千代里
2025-01-02 12:09:15
12559文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その25


 ***
 
 布団越しにも感じる、微かな重みと温もり。わずかに体に響く規則的な動きは――呼吸だろうか。
……?」
 体に残っている倦怠感に負けそうになるものの、ノエは自分の意思を総動員して、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
……ここ、は」
 見覚えのない木目の天井に、自分はどこにいるのだろうと一瞬困惑する。ここ数日は、目を覚ます度に見知らぬ天井を目にしていた。なぜなら、騎士の巡回任務についてきていたからだ。
 そこまで思い出して、反射的に汗で張り付く前髪を払おうとして、気がつく。自分の利き腕を固定する三角巾と包帯の重み。そのおかげで、ノエは己が眠る直前までの記憶をすぐに思い出せた。
「今までずっと、寝ていたのか」
 口にした言葉は、自分が想像していた以上にカラカラに乾いていた。
 微かに汗ばんでいるのは、熱のせいだろうか。横になる前に、オランローやルーシャンに体を拭いてもらっていたが、発熱によって再び汗をかいてしまったのだろう。
 体の熱を自覚すると、急に喉の渇きを強く覚える。
……みず」
 首だけを動かすと、すぐそこの台に水差しが見えた。利き腕を伸ばそうとして、そこでノエの手は止まる。
――――
 つい数時間前まで、腕を動かすだけで全身を貫くかの如き痛みに苛まれていた。それを思い出してしまったからだ。
 慣れない左手を使い、ノエはゆっくりと身を起こす――が、そこで彼は一度停止する。
「オデット……
 ちょうどノエのお腹のあたりに、オデットが突っ伏して静かな寝息を立てていた。
 中途半端な状態の体を捻り、外を見やる。衝立越しから陽の光は感じない。ノエが丸一日以上寝ていたのではないのなら、ノエが寝入ってから三、四時間といったところだろうか。
「オデット、起きてくれ。こんな所で寝ていては、風邪をひいてしまうよ」
 声をかけたものの、オデットはぴくりともしない。どうやら、相当深く寝入っているようだ。
 とはいえ、このままオデットを放っておくわけにもいかない。深夜に叩き起こすのは申し訳ないと思いつつ、ノエはリンクパールに指をかけた。
「イレーナさん、夜分遅くにすみません。ノエです。今、少しよろしいでしょうか」
 ノエが起きたことにイレーナは驚いていたが、オデットが看病の末に眠ってしまったらしいことを伝えると、彼女は「すぐに行く」と言ってくれた。
 十分と経たぬ内に、イレーナはノエが休んでいる部屋に顔を見せ、
「すまない。彼女に無理をさせるつもりはなかったのだが、ゲルダ殿が『オデットの好きにさせて』と言っていたもので、無理に引き戻すこともできなくてな」
「そうではないかと思っていました。今回は、彼女に随分と心配させてしまったみたいですから」
 ノエが治療を受けている間も、再三離れておくように言ったのに、オデットはなかなか医師の家から離れなかったと聞いている。骨の治療をしているとき、口に布を噛ませてもらったのは結果的に正解だっただろう。そうでなければ、抑えきれなかった苦鳴の叫びが、オデットの耳にも届いてしまっていただろうから。
「オデット殿は、私が預かろう。医師の夫人の部屋ならば、一人ぐらい泊めても問題ないと許可をもらってきた」
「ありがとうございます、イレーナさん。この寒空の中、彼女を歩いて帰らせたくはなかったので」
「貴殿なら、そう言うだろうと思っていたよ。ノエ、医師から伝言だ。起きたのなら、一度診察に来たいそうだ。大丈夫か?」
「はい。言伝ばかりですみませんが、よろしくお願いします」
