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吾妻
2024-12-31 20:55:46
5106文字
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アークナイツ
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心音を抱く
リクエストをいただいていた「相手を庇って怪我をする博」のテキ博♀です。おまたせしました! リクエストありがとうございました。
地面にじわじわと広がる水溜りが、やがて爪先に触れた。
浜辺に寄せる波のように、あっという間に
踝
くるぶし
までを濡らす。
偽物の浜辺の、偽物の波に似て。
だが決定的に違うのは、やけにとろみのある液体の色。
あまりに鮮やかな。
――
赤。
その液体が何であるか、本当は知っているはずだ。
だが、鈍麻した思考は、答えを出すのを先延ばしにし続けている。
その赤がどこから流れてくるのかも、できることなら確かめたくはなかった。
確かめてしまえば、認めなければいけなくなる。
〝見るな〟。
頭の片隅で警鐘が鳴る。
それでも視線は、ゆっくりと赤い流れを辿っていく。
生温かい、鉄錆の臭いがする滴りの源流。
〝血の海〟の只中に横たわるその人を、テキーラはよく知っていた。
まるでこちらに差し出すかのように、だらりと投げ出された細い腕。
幾度もくちづけた唇は力無く開かれて、もはや吐息のひとつも零すことなく。見開かれた瞳は光を失い虚空を見つめている。
「ドクター
……
?」
わからなかった。
なぜ彼女が血溜まりに沈んでいるのか。
瞬きもせず、呼吸もしていないのか。
――
いや、違う。
知っているはずだ。
何が彼女を傷つけたのか。
(俺が)
彼女を守れなかったから
――
*
「っ
……
!」
スイッチを切り替えたように、唐突に目が覚めた。
浅い呼吸が耳を打つ。紛れもなく自分のものだ。
縁起でもないとびきりの悪夢を振り払うように、テキーラは柔らかな前髪を掻き回す。そして、自分が置かれている状況を思い出そうとした。
今がいつで、ここがどこなのか。
見慣れた部屋にいた。
座り慣れた椅子に座っていた。
統一規格で造られた居住区画の船室の中は、嗅ぎ慣れた匂いで満ちていて、同時にかすかな薬品の香りが混ざり込んでいる。
すぐ傍にあるベッドから聞こえてくるのは、浅く忙しない息遣い。
この部屋の主人は、いつものように身じろいだり、むにゃむにゃと寝言を言うでもなく、深い眠りについていた。元々あまり血色の良くないその顔は、今や紙のように真っ白に血の気を失っている。
「ドクター
……
」
返事はない。
彼女が昏々と眠り続けてもうすぐ丸一日だ。傍らで付き添い続けたテキーラは、ドクターとは正反対にほとんど睡眠を取れていない。限界を感じ取った体が勝手に意識を落としたのだろうが、あんな悪夢を見せられては心身が休まるはずもない。
あんな、趣味の悪い
――
冗談でも笑えない、ひどい夢。
避けようのない事態だった。
苦々しい顔をしながらも、皆がそう言った。
だから君のせいではない。そう付け加えて、労ってくれた。
果たして本当にそうだろうか?
死角からの狙撃だった。常人の反応速度では躱せなかった。理屈はわかる。
それでも、割り切れない。割り切れるわけがない。
ドクターが自分を庇って負傷したなんて、認めたくなかった。
本当にどうしようもなかったのだろうか?
