よるはこ
2024-02-22 20:48:56
5921文字
Public mp100 律モブ 徳神
 

【律→モブ】【徳神】執着と影

皆川博子氏の『影を買う店』パロ
神室が出てこない上に死ぬ。律のねっとり一人称ss。

 神室生徒会長の椅子に影がこびりついていると気づいたのは、放課後の生徒会会議が終わった後のことだ。

 その日の議事録を紙に纏める面倒な作業がやっと終わり、一息ついて僕は首を回した。(いつもこういったことをする書記の先輩はなんらかの理由で欠席だった。どんな理由だったかは興味がなかったのですぐ忘れた)ぐるりと揺れる視界の端でなにか不自然に黒いモノが引っかかって、僕はそれを注視する。神室会長の席だ。その席の主は塾があるからと言って、会議が終わると同時に帰ってしまったはずだ。錆びた金属とビニールでできたどこにでもある普通のパイプ椅子、その背もたれに神室会長の肩幅程度の黒いシミが張りついている。
 それが神室会長の影が染みついているのだと分かった途端、僕は昔読んだ本を思い出して顔をしかめた。
 影は通常、場に長く留まれば留まるほど濃く染みつくモノだと、その本に書いてあった。生徒会会議なんてたかが一時間程度で、神室会長はそんなに長くこの生徒会長の席に座ってなんかいない。それなのに、夕陽の弱々しい光だけでこんなにも濃い影が椅子に残っている。
 いつもこうして背もたれに影を残していたのだろうか。今まで会長の席に興味がなくて全く気がつかなかった。短い間に影が染み付くということは、神室会長がこの席に、生徒会長という肩書きに、意地汚く執着しているからだろうか。塾がどうした、家がどうした、なんて会話を徳川副会長と熱心にしているのを聞いてしまったことがある。だが、神室会長が一番固執しているのはこの生徒会長の席ではないだろうか。こびりつく彼の影を見ていると、そう思えて仕方がなかった。
 そこまで考えを巡らせたが、まぁどうでもいいか。と僕は興味を失い、ため息をついて視線を外した。どうせ影は夜になれば溶けて消える。随分と見苦しいだけで神室会長の影なんて僕にとっては本当にどうでもよかった。さっさと帰ってしまおうと荷物を鞄に纏めて立ち上がった。
「徳川副会長、お先に失礼します」
 腕章を外して唯一残っている先輩に声をかけた。
 時計の針のように正確に分けられた前髪が揺れ、硝子みたいな鋭い両目が夕陽を翻してこちらを向く。内面の真面目さが外側まで滲み出ていて作り物めいた容姿だと、徳川副会長の顔を見る度に僕は思った。
「あぁ、書記代理ご苦労だったな、影山。気をつけて帰ってくれ」
 徳川副会長は落ち着いた低い声で必要なことだけ言うと、またすぐに手元のファイルに目線を戻した。副会長のこうした淡白な性格は、兄さんに少し似ていて好感が持てた。嫌なものを見てしまった後だからか、いま僕は無性に兄さんに会いたくて仕方がない。今日はあの胡散臭い所で時間を無駄にしていないといいけれど。とにかく早く家に帰ろう。
 議事録をチェック箱に提出し、腕章を指定の箱の中へ返却する。では、と副会長に一礼して僕は生徒会室を出た。
 後ろ手で扉を閉めようとしたその時だった。

 カタッ。

 背後のまだ締め切っていない扉の隙間から、椅子の動くような硬い音が耳に届いた。おそらく副会長が席を立った音だろう。ただそれだけの、日常の中のありふれた音だ。普段の僕なら気にも留めないまま扉を閉めた筈だった。
 僕には超能力がない。霊感もない。だから第六感の類いを感じたことがない。今まで一度も。
 にも関わらず、その音を聞いた瞬間、扉に触れていた指先から脳に向かって感じたことのない痺れが走り、僕の中に一つの確信が浮かんだ。

