よるはこ
2024-03-04 12:43:58
1704文字
Public mp100 徳神
 

【徳神】制服に押し込め割れたモノ捨てに「駆け落ちしようか、水曜にでも」

駆け落ちできない徳神。(自作短歌ss)

「今日って何曜日だっけ」
 放課後の静かな教室にぽつりと響く神室の声はいつになく疲れ果てていた。もしこの声を形にしたのなら、きっとタールのようにどろりと口から漏れ出てそのままベッタリと床に広がっているような、そんな声だった。唯一教室に残っている俺に対しての言葉なのかどうかも怪しかったが、とりあえず俺はその独り言のような問いに答えた。
「今日は水曜日だ」
「そっか〜まだ水曜かぁ〜、はぁ
 神室は深く溜め息をつきながらさっきまで整理していた書類やファイルの上にだらしなく突っ伏した。普段の俺なら軽くたしなめる行儀の悪さだ。
 だが細い腕の先の油分も水分もないカサついた指先や、横髪から覗くくたびれた頬や、閉じているのに眼球の動きがよく分かるほど薄い瞼が俺の言葉を無くさせる。
 神室は誰よりも努力している。親友で長い間ずっと隣で見ていたからよく分かる。それなのに決して疲れただとか眠いだとか一切の弱音を吐かなかった。
 お帰りなさいを言ってくれない家族、どれだけ努力を重ねても肩を並べられない兄、不摂生で不規則な生活。そんなものが薄い肩に重くのしかかって神室の呼吸を弱々しくさせている。
 俺は神室の横に積んであるファイルを半分ほど取って生徒会長の仕事を代理で進めた。下手な言葉をかけるより、こうした雑務を代わりに引き受けて神室の負担を少しでも減らすことが俺にできる最善のことだと俺は判断した。
 黙々とファイリングされた資料を取り出しシュレッダーで処分する物、別のファイルにしまう物、永久保存の物を仕分けていく。作業に集中して数分後、急に良いことを閃いたような面持ちで神室が起き上がった。
「ねぇ、徳川」
 声がゴムボールの様に楽しそうに弾んでいた。神室は時折、とんでもないアイデアを思いついたりする。それは素晴らしい事であったり肩の力が抜ける様な事だったりするが、どれも頭のかたい俺なら到底考えつかないことばかりだった。それらを聞くのを密かな楽しみにしている俺は手を止めて神室の久しぶりに生き生きとした目と視線を合わせた。
「僕と駆け落ちしない?」
 あまりに突拍子のない提案に俺の口ははぁ?の形に開きかけた。が、その後に続けて出てきそうな言葉があまり優しくないことに気がついてまた口をつぐんだ。神室は俺の返事をニヤニヤしながら待っている。冗談には冗談で返した方がいいだろうという気持ちもあった。だが、茶化すより神室と本気で向き合いたい気持ちを優先した。
「何もかもから逃げ出す罪悪感を薄めるために俺を共犯者にするんじゃない」
 言った後で語気が強すぎただろうかと心配になったが神室は冗談を言った時の様に笑って、
「うわ〜流石この徳川。正しいことしか言わないね」
 ほんの冗談じゃないかと口を尖らせた。ぐったりと項垂れていた時とは打って変わって余裕のある態度に少しホッとした。安心した俺は、
「別に俺の言う事やる事全部正しいわけないだろ。買い被りすぎだ。お前に必要なのは逃避行でも共犯者でもない。お前はお前が思っている以上に出来るやつだから少し休むだけで十分だ」
 そう言って残りのファイルと神室の顔の下敷きになっていた書類も全部こちらの机に寄せて神室の鞄を手渡した。神室は困ったような顔をしていたが小さくありがと、と言うと帰り支度をして、
「じゃ、お先に
 扉を開ける音に掻き消えそうなほどの小さな声で神室は呟いた。曜日を尋ねた時と同じような声だった。
それこそ君も、僕を買い被りすぎてるじゃないか」
 振り返ると同時に扉が閉まった。すぐに追いかけて扉を開けたが、走り去る足音が廊下に響くだけで神室の姿はとうに消えていた。

 神室が例の『大掃除』を決行したのはそれから数日後のことだった。極限まで追い詰められていた神室は逃避行ではなく他者を貶めることを、共犯者に俺ではなく後輩を選んだ。そして俺は自分の気持ちを優先して神室を追い詰めた人間の内の一人になってしまった。
 やはり、あの時言いかけた「どこへ駆け落ちするんだ?」と冗談でも聞けばよかったと後悔したがもう何もかもが遅かった。