初めてそれを認識した時に、母にこれは何かと尋ねたことがある。母はあのいつまでも幼子のような、無邪気な少女のような顔で首を傾げ、不思議そうに自分を見つめ返してきた。
左手薬指から伸びる赤い糸。長く長く続くその細い糸の先は、天に昇り、靄がかかったように見えなくなっていた。
幼いながらも自分は天からのメッセージのように感じていて、それを厳かな気持ちで眺めたものだ。
それを拙い表現で母に訴えれば、母は優しく笑って、遠いアジアの昔話を語り始めた。今思えば、母がそんな伝説的な寓話にも似た話を知っていたことに驚くのだが。
自分の息子が他者には見えてはいないらしい赤い糸の先について尋ねてきたならば、大抵の親はメンタル面を気にしたり、子供の戯言だと笑って誤魔化し、その話はもうお終いとばかりにあしらうだろう。
けれど母は、幼い息子の胸に手のひらを当て、心の臓器から繋がる赤い糸は、左手薬指を通って運命の相手へと伸びているのだと、それはそれは優しく説いた。
ならば、母の赤い糸は、父に繋がるのかと目を転じれば、母の左手薬指から伸びた赤い糸は、所在なさげに宙に浮き、その先は途切れていた。
焦って半泣きで母を見遣れば、幼い顔のまま、母は虚空を見つめて絶望的な表情を浮かべ、そして──
◇
あの時の母と同じ顔をしている──と、マーヴェリックは見慣れた自分の顔を鏡越しに見つめながら、その死にたくなるような表情に泡を立てた。髭を剃り、シェービングフォームを水で洗い流し、タオルで水気を切れば少しでもマシな顔つきになるのであれば、幾らでもそれを繰り返すだろう。
朝のルーチンワーク。
アラームが鳴る前に、完全に目が覚めてしまう体質のマーヴェリックは、アラームが鳴る前にスマートウォッチの動作を切る。着替えてワークアウトに出かけ、シャワーを浴びて、洗面台で髭を剃る。何十年も繰り返してきたことだ。
それに異質なものが加わったのは、一か月ほど前のことだった。洗面台備え付けの鏡に映るマーヴェリックの表情は、朝の晴れやかさなど臨めるべくもないほどに沈んでいる。母の面影を残したその顔は、父を喪い狂った時の母の表情にいたく似ていた。だからといって、マーヴェリックの胸に去来するのは、両親への哀愁でも思慕でもない。
鏡越しに自分の左手薬指を見る。なにもない。
けれど、視線を自らの左手薬指に直接転じれば、その根元には、赤い糸が結びついていた。マーヴェリックにだけ見える赤い糸。
それこそが、マーヴェリックの絶望の根源だ。
長い断絶を経て、親友夫婦の愛息子であるルースターが、マーヴェリックの住処に訪れてくれたのは半年前だ。
それは、遺恨ある相手に対し、ルースター自身が譲歩した結果に過ぎない。マーヴェリックが〝ブラッドリー〟の夢を奪い、彼がアヴィエイターとなる道を絶とうとした過去は変えられないし、マーヴェリックはあの時そうすることが最良だと考えていた。キャロルの遺志だけでなく、身勝手にも、マーヴェリック自身もブラッドリーを失いたくないがために、なりふり構っていられない状況であった。ブラッドリーに恨まれようとも、その後長い年月絶縁状態となろうとも、彼自身が生きていてくれさえするならそれで良いと考えていた。
しかし、マーヴェリックの考えを遥か越え、青年はアナポリスに進み、数年遅れでありながらもトップガンとして選抜されるほどの優秀なアヴィエイターとなった。そんな彼の命を救い救われ、今に至るのだが。
最初はぎこちなかった邂逅も、氷壁に阻まれた互いの壁が氷解するように、自然、水が流れるように、ルースターとの関係は良好になったと言ってもよかった。以前と同じ、とまではいかないまでも。
少年ではなくなった青年は、職務でも優秀だったが、プライベートにおいてもコミニュケーションが抜群に優れていた。親子ほどに年齢の離れた会話ではなく、ウィットに富んだジョークや豊富な知識量、ビアを傾ける仕草に、亡き父の愛車を運転する姿。サングラスにアロハシャツ、ドアに太い腕を乗せて運転する姿が様になる。
