溶けかけ。
2025-01-07 23:43:32
1250文字
Public ほぼ日刊
 

リドル

壊れてしまったヌヴィレットのお話。
※狂気、死ネタを含みます。人によっては嫌悪感を覚える場合もあるので、閲覧は自己責任でお願い致します。


「いってらっしゃい、ヌヴィレット! ……え、い、いってらっしゃいのキスはないのか、だってぇ!? うーん……それがあれば、頑張れる? もう仕方ないなぁ……
 ちゅっ、という軽いリップ音を立てて、フリーナがヌヴィレットの頰にキスをした。踵を下ろした彼女は頰を赤らめ、ヌヴィレットを見上げて、小さな声で「気をつけてね」と言った。視線が合わないのは、彼女が恥ずかしがっているせいだと、彼はよく知っていた。
「では、行ってくる……。ああ、決して、地下室にだけは入らないように」
「わかってるよ。心配性も過ぎれば嫌味にしか聞こえないぞ」
 フリーナが呆れたような顔をしながら送り出す。

 ────何も変わらない、いつもの日常。

 終業の鐘が鳴る。ああ、帰らなければ、と自然に思った。
「ふふっ。ヌヴィレット様、今日も定時ですね!」
 セドナが書類を片付けながら笑った。
「ああ。今日は新しいベッドが届く日なのでな」
「それは良いことですね。上質な睡眠は良い寝具からと言いますし」
 ヌヴィレットは書類を片付けるとそそくさと席を立つ。「お疲れ様でした」というセドナの言葉に感謝の言葉を返し、早足で執務室を後にした。
「ヌヴィレット様、今日はやけにたのしそうだったな」
 職員がヌヴィレットの様子を見て、安堵の溜息をついた。セドナも頷く。
「あんなことがあってから、ヌヴィレット様はご自宅に帰らず、泊まり込みで仕事をすることもありましたけど、今ではすっかりなくなって、ほっとしています」
「そうだよな……俺なんてまだ信じられないよ。────フリーナ様が殺された、なんてさ」

「ただいま、フリーナ」
「おかえり、ヌヴィレット」と言いながら出迎えてくれた妻を抱きしめる。「苦しいよ」と弾んだ声に「すまない」と返せば、彼女は「今日は気分がいいから赦してあげよう」と笑った。
「地下室には入らなかっただろうな?」
「僕がキミとの約束を破ると思われているなんて心外だなぁ」とフリーナが唇を尖らせる。
「すまない。ただ、心配なだけなのだ。あそこには危険な物も沢山あるのでな……
「キミって本当に過保護だよね。ああ、でも」とフリーナが呆れたように笑いながら腹を撫でた。
「この子たちが心配なのは僕も同じ気持ちだ。我が子とはいえ、妬けちゃうなぁ」と言うフリーナにヌヴィレットは「そうは言っていないだろう」と返した。
 幸せな夫婦の日常。

 ────彼女が歌う。
 ────誰が作ったかもわからないほど古い童謡だ。

 ハンプティ・ダンプティ 塀に座った
 ハンプティ・ダンプティ 落っこちた
 王様の馬と王様の家来が全部でかかっても
 誰もハンプティを戻せなかった

 ヌヴィレットは荒れた部屋の中、目を閉じて、その歌声に耳を澄ます。
 壊れたレコードは埃を被り、食卓には変色したスープが二皿置いてあった。彼にしか聞こえない歌が終わり、彼が目蓋を開ける。淀んだ彼の瞳には、真新しい地下室の扉が映り込んでいた。