 『徳川副会長はこれから悪い事をする』

 後で振り返れば"確信"なんて言うのも馬鹿馬鹿しい、ただの妄想めいた予感だった。
 何故、椅子の動く音だけでそんな予感がしたのか。
 何故、徳川副会長は悪い事をするのか。
 なにひとつ分からない。理由も根拠もない。
 分からないのに、いや、分からないからこそ確かめたくて仕方がない。
 あの生まれてからずっと正しい行いしかしていないような徳川副会長が本当に悪いことをするのか。するとしたらどんな悪いことをするのか。
 僕はこの初めての直感が正しいのかどうか、確認しなければならない。
 わざと扉を数センチ開けたままにして、素早く廊下の左右を見渡す。夕暮れの廊下には誰もいない。なるべく普段通りに階段まで歩いた後、急いで上履きを脱ぎ足音を立てないように素早く靴下の足を滑らせて廊下を引き返した。
 とても最低な行為をしている。
 白い靴下の裏を汚してしまうことも、早く兄さんに会いたいことも、今から常識的に許されない行動をしようとする罪悪感も忘れていた。痛いくらいに大きくなる鼓動を落ち着かせるように、学ランの上から胸を強く押さえつける。息をひそめて、衣擦れしないようにゆっくりと、教室のドアの前に立った。
 このドアの向こう側、徳川副会長はいま何をしているのだろう。
 未知の感覚に突き動かされるまま、僕は扉の隙間から生徒会室の中を覗き見た。
 この隙間と角度からだと窓と黒板の一部、そして生徒会長の椅子が見える。相変わらず黒い影が背もたれにへばり付いている。廊下側に置いてある棚が遮蔽物になっていて徳川副会長の席付近は確認できない。席を立った副会長はどこにいるのだろうか。僕が彼の気配を探れず細い隙間をあちこち見渡していると、不意に誰かの手が生徒会長の席へ伸びた。
 筋張った手だった。甲の筋や指に夕陽の淡い光が落ちて、切り絵みたいに繊細な影が凹凸を際立たせている。そんな綺麗な男の左手が、神室会長の影にそっと触れた。
 手は慣れた仕草で、それでいて壊れ物を扱うかのように丁重に、神室会長の影を指先ですぅっとやさしく撫でた。ただそれだけの動きで神室会長へのただならぬ気持ちを察した。きっとこの世のなによりも神室会長のことを大切に思っていて、それでいて愛撫のような手付きで触れるような関係なのだと僕でも分かった。
 あの彫刻みたいな手の持ち主はおそらく徳川副会長だろう。さっきまでファイルの頁をめくっていた厳粛な彼の手があんな官能的な動きをするなんて信じられず、それでいて目が離せなかった。
 これが徳川副会長がする悪い事だったのか。生徒会の業務を途中で放り投げて、校内であんな行為をするなんて、とても悪い行いだ。僕の予感は見事当たっていた。そうか、僕の超能力はもしかしたら直感力なのかもしれない。兄さんの念動力と違うのは少し残念だけれど、今夜さっそくカード当ての練習でもしてみよう。
 僕が勝手に納得している間にも、徳川副会長の手は神室会長の影を撫で続けている。よほど神室会長のことが好きなのだろう。お互い受験で時間のない二人にとってはこれが恋人らしい触れ合いなのかもしれない。あんな風に影を触れられて神室会長は今頃どんな心地なのだろうと、思わず下卑たことを考えてしまう。ただでさえ覗きという品のない行為をしているのに、少しの間だけ倫理に背いてしまえばこんなにも理性が麻痺してしまうのか。徳川副会長は悪い事をした。自分の直感の正しさを確認できたのだ。これ以上ずるずると自分で自分を貶めるはやめて、今度こそ帰ろう。
 そう思った矢先、全ての指先で影の感触を楽しんでいた徳川副会長の指がおもむろに影の端へ爪を掛けた。僕がそれを疑問に思う間もなく一気に、徳川副会長は神室会長の影をベロリと剥がしてしまった。
 その瞬間に感じた衝撃を、僕は一生忘れないだろう。
 神室会長の影を剥がされいつもと同じ状態に戻った椅子の上で、徳川副会長の手は丁寧な所作で影を小さく折り畳む。そして、現れた時と同じように静かに物陰へ消えた。短い足音と椅子を引く音、暫くして紙をめくる音が聞こえ出しても僕は動けないままだった。
 影が剥がされた瞬間、僕の身体の内側も剥がされたような心地がした。不快と快感がキッチリ同じだけの奇妙な刺激に打ちのめされて、僕は茫然と立ち尽くしていた。やっとその感覚を消化して動けるようになった僕はぎこちない動きで生徒会室の扉から離れると、一目散にその場から駆け出した。
 どうやって学校を出たのかよく覚えていない。いつの間にか僕は靴を履いて夕暮れの帰り道を走っていた。頭の中で何度もあの光景が繰り返されてはその度に身震いしてしまう。それからも逃げたくて走り続ける。夕陽があまりにも眩しくて僕は角を曲がって暗い路地へ逃げ込んだ。街の影で満たされたそこは居心地が良かった。
 あの徳川副会長の指の動き。めくられた神室会長の影。何度も何度も脳裏で流れる光景。繰り返し、繰り返し、映像が流れる。どれだけ走ったって逃げられやしない。僕の頭の中は一つのことでいっぱいになる。
 走り疲れて立ち止まる。息も切れ切れだと言うのに僕の口からポツリと独り言が漏れた。
「兄さんの影を剥がしたい」
 言ってしまった。言葉に出してしまった。兄さんへの想いを曖昧なまま気付かないふりをすることはもう出来ない。僕はタガが外れた様に呟いた。

