イチジクの花は見えないようで、その実、果実の中に咲いているという。花を見せびらかすこともなく、ただからだの内側に隠し持っていることに勝手に親近感を覚えた。了自身に花などという美しいものはないかもしれないが、それでも花を見ることは好きだった。もっとも世話をしろといわれたら、すぐ枯れさせてしまうだろうけれど。
――たまに手紙を送ってくる読者がいる。その人の字は流麗、そして美しい花のようだった。返事は出さないが、定期的にくるその手紙には本の感想と近況報告があり、察するに若い男のようだった。宛名はまぎれもなく春木了宛てだが、その人が書くのは住所のみだった。名前はずっと、知らない。きっとこれからもそうだろう。男は「近々結婚をします」と報告してきた。そして結婚してからも手紙を出すことを許してほしいと言っていた。少し臆病かかったその文面は、どこか自分自身を連想させた。引き出しの中から便箋を抜き取り、万年筆を持って文机に向かった。これだけは返事を書かなければならないと思ったのだ。
「どうぞ」
顎をあげると、白いカップに入った紅茶を出された。ずっとうつむいていたので首が痛い。
時計は13時をさしていた。となりに恭介が座っている。つるつるとした長いテーブルに、椅子が何脚か置かれて、了を入れた四人が座っている。
紅茶を置いた女性は、行儀良く頭を下げて出て行った。
「さっそくですが、春木先生の――」
先生、という言葉に吐き気がこみ上げる。恭介が事前に伝えてはくれているだろうけれど、忘れているのか、そもそも底辺作家に気遣いは無用と思っているのか。どちらでもいいが、始まったばかりなのに、もう帰りたい。
以前恭介が言っていた短編集の掲載順を話し合う会議だが、こう言った場はやはり慣れない。
目の前に出された書類を見下ろす。掲載順の例のようだった。一番最初に「裸足」のものと、一番最後に「裸足」のもの。それを中心に計五種類、書かれている。
「……」
どれもぱっとしない。口を噤んでいると、目の前の40代か50代くらいの男性が「先生はどう思われますか」と聞いてきた。恐る恐る指を動かして、「裸足」を指差した。
「裸足、を、真ん中に。それから、親愛なる劣情、を、一番最後に」
そういってから、急に喉が渇いてカップに手をつけてひとくち飲んだ。少ししか話していないのに喉がからからになってしまった。
「春木さんの仰るとおり〝裸足〟は七作品中の四作品めに入れると、読者にも伝わりやすいと思うのですが」
伝わりやすい、と恭介は言った。裸足の前に楽土、裸足の後に人で無し。と、彼はすらすらと男に伝えている。彼らは頷きながら書かれた書類に鉛筆で修正していた。もうひとりの神経質そうな男は了とおなじくらいの年齢で、熱心にとなりに座る男の手元や恭介の話を聞いているようだった。
楽土は「魂が休まる場所の話」であるし、裸足は「墓場で語る裸足の男の話」、人で無しは「湖に住む女の話」。全て内容に共通点のない短篇だが、おそらく恭介は気付いている。これらは全てひとびとが――いわゆる、〝落ちた〟場であると。
春木了の作品はみな、最後は〝落ちる〟のだ。重力のありなしに関わらず、落ちる。それが全てだった。
「先生、ありがとうございます」
男はにっこりと笑い、「良い本をつくりましょう」と言った。神経質そうな男はちらと了を見て、くちびるを歪ませるような、無理やりみたいな笑顔を見せた。先生、という単語に脳が拒否反応を起こしたようにぐらついて、また吐き気を覚えた。
自分がいなくてもとんとん拍子に話が進んだじゃないか、と恨めしい気持ちになる。顔をあげたときには男二人は部屋を出ており、残った恭介は窓のカーテンを締めていた。いつも昼間でも締めているのだろうか。
「清野さん、べつに俺がいなくたって……」
「いいえ」
やけにきっぱりと否定した。珍しく、了のことばを否定したのだった。
「春木さんがいらっしゃらなければ裸足が一作目、あるいは最後の七作目になっていました」
「……」
「嫌な思いをされたでしょう。申し訳ありません。彼、少し忘れっぽいようで」
「いい。もう気にしてない」
よく考えれば「先生」と呼ぶのは編集者にとっては普通だし、当たり前のことだろう。それなのに、恭介たちに無理を言っているのは了のほうだ。
薄暗い部屋にまだ座っているのに今気付く。了が出なければ恭介も出られないだろう。のろのろと椅子を引いて部屋を出る。黄色くて白っぽい蛍光灯が目を焼いた。思わず手をかざして目を細めた。こんな明るい場所で恭介は仕事をしているのだと思うと、目が疲れないのだろうかとも思う。
「……近くに喫茶店があるので、休んでいかれては?」
「そうする……」
吐き気はもうしないが、その分すこし疲れが出てきた。二時間もかからない程度の会議でこんなに疲れていては、いよいよもって了は会社勤めは無理だと感じた。恭介はこういう――いや、もっと深く厳しい会議をくぐり抜けてきたのだろうから、すさまじいものだと思った。
「あんたはどうするんだ。仕事に戻るのか」
「ええ」
「そうか。……じゃ、俺はこれで」
「お疲れさまでした。また、お伺いします」
恭介に背を向けて白昼社を出ると、イチジクの果実を持った若い男が歩いていた。もうそんな時期なのか。果肉の甘酸っぱさは好きなので、イチジクも好きだ。もっぱら買うかもらうかだし、庭に植えたとしても虫が付きやすく寒さに弱いらしいのできっとだめにしてしまうだろう。
喫茶店に入って鞄から封筒と便箋を取り出し、朝に書いた手紙を反芻する。誤字や脱字などあったら作家の名折れである。たった一枚の手紙だが、今までの感謝と祈りを込め、したためた。また、手紙を書いてほしいとも。間違いが無いことを確認して、封筒に入れて封をする。鞄に入れると頼んでいた紅茶が置かれた。白いカップには紺青色で模様が描かれていた。ツタの植物のようだった。カップの取っ手を持ってじっと見つめてから、カップにくちびるをつけた。
どこかで果実の甘い香りを感じた。
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