丹羽燐
2025-01-05 21:30:00
8770文字
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吊り橋効果

オシャレなタイトルは思いつきませんでした

 陽が落ちつつある道を進む。せっかくだからといくつかカフェをハシゴしたせいか、気がつけばいい時間になっていたらしい。助手席に座る人はぼんやりと窓の外を眺めている。オレンジの光に照らされた横顔が少し遠い。
 平日の夕方、およそ一日で二番目に混むはずの道路が妙に空いている。分岐を重ねても一定の距離を保ち続ける車両がサイドミラー越しに見えていることも気味の悪さを加速させていた。
「コーヒーもスイーツも美味しかったですね」
 次々に通り過ぎていく住宅の群れを眺めたまま、梓さんは言った。表情とは裏腹に声だけは楽しそうで、随分と疲れていることが察せた。カフェを渡り歩いていたのだから仕方がない。
 パスタと食後のデザート、二軒目のカフェオレ。それから最後に立ち寄ったカフェのコーヒーとスイーツ。ハシゴした店の注文内容のうち、梓さんが指しているのは三軒目だ。このカフェは美味しそうな予感がする、と予定外に訪れたその店は、まあ絶品だった。さすが女の勘、というべきか、食い意地というべきかはわからないが。
「ええ添えられていたクッキーの塩味が特に僕好みでした」
「やっぱり!」 
「えっ」
「安室さん好きそうだなあって顔してました」
 くるりと向いた梓さんがとても楽しそうで、つい視線が向いてしまう。行ったばかりのカフェの話、二人きりの車内、そして嬉しそうな女性。すれ違う車の中の一台ぐらいは僕たちを恋人と認識するかもしれない。初々しさのない、長く連れ添った二人として。
 ポアロでもよくそう誤解され、必死に否定して回る梓さんと満更でもない僕。はっきり言わないからだと梓さんに言われながらも、一瞬の夢だとわかっている以上否定する気にもなれなかった。
「それを言うなら梓さんだってチーズケーキを随分と気に入ったようで」
「あの濃厚さには勝てないですよお。ゆっくりと口の中で溶けていくのにざらつく舌触り……
「ほう……
 普段よりも低い声に気がつかないままうっとりとチーズケーキに想いを馳せる様子が気に食わない。試作や日々のつまみ食いでは見たことがない表情を引き出したチーズケーキ、梓さんの表情一つにこれだけ感情を揺さぶられる未熟さ、何よりも、潜入捜査中にも関わらず、恋愛感情を持ってしまった僕自身。
 読んで字の如く身を滅ぼしかねない状況で、人間らしい感情を持ち合わせていたことには驚いたが、せめて梓さん相手でなければ。毎日でなくとも頻繁に顔を合わせる相手への感情など簡単に捨てられるわけがなかった。
「も、もちろん安室さんのも好きですよ! 別、そう、別枠なだけで!」
「わかってますよ。僕も一口貰いましたし」
「チーズケーキはあの美味しさなら、クレームブリュレも頼めばよかったなあ。絶対おいしい。また行きましょうね」
「敵情視察に?」
「もちろん!」
 楽しげな梓を横目に眺めながら、その先のミラーに映る背後を数える。数台……約十二台先に車両がない。普段ならこの集団の先頭にたどり着いたと思うだけ。だが今は、後ろに車が連なっているようには見えない。絶えず光がすれ違っていく対向車線とは違い、三、四台の後ろは黒いアスファルトが続いていた。
 僕と梓さんに何かが起きようとしている。それも、嫌な予感がする方の。
……あの、安室さん」
「はい」
「えっと」
「付けられてます。……随分と前から」
 驚きのあまり言葉を失う人に、畳み掛けるように続ける。どう説明したって怯えさせるだけだ。
「口を閉じて。スピードを上げます」
 頷いたのを確認して、ギリギリ一台分の車間距離に突っ込みながら抜かしていく。ハンドルの動きに合わせて、梓さんが助手席で左右に揺られる。次第に振り回されるだけになった様子に、いっそ失神できた方が楽だったかもしれないと、他人事のように思った。
「まだ来るか」
 左と前方の車両が最後。そこまで無理やり追い抜いてきても、後ろのクラウンは粘り強く、いっそ執着するように着いてきていた。
