最近は9月でも気温が30度を越えるから、8月と夏はせーので終わるわけではない。日本列島の日曜日の午後。朝から唐沢にドライブに連れ出され、イケアを2時間かけて巡り、お昼ご飯を食べ、家まで送り届けてもらう途中で、大きい公園に寄り道してふらふら散歩をしていた。
「荷物は片付けました?10月に入ればすぐ退去日ですよ」
今日は会った時からこんな感じで、唐沢は来月の話ばかりする。まだ9月は2週間近く残ってるというのに、気の早い人だ。もちろん部屋の荷物は全然片付いてない。
「もうすぐ引越しかぁ。5年も住んだから、ちょっと名残惜しいな」
「あのうるさい隣人ともようやくおさらばですね」
「おかげで私達もヒップホップにはかなり詳しくなったよね」
「不本意ながらね」
のんびり会話を続けながら、地面に落ちてた空き缶を拾って、6mくらい先のゴミ箱にカコンと投げ入れた。
「おー、上手いですね」
「まぁね。中学の頃ダーツバーでアルバイトしてたから」
「聞かなかったことにします」
私が笑えば、唐沢もやれやれといった風に笑う。私たちは来月から同じ家で暮らすことになっている。電話口でぺらぺら話す唐沢や、ご飯を作ってる時に後ろからぺらぺら話しかけてくる唐沢に「よくわかんないけどいいよ」「とりあえず任せる」とか言ってたら、いつの間にか新居が用意されていて、引っ越しの日取りも決まっていた。何もかも任せすぎたかな…とは思うけど、彼が楽しそうにしてるから、この選択は間違ってないのだと思う。そんなことを考えながらぼんやり歩いていると、ズコッと足元の段差に躓いた。咄嗟に隣にいた唐沢の服の裾を掴めば、彼はするりと自然に手を繋ぐ。
「大丈夫ですか?」
「へへ…ありがと〜…」
「目が離せませんね」
ほっとひと息つくような優しい眼差しと、暖かい手に触れられて、安心すると同時にほんの少し体が強張る。唐沢にはまだ言えてないけど、私は新しい生活を楽しみにしている反面、根拠のない不安にも襲われていた。どうでも良くない人と毎日一緒に暮らすなんて初めてだから、どうしていいかよくわからない。唐沢は自然体の私を気に入ってくれたけど、それに甘えすぎていつか彼を失望させてしまわないだろうか。一緒にいることが当たり前になってしまったらもう、今感じてる幸福感は消えて無くなってしまうんじゃないだろうか。最近はよく、そんなことを考える。
「手、嫌ですか?」
「ううん、大丈夫」
流石に嫌とか言うわけも無くて、首を横に振ると彼は安心したように指先を絡めて手を繋ぎ直した。繋がれた手は私より少し温かい。どおりで私よりも心が冷たいわけだ。…なんて冗談も、今は全然面白くない。唐沢の私を見つめる目がむず痒いほど優しいのだ。
公園内の舗装された道を外れて、ザクザクと枯れ葉を踏み鳴らして林に入る。辺りには人もいなくて、足元で木漏れ日が優しく揺れていた。進む足は止めずに、私は先導して彼を引っ張った。
「ねぇ、唐沢はなんで私のこと好きになったの?」
振り返って顔を見たら照れそうだから、なるべく景色を見ながらなんてことないように聞いた。繋いだ手がこれ以上熱くならないようにと願っていた。
「気になります?」
「うん」
「言ってもわからないと思うけどね」
やけに勿体ぶるじゃないか…。早く折れろと気持ちを込めて押し黙ると、彼はあっさりこう言った。
「優しいところですよ」
ほんとにわかんないな。自分で言うのも何だけど、私はあまり優しい人ではない。今まで拾ったものより、見捨ててきたものの方が遥かに多いことは、私が一番よくわかっている。正気なのか…と見つめると、彼は無言で受け答えするように見つめ返してくる。
「異論ありますか?」
「いや。唐沢が言う通り、ホントにわかんないなぁと思って」
「俺がわかってるので大丈夫です。さて、そろそろ戻ろうか」
「はーい」
今度は彼が私を引っ張って、林から抜ける。照り返しで暑くなったアスファルトの上を歩いて、駐車場まで戻った。
私と唐沢は、たまたま一緒にいる時間が長かっただけ。彼のことは好きだけど、こういう関係になったのは彼がなろうと言ってくれたからだ。自分からアクションを起こしたことはほとんどなく、私は彼がかけてくれる温情に対していつも受け身だった。これから一緒に住むならもう少しくらい、私も彼に何かしてあげたいけど…。
「段差、気を付けてくださいね」
「うん」
車に戻って、いつもの助手席に腰掛ける。不在の間に熱くなった車内の空気を、クーラーがゴオゴオと音を立てて高速で冷やしていく。
「お茶どうぞ」
いつの間に買っていたのやら、彼が新品のペットボトルの蓋を開けて、こちらに渡してくれた。ミネラルが入っているから、夏場はなるべく麦茶を飲むのがいいと、夏の初めに唐沢が教えてくれた。水ばかり飲んでいる私を気にかけてくれてたのだろう。
「は〜おいしい。ありがとう」
「水分補給こまめにしてくださいね」
一口飲んでから返すと、彼はボトルの蓋を閉めてから真ん中のドリンクホルダーにボトルをスポリと嵌め込んだ。私はもう一度そのボトルを手に取って、蓋を開けてから彼に差し出す。
