触れた素肌の感触が忘れられない。吸い付くような玉肌の柔らかさに、筋張った指が背を引っ掻く痛みが。そして自らを犯す男に抱きついてみっともなく喉を喘がせ、舌っ足らずに名を呼ぶ、その声も。
——カイザー。
瞼を閉じれば、渋谷の街中やあいつの自宅、それから、試合が終わったあとのピッチの上でふっと微笑んでいる、潔世一の顔ばかりが、暗闇の中にこびりつくようにして追いかけて来て振り払えない。
——カイザー、俺、お前のことがさ、
幻の中の潔世一は、恋に恋する少女のように頬を熟れさせて、有り得ざる呪詛を吐こうとして、その寸前で消しゴムでも掛けられたかのように消え去ってしまう。こんなブッ壊れた妄想を弄んでいる自分に嫌気が差すから、それ以上先を見たくないのだ。だから消す。消し去る。グチャグチャに丸めてゴミにしてポイと捨てようとして、
——なんで、おまえ、そんな顔しながら……。
けれど最後に、空想が空恐ろしいほどに優しい表情をした記憶に塗り込められて、どこにも逃げ場がなくなってしまう。
ふざけるな。俺をそんな目で見るな。
まぶたの裏の幻覚たちを必死になって手で追い払う。そんな、まるで、〝愛している〟かのような声音で、俺を呼ぶんじゃねぇよ。
愛してなんかくれないくせに。
唯一になんて選ばないくせに。
誰にだってそうしてるくせに。
……恋なんか知らないくせに、優しいふりなんかするな。
(クソ、クソ、とんだお笑い草だ、反吐が出るぜ、なぁ、ミヒャエル・カイザー……!)
喉を掻きむしりたいほどの衝動に、衝動的に己の首を絞めた。舌の根引っこ抜いて死んでしまいたいとさえ思う。誰かに愛されたかった、生きる実感が欲しかった、この世界に足をつけて生きていてもいいのだという安らぎが、でも現実はこれだ、みじめで、つめたくて、乾ききっていて、……血生臭い。
妄想の中、赤茶けた血痕のあとに立ち尽くし、カイザーはかぶりを振った。善意の受け取り方を知らない憐れなクソ物、その末路にお似合いの景色ではないかと枯れ果てた荒野を見渡し、けれどここが現実では無いことに気がついて、辟易して、……そこでようやく目を醒ます。
「あぁ………………」
ゆっくりと見開かれた目に映るのは見慣れてきた天井。青い監獄ドイツ棟に設えられた招待選手専用の個室、その隅に置かれたベッドの上で、己がこっぴどく傷つけた男の愛を求めて未練がましく夢なぞ見ている。
「こんなだから調子出ねーんだろドブカスが……」
己に向けて零された罵りの言葉に、応える声は当然なかった。舌打ちをして起き上がる。新英雄大戦が終了し、ひとけのないトレーニングルームで不可解な邂逅を果たし、渋谷観光に出掛けて、そして不慮の事故を起こしてからはや数日。
——あの日からミヒャエル・カイザーは潔世一の顔がまともに見られない。
顔も合わせたくない、なのに気付けばいつも目で追っていて、アイツが振り返る度、何もかも嫌になって逃げ出してしまう。そんな自分が間抜けで仕方がないのに、どうしても止められない、だってあいつが憎んでくれないから、罵ってくれないから、……怨んですらくれやしないから。
本気の殺意さえひとつ向けてもらえたならば、それがきっと、自分に心地よい生の実感を与えてくれたはずなのに。
「頼むから嫌ってくれよ……」
お願いだから。
世界で一番大嫌いだと言ってくれ。
そうして一秒でも早くこのしみったれた執着心に引導を渡してくれないか。
さもなくばこの首を掻ききって墓の下にでも埋めておいて欲しい。
でなければこの指は、この熱は、この想いは——この恋は、地獄へ堕ちることすら許されずに、どこへも行かれず、どこにも浮かばれないではないか。
「ふざけんなよあのイカれエゴイスト、絶対許さねぇ……」
お前のせいで俺の人生ぶち壊しだ。サッカーで立ちはだかれとは言ったけど、ここまでしろとは言ってないんだよ。カイザーは頭を抱えて掻きむしった。歌ったこともない賛美歌のメロディが頭の中でばかに強く鳴り響いてやかましい。カイザーは幻影を追い払うように乱雑に首を振った。そして目を閉じて立ち上がる。微笑む少年の幻は、どうしても、消えてくれそうにない。クソッタレが。
けれどそれでも、いみじくも己は生きているのだ。
生きているからには、これ以上無駄に時間を使い潰すことなど自分が許せそうにも無い。だから選手として必要なルーチンをこなさなくては、そう思って活動を始めるのだけど、そういう時に限って世一と鉢合わせてしまうし、あの間抜けな子供の顔を見た瞬間、どうしようもなく足が鈍る。そのことにほとほと嫌気が差してたまらない。
——ああ。
調子が狂う。
こんな時間を、いったいあとどれだけ続ければいいっていうんだ?