 カーブの隙に最後の二台を抜かし、空っぽになった高速をアクセル全開で走る。遠心力から解放された梓さんは口を開けたままぽかんとしていた。窓の外の景色で今のスピードを悟ったのだろう。随分と前の風見を見ているようで少し懐かしい。
 ……そういえば、この速度超過も捜査の一環として帳消しに出来るだろうか。
 ぼんやりと考える中、カン、と左後ろから音がした。立て続けにアスファルトから聞き覚えのある破裂音。ルームミラー越しに、助手席の男が何かを構えているのが見えた。
 音と体勢からおそらくハンドガン、ライフルのような遠距離射撃を目的としていないもの。ライフルであればこちらを走行不能にすることぐらい容易いのになぜハンドガンなのか。そもそもなぜ僕たちをつけ回すのか。謎は増えたが、少なくともさっきまでの違和感はこのクラウンがなんらかの意図を持って仕掛けていたものだとわかる。
 今の状況として、隣に座っているのは風見でもなければベルモットでもない、戦闘能力もない梓さん。脳内の天秤は釣り合いを確認する間も無く傾いた。
「い、今のって」
「銃弾ですね」
 さも当然とばかりに言ったところで、曲がりなりにも一般市民の梓さんの表情は恐怖に染まるだけだった。はいそうですね、と済ませられる人々とは別の世界の住人。
 僕自身ではなく、努めて安室らしい言葉を脳内で選びあげてから、口を開く。心持ちだけはそのままに、梓さんが接し慣れた安室透として。
……梓さん」
「は、はい!」
「マニュアル車の運転経験は?」
「ありますけど……?」
「それはよかった。じゃあ一度後部座席に移ってください」
「はあ」
「五百メートル先カーブだから早く」
 疑問符を浮かべたまま、ゆっくりと頭から胸、腹、腰、そして最後に足が真横を通り過ぎた。すっぽりと助手席側の後部座席に収まったのを確認して、座席を最大限後ろに、そして倒す。頼れるものを失った体に遠心力が容赦なくかかる。
 幸いなことに、流石にカーブでは撃ってこないのか銃撃音は途絶えた。
「梓さん、こっちきてください」
「そこは安室さんが」
「梓さんが移り次第、僕が助手席に。ああ、もちろん助手席に移るギリギリまで僕がハンドルを握ります。梓さんはまずアクセルを踏んでくれればいい」
 左手をハンドルから離し、座り込めるよう上体をずらす。いくら平常心になるよう心掛けているとはいえ、さすがに軽口を叩く余裕はない。何を言っているんですか、と口を挟まれる前に続ける。
「この後は分岐もほとんどなく、直進だけ。大丈夫、道案内は任せてください」
「そ、そうじゃなくって」
「ああ、後ろの車ですか? 僕がどうにかします。そのためにも、運転をかわってください」
……事故っても知りませんからね!」
「ええ、死ぬ時は一緒です」
 いつのまにか靴を脱いでいたつま先が、恐る恐る太ももの上を通り抜ける。胸が腕に触れたのに束の間、体がくるりと回って正面を向いた。
「アクセル、アクセル……っと」
「右足の方です。ほら、僕の足を伝って」
 太ももが、ふくらはぎが擦り付き、つま先が足首を伝って離れた。思わず息を飲んだのは、無理やりくすぐったさのせいにした。
「ありました!」
「じゃあ足を離します。梓さん」
……ふう、大丈夫、きっと大丈夫」
「あはは、無事に帰りましょうね」
 アクセルから離した足から助手席に放り投げ、セーフティを入れ直したH&Kを片手に移る。たしか残り四弾、替えのマガジンがあるとはいえ、最低限の装備しかない。狙撃用のライフルはトランクだから除外するとして、あとはスタングレネードといわゆるスタンガン程度だ。
 妨害するとなればタイヤのパンクが真っ先に思いつく。次点は炎上もしくは爆破。もちろん振り切れればいいが、走行中の車両に銃弾を撃ってくるようなやつが見逃すとは思いにくい。かと言って下道でやり合うのは分が悪い。
 考える間も不定期に鳴り響く銃声に、梓さんは驚き怯えながらも正面を向いている。息を吸う。ポアロとも硝煙や汗とも違う、フローラルな柔軟剤の香り。息を吐いて、助手席の窓を開けた。
「高速で窓を開けたら危な」
「梓さんは前だけを見て」
 身を乗り出し、右腕を伸ばす。時速一〇〇キロを超える風圧とアスファルトの凹凸で揺れて照準が定まらないまま、人差し指を引いた。一回、二回、三回。弾切れとともに身を引いた直後、サイドミラーの上を弾丸が飛び抜けた。発砲音だけが響き、どこにも衝撃はない。互いに車体どころかタイヤにすら掠らず、アスファルトに跳ね返って暗闇に消えたらしい。