過去の遺恨がありながらも、軽口を叩き合えるほどに譲歩する姿を見たならば、それはマーヴェリックの知らない年月を生きた青年が存在するということだ。当たり前なのだが、その年月は数字以上の重みと衝撃をマーヴェリックにもたらした。
とてもよく知っているようで、全く知らない青年。それがブラッドリー・〝ルースター〟・ブラッドショー大尉だった。
そのルースターが、モハヴェにあるマーヴェリックの住処を訪れて幾度目かのことだ。
マーヴェリックは、他人の左手薬指から伸びる赤い糸を視ることができる。
幼い頃、母にその意を問うた。
遠い異国に伝わる伝説的な、人と人の縁を結ぶ赤い糸の話。それは非常に運命的な話で、ラブストーリーの映画や物語にありがちな設定だった。設定ではなく、事実、マーヴェリックにはそのフェイトが見えていて、それが繋がる異性、同性が結ばれる過程を重ねた年齢分見てきた。
母が説いた伝説通り、赤い糸が互いに結ばれた人々は、紆余曲折を経て結婚や恋人関係となる者ばかりだった。思春期を過ぎた頃には、マーヴェリックにもその赤い糸が持つ意味を正確に捉えられるようになってきた。愛し合う者同士の結びつき──それだけではない。赤い糸がほつれ、やがて消えて別れていく者もいた。時には赤い糸が幾つもの人に繋がる者も。身近では、死別し、赤い糸が所在なさげに宙に漂う様も見た。
そして、マーヴェリックが恋を覚えた頃だ。自分の赤い糸はいずれかの、未だ顔の見えない女神に繋がっているのだろうと胸を弾ませた。けれど、マーヴェリックの赤い糸は、いつも天に伸びていて、いつまで経っても、顔の見えない女神に恋焦がれるしかなかった。
やがてそれは、恋しい相手が現れたなら、実体化していく現象であると理解した。だから、ルースターの左手薬指も、マーヴェリック同様に天に伸びていたのを目にした時、青年はまだ運命の相手に出会っていないのだと心裡で事象をただ受け止めただけだった。
だが、青年の赤い糸は、その日は天ではなく、まっすぐ真横に伸びていたのだ。マーヴェリックは驚いた。
幾度目かの来訪。料理が得意な青年は、マーヴェリックの住処を訪れるたびに、食事を作りたがる。曰く、『あんたの食生活に付き合ってたら、俺痩せちゃう』『俺が好きなもの食べたいから』と。
嘯いた内容にもちろん偽りはないのだろうけれど、レーション食ばかりのマーヴェリックの食生活に彩りを与えるのはルースターだった。自分の分のついで、と優しい嘘で、味も見た目もその上栄養価の高い食事を作るのはもっぱらルースターの手腕によるものだ。舌が肥えて困る、と謝意と共に伝え、マーヴェリックはありがたく青年からの施しを享受する。
そんなまさしく好青年のルースターが恋に落ちた、もしくは運命の相手と出会ったのだと。下世話と思いながらも、マーヴェリックはその糸の先を辿った。近くに相手がいないのだから、ルースターの運命の相手に会うことはできないのに、マーヴェリックは好奇心に負けた。片鱗でも掴めないものかと。
そして、赤い糸を辿れば、何故か自分の左手薬指がぴくぴくと反応するのだ。なにかに引っ張られているかのように。
ルースターの赤い糸を引いた先──それがマーヴェリックの左手薬指に繋がっているのを目にした瞬間、マーヴェリックは熱い炎に触れたかのように、赤い糸を手放した。手放した瞬間眩暈がして、近くのテーブルに腰をぶつけてしまう。
「うわ、マーヴ!なに!?どうしたの、突然。すげぇ音したけど……」
「うそだ」
「え?」
「い、いや、なんでもない」
「なんでもないことないだろ!すげぇ汗かいてんじゃん!え、なに?具合悪かった?」
ルースターが身をかがめ、マーヴェリックの顔を覗き込んでくる。
不意に。その差を自覚した。
ティーンの頃、マーヴェリックと同じほどの背丈だった青年は、父に似て背が伸びるのであろうことは予測していた。グースはあまり脂肪がつかない体質で、ひょろりとした体躯は縦に長かったが、その息子であるルースターは横にも縦にも幅がある。マーヴェリックの様子を覗き込んでくれば、その体躯に覆われてしまうほどに、マーヴェリックとの体格の差異がある。