何も手につかず、ベッドの横に座って、ひたすら自問を繰り返している。
ドクターは医療部によって適切な処置が施され、あとは回復を待つだけの状態だ。
怪我による発熱も大方落ち着き、あとは薬で炎症を抑えつつ、安静にして回復を待つしか術がない。
だから本当は、自分が付き添う意味などどこにもない。それもまた、虚無感を掻き立てる。
ただ待つだけの時間がこれほど長いなんて知らなかった。こんな形で知りたくもなかった。
もっと周囲に気を配っていれば。
もっと早く反応できていれば。
今になって悔やんだところで過去が変わるわけでもないのに、意味のない思考を止められない。
彼女を守るために傍にいたはずなのに。
椅子に座ったままうなだれて、膝の上に置いた自分の手を見つめていたら、不意にベッドの中の人物が身じろぐ気配がした。
布団の中から白い手が自分の方に伸ばされてくる。テキーラはいつにも増して頼りないその手を、自分の手で慌てて捕まえる。そっと、包み込むように握り締めた。
「
……
ひどい顔だな」
何が起こったのか理解できずにいるテキーラの耳に、掠れた女の声が届いた。
「ドクター?」
恐る恐る顔を上げ、ベッドを見る。先程まで閉じられていた女の目が開かれ、テキーラを見ていた。その瞳には、苦笑にも似た笑みが宿っている。
「まぁ、私に言われたくないか
……
」
恋人の手を握り返し、ドクターが口の端に自嘲を刻む。
『そうだよ』とか、『冗談を言ってる場合じゃないだろ』とか。いくつか言葉が浮かんだが、一つも口から出てこなかった。普段通りに振る舞うことも、彼女の行いを嗜めることもできず、ただひたすら途方に暮れて、ドクターの顔を見つめる。
しばらく無言で見つめ合ったあと、ドクターは静かに嘆息した。彼女の唇に浮かんでいた揶揄うような笑みも、ゆっくりと消えていく。
「捨て犬みたいな顔をして、いつからそこにいたんだ?」
いつから? いつからだっただろう。時間の感覚も曖昧だ。ドクターからの問いに即座に答えられないくらい、思考が麻痺していることに気がついた。
「ごめん」
代わりに口からこぼれ落ちたのは謝罪の言葉だった。
今度こそ、ドクターの瞳に不安げな色が浮かぶ。
「エルネスト」
職務を離れ、個人として向き合うときの呼び方で、ドクターはテキーラを呼んだ。繋いだままの手にもう一度力を込めて、しっかりと男の指を握る。
「私は大丈夫だよ」
「大丈夫なんかじゃ
……
」
そんなはずがないだろう。
放たれた矢は防護服を貫いて左肩に深々と刺さった。滴った血が、手を伝い落ちて、抱き留めたテキーラの掌を真っ赤に濡らした。本来なら彼女がそんな怪我を負う必要などなくて、むしろ自分が
――
「傷つくのは自分であるべきだったと思っている?」
ドクターの言葉が、よく研がれたナイフのようにするりと胸に入り込んできた。その冷ややかさに息を呑む。
「
……
君を守るのが俺の役目なんだよ。それに、俺の方がドクターよりずっと頑丈だし」
「でも、あの矢は君の頭を的確に狙っていたんだ。当たっていたら無事では済まなかったはずだ」
「だけど」
彼女の言い分もわかるし、命を救われたのは事実だ。感謝の気持ちはもちろんある。だが、素直に礼を言う気にもなれなかった。
ドクターと言葉を交わすうち、彼女が彼岸に奪い去られなかった実感が湧いてきて、同時に麻痺していた感覚が胸の奥から溢れてきたのがわかった。
わずかな憤りと、あとは、恐怖。
そうだ。全身の血が凍りつくほどに恐ろしかった。
ドクターを失うかもしれないことが。
「エルネスト」
ドクターがもう一度、今度はもっと優しく恋人の名を呼ぶ。
「こっちに来て」
繋いだ手を引かれ、テキーラは椅子から腰を浮かせた。座りっぱなしだった足がもつれそうになるのを堪え、ベッドに横たわる恋人の上に屈み込む。
ドクターは、まるで捨てられた子犬のように不安げな顔をする男の首筋に、最前まで彼と繋いでいた掌をそっと這わせる。そして、柔らかな襟足に包まれたうなじに手をかけて、自分の方へ引き寄せた。
引き寄せられるまま、テキーラはドクターの肩と首筋の間に頭を埋める。柔らかな肌は温かく、皮膚の下から確かな鼓動が伝わってくる。嗅ぎ慣れた恋人の匂いは、疲弊してささくれ立った青年の心を慰めたが、混ざり込んだ消毒液の香りのせいで安堵に浸り切ることもできなかった。
「
……
私は、この腕が大地の端から端まで届くわけじゃないと、ちゃんとわかってるんだ」
ドクターが急に何の話を始めたのか、テキーラにはわからなかった。抱き寄せてくる細腕に身を委ね、彼女の命の音に耳を澄ますことしかできなかった。