 兄さんの影を剥がしたい。兄さんの影を剥がしたい。兄さんの影を剥がしたい。兄さんの影を剥がしたい。兄さんの影を剥がしたい。僕も、あんな風に。

 あの影と一緒に僕の中の何かが剥がれてしまった。生徒会室を出る前の僕には戻れなくなってしまった。もうどうしようもないくらいそれしか考えられない。
 呼吸も落ち着いてきた。僕はゆっくりと深呼吸してから歩き出す。路地の出口はオレンジ色の光が洪水の様に溢れている。夕陽が眩しければ眩しいほどに、路地の影は濃くなっていく。僕は塀に落ちた僕の影に爪を立てた。無機物の影は剥がれず、代わりに僕の爪先がガリガリと音を立てて擦り減る。
「兄さん」
 僕の声は誰にも届かないまま、橙色の街の中へ溶けていく。
 兄さんの影はどんな感触なんだろう。剥がしたらどんな顔をするのだろう。
 僕は足を踏み出して帰路を急ぐ。兄さんに会うために。兄さんの影を剥がすために。
 路地の壁に一つ、しるしの様に僕の爪痕が残っていた。
 


 それから毎日、僕は兄さんの影を目で追い続けた。けれど、元から影の薄い性質の兄さんはどこにも影を残すことはなかった。家と学校以外のどこかに残しているかもしれないと探すものの、あの日以来、僕の超直感力が働くことはなかった。もしかしたら最初からそんなものなんて無くて、あの日一瞬限りのまやかしだったのかもしれない。
 数日後、神室会長は死んでしまった。日常的に影を剥がされていたのなら、その度に身体の内側が薄くなり最期には透明になってしまったのだろう。あの本の結末と同じだ。あれから僕は気不味さを感じて、徳川副会長の顔を見ないように過ごしていた。それでも生徒会活動中、不意に副会長の顔を見てしまう時がある。そうした時はいつだって彼は沈痛な面持ちをしていた。前髪は乱れ、かつて強い意志を宿していた両目も弱々しく沈んでいる。徳川副会長はきっとあの本を知らなかったのだろう。度を越して剥がせばどうなるかも。もしかしたら、神室会長は知っていたのかもしれない。影を剥がされ続けたら自分はどうなるか。そしてその後、徳川副会長が一生自分のことを考えてくれているように、作り物みたいな顔立ちが自分のせいで歪むように、呪いをかけたのかもしれない。
 可哀想に。全く関係ない僕も心が痛むような気持ちがするが、今はそれどころではない。
 僕は兄さんの影を剥がさなければならないんだ。
 僕らは絶対に、彼らみたいにはならない。



