この牧場は町から少し外れたところにあるので誰かが訪ねてくるということはあまりない。だから朝早くに小屋の扉をノックするのを聞いたときはなにかの間違いかと思ったし、その姿を見て余計に夢か幻かと目を疑った。
「……セバスチャンと、サム?」
その突然の来訪はいつもよりも少し遅く目覚め、時間をかけながらも診療所へ向かう支度をしていた最中のことだった。昨夜捻って痛む足を引きずりなんとか扉を開けるとそこにはセバスチャンとサムが立っていて、想像もしたことのないその光景に私は朝の挨拶も忘れただ二人を交互に見遣る。どこか少し重苦しいようなその雰囲気も相まってどうしたものかと思ったが、こちらが尋ねるよりも早くサムが勢いよく頭を下げた。
「——昨日は悪かった!」
「サム、いきなりどうしたの……」
「セバスチャンから聞いたんだ、お前が怪我してたって……知らなかったこととはいえ本当にすまない」
「ううん、私の不注意だから……こっちこそごめんなさい」
いつもの明るい笑顔を封印し何度も深く頭を下げるサムに顔を上げてくれと頼むと、それならばとサムが手に下げていた袋を手渡してくれた。
「これ、数日分だけどなにか簡単に食べられそうなものを買ってきたんだ。せめてこれくらいは受け取ってくれないか」
「そんな、気にしなくてもいいのに」
「いいや、足を痛めたら仕事にならないだろ? 本当はこんなものじゃ足りないくらいだよ」
渡された袋の中を見てみると、そこには若者らしくたくさんのジャンクフードが詰められていた。そういえば数ヶ月前まではこんな食事ばかりだったかと前職のことを思い出して苦笑すると、セバスチャンが少しばつの悪そうに口を開いた。
「……一応もっとましなものがいいんじゃないかって止めたんだけどな、よかったら受け取ってやってくれ」
「おい! セバスチャンが選んだのも入ってるだろ?!」
「俺はサムみたいに明らかにやばそうなものは入れてない」
そうふいと顔を背けるセバスチャンの肩をサムが思い切り揺さぶるものだから今度はつい面白くなってしまって、くすくすと零れた笑いに二人は顔を見合わせた。
「ふふ……いてて」
「あぁ、立たせたままで悪いな。座るか?」
「ううん、これからハーヴィー先生のところに行こうと思って」
「それなら行かなくていい」
「え?」
「そうだな、ちょうどいいんじゃないか?」
どういうことかと尋ねる前に牧場の入り口の方から元気な声が聞こえてきた。来たわよ、とこの名を呼んでくれるのは友人のアビゲイルだ。駆けてきた彼女の少し後ろには息も絶え絶えになっているハーヴィーの姿もあって、彼は今頃診療所で患者を診ているはずではないのか。続々と訪れる来訪者に困惑しきりになる私の目の前で、アビゲイルは一息吐いてからにこりとやり遂げた表情をしてみせた。
「なんでハーヴィー先生が……」
「だってあなた歩けないからって、セバスチャンが——」
「いいから中に入ろうぜ。ハーヴィー先生もここじゃ診られない」
ほら早く、そうセバスチャンに急かされるがままに私は皆を室内へと招き入れた。
先日この小屋にもめでたくキッチンが誕生し、室内もいくらか人を呼べる程度には広くなったばかりだった。けれど呼べる友人もそういないし持て余していたところ、まさかこんなに人が訪れることになろうとは思ってもおらず、私は椅子に小さく座っている。
「折れてはなさそうだけどひどく腫れているね」
「治りますか……?」
「もちろん治るけど二週間から三週間はかかるかもしれない、その間はしっかりと固定して安静にしないと」
「でも畑が……」
しかしハーヴィーは難色を示すように首を傾げる。まだ動物を飼えていないのは不幸中の幸いとして、この収穫の盛りの時期に畑仕事ができないとなると冬も越せないかもしれないと、先ほどサムとセバスチャンに渡された食料の重みを思い知る。もちろん冬を越せるほどの量ではなかったしそこまでお願いできるはずもない。思わず言葉を失う私の様子を受けたのか、部屋を散策していたサムとアビゲイルが視線を交わし頷いた。
「あたし達が種を買ってくるわ!」
「アビィ達が?」
「あぁ、種まきもやるよ」
「そんなの悪いよ」
「いいの、ほら欲しいもの教えて! パパに安くしてってお願いもしておくから」