言い表し難い感情に襲われ、マーヴェリックはふらついて、再度テーブルに手をつく。
ルースターが手ずから用意した朝食の並ぶテーブル。
べちゃり、と鈍い音がした。
どろりとした冷たいなにかに手を突っ込んでいた。マーヴェリックは左手を見遣る。ヨーグルトの入った器が衝撃でひっくり返っていた。こぼれたヨーグルトに突っ込まれた左手。まとわりつく白い発酵食品から、目立つ赤い糸が伸びている。ルースターに向かって。勢いよくひっくり返ったヨーグルトは、筋を伸ばしてテーブルから滴り落ちている。
──再び、眩暈がした。
「なに、マーヴ。マジでどうしたの?」
「い、いや、なんでも、ない、」
「なんでもないってことないだろ!大丈夫かよ?」
「あ、ああ、少し、立ちくらみ、が」
「え」
病気などと縁がなさそうなマーヴェリックの言葉に、ルースターが焦り出した。たしかにルースターがブラッドリー少年だった頃、こんがりと焦げたマーヴェリックには幾度か遭遇することはあったけれど、それこそ風邪などという一般人にありがちな頻々に罹りそうな病でマーヴェリックが弱る姿など見たことがない。むしろオイルと焦げ臭い匂いにつつまれ、煤けた姿などというのは大袈裟だけれど、マーヴェリックはそんな風に任務にかかる怪我をしたとて、けろりとして元気な姿を見せていたものだ。実際は肋骨が数本折れていたり、時折白い包帯に包まれていたりはしたのだけれど。
だから、ルースターはその一般人が口にするような〝立ちくらみ〟という言葉がマーヴェリックの口をついて出たことに違和感を感じた。
「マーヴ、なに、マジでどうしたの?大丈夫?疲れてんの?ほら、座って」
「ブラッドリー」
「なに?」
「……見えるか?」
「は?」
マーヴェリックが左手の甲をルースターに見せてくる。その左手薬指がぴくりと震える。
「見える……って、なにが?」
「見えないんだな」
質問の答えを返してはくれず、マーヴェリックは、ヨーグルトに塗れている左手の甲を、ルースターの眼前に突きつけたまま、身を乗り出してきた。
焦りと、ともすれば怒りをも滲ませたようなマーヴェリックの必死の形相に押され、ルースターはイエス──見えない──と答えた。
その答えにマーヴェリックは『そうか』とだけ言って、息を大きく吐いて、ヨーグルトに塗れた左手をタオルで拭った。その様は、安堵しているように見えた。ルースターはなにが起きているかわからないままだったけれど、このまま流してはいけないような気がして、マーヴェリックの左手を掴んだ。
「いや、だからなにが!?」
「安心してくれ、絶対に〝切る〟方法を探すから」
「切る!?なにを!?」
ルースターは気づいた。またマーヴェリックは、勝手に決めて始めて終わらせようとしている。なにを、なのかは分からないけれど、〝切る〟という言葉はあまり良い響きではない。
尚も追求しようとすれば、マーヴェリックは両手で見えないなにかを引っ張るように、左右に引いている。腕の血管が浮かび上がるほど力を入れているらしいが、ルースターにはそれがなにを意味しているのかさっぱりわからない。パフォーマーがパークで披露するパントマイムのような。
「……なにしてんの、マーヴ」
「切れない……ッ、!」
だからなにが、と追求しようとするも、あまりにもマーヴェリックのパントマイムが必死すぎてルースターは若干引き気味だ。顔を真っ赤にしたマーヴェリックの額には汗さえ浮かんでいる。しかも、小さな声で、〝シザー?いやこの際ナイフか斧か……いや、チェーンソーなら〟などという物騒な単語まで聞こえてくる始末だ。
ルースターがその行動の理由を知りたがっても、マーヴェリックは答えないだろう。
過去の経験則から、マーヴェリックの内向的な哀れな身勝手さをよくよくに知るルースターは、若干の苛立ちを胸に抱きながらも、早々に思考を切り替えた。