 イレーナは「任せてくれ」と一言請け負うと、ノエの手元に水差しを寄せてから、オデットを抱えて部屋を後にした。
 程なくして、ノエが唇と喉を湿らせ終えた頃に、ノエの伝言を聞いた医師が姿を見せた。
 彼は、ノエの腕を曲げ伸ばしさせ、いくつか問診をした後、
「もう固定はしなくてもよさそうだな。だが、魔法で繋いだばかりの骨は少し脆くなっているので、無理はしないように」
「まだ、動かすと強張ってような気がするのですが……後遺症は残ってしまうのでしょうか」
「君の場合、実際に痛んでいるのではなく痛みを怖がっているせいで、強張りができてしまっているだけだ。外傷をすぐに治す魔法を身につけているものほど、強い痛みに対して萎縮する期間が長くなってしまう」
 医師はそう言うと、ノエの腕をとり、問答無用で曲げたり伸ばしたりを繰り返す。最初は小さな範囲を、やがて普段の稼働範囲と変わらない程度に。ノエは、反射的に腕に力を入れそうになったが、先ほどの説明を思い出して逆に意識的に力を抜いてみた。
「コツを掴めたようなら、あとは先ほどのように自分で動かすことで治していけるだろう。無理に重たいものを持つのは避けて、日常的な動作から始めていきなさい」
「剣は振ってもよいでしょうか」
「肉体的な問題はない。不自然に腕を庇って、体に余計な負担をかけないよう、誰かに見てもらうといいだろうな」
 日常動作には問題はないと一言言い添えてから、医師はノエの着替えとなる寝巻きを渡して、部屋を去っていった。早速自分で着替えてみろということなのだろう。
 ノエは、おっかなびっくり治ったばかりの腕を使って、着替えに取り組んでみることにした。
……お医者様も言っていたけれど、曲げ伸ばしは問題ないな。最初の痛みを体が覚えてしまっている方が、今は問題ということか)
 腕を曲げても痛くないと、今一度己の体に理解させるには、どうしても少し時間はかかるだろう。
 とはいえ、ノエは常日頃魔物と戦い少なからず痛みに身を晒している。医師もああ言っていたので、明日は訓練に時間を使おうとノエは早速段取りを立て始めていた。
 着替えを終えた頃、オデットを部屋に連れて行ったイレーナが戻ってきた。だが、返ってきたのはイレーナだけではなかった。
「ノエ、具合はどうだい」
「ヤルマルさん、それにルーシャンさんまで」
 イレーナの後ろには、見慣れた二人の姿があった。
「竜に振り落とされたっていうのに、よく生きていたな。お前も、悪運が強いというか、運が良いというのか」
「生きているのだから、今回は運が良いと言うのだと思いますよ」
「そこまで減らず口が叩けるなら、体は大丈夫そうだな」
 他に入院している者もいないため、わずかに声のトーンこそ落としているものの、いつもの調子で二人はノエへと声をかけた。
「骨の方は繋がったんだろう? どうだい、動かせそうなのかい」
「はい。その点は問題なく。僕が動けない間、手間をとらせてしまって申し訳ありません」
「その程度、ボクは全然構いやしないんだけどね。むしろ、オデットの方が、自分が倒れるんじゃないかってぐらい心配してたんだから、ちゃんとフォローしてあげなよ」
 ヤルマルは、ぽんぽんとノエの肩を軽く叩いてみせる。
 普段の触れ合いの延長に見えるが、彼女の視線はノエの反応を注意深く観察していた。ノエが無理をして平静を装っていないか、気にかけているのだろう。
「うん、本当に大丈夫そうだね。明日は一日、この村に滞在する予定だから、ゆっくり治して明後日に備えるといい」
「補給のためですか?」
「いいや。飛竜が近くを彷徨いてたとなれば、他にも同じように彷徨いている個体がいるかもしれない。念には念を入れて、付近の哨戒についていくことになったんだよ」