でも、と未だ躊躇う私の肩に触れるものがあり、それに振り向くとセバスチャンがいた。目の合った彼もまたふるふると首を振り彼等を行かせてやればいいと言う。
「どうせ暇なんだ、お願いしておけばいいよ」
「おい! ……まぁそのとおりなんだけどさ」
「ね、だから必要なものを紙に書いて?」
そうアビゲイルに言われるがまま必要なものを書き連ねお願いすると彼女はとても満足そうに微笑んで、サムの背を叩き行くわよと飛び出していってしまった。あとに残されたのは自分とハーヴィー、そしてセバスチャンの三人だ。それでも賑やかな二人が出て行ってしまったので室内は途端に静まり返ってしまい、祖父の代から残された古時計の秒針がかちかちと響いている。この足元ではハーヴィーとセバスチャンがしゃがみ込んで昨夜の様子を話していて、腫れた足首が剥き出しなものだから少しばかり恥ずかしい。そんな折ふとセバスチャンと目が合って、頬の熱さを思いながら視線を逸らすとこの居た堪れなさに気づいたのか彼は不自然に立ち上がった。
「早く治したいならギプスで固定してしまおうか。セバスチャン、ついでに水を汲んできてくれるかな」
頷くセバスチャンがキッチンへと消えていく中、ハーヴィーが手際よくくるくると包帯を巻いていく。これで痛みが取れるわけではないけれど処置を受けることでずっと燻っていた不安は嘘のように引いていった。
しかしそれを完璧に上書きしたのは医師の言葉で、ハーヴィーがその凛々しい髭から笑みを覗かせぽつりと口を開いた。
「——セバスチャンがね、僕を呼んでくれたらしいんだ」
「え? アビゲイルじゃ……」
「アビゲイルは彼に言われて来たんだよ」
「それは連れて行くのが面倒だっただけで……」
「でもそれでよかった、このまま歩いていると余計に悪化していただろうからね」
ハーヴィーはセバスチャンから受け取った水にギプス用の包帯を浸し、先ほど巻いた包帯の上をなぞるようにしっかりと巻きつけていく。しかしそんなハーヴィーの手腕も今は目に入らない。それもこれもセバスチャンのせいだ。
連れて行くのが面倒だったからと言うけれどそれはそもそも眠りにつく前にも朝目が覚めたあとにも気にかけてくれていたということで、早朝に家を出て友人を集めてくれて食料を見繕ってくれて、更に医者まで呼んでくれて——昨日までの印象とは百八十度も違う彼の言動に感情が追いつかない。
この優しさにきっと他意はないのだろう。自分だってまさかと勘違いすることはない。ないけれど、今ばかりはどうにも心が弾んで仕方なくてあなたの背中も見られない。
「……はい、終わったよ」
その穏やかな医師の声にはっとして足元を見遣ると患部は既に見る影もなく白い布で固定されてしまっていた。少しだけ動かそうとしてみるとすかさずむやみに動かしてはいけないと叱られたので、しゅんとしながらごめんなさいと俯く。
「また二、三日後に様子を見に来るからそれまで安静にしてくださいね」
「ありがとうございます」
ハーヴィーはカルテだろうか、紙になにかをすらすらと書き記しそのまま器具とともに片づけ始める。そのため彼が帰ってしまう前に財布を取りに行こうと片足で立ち上がるとセバスチャンとハーヴィー二人同時に静止され、一歩と歩くことも叶わず再び着席させられてしまった。
「どこに行くつもりだい、安静にって言ったばかりなのに!」
「いやあの、財布を取りに行きたくて……」
「どこにあるんだ?」
「鞄の中、寝室に置きっぱなしで」
「入っていいなら取ってくる、いつもの鞄か?」
「うん、もちろん全然いいけど……」
別にこれまで送り届けてくれた人達は皆足を踏み入れているし、なんなら彼もそのうちの一人だろう。それにまだベッドくらいしかない部屋だから入られたところでなんの抵抗もない。だからそう頷くとセバスチャンは迷うことなく寝室の方へと向かっていった。
彼のその面倒見のよさは妹がいることに由来するのだろうか。いや、彼の妹は彼が兄らしく振る舞ってくれないと嘆いていた。だとしたら母親の影響か、その背を見つめながらそんなことを考えていると、帰り支度を整えたハーヴィーがこちらを見て微笑んだ。
「いい友人ができたみたいだね」
友人、その言葉に私が目を丸くしているとハーヴィーはこの頭の中をすべてを察しているかのように笑みを深くする。