◇ ◇ ◇
世一と事故って微妙な空気感に苛まれるようになってから、カイザーは一度だけ外に出て、見慣れぬ東京の街を歩いた。心理学の本を——できれば母国語、せめて英語で記述された紙の書物を、いくつか取りそろえようと思ったからだ。最悪電子書籍で揃えるつもりだったがどうもあれは味気ないうえに肩が凝っていけない、そのため仕方なく「はじめての場所」ではなくなった渋谷へ赴き、洋書が充実しているという触れ込みの本屋に足を運ぶことにしたのである。
けれどすぐに、その選択は大きな誤りであったことを思い知らされた。
「おいおい、いくらなんでも感傷的すぎるだろうよ……」
思わず、悪態が口をついて出る。こんなことなら土地勘がまったくないなりに新宿駅や東京駅に行ってみるべきだった(そっちのほうが品数も多いとネットに書いてあったし)。だって、渋谷の駅周辺の、どこを通っても、世一との想い出が脳裏を過って、こびりついて仕方無くて、カイザーを苛むのだ。
この交差点では子供みたいにはしゃいでいた、それにあの向かいのビルでは「親になんか買ってあげたいな」とか言いながら一生懸命マッサージ器を見ていたし、その地下のゲーセンでは青筋おっ立ててギャーギャー言いながら格ゲーをやっていて大変愉快だった。すこし移動したところで入った蕎麦屋では張り切って箸の使い方をレクチャーしようとするものだから得意げな子供みたいで面白かった、それにあそこのカフェでは、両手で抱えるように持ったクソ甘ったるそうなドリンクをニコニコ嬉しそうに飲んでいて、その横顔が可愛らしくて、愛しくて、胸が温かくなるようで、だから……。
「クソ間抜けだ……」
カイザーは自嘲するように吐き捨てて唇を手のひらで覆った。どれもこれもなんとお可愛らしくて美しい想い出たちだろう。本当、最悪だ、こんな思いをするぐらいなら外になんか出るべきじゃなかった。
従ってその日カイザーは、理解不能コントロール不可の情動を胸中で弄びながら、GPSアプリを駆使してなんとかかんとか辿り着いた書店の一角で、お堅い心理学書の棚と睨めっこするハメになった。最低にもほどがあるし、そのうえレジに持っていって金を払って持ち帰った本のタイトルが〝コレ〟なんだから、心底、世も末だと思う、ロレンツォとかゲスナーには絶対知られたくない。あとノアにも。
「『Psychologie der Liebe』……『Warum verlieben wir uns?』……『Hundred ways to end love』………………もしかして俺は頭がおかしくなったんじゃないか?」
店頭ではなるべくお堅くて真面目そうな本を選んで買ったはずだったが、監獄の自室に戻ってきてから並んだタイトルを見て、カイザーはすっかり辟易してしまい、重々しく溜息を吐いた。読書は好きだ、心理学や哲学なんかは特に、恋愛心理学系の本だって、他人を掌握して思い通りに操り潰す目的のために過去何回か目を通したこともある。恋愛なんてものは究極的に突き詰めれば人間心理掌握の延長線上にある行為に過ぎないと考えていたからだ。
けれど今この状況になって向き合うこれらの本は痛ましいの一言に過ぎた。このミヒャエル・カイザーともあろうものが! あの訳の分からんサッカーバカにこうまで心を掻き乱されている現状、恋だの愛だのというものをロジックの一言だけで制御できる自信はとっくになくなっていたからだ。
「……そもそも俺が世一に抱いているものは本当に恋なのか?」
そうして数時間を費やし、つまらない本たちのページをぱらぱらとめくり終え、辿り着いたのはそんな現実逃避のような戯れ言で。
「これが、ただの、執着なら。そうだ、あいつの人生を奪い尽くして這いつくばらせる、そうすることで奴から受けた敗北の痛みを清算しようとする代償行為なんだとしたら……」
知らず、カイザーは胸の痛みから目を逸らすようにして、そんな空論までを舌の根の上で弄びはじめる。
それは酷く子供じみて悪趣味なロジックだったが、善意ひとつ受け取れない男の妄執としては、わかりやすいぶん真っ当で、まだ理解ができるもののように思えた。たとえばだ、ミヒャエル・カイザーという男は、幼少期につけられた巨大な傷跡をただ舐め回しているに過ぎなくて、自分が与えられなかったものを当たり前に持って生まれ育った世一の平凡さに怒りを覚えているに過ぎず、その独り善がりな行為に世一を都合良く使い潰して消費しようとしたのだ、そうであったなら、きっとカイザーはいくらも救われるのに、と。
……けれどその縋るような考えは、その晩、シャワールームで誤って世一の裸体を目にしてしまった瞬間、綺麗さっぱり破壊され、使いものにならなくなってしまった。
「おい、石鹸がねぇクソ貸しやがれ……」
本を読み終えた、その晩のことだった。その日に限って、さっさと眠ってしまいたくて、いつもよりすこし早い時間にシャワールームへやって来たのだ。