 一行も、いつまでも村に滞在しているわけにはいかない。彼らの目的は、あくまで街道の警備と旅宿の状況を確認することだ。
 町から派遣された増援と入れ替わり、村を去るという段取りになったとルーシャンはノエに説明した。
「ノエ殿にとっては、休息の時間も必要だろう。貴殿は、明日はここでオデット嬢と共に補給と休息に努めてもらいたい」
 ルーシャンの説明を、イレーナが補足する。同時に、彼女は両手に持ったお盆を、ノエが休んでいた寝台に置いた。
 イレーナの言葉に頷き返すと同時に、ノエはしばしの逡巡を挟んでから、
「その……イレーナさん。こんなことを聞くのもどうかと思うのですが……何やら僕たちのことを随分仰々しく呼ぶようになっていませんか」
 すると、控えていたヤルマルとルーシャンは、揃って何かもの言いたげな視線を交わし始めた。口の端にのぼった笑みは、苦笑いといったところか。
 ごほん、とイレーナが咳払いする音が夜の静寂に響く。
……名前を覚えていてくれたのだな、と言われたからな」
 ノエがイレーナと共闘をしたときのことだ。明確にノエの名前を告げたイレーナに、ノエは思わず、そう言ってしまった。
「あの、それは……その、単純に少し驚いた、というだけで、決して否定的な意味があったわけでは」
「分かっている。貴殿がそのような人間であることは、十分に伝わっている。そのうえで、私がそうしたいと決めたのだ」
 イレーナはいまだにやや視線を泳がせながら、
「貴殿は、私の偏見が混じった判断を許容し、その上で私を助けるために身を挺した。その非礼を詫びるのに、些か遅すぎるとは思うが……
 飛竜を前にして、尻尾を巻いて逃げるどころか、ノエはイレーナを守り抜いた。その姿を直に目にして、イレーナも考えを変えたようだ。
 傭兵に対して抱いていた不信は、少なくともノエたちに対しては不要と判断したのだろう。
「君が……いや、君たちがあれほどまでに傭兵を毛嫌いしていたのは、どうやら単なる利益の問題ではなさそうだね」
 ヤルマルの呟きを、イレーナは聞き逃さなかった。
……利益のみに目を曇らせるほど、我が隊長は俗物ではない。我が部隊の人手についても、外から兵を雇って補う案も、あるにはあったのだが」
 言いつつ、イレーナはそばに置いてあった小机の水差しを脇にどかし、運んできたお盆を載せる。その上には、何やら暖かそうな飲み物が入ったマグが四つ並んでいた。
「医師の婦人から借りてきた茶だ。ノエ、貴殿の分はこちらだそうだ」
 他のマグからは芳醇な紅茶に似た香りがするのに対し、こちらはどこか草の青い匂いが抜けきっていない。いかにも薬草が入っています、と言わんばかりの香りだ。
 とはいえ、水差しの水だけでは満たせないほどに、喉はすっかり乾いていた。薬のようなものだろうと、素直に両手で受け取り、ノエはマグの中身を傾けた。
……もしよければ、少し話をさせてもらえないか」
 ノエが一口目を飲み終えた頃合いを見計らい、イレーナが口火を切る。
「貴殿らがシュガーグレイヴに戻れば、また隊長や我が部隊のものから、冷たい視線を向けられることになるだろう。それを受け止めてくれとは言わないが、せめて理由だけでも知っていてもらいたいのだ」
「別に、俺たちは騎士団に世話になる予定があるわけじゃない。お嬢さんの話っていうのは、単に罪滅ぼしとして聞いてもらいたいってだけじゃないか」
「ルーシャン」
「事実だろ、ヤルマル。こいつの頑なな態度が、ノエの命を奪うところだった」
「それを理由にして怒っていいのは、君じゃなくてノエだけだってこと、分からないほど馬鹿じゃないだろう?」
 ヤルマルの言葉を受けて、ルーシャンはわざとらしく肩をすくめてみせた。
 ノエとて、ルーシャンがなぜノエを差し置いてイレーナに厳しく当たるのか、うっすら予想はできていた。