マーヴェリックが勝手に決めて始めて終わらせるつもりならば、ルースターも勝手に決めて始めるのだ。この不可解な行動については、マーヴェリックの周囲に確認した方が早く解答を得られる可能性がある。だから、これ以上の追求を早々に諦めて、さっさと他の誰かに聞けばいいだけのこと。
マーヴェリックはルースターが度々モハヴェを訪問することを、〝和解〟と勘違いしているようだが、ルースターが願書の件について、マーヴェリックを許すことはない。起きたことは過去のことで、あの頃に傷つけられたブラッドリーの心を修復する術はないし、哀れな自分自身を、ルースターは自ら労わると決めている。誰に癒せるものでもないからだ。
だから、マーヴェリックに会いに来ること自体は、願書破棄に端を発する遺恨ある過去とは全くの別物だ。
マーヴェリックはルースターの両親の友人で、今は自分の上官で、そしてブラッドリーとは年の離れた友人でもあった。命を救い救われた互いが恩人でもある。そうして新たな絆を結んだと捉えている。そんな風に進み出した縁を、そう易々と切らせることを、ルースターは望んでいない。譲歩と言われたらそうなのかもしれないが、心持ちはいささか異なる。
マーヴェリックは時折哀愁漂う瞳でルースターを見つめてくる。感慨深いそれに関してのルースターの感想は至ってドライだ。離れた年数分歳を取るのは当たり前だし、マーヴェリックはルースターに対して若干夢を見ている部分がある。しかし、ルースターは健康的な四十代手前で、壮年に差し掛かる。マーヴェリックがブラッド坊やに思いを馳せている間に、ルースターはルースターとして成長している。その過程において、マーヴェリックに対しては、いささか不埒な情が混じった複雑な感情へと進化した。
つまりは可愛さ余って憎さがミリオンだったものが、翻って憎さ余って可愛さビリオンなのだが、ルースターは今はそれを秘している。
マーヴェリックは相変わらずなにかを左右に引っ張りながら刃物を探していて、一種異様な踊りを一人で執り行っているようにも見える。儀式か。
それを傍観しながら、ルースターはセルフォンから〝R〟を探した。
◇
『あー、それ、フェイトのレッドストリングの話──だったな』
「運命の赤い糸?」
『そう』
ロン・カーターことアンクルスライダーは、ルースターからの連絡をいたく喜んだ後、マーヴェリックの名を出した途端に顔を歪めた。結局のところ気の置けない親友達同士の戯れに近いその表情に、ルースターは毎度のことながら笑ってしまう。
『いや、待て待て待て。ブラッドリー、お前、クリスマスにマーヴェリックんとこ行ってたのか?おっさん同士でなにやってんだ。華やかさのかけらもねぇな』
「いいだろ、別に」
不貞腐れた顔のルースターをインカメラで見つめながら、揶揄う様相からスライダーは少しだけ思案顔になる。
『昔はグースと四人、それからキャロルと三人。それで今は二人だけでキャプラの映画を?不健全すぎておっさんは心配になるね』
皮肉に込めただろうその窺いの真意を過たずルースターは理解できる。それだけの経験を経ているし、スライダーの言葉は心底ルースター(となんだかんだマーヴェリック)を心配しての発言だ。
「うん、ごめん。でも、俺、今年のクリスマスはピートと過ごしたくて」
マーヴェリックではなく敢えて〝ピート〟と呼んだルースターの心裡をスライダーはよくよくに理解していて、これ見よがしに長いため息を吐いた。
『注進するのが俺じゃあ説得力はないか。まぁいい。いい年したおっさん同士、自分達で判断しろ。それよりその運命の赤い糸の話に戻すぞ』
スライダー曰く、若い頃、酔ったマーヴェリックがつい溢した酒の肴にもならないフェイトの話だった。
マーヴェリックにだけ見える赤い糸。運命の相手につながる赤い糸。そしてアジアの伝説。
試しにスライダーとアイスマンが、自分達の赤い糸の相手が見えるのかをマーヴェリックに尋ねたなら、婚約中のサラの指に繋がる赤い糸を持つアイスマンを嬉しげにマーヴェリックは祝福し、当時の恋人と繋がる赤い糸をスライダーに見たマーヴェリックは、満面の笑顔で『切ってやろう』と宣ったという。