 射撃訓練の的よりも大きいもの相手に一発も当たらないとは。己の射撃の腕に自嘲の濃い笑いが込み上げる。そもそも拳銃で狙える距離を超えているのだ。ヒロやライのようなスナイパーでもなければ狙える距離ではない。
 言い訳を考えるよりも次の手段を考えた方がいい。威嚇目的以外で撃つ理由がないのであれば、残り打てる手は二つ。
「あ、安室……さん、今のって」
 僕が言った通り前を向いたまま、けれど先ほどよりも震えた声が隣から聞こえた。銃声が響き続ける状況になど遭ったことがないのだろう。ごく普通に生きていれば当たり前のことだ。
 非常誘導を思い出しながら、なるべく穏やかな声になるよう口を開く。
「銃声です。まだ向こうも弾が」
「いえ、その、安室さんも」
 サイドブレーキから離れた左手が助手席側の虚空を彷徨う。頼りなさげな細い指に手を伸ばしかけて、そっと戻した。僕が握るべきは、梓さんの恐怖の一部だ。
「ああ……これ、護身用のエアガンです。ほら、探偵って何かと物騒だから」
 疑うような返答が来る前に、畳み掛けるように続ける。
「護身用の偽物ですけど。必ず梓さんを守ります。無事に家に帰りましょう」
 しばらく逡巡してから、こちらを見向きもせずに梓さんが小さく頷いた。僕は何をしようと、怪我を負おうと梓さんには何の責任もない。だから、それでいい。
 後ろに着いているヤツらの目的はわからないが、少なくとも無事では済ませたくないのは確かだ。道路状況から協力者が他にもいて、おそらくほとんどが後方に割かれている。前方はいたとしてもだいぶ先だろう。……とすると、この真後ろのヤツらをとりあえずどうにかして、前方のヤツらに追いつく前に高速から降りれば周囲に紛れ込める。
 再び響く銃声に反射的に身を乗り出して、急いで戻る。開けたダッシュボードは空、この間のメンテの時に一度取り出したんだっけ。替えのマガジンは。
 後でビンタでもなんでも喰らうのを覚悟してから声をかける。
「梓さん、少し失礼」
「はい……ってちょっと!?」
 ハンドルにかかる腕と太ももの間に手を……足りなかったので少し上体を潜り込ませながら、ドアポケットの中を漁る。しきりのないそこはごちゃごちゃと物が入り混じっていて探しにくい。頭上の梓さんはセクハラだとか、いっそ逆セクハラだとか混乱を極めている。女子高生のファンに見られたらとかなんとか言っているが、そんな心配をしている場合ではないだろう。
 時折頭に感じる感触をどうにか無視しながら目的のブツを右手で掴む。あいにくとこの状況でわざと手を滑らせるほど命知らずではない。大人しく車体に手をつきながら上体を起こした。
「お邪魔しました」
……炎上したら安室さんが火消ししてくださいね!」
「ええ……今のは不可抗力で」
 回収した替えのマガジン二つにブルートゥースのイヤホンマイク。どちらも嫌になる程繰り返し、染みついた動きで所定の場所に納める。右手にH&K、左手にスマホ、発信直前の画面に映る名前の人間から呆れた声が届くのは想像に容易い。
「現在位置と道路状況の確認を頼む。それから後ろの奴らの特定も」
……は、降谷さん? 今日は休みのはずでは』
「至急」
『は、はい!』
「安室さん?」
 窓を開けて風を切る音が聞こえる中でも、人の話し声は聞き取られてしまうらしい。困惑する梓さんにどう説明……誤魔化すか悩む。もちろんその間も不定期に当たらぬ銃声が響き、いつかタイヤや燃料タンクに当たったらどうするかのシミュレーションを迫られる。
「もしかして、飛田さんですか?」
 右人差し指が得意げにハンドルから離れた。こういう時の勘の良さは一体どういう仕組みなのだろう。置かれた状況を忘れて聞きたくなる好奇心をどうにか窓の外に放り出す。
「えっ、はい、まあそんなところです」
『この先――ジャンクション。右レーンを進むと湾岸線へ、左へ十五キロメートル進むと――トンネル入り口。前方集団はどちらも十五から八キロメートル先。後方車両はまだ特定中です』