(きっと、僕がこの場で彼女を責めるようなことは口にしないと分かっていたから、だろうな)
 もしかしたら、イレーナが自分に非難の言葉を向けてほしいと願っているのを察して、敢えて辛辣な態度を取ったのかもしれない――と考えるのは優しすぎるだろうか。
 ルーシャンは本心の見えない曖昧な笑みを浮かべて、置かれたマグに口をつけていた。
「僕は、イレーナさんの話を聞きたいです。短い間ですが、あなたとは任務が終わるまで行動を共にすることになります。できることなら、あなたが何を思って先だってのような言葉を口にしていたのか、僕は知っておきたい」
 背中を預けるに足る相手かを確かめるために、相手の情報を知っておきたい。魔物や竜という危険な存在を相手取るために必要であるからこそ、知っておかねばならない。
 だが、それは、実利としての判断だ。今回はそれだけではない。
「それに、これは個人的なことですが……イレーナんにとって僕らはあまり好ましい相手でなかったにも拘らず、あなたは面と向かって僕らを貶すような真似はしませんでした。オランローやサルヒさんを見ても、彼らの見た目を嫌悪する素振りを見せなかった」
 正規兵が傭兵を雇うというイレギュラーな状況に置かれて、もっと不満を口にしたい場面もあっただろう。信用できない理由があるのなら、尚更だ。
 それでも、彼女は規律を重んじる騎士としての一線は守り続けた。
……私が貴殿らに向けた発言は、決して穏やかなものではなかったはずだが」
「ですが、それは騎士としての規律があったからではありませんか」
……
「あなたの発言は、街道の巡回という仕事に向ける姿勢としては、何も間違っていない。僕はそう思います。そして、そのような姿勢のあなたを僕は好ましい相手だと……背中を預けてもいい相手だと思いました」
 だから、あの極限下でイレーナの前に盾を張り、自らの身を挺する形になっても彼女を守ることに終始した。イレーナがそうしろと言ったからではなく、ただ仲間を守るために。
「そんなあなたが、僕たちに事情を話したいと言っているのです。断る理由は、僕にはありません」
 ここまではっきりと断言されるとは思っていなかったのだろう。イレーナは藤色の細い瞳孔の瞳を何度も瞬きさせると、まじまじとノエを見つめ、
……貴殿は、つくづく変わりものだな」
「イシュガルドの騎士にそこまで言われるとは、ノエは筋金入りだねえ」
「お前だって、ノエが行かなきゃ自分が行くって言ってただろ?」
 ルーシャンに指摘され、ヤルマルは誤魔化すために片目を瞑って舌を出してみせた。
 今回こそノエが竜に立ち向かう役を受け持った形になったが、もしあの場でヤルマルが行くと言ったなら、今ここで見舞われているのはヤルマルの側だったかもしれない。
 イレーナは見舞い客用に用意されていた椅子を部屋の隅から引っ張り出し、ルーシャンやヤルマルにも座るように視線で促す。
 それぞれが腰を落ち着けたのを確かめてから、
「聞いてもらいたい、と大袈裟な物言いをしてしまったが、恐らく貴殿らが期待しているような大層な話ではないことは前置きしておく」
 まず、そのように切り出した。
 続けて、イレーナは唇を軽く舌先で湿らせると、
……ピヌヌ隊長が率いる部隊が、まだシュガーグレイヴに滞在する前のことだ。別の街にて、私たちは今のように貴族の兵士に代わって、街の警備を任されていた」
 昔のことを思い出してか、女騎士の目がすうっと細まる。
「私たちの部隊は、当時も決して人員が十分というわけではなかった」
「今も、人手不足ではあるのですね」
「否定したいところではあるが、な。定員に足りているかどうかも怪しいのが実情だ」
 ノエの質問に対して、今度ばかりはイレーナも拒絶はしなかった。