『最初はジョークだと思ってたさ。あとは、俺もアイスもその話聞いて心配したのは、心因性の妄想だな。とはいえご存知の通り、アイスはそのあとサラと結婚、俺もその当時恋人だったのが今の嫁さんってわけだ。それが答え合わせになるわけじゃあないんだが、結果は結果』
「──心因性によるもの……ではない?」
『……酔いながら虚に話したんだ、あいつ。自分の母親の左手薬指から伸びる赤い糸──それが最終的にどこに繋がったか』
そう言ってスライダーはその先を紡がず、無言で天を指差した。
『余計に心因性を心配したさ。けど、それがメンタルからくる妄想でも妄言でも、マーヴェリックが信じてるならそうなんだろうよ』
幸いにして、職務や日常生活に影響を与えるものではなく、スライダーとアイスマンは傍観するにとどめた。あの夜の酔いに任せて吐露したマーヴェリックの不可思議なフェイトの話は、それ以降彼の口から語られることはなかったし、スライダーは今の今まで忘れていた、と笑った。
「ロンおじさんの話を聞く限りだと、運命の相手とのドラマチックな縁に思えるけど」
『いやいや。ブラッドリー、お前の話を聞く限りだと、マーヴェリックのフェイトの繋がる相手がお前だったように聞こえるんだが?それは幸せの象徴が不幸の象徴みたいな話になっちまう。妄言に惑わされんなよ』
「……妄言じゃなかったら?」
『知らねぇよ。お前かマーヴェリックの希望や願いが見せる、ドラマチックでロマンチックな赤い糸の話だとでも言って欲しいか?さっきも言ったろ。自分達で考えてくれ』
巻き込まれるのはごめんとばかりに、スライダーは画面越しホールドアップの姿勢だ。
ルースターは謝辞を述べて、モバイルを切った。
──さて、どうするべきだろうか。
◇
クリスマス、ルースターがマーヴェリックの住処に訪れてからのマーヴェリックの行動は早かった。伝手を頼り、『よく切れる刃物』を探した。それはもう探しまくった。手近のシザーに始まり、果てはチェーンソー。肉切り包丁にナタまでと、内容はバラエティに富んでいて、著名なホラームービーに出てくる多岐にわたる武器を探すかの如く。
目的はただ一つ。ルースターと結ばれた赤い糸を切ること。
マーヴェリックがヨーグルトで手を汚したあの日、突然様子のおかしくなったマーヴェリックを、ルースターは心配しきりだった。アメリカ全土のクリスマスの定番であるキャプラを幾度目か鑑賞しながら、赤い糸がルースターに結ばれてしまったマーヴェリックは、自分がいなければこんなことが起きなかったはずなのに、と状況を重ね合わせたりと、混乱の極地であった。
ハッピーエンドを迎える物語のように、現実はうまくいかないことばかりだ。
マーヴェリックは、赤い糸が見えることを、自身の心の病と考えたこともある。けれど、そのフェイトは父が喪われ、母が狂う前から見えていた事象だった。幼く清い心の持ち主にだけフェアリーやゴーストが見えるという眉唾にも似たそれ。若い時分、フェイトが見えることに対して酔いに任せて吐露したならば、スライダーはヴァージンにだけ訪れるユニコーンの御伽噺にマーヴェリックを例えた。もちろん殴っておいたが。
マーヴェリックだけにしか見えない赤い糸は、やはり人の縁を結ぶもので、自分自身でさえそれを幻と言い聞かせた。いっそそうであって欲しいとこれほどに願ったことはない。
しかし、マーヴェリックが悩み、あらゆる刃物を探している間に、結局ルースターはその隠し事を見つけてしまった。
クリスマスから数日後、ルースターから連絡があった。第一声でルースターは、マーヴェリックにしか見えない赤い糸の話に言及したのだ。ルースターに暴露した人物には心当たりしかないマーヴェリックは、次回会った時にぼこぼこに殴ってやろうと心に決めた。
『マーヴ、運命の赤い糸が見えてるってロンおじさんから聞いたんだけどさ』
「……スライダーのジョークだ」