「すべての人を助けたいと願っても、一人ができることなんてたかが知れてる。この手が届かない悔しさを何度味わったかわからない。だから、せめてこの手が届く範囲にいる大切な人を守るためには、できる限りのことをしたい」
「
……
」
彼女の考えは理解できる。共感もできる。しかし、やはり簡単には飲み込めなかった。彼女が流した血の熱さを思い出すたびに、あんな思いは二度とごめんだと体が震える。
いつもはぽんぽんと軽口を投げてくる男が何も言えなくなっているのを感じ取って、ドクターは顎の下あたりにあるテキーラの頭にそっと頬を擦り寄せた。
「確かに私の行いは浅慮だったかもしれないし、立場を考えれば君の言い分の方が正しいんだろう。でも、君が傷つくのを黙って見ているなんてできなかったし、たとえ今あの瞬間に戻ったとしても、私は同じことをすると思う」
「
……
困るよ」
疲労と睡眠不足で思考が緩み、いつもなら隠しておけるはずの正直な言葉がこぼれ出た。
自分を大切に想ってくれるドクターの気持ちは嬉しい。だが、ドクターが自分のために傷つくのを容認なんてできるはずがない。
「そうだね。私の行いで君が辛い思いをしたのもわかってる。ごめん」
「
……
だけど、きっと俺もドクターと同じことをしたと思うよ。上司と部下だからとか、俺の方が頑丈だからとか、そういうのはどうでもよくて
……
。ただ君が傷つくのが嫌なだけ。君が大事だから、守りたいと思うだけ」
ドクターも同じなのだと、テキーラだって本当はわかっている。考えての行動じゃない。咄嗟に体が動いただけで。同じ立場だったなら、きっと自分も同じようにした。後先を考えもせずに。
テキーラは、怪我人に苦痛を与えぬよう気を配りつつ、華奢な体を覆うように抱き締める。
「生きていてくれてよかった」
「
……
うん」
青年の心の底からの安堵の声に、ドクターは静かに頷いた。普段のように揶揄ったりはしなかった。
背を撫でてくれる細腕にあやされながら、テキーラは恋人の首筋に鼻先を擦り寄せる。
目を閉じて、触れ合った場所から伝わる心音に耳を澄ます。全身を苛んでいた焦燥が、ようやく体から抜けていくのがわかった。深く呼吸した瞬間に、テキーラは今更、自分がうまく息すらできていなかったことに気がついた。
緊張がほどけ、このままぬくもりに身を委ねていたら寝入ってしまいそうだった。ドクターはまだ休養が必要なのだし、泣き疲れた子どものような真似はしたくないのに、絡めた腕を離せそうにない。
「
……
そういえば」
甘い微睡みに呑み込まれそうだったテキーラの意識は、しかし、腕の中から上がった声に引き止められた。
「何日寝ていた? 仕事が溜まっているんじゃ
……
」
「
……
」
目が覚めるなり仕事をしたがるかもしれないから、そのときは君が責任を持って押し留めるように。テキーラにそう命じたのはケルシー医師だった。確かにドクターはそういうところがあるけれど、大怪我を負った後で流石にそこまではしないだろうと踏んでいたのだが、読みが甘かった。
全身にまとわりつく睡魔を振り払うように、テキーラは深々と溜息をついた。上体を起こし、真上からドクターを見下ろす。
「起きられるようになるまではお仕事は禁止だからね」
しっかりと目を見て言い含めるが、対するドクターの表情はどことなく不服そうだった。まったく、こういうところばかり聞き分けがない。
「俺ができるかぎりフォローするからさ
……
」
「できるかぎり?」
「
……
うん」
「それは、私生活のサポートも含まれるのかな?」
「
……
もちろん、そのつもりだけど」
「左腕の痛みが抜けるまで荷物を持ってくれたり」
「うん」
「食事を食べさせてくれたり」
「
……
うん」
ドクターの利き腕はどっちだったっけ? 確かに片手だと食事はしづらいかもしれないが、彼女は本来必要以上に甲斐甲斐しく世話をされるのを嫌がるタイプのはずでは。
「入浴の介助もしてほしいし」
「
……
うん?」
「優しく寝かしつけてくれたり
……
」
話が徐々にエスカレートし始めて、ようやくテキーラは気がついた。
これは、彼女なりの甘えなのだと。
「
……
うん、いいよ。なんでも言って。全部叶えてあげる」
まだあまり血色のよくない頬を撫でてやれば、ドクターがくすぐったそうに目を細める。
「じゃあまずは、キスしてほしいかな」
まるで仕事でも頼むかのように、ドクターがそう言うので。
「仰せのままに」
テキーラは恋人の唇に自分のそれをそっと重ね合わせた。
【おわり】
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