カタン、と微かな音は控えめで、普段なら目を覚まさなかったかもしれない。それでも静かな冬の夜明け前、その音は眠りにあったはずの水木の耳にも確かに入った。
予感があったせいもある。予感というか、毎年の恒例行事があるからというか。
布団を跳ねれば冷気に肩が震えた。しかし、布団の上に広げていた上着を羽織り、あくびまじり立ち上がる。廊下もまた凍るように冷えていたが、少しだけつま先立ち気味に勝手口まで。玄関と迷うことはなかった。なぜなら毎年そこに届くのだから。
「鬼太郎か?」
まだ気配はあるだろうか。
声をかけていけと言っているのに、あの子はいつもそうしない。起こしてしまうからとか何とかムニャムニャ言うのだけれど、その言い訳を水木は半分くらいしか信じていなかった。
「…っ、…ごめんなさい、起こして…」
「いや。年寄りは朝が早いだけだ」
勝手口を開ければ、かろうじて視界の先にまだ後ろ姿があった。水木は綿入りの肩をすくめつつ、ニカッと笑った。口からこぼれる吐息は真っ白だが、元養い子は相変わらずの薄着だ。幽霊族は人間程気温に左右されないと言っていたが、水木の感性は人間のそれなので、寒そうな格好を見るとそれだけで二の腕が震えてしまう。
「何か用事、あるか?」
「え?」
「ないんだな。よし、上がっていきなさい」
「いや、でも」
「七草粥食べていくくらいいいだろ。たまには俺にも親孝行してくれ」
ふっと目をたわませると、鬼太郎は大層物言いたげな顔をした。しかし、はぁっと息を吐くと、頂いていきます、と答えた。寒さには強いのだろうが、吐く息は水木と同じく真っ白だった。
家に入れてしまえばこっちのものと、水木はテキパキとこたつのスイッチを入れ、ストーブをつけ、湯を沸かし、切り分けて冷凍保存していた餅を解凍し…、
「ちょ、ちょっと、粥だけじゃ」
こたつに押し込められ、さらには水木が着ているのとは別の、水木がわざわざ義息のために誂えた半纏を頭からかぶせられた鬼太郎は慌てて声をあげる。
しかしその間にも水木は、鬼太郎が竹籠に摘んできた春の七草を洗い桶につけ、片手鍋で餡子に水を注いで火にかけ始めている。寝起きとは思えない手際に、元来がのんびりした性分の鬼太郎は目を回しそうだ。
「寂しいことを言うな。おまえときたらいつも七草を置いて帰ってしまうじゃないか。俺はいつだっておまえを構い倒したいっていうのに」
拗ねたように水木は口を尖らせる。
「あとな、おまえのおやじさんだったら、多分勝手口どころか縁側から勝手に入って勝手に燗をつけて勝手にスルメでもあぶってるぞ」
「……そ、…そこまでするでしょうか?」
鬼太郎は目を白黒させつつ、とっくに少年ではないはずの少年から疑義が差し挟まれる。
「するする、それどころか寝てる俺の耳元で怪談をして脅かしてくる。あいつはそれくらいやりかねん」
はあ、と肩をすくめながらも水木の手は止まることがない。チン、とレンジが餅の温めが終わったと告げる。
「あったまたったかな…、鬼太郎ぜんざい食べられるよな?」
「えっ、あ、はい」
ニカッと水木は、腕白な少年のように明るく笑い、手にした菜箸をカチカチ踊らせる。
「粥はな、ちょっとズルで雑炊だけど、それは許せよ」
水木は実に楽しげで、彼が鬼太郎を捕まえたくて毎年うずうずしていたのがわかる。それが落ち着かなくて、鬼太郎はもじもじしてしまう。
「はい…」
鼻歌まじり、水木はまずぜんざいを持ってきてくれた。正月に使う塗椀、鬼太郎の箸、箸休めの梅干し、昆布の佃煮。それから熱い緑茶。
「今七草粥作ってるから、先にこれであったまっててくれ」
青藍を抱く瞳を細め、水木はポンポンと鬼太郎の頭を撫でてからまた台所に戻る。
居間と勝手場は続き間で、昔々、鬼太郎がまだ本当に小さな時は居間の畳と台所の境をまたぐのは禁止されていた。危ないからと。ただ、その間の戸を締めはしなかった。その柱から見ていていいと言われ、くるくる動く水木の背中を見ていたものだ。もちろん水木の母が動いている時の方が割合としては多かったけれど…。
台所に入る許可が降りたのはいつ頃だっただろう?