まったく魔が差したとしか言い様がない。カイザーはぼーっと身体を洗おうとしたところで石鹸がなくなっていることに気がつき、隣のブースへ無遠慮に足を踏み入れた。そこに誰かいるかもしれないとか、そういうことは、まったく気にしていなかった。どうでも良かったからだ。誰ぞが入っていて、ソイツに喩え何を言われたところで、それを完璧に無視して石鹸だけかすめ取る自信があった。ただひとりが相手だった場合を除いて。
「————あ、」
そして不幸なことに隣のブースに入っていたのはそのただひとりだった。
それは最悪で、最低で、クソったれの、……だけど予定調和でもあった。
「……カイザー」
この宇宙でただひとりの例外、人畜無害なガキのツラしてピッチ上では最悪級の悪魔に変貌するエゴイストは、カイザーの姿を認めると、緊張で上ずったような声を出し、自分より背の高い男の顔を覗き込もうとして顔を上げた。その途端に、普段はウェアで隠れているであろうきわどい場所に付けられた傷跡が目に入る。誰がどう見ても明らかな生々しい歯形は、数日前、世一を犯した際にカイザーが衝動で付けたものに他ならない。
——まだ、残っている。それもこんなにもくっきりと。
その事実に喩えようがないぐらい興奮して、カイザーは下半身が勢いよく起き上がるのを自覚した。今すぐコイツの腕を引っ掴み、抱き寄せて、もう一度同じ場所に歯形を付け直してやりたいとすら思った。高鳴る心臓はその瞬間を今か今かと待ちわびている、だってそうしなくちゃ、いつかあの傷跡も自然と消えてなくなって、そのことにカイザーは死にたくなるぐらい苛立ちを覚えて正気ではいられなくなるだろうから、と。
(——ッ、ふざけるなよ!)
そしてそんな馬鹿げた考えに支配されてあまつさえ中心に熱を集めてさえいる己に心底失望して、カイザーは世一が二の句を告げる前にサッと踵を返し、怒り任せに歩き出してシャワーブースを後にした。
「あっ、おい、ちょっと待てって……!」
遠のいていく水音の向こうで、世一が何かを喚いているのが聞こえる。「潔くん? どないしたん、そんな声出して——うわ!?」その横から水色頭と思しき奴がひょこりと顔を出しては素っ頓狂な声を上げるのも朧気に聞こえた、でも全部無視だ、全部全部、なかったことにして、忘れてしまいたい。
「いや、なんか、声掛けようとしたら逃げられちゃって……。やっぱ大人しくアイツの作戦を待つしかないのかなぁ」
「作戦? 何の話やそれ、……それより、ソコの傷って……」
「え? こんなとこに傷なんて……あっ!?」
素っ頓狂な世一の声も、反射でパッとカイザーが去った方を振り返った世一の表情も、何もかもすべて、カイザーの与り知らぬところで、勝手に始まって終わってくれていればそれでいい。
「馬鹿馬鹿しい…………」
ほんの僅か立ち止まり、隠れるように振り返って、それからまた妄執を断ちきるように首を振ってその場を後にした。もうあの男とは関わり合いにならないに限る、これ以上心を掻き乱されたくない、その一心で部屋に戻って読み終わったばかりの本たちをゴミ箱に投げ棄てた——そのはずなのに。
「捕まえたで、青薔薇皇帝」
不意のエンカウントをかました翌日、ふと、気を紛らわせたくて、部屋を出た。共用の食堂で夕食を摂ることすら億劫になって、ひとりになりたくて、誰もいないはずの場所を求めて足をうろつかせていたのだ。
けれどそれが裏目に出た。声がした方へ振り返ると、しんと静まりかえっているはずの廊下の真ん中に、水色頭のパサー……氷織羊が立っていて、こちらへ無遠慮に向かってくる。
「俺はお前に用はない」
背を向け、後ろ手に手を振って追い払おうとする。けれど、恐らくはカイザーの行動をある程度読んだ上でやって来たであろう男が、その程度で引くはずが無い。予感は当たる。氷織はカイザーの素気ない態度に一歩も退かず、名前の通り氷を織ったようにつめたい顔をして、爆弾級のカードを落としてくる。
「——潔くんに手ぇ出すんなら、遊びのつもりだけは許さへんよ」
その言葉に、ぴたりと、足が止まった。
「——何のつもりだ。母親気取りか?」
「何言うてんねんアホ、友人や。せやけど、だからこそ口、出さずにはおられんコトもあるってとこかな」
ひらりとカイザーの正面に躍り出て、氷織が微笑む。「誰も来ないから安心しぃや、ドイツ棟の連中、僕とキミ以外は全員まだ食堂におるもん」とんでもない策士の表情をして、〝お前に釘を刺しに来たんだぞ〟と、あからさまなぐらい馬鹿でかく顔に書き込んで。
「何を…………」
「傷跡。シャワールームでウッカリ見たやつ。あれ、見つけた瞬間、潔くんは遠ざかってくキミの背をまっすぐ目で追いかけてたんよ」
そうして氷織が続けざまに切ってきたのは、言い逃れも出来ないほどのジョーカー・カードだった。
カイザーは押し黙る。ここで氷織を振り切って逃げ出すのは簡単だが、そうすれば同時に、カイザーは意気地無しの烙印を永遠に押される。そう感じさせるだけの札役を、この可愛らしい顔をしてまったく正反対の男は容赦なく切ってきているのだ。