『いや、マーヴが若い頃に酔って自分から話したことだってのも聞いてるんだよね。この間のクリスマス、様子おかしかったのってそれだろ?』
「ちがう」
『俺に『見えるか?』って聞いたじゃん。『絶対に切る』とも言ってたよな?』
「そ、れは、」
『誤魔化しても無駄だからな。あんた嘘つくの下手だし』
「……」
『なぁ、マーヴ。運命の赤い糸が見えて、それが俺と繋がってるってことで合ってる?』
「繋がってない」
『赤い糸は否定しないんだな?』
誘導で答えてしまったマーヴェリックは唇を噛んだ。マーヴェリックの知らないうちに成長した青年は、賢しく、それでいてことごとくに正論をぶつけてくる。議論する相手としては、マーヴェリックが最も苦手とするタイプだと今更に気付く。
『それさ、マーヴの赤い糸の相手が俺だとなんか問題あんの?』
画面越し、ルースターが尋ねて来た言葉に、インカメラに映るマーヴェリックの顔はこの世で一番不可解な事象に遭遇したかのような表情になった。
「……問題しかないだろ」
『なんで?』
「僕だぞ?」
『うん』
これは問答が成り立たない、とマーヴェリックは早々に察した。そもそも、ルースターは問答する気はなくて、恐らくはこれは確認なのだ。スライダーからどのような説明を受けたのかは分からないけれど、ルースターは先日のマーヴェリックの行動とスライダーの証言から既に答えを導き出しているのだ。
赤い糸の意味、赤い糸が見えること、それがルースターと繋がっていること。イエスだ。けれど、ルースターはそれを『問題はない』と捉えている。マーヴェリックとは正反対の考えだ。
翻ってルースターはと言えば、スライダーから赤い糸の話を聞いたあと、誰からも共感を得られないだろうマーヴェリックにしか見えない赤い糸が見える心地というのは、一体どんなものかと考えた。
考えて、その事象に思いを馳せたなら、ルースターは胸が痛くなった。人と人の縁を結ぶそれが、誰とも繋がっていないことが見えてしまうこと。マーヴェリックがシングルでいる根幹がそこにあるのかもしれない。
ルースターには赤い糸が見えない。
だから、それが真実マーヴェリックの言う通りの人の縁を結ぶ糸なのか、はたまたマーヴェリックのメンタルから見えてしまっている妄想の産物なのか。それ自体はどうでもよかった。結局のところ、マーヴェリックはルースターの赤い糸が繋がる先の問いに、『僕だぞ』と答えた。ルースターからすれば、赤い糸がルースターに繋がっているという言質だけで充分なのだ。
『……次の任務終わったら長い休み取れそうだから、マーヴんとこ行くから』
「……君が来ることを喜べないのは初めてだ」
『マーヴさ、前回会った時、『切るから安心しろ』的なこと言ってたよな?あれ、俺と繋がった赤い糸を切ろうとしてたんだよな?』
「……」
『切るなら。切れるなら切ってくれよ。マーヴがそう望むなら。俺との運命を切っていいと思ってるなら』
「そ、の、聞き方は、ずるいだろう」
『ずるいのはいつだってマーヴだろ』
ぐうの音も出ず、マーヴェリックは応える術を持たない。
結局そのまま終話し、マーヴェリックはルースターとの通話を切った。
──ルースターが次の休みにモハヴェにやって来る前にどうにかしなければならない。この赤い糸を。
マーヴェリックは左手の薬指から遠く伸びる、ルースターに繋がっているであろう赤いフェイトを見つめた。
しかし。
マーヴェリックは赤い糸を切るための刃物を再度探す暇もなく、ルースターと再会することとなる。しかも病院で。
何故ならルースターは、ルースター自身がマーヴェリックとの会話内で告げた〝次の任務〟で攻撃を受け、機体ごと墜落した。一時行方不明となるも、発見に至り、病院に運ばれ、やがて目を覚まし、マーヴェリックとの再会に至るのだった。
◇
病院の個室で目を覚ましたルースターは、一瞬だけ状況が把握できず混乱した。ここがどこで今はいつで、自分がどうなったか。
ぼんやりと思い出す。思い出して、手足指の五指の感覚を確認する。問題なく動いた。そうして首を回して、そこにマーヴェリックの姿を見つけて心底驚いてしまう。