 そんあ彼女の説明に、真っ先に疑問を口にしたのは、ルーシャンだ。
「どうして、そんな状況が罷り通っている? 教皇の膝下じゃないとはいえ、神殿騎士団が派遣した部隊だろう。人手が足りないと言えば、補充はされるんじゃないのか。そもそも、人手不足の部隊などというものを作る時点で、そいつは組織の問題だろ」
……今はどうなっているかは、残念ながら私には分からぬ。だが、私が話そうとしている『その頃』に、人手不足が生じた理由は明白だ。派遣されたときにいた兵士のうち、三割がピヌヌ隊長のような『子供』の命令は聞けぬと、命令を無視していたからだ」
 異種族であるがゆえに、侮られ、嫌厭され、下した命令には『行き違いで届かなかった』と言い張る。そのような有様では、部隊の一員として任務を任せるわけにはいかなかった。
「もともと、ピヌヌ隊長は私のように平民の出自だ。後見人であった貴族が良識ある人物であり、その上かつての上司が神殿騎士団長の知己であったがゆえに、堅実な働きぶりを認められて一部隊を任されるようになったと聞いている。その経緯をやっかんだ者もいたのだろう」
 卑しい身の上の、ちっぽけな『子供』が自分たちより上の地位であることを認められない。
 そうして、名前だけは部隊に在籍していても、事実上は無断欠勤どころか、部隊そのものから離反していることもざらにあったというのが、イレーナの知る『当時』の状況だった。
……除籍を命じれなかった理由は、彼らが貴族だったから……ですか?」
 ノエの脳裏には、ノエの身分を示しす指輪を示したときに見せたピヌヌの態度が蘇っていた。彼女は、貴族という権威に対して迎合するどろこか、挑発するような態度を見せていた。
「恐らくはな。彼らが貴族の末席にいた者だからこそ、人事をした者は下手に異動させるわけにもいかなかったのかもしれない。そういう理由から、我々は足りなくなった人員を、街におとずれた傭兵を雇うという形で補っていた」
 苦肉の策ではあったが、ないよりはましと判断した。彼らと共に過ごす時間は短かったが、単なる哨戒程度なら、連携が取れておらずとも、大きな問題は起きなかった。
 ――だが、そのような慣れが、一つの事件を生んでしまった。
……ある日、いつものように少数の隊員で、傭兵たちと共に付近の哨戒に出かけたのだ。私と隊長もその中にいた。内容は、此度のような警備任務だ。魔物を少しばかり蹴散らして、いつものように何事もなく終わる――私も隊長も、そう思っていた」
 イレーナはマグを手に取り、中の飲み物で唇を湿らせた。
 彼女にとっては、傭兵への嫌悪に繋がる以上に嫌な記憶がそこにあるのだろう。続きを語るまでの口ぶりは、ひどく重かった。
「その時……私たちは、竜に襲われた」
 どこかで予想できた言葉が、彼女の口から飛び出した。
「飛竜ではなく、翼はあるが陸上で活動することの多い竜だ。見逃しては街に竜が向かってしまう。だから、私たちは武器をとって、戦うことにした」
 騎士団の者とて、人であることに変わりはない。竜を前にして、逃げ出したい気持ちもあった。
 けれども、ここで逃げてはなんのための騎士団か。そう己を鼓舞して、イレーナたちは武器を構えた。
「間の悪いことに、背後には魔物が姿を見せていた。おそらく、竜が魔物をけしかけたのだろう。私たちは、傭兵たちに魔物の相手を任せることにした。挟み撃ちを避けるために、適切な陣形をとった――はずだった」
 ノエたちにも、その時の様子がありありと思い浮かぶ。
 前方に立ち塞がる竜を前にして奮戦する騎士たち。彼らを支えるために、後方から押し寄せる魔物を退けてくれと依頼された、傭兵たち。
 荒事に携わっていれば、幾度か体験する局面だ。