「兄さん、お風呂空いたよ」
 ある日の夜、兄さんの部屋のドアを開けて僕は声を掛けた。机に向かっている兄さんは何かに集中しているようで返事がない。僕はその横顔に見惚れながら部屋に足を踏み入れた。近づくと、どうやら兄さんは本を読んでいるようだった。普段は漫画すらあまり読まない兄さんが小説を読んでいる。珍しいな。兄さんの集中力を切らしてしまうことに胸を痛めながら僕はもう一度声を掛けた。
「兄さん」
「わっ!」
 可愛らしい驚いた声を上げた兄さんと目が合う。にやけそうになるのを必死で堪えて僕は言った。
「ごめんね兄さん。声掛けたんだけど聞こえなかったみたいで
「ううん、僕の方こそごめん。全然気がつかなくて。あ、もうこんな時間か
 兄さんは机の上に置いてあった栞を挟んでページを閉じ、大事そうに本を鞄にしまった。何の本だろう。タイトルはちょうど見えなかった。気になってしまう。兄さんが本屋で選んで買った本だろうか。それとも誰かに借りた本だろうか。それとも。あぁ、気になる。僕に透視能力でもあれば
「どうしたの?律」
 兄さんの声にハッと我に返る。
「あ、ごめん、ちょっとボーっとしてて。はは、のぼせちゃったかな」
「えっ!?律、大丈夫?今すぐ横になる?」
 僕の一言で兄さんはあわあわと慌てて布団を敷き始めた。なんて思いやりがあるんだろう。僕は優しい兄さんに大丈夫だよと伝えようとした。けれど、それより先に布団を敷いて床に目線を下げた兄さんが、
「あれ?この黒いの、なんだろう」
 そう言って僕の足元で、はしたなく染みついた僕の影に触れた。内臓の表面を指でなぞられるような吐き気と細胞のすみずみにシロップみたいに甘いなにかが染み込むような陶酔感が織り混ざり、強すぎる感覚に息が出来なくなった僕はたまらずしゃがみ込んだ。
「えっ!?律、ほら、ここにゆっくり横になって
 僕の肩に優しく触れる兄さんの手を強く掴んだ。
 僕はもうなりふり構っていられず布団の上に兄さんを乱暴に押し倒した。
「律?」
兄さんは別段、驚いた様子もなく不恰好に覆い被さる僕をいつもの静かな眼差しで見ていた。僕は口の中が乾き切って「兄さん」とか「ごめんね」とか「影が」という言葉すら出せず、黙り込んだまま兄さんの肩に顔を埋めていた。
 兄さんの温かい手がなだめるように震える僕の背中を撫でる。
「大丈夫だよ、律。大丈夫……
 兄さんの牛乳みたいに白くて無垢な肌に僕の黒い影が染み付いている。
 そこへ吸い込まれるように、僕の頬からぽつりと雫が落ちた。
 それが髪を濡らしていたお風呂の湯なのか、僕の涙なのか。

「にいさん……

僕は兄さんの手を握って、ゆっくりと影の端に導いた。

「おねがい、はがして」

 兄さんへの想いがいやしい執着になっていくのをどうしたらいいのか。
 僕にはもう、なにも分からなかった。