 突然流れた風見の案内によると、首都高に入るか否かの直前まで来ているらしい。随分と走らされ続けている。どちらが後ろの奴らの想定ルートかはわからないが、自分で置き換えれば両方対策することからどちらを選んだって大して変わりはない。
 世界最長と名高く逃げ場のないトンネルと、落下先が海で落ちれば最後死が待ち受ける湾岸線。普通に考えたら湾岸線を選んだ方がまだ可能性がある。この道の先には警備の要塞、国際空港へ分岐する。空港を止められるほどの力を持っているのであれば、そもそも今風見と連絡を取れていないはずで、この選択肢が安牌。
 だがこれが、僕を狙い、僕と警察の関わりを見出すために仕組まれた物だとしたら、この選択は今後の潜入に大きな影響をもたらす。
 そうすると今度はトンネルに続く道を選ぶのが無難になる。たしか、分岐から前方集団までの距離の間にトンネルの出口があったはずだ。どこかで後ろの車を振り切れば、ヤツらの目を掻い潜って下道へ降りることも可能。
『分岐まで十キロメートル』
 拳銃でタイヤをパンクさせるのは現実的ではない。背後を取られている以上燃料タンクを狙うのは難しい。フロントガラスは割ったところで気にも止めずに走り続けるだろう。まさか、フロントガラスを割った上で運転席と助手席の二人を撃ち殺すのはライフルとスナイパーでもいない限り不可能だ。
 手元にあるのはH&K一丁と閃光弾。……いや、待てよ。
「梓さん、頼みがあります」
「こ、これ以上スピードは出せません!」
「いえ、そうではなく」
 とうに制限速度を超過したメーターを指差しながら、梓さんが言った。また面倒な申請かと若干の頭痛に目を瞑りながら、閃光弾を左手で握りしめる。
 こんな状況でなければ、この右手はサイドブレーキにかけられた手に触れていたかもしれない。さっきのように炎上するとか言われながら、薄い手のひらに、細い指に。バーボンとして今までに引っ掛けてきたように、純粋だったあの頃のように。
 切迫した状況に感謝を捧げながら、立てこもり犯を諭す時と同じ声で続ける。
「頼みがあります。僕たちが、梓さんと僕がこの場を切り抜けて助かるためです」
……はい」
「今から僕が五を数えたら目を瞑ってください。右手で目を隠して。その後ゼロになったら目を開けてアクセルをベタ踏みしてください」
「目を瞑ったら危ないじゃないですか」
「梓さんが目を開けるまでは僕が見ます」
 ルームミラー越しの目とあう。揺れる瞳をまっすぐ見つめることしかできない。速度計はまだ一五〇キロメートルオーバーを示している。風見の連絡から三分、残り二キロメートル。素人がパニックに陥ったままハンドルをきらせるには速度が出過ぎていて、決めきれなければまた別案を考えなくてはいけない。
「僕を、信じてください」
 信じられるわけがない。それでも僕からかけられる言葉はそれしかなかった。
 猶予は残り二十秒。
「右手で目を覆って……目を瞑る?」
「はい、そうです」
……わかりました」
「じゃあ次の分岐を左へ」
「はい」
「分岐したら二分以内に僕がカウントします。さっき言ったように」
「目を瞑って手で覆う、ですよね!」
「はい。……梓さん、無茶言ってすみません」
「え、ええ、もう慣れました」
 努めて普段通りの明るい声で返す様子に若干の申し訳なさと、庇護欲が湧き上がる。
「あはは、頼もしいなあ、梓さんは! ほら、分岐です」
 静かに梓さんが頷くのと同時に、残り一キロと風見の声がイヤホン越しに聞こえた。窓から身を乗り出し、狙いを定める。後ろの車はオートクルーズでもつけているかのように、ピッタリと梓さんのハンドルと同じように動いている。こちらとの誤差は一秒もない。投げて急いで戻り、梓さんの目を手で覆う。梓さんだけでも見えていれば、こちらの勝ちだ。
「あ、そうだ。アクセルベタ踏みしたあとは――インターで降りてください。……十、…………五、四」
 三と同時に後ろに投げ、白飛びしつつある視界の中で少しズレたハンドルをなおす。右手に触れる体温が少し高く、けれど心地よい。
「一、ゼロ」
 後ろからの光が収まったのかもわからない。ゼロのタイミングで離した手のひらは柔らかな肌を撫でて温度のない革に落ちた。加速する重力が体にかかる中、後ろで爆発音が響く。突然の閃光に僕同様視界を奪われ、壁にぶつかったのだろう。生死はともかく追われることはなくなった。あの速度で生きているとは思い難いが。