楽しそうな水木を見つめながら、鬼太郎はしかし、聞き捨てならないことがあるのを思い返していた。
「…確かに父さんたちは仲が良いけど…」
──元々春の七草を摘んでやろうと言い出したのはまだ目玉の姿しかとれなかった頃の父だった。幼い鬼太郎の頭の上から、それが芹、そっちはハコベラじゃな、あっちにあるのは…、とあれこれ指示をして教えたのは間違いなく父だ。水木とご母堂をビックリさせてやろうぞ、と始めた七草摘み。
今ではすっかりそれは鬼太郎の仕事になった─した、ともいう─けれど、閻魔大王と取引しただの霊力をためただの、はたまたご先祖様の粋な取り計らいだの…海千山千な様子で人の姿を仮初めに取り戻した父が水木の許に届けに行ったこともあった。
普通に届けているものとばかり思っていたのに、まさか、である。
鬼太郎ときたら、うんと真心をこめて丁寧に摘んできても気恥ずかしくなって勝手口の前に置いていく控えめさでやってきたわけで…、父のやりようは何だか裏切りのように思えてしまう。いや、そんなにはっきり言葉になるものでもなくて、そう、父さんはずるい、そんな拗ねた気持ち、または焼き餅が近い。
「鬼太郎ー、ぜんざいどうだ?」
背中を向けたままの水木の声に鬼太郎はハッとして、慌てて箸をとる。
「いただきます、…あちっ! …美味しいです」
慌てて口に含んだせいで、熱いぜんざいの舌への攻撃に負ける。思わず舌を出したのがまるで見えているように水木は肩を揺らす。
「外寒かったからなあ。ちゃんとあったまれよ」
トントントン…、と菜っ葉を切りながら、水木はくすくす笑う。その声は鬼太郎にとってぜんざいよりよほど甘くて、はい、と答えるのが精一杯だった。幽霊族なので寒さには強いです、なんて脳裏をかすめもしなかった。
「なあ、卵いれるか?いれない方がいいか?本当は七草だけだけど、あってもいいよな?」
「えっ?あ、はい…」
聞く姿勢は見せたものの、水木は鬼太郎が答えるより早く卵を取り出していて、どうやらせっかちは変わらない。
鬼太郎はつい吹き出してしまいそうになり、口を手で押さえる。
「いっぱい作るから持って帰って皆で食べな。釣瓶火にあっためてもらっ…」
水木が全部言い切る前に、こたつから飛び出すように抜け出した鬼太郎が彼の背中に抱きついてきた。
「っと、なんだ、危ないな。どうした」
頭ごなしに叱ったりしないのは、鬼太郎はわけもなくこんなことをしないと水木が知っているからだ。
「…………やです」
「? 荷物が増えるからか?」
「違う」
「俺のところに来るのは森のみんなに内緒なのか?」
「そんなことないです、僕は暮から皆にはっきり、六日の夜から七日の朝には何も頼まないでくれと言ってます」
「………、そうか、…その、…」
水木はとうとう包丁から手を離し、半身になると鬼太郎の頭をよしよしと撫でる。
「…粥は俺とおまえで食べような」
「………」
ぎゅっと水木の背中に抱きついて顔を伏せた鬼太郎が、黙ってこくりと頷く。それを見て水木の顔が優しい、優しいものになる。
なんて愛しいわがままだろう。幼い頃からあまり欲がないように見えた子だから、水木は甘えられるのが嬉しくて仕方ない。
「…ま、元々持たせるつもりで米は炊いてるから、大根葉でも混ぜて握り飯にするか」
栗色の頭をくしゃくしゃ撫で回しながら水木が言う。今度はうんともすんとも言わない。水木は笑いながら丸い頭のつむじをぐりぐりと突いた。
「世話になってるだろう?それくらい持ってってくれよ」
な、と言い含めれば、やっと水木の一人息子は頷いた。渋々のていではあったけれど。
その後は七草粥ならぬ七草雑炊をふたりで三杯は平らげ、妖怪らしく朝寝としゃれこんだ。冬の夜明けは遅いから、なんという程のこともない。水木にとっては。普段なら鬼太郎にとっても。だが。
「いつもあいつばっかりおまえをひとり占めしてずるいと思ってたんだ。今日は離さないぞ…」
なにやら良い匂いのする胸にぎゅっと抱きしめられて全く落ち着かず、鬼太郎は朝寝どころではなかった。たとえぽんぽんと背中を叩く手が優しく、昔のようであったとしても。
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