そこへ戻ってきたセバスチャンがほらと鞄を手渡してくれたから、私はハーヴィーと顔を見合わせ笑顔で頷いた。なにも知らないセバスチャンは怪訝そうな顔でそれを見ていたが、今の会話のことには触れずただありがとうと受け取った鞄を抱き締めた。
***
そのあと診療所へ戻るハーヴィーを見送って、この牧場にはとうとうセバスチャンと二人きりとなった。貸し出された松葉杖をつきながら、二人で余計に静かになった玄関先に立ち尽くす。昨日ぶりに見た牧場はすっかり秋の装いとなっていて、見える範囲の畑は少し荒れてしまっているようだ。種蒔きもしてくれるとは言っていたけれど、これを耕すところから始めるといえば彼等も流石に嫌な顔をするのではないだろうか。そんなことを思いながら広大な敷地を眺めていると、中に入らないのを不思議に思ったのかセバスチャンがこの名を呼んだ。
「……そうだ。あの、今日も本当にありがとう」
「いや、余計なお世話だとは思ったんだが……」
「ううん、自分一人だと診療所に着くのがお昼前だったかもしれないからものすごく助かったよ」
今更不安そうに瞳を揺らすセバスチャンに私はもう一度礼を告げた。余計なお世話だなんてとんでもない話で、自分一人では本当にいつ辿り着けるかわからなかったのだ。誰かの手を借りることもまさかハーヴィーを呼ぶことも考えていなかったので彼の機転には助けられた。
そこで私はふとあの春の日のことを思い出す。あの日連れ帰ってくれた人を探していたのはそもそもお礼をしたかったからなのだと。少しほっとしたように牧場を見渡しているセバスチャンの服を引き、ねぇ、と声をかけた。
「お礼したい、昨日と今日と……この間の」
「いいよ別に、見返りが欲しかったわけじゃない」
「でもそれじゃ気がすまないの、なんでもいいから言ってほしい」
お願い、そう縋るようにセバスチャンを見上げる。彼はいらないと首を振るがそれでも目を逸らさずじっと見つめていると、やがて困ったように視線を彷徨かせたあと魚、と一言呟いた。
「え?」
「魚、よく釣るんだろ?」
「うん……」
「だったら刺身が食べたい、あれ好きなんだ」
照れているのか僅かに唇を尖らせてセバスチャンがそう言う。魚の捌き方はこの間ちょうどライナスに教えてもらったばかりで最近自分も釣った魚は刺身にして食べてしまうことが多い。そのため彼にかけた迷惑の詫びにも礼にもならない至極簡単なことで物足りなさもあるくらいだが、ふいと視線を逸らしてしまったその姿がなんだか可愛らしく、慣れない松葉杖を鳴らしながら私は秋の木の葉のように色づいた彼の顔を覗き込んだ。
「……うん! わかった!」
そう満面の笑みで頷いてみせるとセバスチャンもまた微かに笑ってくれた気がした。どうして私はこの人を避けたりしていたのだろう。ここを訪れてから昨日までの空白の時間を思い返し、記憶の中の彼を少しずつ塗り替えていく。きっと今夜は夢に落ちるその瞬間まで彼から逃げていた私を一人ずつ捕まえて、この人はそんな人じゃないよと言い聞かせるのだ。そうしたら明日目の覚める頃には私も勇気を出して彼のことを友人だと呼べる、そんな気がする。
牧場と町を繋ぐ小道から賑やかな声が近づいてくる。アビゲイルとサムが商店から帰ってきたようだ。その弾む話し声にセバスチャンがうるさいなと呟き私も苦笑する。二人だけのこの会話ももうすぐ切り上げなければならない。でももう少しだけ、あと少しだけ、あなたと話をしてみたい。
「どんなお魚がいい?」
「変なのじゃなければなんでもいいよ」
「ナマコとかは?」
「……お礼なんだよな?」
「違う、変なのの定義を聞いただけ!」
もう、と私が声に出して笑うとセバスチャンは一瞬驚いたように目を見開き、そのあとすぐに紛らわしいだなんて言いながら表情を綻ばせた。
そうしているうちにとうとうサムとアビゲイルが戻ってきて、初秋の落ち着きに浸っていた牧場は再び賑やかさを取り戻す。アビゲイルが買い物袋の中の種を見せてくれている後ろでなにやらサムがセバスチャンを冷やかしているようだ。なにを言われたのかは知らないがセバスチャンが不機嫌そうにサムを蹴りつけて、サムがそれから逃げるように畑の方へと走っていく。日常に戻っていくその真っ黒な姿を眺めながら、どうしたのと尋ねるアビゲイルになんでもないと首を振った。
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