「…………」
「ホンマ、痛ましいぐらいの痕やったな。けど聞いても、潔くんは顔赤くしただけで、……何も教えてくれなくて」
「……だから?」
「ハハ、『それが俺に何の関係が?』とかグズらないのはまだ評価できるとこやね。……単刀直入に聞こか皇帝、なんで潔くんにあんなことしたん」
そうして氷織羊は、一切追求の手を緩めることなく、最後に真正面からそう鬼札を切り込んできて。
「…………そんなものは俺の方が知りたい」
こうなっては最早、カイザーには、こう答えるほかなかった。
「——そか」
「そうだ。俺自身にも分からない。あの男を相手にした途端どうもままならない。奴は初めに俺に『友達になろう』なんぞと抜かして手を差し伸べ、そしてそこらじゅうにいる奴の友人共と同じ十把一絡げの扱いをしようとした。俺にはそれが我慢ならなかった」
「うん」
「……だがこんなモノは、ただのみっともない執着だ。プライドが凝っただけの成れの果てで、それ以上でもそれ以下でもない。……それだけの話だろうが」
首を振って、言葉を手繰る。あんなモノが恋だというのなら、恋なんて馬鹿馬鹿しい。だったらあんなモノ恋ですらない方がずっとマシだ。心はそう傾き始めていて、そうであってくれと願うように口走る。
氷織はその言葉を黙って聞いていた。そしてカイザーの懊悩するような額をじっと眺め見て、
「は、アッホくさ、ホンマ、アホくさくてかなわんわ」
ポツリと一言、堂々とそう言いくさった。
「——あ゛?」
「いや凄まれても事実やろ。ハハ、皇帝ともあろうお人がしょーもないこと考えるやん、雷市も言ってたけど意外と可愛いトコあるんやね」
「お前…………」
揶揄するように呟かれた氷織の言葉に、反論しようとして、けれど口を噤む。そんなことをしてもドツボにハマるだけだ。だってカイザーには恋も愛も分からない、まだ分かりたくない、恐ろしくて見ない振りをしようとしている、だというのにシャワールームで世一の傷跡を見ただけで欲情して、……けだものじみていて、どうしようもなくて、己が世一の友人に謗られても仕方ないような最低の生き物であることを、否定出来ないから。
「なんや、ちゃんと好きなんやね、潔くんのこと。それも僕が思ってたよりもずっとずっと真剣な感じに」
だからそんな状況で氷織が切り込んできたトドメの手札に、返す言葉なんてあるはずもなくて。
いよいよカイザーは言葉を失ってしまい、ただ怯えるように喉をひくつかせるばかりだった。
「……違う、あんなものは違う、クソ物の俺が持った時点でそれはただの醜く攻撃的な執着に成り下がるから、」
「執着も愛も、そんな変わるもんでもないと思うけど。表裏一体紙一重や、だからこそ……それでもまだ恋してないとか抜かすんやったら、今すぐ鏡を見るべきと違う?」
それでも必死になって、もたつく舌を動かし、否定を続けようとする。どうにか、その事実から、目を背けようとして。だってそうだろう。カイザーは既に世一を傷つけた。取り返しが付かないぐらい貶めて穢した、そんなことをしたクソ野郎が望むモノを与えられる謂れなどない、だから気付かないことにしていたほうが、良かったのに。
「——顔に書いてあるで。〝誰にも渡したくない〟って」
だというのにこの凍てつく風のように冷徹な男は、サディスティックなその本性を隠しもせず、まるで子猫をあしらうような気軽さでそう言い放つ
のだ。
カイザーは息を呑んだ。臓腑が冷え渡り、身体が、毛細血管のすみずみに至るまで、息の根を止められてしまったかのような心地がした。「なぁ皇帝」その隙を逃さず氷織が嘯く。「たとえば、潔くんがカイザー以外の誰かを好きになったとして。その誰かと手繋いで、キスして、それ以上のことをしたとして……」いやだ。それ以上言うな。その先を口にするんじゃ無い。
そんなことをされたら、傷口にナイフを突き立ててかさぶたを暴くような真似をされたら、ミヒャエル・カイザーは、己がしでかした過ちの愚かさに、一生、自分を呪わなければいけなくなってしまう。
「……その時キミは、正気でいられる? 相手の誰かの首を絞め殺したりしないで、祝福……はまぁ無理としても、無視してその恋を忘れるような器用な真似が、ホンマに出来ると思う?」
「ッ、」
唇を噛む。きっと額には青筋が浮かび上がっている。自分がどんな顔をしているのかわからない、嘘だいやというほどわかる、この廊下には鏡が無く、窓すら存在していないというのに、死にたくなるぐらいハッキリわかってしまう、——自分が今、憤りを露わに歯ぎしりをしているであろう、そのことが。
「——わか、らない、」
「嘘。その顔見れば理解るわ、答えはとっくに出てるやろ」
だからきっと氷織羊は、ほらやっぱり、とでも言うようににこりと微笑んでいて。
「少なくとも僕にはそう見える、せやから、今日はこの辺にしとこか。ちょっと、イジメすぎたみたいやし…………ま、そろそろ、素直になった方が身のためとちゃう」