 指先の感覚だけでスイッチを押し込むと、風の感覚から窓が閉まっていくことがわかった。視覚を失った中、梓さも風見も黙り込んでしまうと時の流れは体内時間しか頼れるものがない。心なしか音も遠く、意識朦朧としている時のようだ。
――さん、安室さん、今のって」
「振り返らないで、前だけを見て。後ろは僕が」
 感情が入り混じり落ち着かない様子がハンドルに現れ、左右に揺れる。後ろを振り向こうとした体がバランスを失って右に回った。慌てて着いた手が梓さんの肩を掴む。指に伝わる感触が中指を境にして変わり、生きている人の肉に触れている安堵に襲われた。
「あはは、すみません。梓さん」
……安室さん」
「はい?」
「私、そっちじゃありません」
 手を合わせた先に少し伸ばした手が空をきった。少し体を右に回しすぎたらしい。まだ視界は白く、梓さんがどこにいるのかは視界以外の情報が頼りだった。
「すみませ」
「後ろは大丈夫です。少し煙が見えたんですけど、今は何も。もうすぐ――インターなので降りますね」
「梓さん」
 謝罪も呼びかけもあえて無視され、言い訳はさせないと言わんばかりの声に一言すら挟めない。
 この声に、覚えがある。
「降りたら近くの駐車場に停めます。飛田さんと、警察を呼びましょう。私は、私には何もできないから」
「じゃあ連絡は僕が」
「安室さんはじっとしていてください!」
 いつか怪我を隠さずポアロに行った時と同じ剣幕に、おとなしく黙り込むしかない。ただの身分隠し用のバイト先の年下同僚に怒られていると知られでもしたら何と言われるやら。これではただの一人の男だ。
『ふっ、降谷さん、降りてすぐの信号を左折すると駐車場付きのコンビニがあります。五分お待ちください。そこで落ち合いましょう』
 風見とともに呆れた笑いがこぼれそうになるタイミングで、ウィンカーの規則正しい音が車内に響いた。了解がわりにマイクをつつき、インカムを外した。これで僕は、ただの安室透だ。もちろん、風見と合流するまでだが。
「梓さん、降りてすぐの信号を左折するとコンビニがあります」
「はあい」
 ETCの通過の音に、再び鳴り響くウィンカーの音。視界は段々と暗さを取り戻しつつも、まだ物の輪郭どころか色すらわからない。梓さんを家まで送って誤魔化す……ことは難しそうだ。風見に送らせるか。
 ハザードの音なく車が止まった。頭から突っ込んだらしい。まあ、仕方がないか。
「着きました! 安室さん、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
……本当ですか」
 視界の不鮮明さをこれほど悔いたことはない、かもしれない。極度の緊張感からの解放、そして信じろと言ってきた人間のこのザマ。静かに泣き出していたとしても不思議ではない。いや、一般市民の梓さんにはそうであって欲しかった。
 涙の匂いを嗅ぎ分けられるほどの嗅覚を、音を拾えるほどの聴覚を持っていない僕には、確かめる方法は一つだった。
「少し、いいですか」
「はい」
 腕から、肩、首、そして直前に向きを変えようとした顎から湿った頬。泣いている。それだけの事実が安堵と絶望をもたらした。左手をついて、さっきとは違う向きで身を乗り出す。突き飛ばしてくれ、最低だと頬を引っ叩いてくれ。いっそ掌底を。そんな人任せな願いは叶わず、涙で濡れた口角と反対に乾燥しきった感触でようやく離れた。
「すみません」
 謝って済む話ではないとわかっていても、謝罪の言葉だけが戯言のように口から零れる。
 今ここに二人無事でいるのは梓さんの協力あってこそで僕だけの力ではない。僕が梓さんを守ったわけでもなければ、そもそも守ったからといって梓さんを傷つけていいわけがない。
「無事で……逃げ切れて、よかった」
 首に、頭に回された腕は震えている。さっきのキスが僕からの無事の確認だとしたら、これは梓さんが安堵するための行為。抵抗のなさと今の状況からそう解釈するしかない。これらは、決して恋愛感情に基づく物ではない。
「怖かった。でも、安室さんを信じてたから。……ううん、安室さんが好きだから」


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