「うっわびっくりした」
声を発したつもりが、か細い呼吸と枯れた発音にしかならなかった。
「マーヴ」
マーヴェリックは椅子に腰掛けていて、ルースターのベッドの脇で肘をついている。両手の甲に額を押し付けたまま。表情は全く見えなかった。
ルースターは回顧する。敵機からの攻撃。伝説のアヴィエイターと共に飛んだ経験はプライスレスだ。一瞬の判断で脱出し、山間部に舞い降りたルースターは、幸いにも山小屋に辿り着いた。しかし、不幸にも発信器が壊れていた。このまま雪が降り続けば、低体温症で間違いなく死ぬ。
山小屋は登山者向けのものだが、今の季節は完全にクローズ状態で、熟練者が登ることが稀にあったとしても、それまでにルースター自身の体力が保つかどうか。そんな危機的状況で数日過ごし、そこからの記憶が途切れている。
結果、病院のベッドの上で、それほどの怪我の様子もないままに収容されているということは、救出があったという事実に他ならないのだが。
「……スライダーから連絡があって」
何故ここに自分が収容されていて、何故ここにマーヴェリックがいるのかを尋ねる前に、マーヴェリックが顔を伏せたまま話し出した。
『お前らの色恋を相談される俺の身にもなれ。と、言いたいところだが。ルースターから相談を受けたあと、俺は考え直したんだ。ルースターが相手ならお前も少しはまともになるかもって。愛情の出し惜しみしないくせに、受け取る器は浅いままだろ、お前。取りこぼすんじゃねぇよ、贅沢ものめ』
「君の運命が僕だなんて。そうだ、とんでもない贅沢だ。だから、切ろうと思った」
「……赤い糸を?」
ルースターの問いに、マーヴェリックが顔を上げる。予想通り、その目は真っ赤だった。
「……切らなくてよかった。山小屋の入口から伸びる赤い糸を見つけた時、僕がどんな気持ちだったか君に分かるか?」
ルースターは驚いて目を見開いた。不可思議な赤い糸の話。マーヴェリックにしか見えない赤い糸。そのフェイトを辿って、ルースターを見つけたのだという証左。
ルースターはその奇跡に感謝し、大きく息を吐いてから、笑った。マーヴェリックには睨まれたが。
「切られてなくて良かった。なぁマーヴ。それなら観念して認める?俺と運命の糸で繋がってるってこと」
「……認めない。納得しない。納得しないけど、理解はする」
「うん、まあ今はそれでもいいや。あんたとは絶対に切れない縁で元々繋がってるんだからさ」
「元々?」
「うん。俺が生まれる前から両親以外で俺を愛してくれたのはマーヴだけじゃん」
マーヴェリックは片眉を跳ね上げた。ルースターの言葉を否定することはできないだろう。
そうしてマーヴェリックは赤い目をしたまま、いささか赤くなった頬を隠すように左手の甲をそこに当てる。マーヴェリックの目には、その指から繋がる赤い糸が、今も見えているのだろうか。ルースターは尋ねようとして辞めた。
「……僕は小さい頃に母から聞かされた赤い糸のアジアの伝承をずっと信じていたし、素敵な話だと思っていたんだ。いつか、僕の運命の女神が現れるって」
「うん」
「すごくセクシーでキュートな運命の相手だと疑ってなかったんだ、ずっと。だから、」
「すごくセクシーでキュート?俺当てはまってるじゃん」
ルースターの言葉に、ついにマーヴェリックが泣き笑いのまま吹き出した。
「そうだな、悪くない」
「マーヴ」
「うん?」
「助けてくれてありがとう。あとね、」
ルースターは起こしていた体を再度ピロウに預け、大袈裟に眉を下げて見せた。
「俺、動けないからさ」
マーヴェリックは一瞬虚をつかれた顔をして、やがて困ったように笑うと、過たずルースターの意を汲んだ。ルースターが大人しく目を瞑る。
その額にマーヴェリックは口付けた。
「うっそだろ!?ここまできて額かよ!」
「治ったらな、ブラッドショー大尉」
窓の外、雪はとうに、止んでいる。
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