「戦闘を開始して、何分経った頃だっただろうか。……悲鳴が、聞こえたのだ。後方にいたはずの騎士から」
 戦闘中に気を逸らしてはならないと分かっていたのに、つい振り返ってしまった。
 そして、イレーナは愕然とした。
「後方に陣取っていた術士たちが、魔物の奇襲を受けていた。後方にいた、例の魔物たちだ。彼らはひどい怪我を負い、中には命を落とした兵もいた」
 思いがけなく挟み撃ちの状態になり、イレーナだけでなく、その場にいる全員が死を覚悟した。
 隊長であるピヌヌは苦渋の末に、戦果ではなく、兵の命を優先した。
 あと一息というところまで追い詰めた竜を殺す栄誉を捨てて、背面を攻撃してきた魔物たちを迎撃する選択をしたのだ。おかげで、竜は逃がしてしまったが、人的被害は最小限に済んだ。
……だが、おかしいな。それなら、背後にいたはずの傭兵はどこにいってしまったんだい? 彼らが魔物を押さえてくれる手筈だったんだろう」
「ヤルマル殿の言う通りだ。しかし、彼らは影も形もなかった。だから、彼らがやられてしまったのかと、私たちは焦った。彼らは契約の元に力を貸して貰っているとはいえ、民間人だ。私たちが守らなければならない相手でもあるからな。深手を負って逃げざるを得ない状況に追い込んでしまったのなら、謝罪せねばとピヌヌ隊長も仰っていた」
 逃げ帰った傭兵たちの無事を祈りながら、亡骸となった仲間や体の一部を回収し、負傷した部下たちを支えながら、騎士たちは街に戻った。
 戻る途中、街の入り口で彼らは奇妙な声を聞いた。
 そこにあったのは――歓喜の声だった。
……凱旋の出迎え、ではなさそうだな」
「ああ、残念ながら。なぜなら、彼らが賞賛の声を送っていたのは、あの傭兵たちだったからだ」
 イレーナはノエの苦い薬茶を飲んだかのように、しかめ面を浮かべながら続ける。
……後から聞いて分かったことだが、あいつらが街に戻ってきた頃、ちょうど魔物が街に迫っていたらしい。私たちが街に残していた兵では食い止められず、傭兵たちが彼らを撃退した。そのことについて、街の者は感謝の声を送っていたのだ」
「待ってください。彼らは、イレーナさんたちの支援をしていたはずではなかったのですか」
 ノエの指摘に、イレーナは嘲りの感情をこれでもかと詰め込んだ笑みを口元に引いた。
「ああ、そうだ。だから、彼らは早々に逃げだしたんだよ」
 吐き捨てるような言葉は、彼女が溜め込んできた怒りそのものだ。
「彼らには、私たちがいつ竜に負けるか分からない危うい状況に見えたのだろう。騎士が敗北すれば、次は自分たちが竜と戦う番になる。なら、今のうちに逃げてしまえばいいと」
 それだけならまだ理解してやってもよかった、とイレーナは呟いた。
 命が危険にさらされている状況下だ。尻尾を巻いて逃げ帰るという決断を否定できるほど、自分たちは傲慢ではない。
「だが、私たちが街の者から非難の声を浴びせられていたというのに、彼らは事情の説明すらしなかった」
「非難の声っていうのは、街に近づいた魔物を食い止めきれなかったことか」
……そうだ」
 街の者に込み入った理由などわからない。ルーシャンにも、イレーナの悔しさが、ピヌヌの頑なな態度の理由が読めてきた。
「傭兵たちは、私たちが決死の思いで竜を食い止めたことも、自分たちが任された戦いを放棄したことも、自分たちが逃がした魔物の一部が街に向かってしまったことも、栄誉欲しさに何も説明しなかったのだ。これを、どうして笑って許せるか!!」
 傭兵がいなかったら、街は魔物に襲われていた。そのような見方もできる局面ではあるが、それは全てを知った上で判断することだ。
 何も知らない街の住人は、騎士の怠慢に不満をぶつけ、傭兵に拍手を送った。たった一度、たまたま衆人環視の中で魔物を撃退しただけで、彼らは英雄となった。