ひらりと手を振って、氷織が軽やかに踵を返していく。カイザーの——きっと百獣の王とすら渡り合えるであろう獰猛なオーラなんて、ものともせずに。
そうしてあとには、この世全てをグチャグチャに握り潰して滅ぼしてしまいたいとでも言いたげな顔をした男ばかりがひとり残されるのだ。
「クソ……………」
カイザーは鼻息荒くかぶりを振り、氷織羊のもたらした最悪の空想をどうにか振り払おうと試みた。無理だ。許せるはずなどない。それだけは有り得ちゃいけない、——世一が他人のものになるだなんてことは、絶対に。
「……クソッタレが……!」
怒りに肩を打ち震わせ、頭を掻きむしる。こんな気分ではもう夕食を摂る気にも、部屋の外を歩く気にも、とてもなれそうにない。
息を吐き、くるりと踵を返す。氷織が消えて行ったのとは反対の道——自室がある方に向かって。とにかく今夜は戻って、このふざけた精神状態をなんとか整えなければ。このままの状態が続けば、サッカーのプレー自体にも悪影響を及ぼしかねないから。
「……これでひとつ貸しやで、魔術師。——あとはよろしゅう」
そんな皇帝の荒れた後ろ姿を柱の陰から見送り、氷織がぽそりとそう呟いた。
◇ ◇ ◇
最低な気分で廊下を突っ切り、カードキーをかざして電子制御のドアを解錠する。最悪だ。心底腹立たしい。氷織羊が平然とした調子で何もかも見透かしたみたいな台詞を投げ掛けてきたことも。……見透かされてしまった浅はかな自分自身にも。
——顔に書いてあるで。〝誰にも渡したくない〟って。
氷織の言葉が、鋭利な氷のナイフのようになって、何度も何度も心臓に突き刺さる。ああ、そうだ、まったくもってその通りだった。世一のことを誰にも渡したくない。だからこそカイザーは、渋谷で世一が凪誠士郎と御影玲王に声を掛けたときあれほど機嫌を損ねたのだ。言葉にされてみればこれほど明快な理由もなく、それは最早無視できないほど巨大に膨れあがって、カイザーの逃げ道を塞いでしまう。
世一のことを独り占めしたい。
ピッチ上で宿敵を喰らわんとする殺意も、観光案内をするために手を引く子供じみた指先も、甘ったるいソフトドリンクを飲んではにかむあの笑顔も。
恐怖や苦痛に顔を歪めるあの瞬間、男に組み敷かれて喘いでいるあられもない姿、そして慈しむようにカイザーを抱きしめたあの両腕も。
——そうだ、つまるところ、カイザーは潔世一の恋も、愛も、何もかも全てを手に入れたかったのだ。
(だがもう無理だ、他者に奪われない方法がないじゃないか、今となってはどこにも……)
しかし全ては過ぎたことだ。今更どうにもならない。いやそれでも世一を奪われたくは無い。そんな馬鹿げた思考が己の中から湧き上がってくることにカイザーは失笑した。クソッタレ。あの男がカイザーのものになったことなど一度もないだろう。
「クソ惨めだ……」
溜息を吐き、中に入ってドアを閉めると、ガチャリと音を立ててオートロックの錠が下りる。深々と息を吐き、疲弊しきった調子で緩慢に首を回す。
軽い散歩に出るだけのつもりだったのに、予期せぬ茶々入れのせいでクソほど疲れてしまった。今日はもう寝るか、そう思って前も見ずぼんやりとベッド脇に足を向け、一歩を踏み出す。
「——くっ!?」
すると次の瞬間、その一歩踏み出した足が、何か妙にがっしりとした障害物に引っかかり——カイザーは盛大にずっこけ、何かの上へ覆い被さるようにして床へ転がった。
「おいクソ痛ってぇな! 何でンなところにモノが……」
いったい何が己の健やかな就寝を妨げようとしたのか。何様のつもりで? カイザーは盛大に舌打ちをすると、ムカつく障害物の正体を確かめるために目をこらした。事と次第によっては自慢の握力で粉々にしてやろうと思ったのだ。八つ当たり半分だった。だからカイザーはひどく凶暴な気持ちで乱雑に手を伸ばして、
「は?」
——そして掴み取ったその正体を理解した瞬間完全に思考停止した。
「は……? よい、ち……?」
カイザーが鷲掴みにして持ち上たものは、潔世一だった。まったく意味が分からないが、そうとしか言い様がなかった。その証拠に、放心して掴んだままの腕を揺すると、あの特徴的な双葉がぴょこんと揺れる。
「おいバカ離せ、頭いてーっつの!」
世一(らしきもの)が、ギャンとがなった。
「なんだ……? 何故世一がここに……?」
目の前の事象が何一つ理解出来ずにカイザーは完全にフリーズした。
不格好にぷらんと揺らされている世一(たぶん)がまだ何か文句を言っている気がするが、まったく、これっぽちも、頭に入ってこなかった。そもそもこの部屋はオートロックだから鍵を閉め忘れたということもないはずなのだが……いったい全体どこから入り込んで来たというんだこのクソネズミは。
ではこの世一は幻覚か? 一瞬そんな胡乱な考えが思考の片隅を過りもしたが、それにしては、コイツはやけにやかましく、全然都合のいいことも言わず、おまけにぎゃあぎゃあ喚く口の悪さなんて異常なまでにリアルで腹立たしい。あぁ、認めよう。コイツは本物の潔世一としか思えない。
