rei0103
2025-01-01 21:20:35
2243文字
Public
 

20㎡

お題:引越し先で見つけた、前の住人の残したメモ
作:ゴリラ

『地獄に落ちろ』
 拾い上げた紙切れにはそう書いてあった。私が書いたのではない。それはシンク下の収納からひらりと落ちてきたのだった。まだ何も入れていない空っぽのそこへ、さてどんなふうに物を収めたものかと眺めていたところ、上の方から軽やかに降ってきた。ハウスクリーニングが入ったはずなんだけどなあと思いながら、しかしこんな場所では気が付かなくてもおかしくないと思い直した。清掃業者がこんなふうに隠すこともないだろうし、きっと前の住人だろう。そういうことは、拾い上げた後に考えた。つまり、いまだ。
 だから拾い上げる時には、ゴミかな、くらいのことしか考えていなかった。裏返したら文字が書いてあったので、ならばこれはメモだろう。けれどもノートかルーズリーフを破り取ったのか、手のひらよりも小さな紙切の輪郭は直線といびつな線の組み合わせでできている。ゴミよりのメモだ。あるいはメモよりのゴミだった。私にとっては、あともう数分のうちはメモで、それを過ぎたらゴミになる。そういう紙切れだ。
 私はすこしおもしろくなってしまって、紙切れを手に立ち上がる。地獄に落ちろとはまた、ずいぶん恨みがこもっている。地獄は死後に行くところなのだからつまり死ねということで、さらにそのあと苦しめというのだから、前の住人はよほど腹に据えかねたのであろう。書き殴った字の勢いと、なにより地獄の獄の字が間違っているというのがいい。犬じゃなくて大だ。点を忘れている。その誤字がかえって感情のつよさを表しているような気がした。
 私はぺたりと床を踏む。年季の入ったフローリングは、けれども清掃業者によって磨かれて、まだカーテンをつけていない窓から入る日差しをつやつやと弾き返していた。1Kのアパートは古く、壁紙は色褪せて、フローリングは日に焼けて、しかし清潔だった。古いことと不潔であることは別だ。新しいことと清潔であることが別であるように。私はベランダに出て、gloにスティックをさして電源を入れる。あるかないかの煙を吐き出して手すりにもたれ、古いアパートの四階から街並みの地平線を眺めた。春めいた日差しはあかるく白く、昼前の世界を照らしてる。眩しいな、と思う。あかるく白く、すがすがしい日差しが世界を照らしていることを、私は正しく知らなかった。昨日も一昨日も一週間前も、雲が出ていなければ今日と全く同じように日差しが世界に降り注いでいたなんて、なんだか変な感じだ。左手に目を向けると、白いレゴブロックを並べたような団地が見えた。A-1、A-2、A-3……どれも同じ形をしているから、そんなふうにアルファベットと数字で名付けられた直方体。
「ゆうー!」
 直方体の林に女性の声がこだまする。はぐれた子どもを探す母親の声だ。無機質な林は市営住宅で、だから子どものいる家庭が比較的多いんだろう。ついこのあいだまで暮らしていた市営住宅がそうであったように。ここではない、けれどコピーして貼り付けたのではと疑うくらいには似ている直方体に、私の家は組み込まれていた。いる、ではなく。それはごく近い過去の話になった。
 私は体を反転させて部屋を見る。現在の私の家を。まだカーテンはなく、ベランダに出る窓は閉めていなかった。日に焼けたフローリングと、段ボール箱が三つと、その向こうに玄関のドアが見える。どんなものにも遮られず、はっきりと、あまりも当然にそのドアが映る。
 なんというすがすがしさ!
 おもわず心の中で快哉をあげる。ごく近い過去、私の部屋は半畳だった。そこはいつも薄暗く、体臭なのか腐臭なのかなんだもうよくわからない匂いがして、どこかでコンビニのレジ袋がカサカサいい、冷蔵庫では常になにかが腐り、半分しか露出していない布団は元の色彩を完全に失い、排水溝では新たな生命が芽吹き、地響きのような父親のいびきもしくは世界に向けた呪詛が流れていた。その中にあって一番標高の低い半畳、なんとか露出させた布団が私の部屋で、領地で、安息の地で、つまり胎児のように体を丸めて眠る寝床だった。床に日差しを当てようという試みは遠い昔に放棄していた。
 ふ、と私はあるかないかの煙を吐き出す。これは犯罪ではない。でも、マナー違反ではある。そうすることをためらう/ためらわないの境目はどこにあるのだろう。罪と知りながら、けれどもこの程度ならと手を伸ばす。ベランダで電子だからと言い訳をして煙草を吸うこと。隣人が禁止されている猫を秘密裏に飼うこと。
 指先でつまんだメモはつめたい風にパタパタゆれる。それを千切って、手のひらを裏返す。細切れのゴミは、映画やドラマみたいに風に攫われたりせず、ただ私の足元にばらばらと落ちた。
「言われなくても」
 私は救急車を呼ばなかった
 正確には、呼ぶまでに三十分をかけた。私は気が動転し、パニックになり、スマートフォンはなかなか見つからず、番号をタップする指が震えてしまった。そして父親はしぶとく二日頑張って、清潔な部屋の滅菌されたシーツの上で死んだ。受動的な殺人未遂は完全犯罪未遂としてどこにも記録されずに私と一緒に死ぬだろう。
「ゆうー!」
 再び女性の声がこだました。早く見つかるといいね、と明日には忘れる祈りを捧げる。チャイムが鳴り、追いかけるようにして「ヤマトです」溌剌とした声が告げた。私は受け取ったダンボールを開け、さまざまな生活用品の中からほうきとちりとりのセットを掴み、人生を始める。