「私たちは騎士だ。私たちの戦いは……騎士として果たさねばならぬ義務だ。竜によって失われた犠牲も、『仕方ない』ことなのだ。だから、賞賛が、栄誉が欲しいとは言わない。言ってはならないと分かっている。だが――
 竜や魔物の矢面に立つ責務を負って、騎士はそこに在る。故に、竜による犠牲も当然と見なされ、それどころか一度の失敗すら許されない。
 何もかもを承知の上だ。
 その上で、騎士たちは見てしまった。
 英雄気取りの傭兵と、義務に縛られた騎士の間に生じた亀裂。
 それを目の当たりにして、イレーナは絶句し。
 ピヌヌは――失望した。
……それ以来、隊長はたとえ人が足りなくとも、傭兵を雇い入れることはしなくなった。人手が足りない分は、防壁の強化と町内の巡回をする騎兵たちを減らすことで補うようになった」
「だけど、そうすると城壁内の治安が悪くなるだろ」
「ああ、それを承知の上だろう。最低限、竜と魔物から街に生きる民の命を守る。その『義務』だけは貫く。それが、ピヌヌ隊長の方針であり……隊長の矜持なのだ」
 彼女は、シュガーグレイヴの民を蔑ろにしているわけではない。義務として、守り通すことは本人も口にしていた。
 だが、そこに何の蟠りもないかといえば、きっとそれも違う。だから殊更に『義務』であることを強調している。
 自分が街の者から感謝の言葉を受けることがなくとも、それが当然だと言い聞かせるために。
「そして、その義務の甘い汁だけを啜る外の人間や、傭兵に対しては当たりがきつくなっていった……ってことだね」
 騎士を雇うための金は、雇い入れた貴族が出している。そして、貴族の収入源は領主で暮らす人々だ。だからこそ、騎士は領民を守る義務を持つ。
 しかし旅人は、そうではない。騎士にとって、旅人を守るのは『結果』でしかなく、そこに『義務』はない。まして、自ら戦う力を持つ傭兵を、なぜ身を挺して守ってやらなければならないのか。
 ピヌヌや周りの部下が、あれほどまでノエたちを毛嫌いしていた理由が、イレーナの語った『昔話』の中に全てあった。
「貴殿らのような誠実な旅人には申し訳ないが、隊長も……私も、外の者に背中を預けたいとは思えないのだ。なぜなら、貴殿らには民のために命を張る義務がないのだから」
 組織に所属し、無力な人々を守る責任感で活動する騎士たちと、己の利益のために行動する傭兵たち。そこには、明確な違いがある。
 イレーナやピヌヌにとって、傭兵たちが向けられた賞賛自体は、怒りの直接的な理由ではないのだろう。彼らの失望の原因は、そことは少しズレた場所にある。
……最初から、信頼などするべきではなかった。隊長はあの日、亡くなった部下を前にして、そう呟いておられた」
 誰が悪かったなどと、言えるものではない。だから、ピヌヌは責任の所在を他者に求めるのではなく、今後の方針をどうするかに思考を切り替えた。
 すなわち、傭兵などもう信じない、と。
「義務も持たず、我欲のためだけに武器を振りかざし、いっときの栄誉を優先する英雄気取りは守るべき対象ではない……とも、思っていそうだけれどね」
「すまないが、私はそのように思っていた」
「おっと失礼。だけど、君たちの立場なら、そう思うのも無理はないだろう」
 ヤルマルは肩をすくめて、重くなりつつあった空気をかき混ぜる。
「そこのノエの考えは一旦置いておくとしても、ボクも自分の命を賭けてまで、与えられた依頼に忠実でいられるかと言われれば、正直怪しいところだ」
「そのせいで信用できないって言われても……まあ、良い気はしないが、絶対に逃げないから信用しろとも言えないのが現状だな」
 ルーシャンはマグを軽く持ち上げ、自分たちの考えをイレーナに示す。