「ちょっ、待て、片手で頭掴んだままブンブン振り回すなって! その、俺はお前とどうしても話がしたくて……!」
「ほう、それで不法侵入の挙げ句待ち伏せか。なんだ、俺に汚された腹いせに、とうとう復讐でもしに来たのか? 大した暗殺者ぶりだな世一ぃ」
そんな状況だったから、もうカイザーには、深く考えたり含みを持たせる余裕すらなくて。
代わりにいつも通りの罵倒がスラスラと唇から流れて落ちていくのだから、我ながら最悪極まりないヤツだなと思った。まったく世の中はすべからくクソだ。数日間、顔を合わせるのも避けていた相手に、よりによってこんな罵倒を浴びせかけている。本当に……ミヒャエル・カイザーというのは見下げ果てた男だ。唯一の救いはこれ以上嫌われようがないほど既に世一の中でカイザーの株が下がりきっているだろうことぐらいか。
「クソ出て行け、ここは俺の部屋だ——」
だったらもう、何がどうなったってどうでもいい。情けない感情に蓋をして、世一を掴む手に力を込める。早くひとりになりたい。そして何も考えず眠りに就きたい。そうして一晩を飛ばしたところで何も事態は解決しないと分かっているけれど、とにかく今は、よほどのことが起こらない限り、世一のことなど考えたくない。それだけがカイザーの願いなのだ。
しかし残念なことに、不運というのは往々にして続くものと相場が決まっているのである。
「待っ、まだ話が——」
そうしてカイザーが世一をぶん投げようとして、それに世一がわたわたと何かを釈明しようとした瞬間、
「————えっ!?」
今度は突然部屋の電気が消えた。
「は……?」
窓の無い部屋が、一瞬のうちに、暗闇の手へと落ちる。薄ぼんやりとした世一の気配だけを残して世界から己以外の輪郭が消え失せる。一体何事だ。そう思って目を見開き辺りを見回すと、まるで諦めろと言わんばかりに、スピーカーから棟内放送が鳴り響きはじめる。
『あ〜、マイクテスト、マイクテスト。ただいまドイツ棟館内が原因不明の停電に見舞われて機能停止中ー。たぶんブレーカー落ちたとかだと思うけど。予備電源は基幹システムの維持に回してるので、お前らの生活用電源の復旧はアンリちゃんの頑張りをお待ちください』
そうして言いたいだけ言い終わると、ブチッと音を立て、それきり二度と放送は聞こえなくなってしまった。
あとには、相手の姿も見えないような闇、そして合わせる顔もないほど気まずく事故っているはずのふたりだけが残される。
「…………は????」
カイザーは今度こそ間の抜けた声を漏らすしかなかった。
真っ暗闇の中で絵心のふざけた放送を聞いたふたりは、どうすることもできず、探り合いのような無言の数分を経て、結局すこし離れたところで互いに床へ腰を降ろし、大人しく蹲る結果に落ち着いた。この部屋のドアは完全電子制御なうえに先ほどオートロックが掛かってしまったので、停電状態では内からも外からも開ける術が無い。平たく言ってふたりは閉じ込められてしまったのである。
「……その、ごめん、不法侵入って言われると正直否定出来ないし。でも本当に、どうにかしてさ、カイザーに話を聞きたかった」
暗がりの中から、世一のしょぼくれたような声が浮かび上がってくる。
カイザーは当てつけがましく深く深く溜息を吐いた。そうでもしないとやっていられない。
「俺の方には話などないが」
「俺はあるよ。いっぱいある。……知りたいことがたくさん、お前の過去、考えてること、嫌なことに嬉しいこと、……それからもっと、他のことも」
世一の声は比較的しゃんとしていたが、他のことも、と付け足したときだけ僅かに震えを孕んでいて、あぁ、きっと、あの晩何故犯したのかについてなんだろうとうっすら予見させる。「お前がクソムカつくクソエゴイストでクソでクソでクソだからだが」だから先回りしてそう吐き捨ててみたのだが、この言い方では世一には響かなかったらしく、「そんなことより」と軽く流されてしまう。
「……ひとつだけ、これだけでいいからさ、教えてくれよ。カイザーにとって『幸せ』ってなに?」
そうして代わりに投げて寄越されたのは、限りなく近くまで核心に迫る、世一らしからぬような鋭い問いかけだった。
「——何を、」
「実家のリビングでさ、お前が俺の写真を見て言ってたことが、忘れられないんだ。あの広くてわびしい背中も、父親も母親もいないって言ったときの冷たい声も」
「…………」
「さみしそうだった。放っておけなくて、……ひとりにしたくないって思った。だから抱きしめたんだ、そうすればひとりじゃないって伝わるかもしれないと思って……」
ごそごそと物音がして、声が、にわかに近づいてくる。世一が暗がりの中を這ってこちらへ寄ってきているのだ。
何を考えているんだコイツはと思った。
だってそんなメリットがあいつにあるか? 合意も無く自分を犯した相手のそばに、密室に閉じ込められ助けも呼べないような状況で、無防備に近づいてくるなんて、バカのやること以外何と言い表せばいい?
