べるのは、なんだか味気なかったんだ。ケーキも紅茶もパスタも……美味しかったんだけど、もの足りない気がして。それで、考えたんだ。以前と今、何が違うんだろうって……そしたら、キミの顔が浮かんだんだ。可笑しいよね……あの盛大な歌劇が終わるまで、僕はずっとキミが怖かった。いつか、僕の秘密を暴くんじゃないか、って……。だから、全てを投げ出して逃げた……。でも違ったんだ。僕はキミを恐れていたけど……同じくらい、キミのことを憎からず思っていたんだ」
 フリーナの独白にヌヴィレットが食事の手を止める。彼の心配とは裏腹に、彼女の心はどこまでも穏やかな海のように凪いでいた。
「それで、相談なんだけど……たまにこうして、僕と一緒にご飯を食べたり、お茶をしたりしてくれないかな? ほ、ほら……僕って、友達って呼べる存在が少ないだろ……? ナヴィアもクロリンデも自分たちの生活があるし……ええっと、キミが暇人って言いたいんじゃなくてだね……
 しどろもどろになりながら、フリーナはろくろを回す。その様子にヌヴィレットはくすりと笑った。
 珍しい彼の表情にフリーナは目を瞠る。
「たまに、などと言わずにいつでも来ると良い。執務室の鍵はいつでも開いているのだから。それに……私も、君と同じテーブルを囲むのは嫌いじゃない」
 フリーナの口元が呆けたように開き、それから弧を描いた。
「キミからは来てくれないのかい?」
 虚を突かれたヌヴィレットが僅かに目を見開く。それから、顎に手を当て、考え込む仕草をした。
「ふむ……。確かに、君にばかり負担を強いてしまうな……
 真面目に考え始めたヌヴィレットにフリーナは思わず吹き出した。
「ふふっ……なんて、冗談だよ。キミの執務室の鍵がいつでも開いているのなら、会いに行くよ。とっておきのお菓子を持って。ああ、サンドイッチなんかも良いかもね。────その、まだ全然上手じゃないし、人に食べて貰えるようなレベルじゃないんだけど……美味しく出来たら食べてくれる?」
 おずおずとヌヴィレットを見上げるフリーナにヌヴィレットは微笑む。本音を隠し、周囲の人間を遠ざけていた彼女が前に進む一手になれるのなら────、
「喜んで頂戴しよう。キミがいつ来てもいいように、何にでも合う茶葉をリオセスリ殿に聞いておこう」
 ヌヴィレットがそう言えば、フリーナの顔がぱっと明るく輝いた。

 ────私はずっと、その顔が見たかった。