 ノエのように、命を賭けてまで誰かの救出に向かいたいと言える人間など、そうそういるものではない。ルーシャンもヤルマルも、ピヌヌたちを捨てて逃げ出した傭兵が卑怯な悪漢とまでは言い切れずにいた。
「だから、ボクらのことは、これからは全面的に信用してくれとも言えない。その代わり、これまでの君の態度が不誠実で不愉快だったと詰ることもしない。それでいいかい、ノエ」
「ええ。信用してほしい、という気持ちはありますが、現実的に難しい部分があるのは……先ほどの話を聞いて、よく分かりました」
 少しは態度を和らげてくれもいいだろう、とか。
 強情を張るのも大概にしろ、とか。
 口だけでなら幾らでも責める言葉は探せる。
 だが、理想的な信頼関係を築くには、ノエたちとイレーナの立場はあまりに違いすぎる。
「私の贖罪のつもりであったというのに、そのように言われてしまっては、ますます気持ちのやり場がなくなってしまうのだがな」
 ふ、と口元を緩めて、イレーナは深々と頭を下げる。
「改めて、私の話を聞いてくれてありがとう。貴殿らのような旅人がいたことは、必ず隊長に伝える。……それを話したところで、隊長や隊の者の態度が軟化するかは分からぬが」
「構いません。ピヌヌさんは、部隊長として皆さんを守らなければならない立場でもあるわけですから。そのような一件があったのなら、尚更簡単に相手を信用することはできないでしょう」
「貴殿らには、不愉快に思えるような態度を見せてしまうやもしれぬ。すまない」
 イレーナの申し訳なさそうな物言いに、ルーシャンは唇をにやりと歪めてみせる。
「それこそ今更だな。俺もヤルマルも、すでに手厳しい言葉はいくつか貰ってる」
「君が余計なことを言って、彼女を煽るからだろうに」
 ヤルマルに肘で小突かれて、ルーシャンはわざとらしく飛び退いてみせる。その小芝居もまた、恐縮したイレーナの緊張を和らげるものだったのだろう。
「ノエ殿。体調に問題がないようなら、明後日には出立する。武器や装備の破損は、それまでに修復するか、代替品を購入してもらいたい。代金は、我々の方で後で補填する」
「よいのですか」
「私の失態が招いた結果だ。そこで貴殿らの懐から出せと言ってしまっては、私の騎士道に反する」
 イレーナはマグをお盆に置き、席を立って胸に手を当てる。それは、神殿騎士団の敬礼とは異なる、人が人に向ける敬意を形とした者だった。
 ノエもまた、ようやく痛みに怯えずに動けるようになった利き腕を持ち上げ、胸に当てる。彼女の信(まこと)に、自分も応じたいと示すために。
「では、遅くに失礼した。今日はゆっくり休んでくれ」
「ボクたちもそろそろ戻るよ。ノエ。朝になったら、オデットのところに顔を出しておくんだよ」
 去っていく三人を見送ってから、ノエは再び布団の中に体を引き戻した。
 思った以上に長話をしてしまったせいで、流石に疲労が全身に染み込んでいる。
 瞼を閉じ、疲労感に身を任せて意識を闇の中に落としていくのは、とても心地よい。
 瞼の裏側――暗闇の向こうに浮かんで見えたのは、自分のそばで突っ伏して寝入っていたオデットの姿だった。先ほどのヤルマルの言葉を思い出し、ノエの胸がちくりと痛む。
……大丈夫。僕なら、ちゃんとここにいる)
 心配のせいか、先ほど目にした彼女の寝顔は少しこわばって見えた。
 それを少しでも和らげたくて、夢現の中の幻とわかっていても、ノエはその影に手を伸ばす。
 イレーナたちがノエへ不信を抱いたのなら、オデットは逆に全幅の信頼をノエに向けてくれている。
 ならばこそ、自分は彼女の信用に応えたい。そう思う気持ちは、きっと欲に汚れたものではない――はずだ。
(おやすみ、オデット。君は、良い夢を見れますように)
 離れた部屋にいる少女を思い、今度こそノエは日が昇るまで深い眠りについたのだった。