「なあ、カイザーは今もさ、自分はひとりぼっちだとか、そんなこと、考えてたりするのか?」
なのにコイツときたらのうのうと寄ってきた挙句手探りでカイザーの身体を確かめ、我が物顔で横に腰を落ち着けやがって。
「……だとしてもお前に何の関係がある?」
「そしたら、何度でも、お前はひとりじゃないよって伝えてやりたい。そんで出来たらその役目は俺がいい、だからここに来たの。……手、握ってもいいか?」
言葉尻だけ見れば丁寧にお伺いを立てているのだが、実際にはカイザーの返事など一切待たず、勝手に手を握られる。カイザーはぶわりと脂汗が滲み出るのを感じた。嘘だろ。やはりコイツは本物のバカだ。この状況で、どうして自分を汚して傷つけた男に寄り添おうなんて出来る。罵りも憎みもせずに、そこまでお前は愚鈍なのか。はたまた、或いは……。
「……何故こんな真似をする。恐ろしくは無いのか。この暗闇で再び俺に襲われたら、お前には逃げる術などないのに」
そこまで考えかけて、カイザーはふるりと首を横へ振った。或いは? いや、そんな都合のいいことなどあるはずがない。あってはならないのだ、そう自分に言い聞かせ、勝手に握られた手のひらを振りほどこうと足掻く。
でも出来なかった。
「だって俺知ってるんだよ、カイザーが本当はさ、くだらないことで心底楽しそうに笑う、優しい顔が出来る人間だって」
続く世一の声が、そんなことを、言いやがったから。
何のてらいも無く、忖度も無く、おもねりも気遣いもおべっかも嘘も期待も何も無く。
当たり前のことを繰り返すみたいにそう言い切りやがるものだから、「……人間?」もう、手を振り払う力さえ奪い取られてしまって。
カイザーはぽかんとして間抜けに目を見開き、そう繰り返すことしかできない。
「……人間だと? この俺が?」
「え、なんでそこ食いつくんだよ? 人間だろカイザーは、不平等な神様を罵って必死になって足掻き続ける……俺と同じただの秀才」
それは、カイザーが長いあいだ求めていた、愛の証明それそのもののような言葉だった。
今まで誰ひとり辿り着けなかった、この瞬間までカイザー自身でさえ言語化できていなかったような、真実の答えだった。
「マジでクソバカだろ世一ぃ……」
握り合った右手がばかみたいに熱い。カイザーは左手のひらで顔を覆い、首を振る。部屋じゅう真っ暗で、こんなに近くにいるはずなのに互いの顔がまるで見えないのは、カイザーにとってある種の救いだった。世一の顔を直視して心臓がばかでかい早鐘を打つこともないし、己のみっともない顔を世一に見られることもない。
——そうだ。始まりの夢の中で、カイザーが望んだものは、「人間になる」ことだった。
それがミヒャエル少年の願いだった。いつかあの家を出て、自由を得る。そして叶うなら誰かに愛されてみたい。……誰かに愛を注がれることで己の輪郭を確かめ直し、肯定され、いつかは人間になるのだ。
だけどひとつだけ問題があって、その大きな問題のために、少年の願いはいつまで経っても現実にはならなかった。この夢を叶えるには自分を愛してくれる対等な相手が必要だ。崇拝でも、心酔でも、狂信でもなく、真っ向から喰らい付いてきてお互いに奪い合うことさえできるような、そんな人間が必要なのだ。
そんな奴はどこにもいないと思っていた。
だからその事実を突きつけられる前に、確実に嫌われるだろう行動を取って予防線を引いた。
望まれた人間であるコイツに望まれなかった生命のことなんか分かるはずもないと決めつけた。
だというのに潔世一は、信じ難いほどの身勝手さで、……奇跡のようなその言葉に辿り着いてしまった。
「……カイザー?」
「クソ世一、お前は、お前はいつもそうだ、ズケズケと人の大切な場所に入り込んでは踏み荒らす、手始めに俺が支配していたはずのチームを乗っ取り、俺のクソくだらねぇプライドを引き摺り剥がして、無茶苦茶なプレーで生まれ変わらせて。挙げ句の果てに、俺がずっと求めていた答えをいとも容易く見つけては投げて寄越す……」
「え、何? なんかよくわかんないけど俺罵倒されてる!?」
「ああそうだな、だからまあ、最後まで聞け。そのために葱背負ったカモよろしくこんなところまでノコノコ来たんだろうが」
俯く顔を上げ、天を仰ぐ。握り締められたままの右手に左手を添えると、世一の手が僅かに身じろいだ。は、バカめ。今更逃げようたって遅いんだよ。こんな暗闇じゃ流石にお前を辱めて犯そうなんて気にはなれないが(前後不覚でいちいち手間取りそうだし、何より世一の顔を見られないのにそんなことしたってしょうがない)、だが声だけはよく伝わる、擬似的に五感のひとつを封じられたような状況だから、尚のこといやというほど脳に響くはずだ。
