引越し先を探しているのだとなんの気なしに話したことを覚えていた先輩が、自分も近々引っ越すから部屋をそのまま使わないかと提案してくれた。大家にかけあって、新規の契約にはなるがクリーニングなしにそっくり移るなら敷金と礼金を免除するということで、一も二もなく飛びついた。この不景気の折、懐はさみしい。
先輩は三十を少し越えたくらいだったと記憶している。新卒からずっと工場勤務で、背丈はあるものの病的にやせ細っており、眼鏡の奥の両目も落ち窪んでいて、口さがない同僚からはプレス機に挟まれたのかなどと笑えない冗談を言われたりしていた。けれどいつだってそれに言い返すでもなく愛想笑いをするでもなく、無言のままむっつりとした表情で首を横に振るばかりで、それでいて更にからかわれるでもなく不思議と同僚をあしらっている、奇妙な人だった。
そんな人だから特に親しい人物がいたわけではないし、己も特に親しかったわけではない。たまたま、喫煙所で一服していたら先輩が灰皿に溜まった吸い殻を回収に来て、少し話しただけだった。
その後、一度だけ先輩の家に遊びに行って、酒を飲みながら「お前、煙草は身体に良くないぞ」と、こちらよりよほど不健康そうな容貌の先輩に言われては苦笑いをしたものだった。あんたこそ早死にしないでくださいよと軽口を叩いたら、そうだなと生真面目に返されて余計に笑えた。
その際にアパートの住所をチラシの裏に書いたものをもらって、四角張った几帳面そうな字が好ましかったから、この部屋に住むのも良いなと思った。
先輩が退去したあとのがらんとした部屋に自分の荷物を運び込む。引越し業者を使うほどの荷物ではなかったから、ワゴンを借りて自分で運んだ。先輩は手伝えなくてすまないと詫びてきたが、そこまでされては逆に申し訳ないと首を振った。こちらとしては敷金礼金を支払わずに済んだだけでも先輩には感謝しきれない。
先輩はほとんどの家具を引っ越しに際して処分していた。だが古めかしい重厚な机だけは、良かったら使ってくれないかと打診されたので受け取ることにした。ここでずっと資格の勉強をしてるんだ。分厚い参考書を何冊も重ねて置いてあった机を撫でながら、酔っ払った先輩が言っていたのを思い出す。
先輩はもう資格の勉強をする必要もなくて、けれど処分するには忍びなかったのだろう。
他の安っぽいラックやテーブルに比べて、その机はいかにも不釣り合いだったが、試しに座って肘を置いてみるとなかなか良い気分で、自分もこの天板にノートのひとつも広げてみたくなった。とはいえあらかたの荷物はまだ段ボール箱の中で、あとは仕事用の手帳くらいしかない。それを今広げたところで書くこともないので、また次の機会にすることにして、机の引き出しを開けて中を確認し始めた。もし忘れ物なんかがあったらいけない。
そこで、先輩の連絡先を知らないことに思い当たった。工場も辞めてしまったし、同僚や上司で誰か電話番号でも知っているだろうか。
一番下の引き出しを開けたところで、隙間から何かが落ちてきた。二つ折りにされた跡のある小さな紙切れだった。どうやら引き出しの後ろに入り込んでしまっていたものらしい。引き出しを勢いよく開けた拍子に風圧でまろび出てきたようだ。きっと先輩はもっと優しく扱っていたに違いない。だから今までこの紙切れは後ろの隙間に入ったままだったのだ。
開いてみると、数字がみっつ書かれていた。ふたつが連続しており、ひとつは少し離れていた。4、9、9。『49 9』とだけ書かれたそれは、アパートの番地と同じ、四角張った形をしていた。
「……なんだこれ」
さして重要なメモにも見えないが、よく観察すると少し乱れているようだ。最後の数字は斜めになっているし線も荒い。
どうするかしばらく悩み、ふたつに折ってから引き出しの中に戻した。また隙間に潜ってしまわないよう、重し代わりにポケットからライターを取り出して上に置く。
お前、煙草は健康に悪いよ。至極ごもっともな説教を思い出し、先輩の削ぎれた頬を重ねては、迷いながらも煙草のボックスをゴミ箱に捨てた。
新卒から務め続けた工場を辞め、取りたかった資格を諦め、この部屋を出ることにした先輩への餞のつもりだった。
一年後、奥さんの実家であるみかん農家を継いだ先輩から、工場に大量のみかんが届いた。そこには手紙が添えられており、相変わらずあの几帳面な字で時候の挨拶と近況が綴られており、夫婦ふたりで写っている写真が同封されていた。
あのいかにも長生きできなそうな風貌は、農作業で鍛えられたか一回り大きくなっていた。表情だけはあのむっつりとした無愛想のままだったが、そのことがなんとも嬉しく、腹の底がこそばゆくなるのだった。
伝票に書かれた住所を控えさせてもらって、先輩あてに個人的な手紙を出した。
例の紙切れを同封し、499とはなんですかと尋ねると、数日後に返事が届いた。
『妻へ贈る指輪のサイズをこっそり測った時のものです。覚えておくといい、指の外周49ミリは9号になります。8号でも10号でもいけない』
読みながら、あの先輩が夜中にコソコソと恋人の指に糸でも巻いてサイズを調べたのかと思うと、そして今手紙を開いているこの机であのメモを見つからないように残したのかと思うと、なんとも可愛らしい、たまらない気持ちが湧き上がった。
あの人は諦めたのではない。選んだのだ。
他の何でもなく、49から導き出される9を、求めた。
「なんとも……まいるなあ」
先輩が作ったみかんを口に入れてみる。煙草などよりよっぽど健康によく、長生きできそうな味がした。
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