愛されたくて愚かにも過ちを犯した罪人の懺悔が。
それがどれだけ世一にとって受け入れ難い、重たい答えだったとしても……。
「……質問の答えがまだだったな。俺にとっての『幸せ』は何か、か……」
そこで一度言葉を切り、大きく息を吸い込む。心臓があつい。あまりにも力強く脈打ち、生きていること、これまで生きていたこと、そしてこれから生きていくことを、決意と共に証明するかのごとく、深く轟きをあげている。
——ああ、だからもはや、この想いを封じ込め、棄て去ることなどできようもない。
このしみったれた恋心に結末をつけよう。
これで全部終わりにしてやろうではないか。
「好きだ」
だからカイザーは意を決し、生唾を飲み込むと、厳かにこれを告げる。
「世一のことが好きだ。こんなモノ、何かの間違いか、気の狂いか、そうでなくても執着を履き違えているだけの醜い錯覚だと思いたかったが。……それでもやはり、どうしても、俺はお前が好きらしい。ムカつくぐらい心乱されて、殺したいほど愛おしい…………」
傲慢に、不遜に、神をも恐れず、しかし祈るかのように。
「……だから。強いて言うなら、俺にとっての幸せはお前が俺のものになることだ、潔世一」
お前はそんな結末、殺されても望まないだろうがな。
それきりを言い終えると、カイザーは深く息を吸い込み、すべての終焉を予期して目を瞑った。
ああ、言葉にすれば、なんと簡単で、愚かで、醜く……やはり馬鹿馬鹿しい。
これが恋か。これが愛か。認めざるを得まい、潔世一はミヒャエル・カイザーにとって特別な存在だった。好敵手という冠だけでは満たされず、さりとて〝トモダチ〟なんてラベリングでは、余計に物足りない。それ以上の関係にきっとなりたかったのだ。
けれどその願いは最早叶わないだろう。分かっている。全て身から出た錆だ。カイザーは愚かにも愛を恐れて憎悪を煽った。その報いをこの身は受けねばならない、けれどそれでも、この奇跡の結晶体のような男を、誰にも取られたくはない。
——だから呪いを掛ける。
この若き皇帝が、唯一愛して求めた人間がお前なのだと、振り向きもしないだろう薄情な潔世一くんに刻み込んでやる。
それがこの土壇場で、世一の言葉を受けてカイザーが導き出した、最後の答えだった。
お前が嫌ってくれないのなら、怨んですらくれないのなら、こんな感情など自ら火にくべて葬ってやる。そうして自分ひとりだけスッキリしたような顔になって浮かばれない恋心は世一の心臓に括り付ける。烙印のかたちになった惨めな恋は、成仏するかわりに、これから先潔世一に訪れるであろう祝福と栄光の日々を永遠に蝕み続けるのだ。
これこそがミヒャエル・カイザー一世一代の告白。
たとえどんな相手を代わりに選んだとしても一生忘れられないような最低の呪いを、このへそ曲がりの自分の「たった一度の素直な言葉」という形で、お前に生涯背負わせ、人生の何割かを奪ってやる……。
そのつもりだったのに。
「…………そっか」
世一が、重なり合った指先をきゅっと縮こまらせ、おずおずと唇を開く。怖いか。カイザーはゆっくりと目を見開くと、口角を緩めて舌なめずりをした。そうだよな。いくら温室育ちでお間抜けの赤ちゃん世一でも、ここまで真っ向から重たいモノをぶつけられたら、流石に恐怖を抱くだろう。
「カイザー、顔、こっち向けて」
震える声で、世一が名を呼んでくる。カイザーに縫い止められた左手の代わりに右手を伸ばし、恐る恐る輪郭を確かめるようにカイザーの頭を、耳を、頬を撫でて、そうして指先が、意を決したようにカイザーの顔をきゅっと引き寄せてくる。
「——世一?」
何を、と問う暇もなく、細くくすぐったい何かが、カイザーの頬に掛かった。
世一の髪だ。一体何故? 思いもよらぬ感触に呆けていると、薄暗い世界の真ん中で、何かのシルエットが、ぼんやりと浮かび上がってくる。少し低い鼻、まるまるとした双眸、あぁではこれは世一の顔だ、それが息が掛かるほど近くに現れ、あっという間に……カイザーの自由を奪って肉薄してくる。
「カイザー」
世一が、あの愛らしい声で、カイザーの名前を呼んだ。
慈しむように。希うように。流れ星に願いをかけて、祈りを口ずさみ、——まるで愛するかのように。
「……ぁ、」
世界が、あたたかい暗闇に包まれて見えなくなる。
そうして柔らかく温かい何かが、カイザーの唇を奪い取った。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.