「唐沢も水分とって」
ボトルの上で手が重なり、彼が満足そうに微笑む。その笑顔を見てなんとなく、さっき彼が言ったことの意味が少しだけ、わかるような気がした。
**
カチャン、カチャン、と食器を片付ける音で目を覚ます。無機質だけどどこか落ち着くその音を聞いていたくて、声をかけずにベッドの中からそっと眺めていた。
小さくてボロい我が家のキッチンに立つ彼の背中を、こんな風に何度も眺めてきた。この光景をあと何回見ることができるのだろう。少しでも動いて音を出せば、彼が気付いて振り返るくらいにこの部屋は狭くて、だからこそ、ずっと近くに居られた気がした。
「お茶飲みますか?」
私が起きたことに早速気付いた彼は、洗い物を終えたばかりなのにまた新しいグラスを戸棚から出して、甲斐甲斐しくお茶を運んでくる。
「お腹空いた?何か食べに行く?」
上半身だけを起こして、冷たいお茶をゆっくり喉に流し込む。体が熱いからか、水分が内部に流れていく感覚がしっかりとわかった。
「体痛くない?一応寝てる間に体拭いて着替えさせたんですけど、シャワー浴びますか?」
「唐沢…」
「ん?」
「…うるさい」
一言そう返せば、彼は満足そうに笑って、まだ中身が残ってるグラスを私の手から取り上げてサイドテーブルに置いた。
「寝癖ついてますよ」
「唐沢のせいだよ」
「え〜?♡」
べたべたと抱きつかれても、気力が無くて、されるがままになる。何でそんなに元気なんだ。私より年取ってるくせに…。体力馬鹿め。もしタイムスリップが出来たなら、学生時代の彼に会ってラグビー部への入部を阻止する。
「ごめんね。機嫌直して?」
「もともと悪くない。煙草臭い。離れて」
「うーん…どうしようかな」
抵抗する隙もなく、ぐいぐい押されてベッドに身体を倒される。目の前の緩みきった顔の男をキッと睨めば、眉間の皺が寄ったところに唇を押し付けられた。
「はぁ…愛しいね?」
「この野郎〜!退け!」
バッと勇ましく突き上げた張り手で正面からビビらせようとするも、呆気なく避けられ、手を繋いで次なる攻撃も封じられる。ぐっ…と奥歯を噛み締める私を、彼はお得意のしたり顔で見下ろした。
「まだ照れてるんですか?もう何十回としてるのに」
「してない!うるさい!黙れ!」
「はいはい、落ち着いて」
洗い物をしたばかりの冷たい手にするりと横腹を撫で上げられて、身体がビクッと過剰に反応してしまう。性根が意地悪な彼は私の反応を窺って、楽しそうににやにや笑う。
「怒った顔も素敵ですね」
「しっ、しねーーーーー!」
「やで〜す、一緒に死んでくださ〜い」
ぎゅう〜っと上から押さえ込む形で抱き締められ、圧倒的武力で制圧される。これは……これは立派な詐欺に当たる行為だ。だって付き合い始めた頃は、こんなに面倒くさい男だなんて知らなかった。腕相撲で私に負けてたのも全部油断させるための演技だったのだ。今はもう、この腕は退けようとしてもビクともしない。
何でも言うこと聞いたり、からかったり、べたべた構ってきたり…こんな風に過剰に大切にされても、喜んでいいのかわからない。いつまでもこの熱量が続くなんて思えないから、嬉しくても冷静になろうとして、突き放すような態度を取ってしまう。唐沢がこんなに私を構うのは、休みの日しか会えないからだろう。毎日顔を合わせていたらきっと当たり前になって、こんなウザい絡み方をすることも、もう…。
そう思ったら急に心細くなって、私を抑え込んで遊んでる彼の背中に手を当てる。
「唐沢…一緒に住むの、楽しみ?」
「それはもう。ずっと望んでましたから」
質問の意図を探るような間は無く、返事は即座に返ってくる。抱き締められて身体がぴたりとくっ付けば、暖かすぎて泣きそうになった。私はこんなに大切にされる程の価値ある人間なんですか。
「私は…唐沢ともっと一緒にいたいからこそ、今の距離感が丁度いいのかもなって思ったりもする」
伝えないままでいるのは不誠実な気がしたから、迷いがあることを素直に話した。心臓をドクドクさせて、手のひらを熱くして、それなりに勇気を出して言ったことなのに、彼は呑気に私の頬をつんつんと突いて遊んでる。
「ちょっと…」
真剣な話してるんですけど…と続く予定だった文句の言葉は、唇を塞いで食べられた。静かな熱さを帯びた瞳は、私を捉えて離さない。指先が、愛でるように頬をゆっくり撫でる。
「愛してます」
普段から彼によくからかわれているせいで、今の真剣な気持ちが嫌でも伝わってきて、返す言葉を失って黙ると…隣の部屋から楽しげなヒップホップが微かに聞こえてきた。まるでムードの欠片も無い、地元の友達最強ソング。つい耳を傾けてしまってにやけが溢れると、唐沢もやれやれと困った風に眉を下げる。何回目だろうか。こうやってヒップホップに大事な話を邪魔されたのは。
「ねぇ、唐沢。もしかしてあれが嫌だから引っ越したいの?」
「違うとは言い難いな…」
「あははっ!むりおもしろすぎる」
じわじわ来ていた笑いの波が、唐沢の辛そうな顔を見て最高潮に達した。身を捩って笑うと、近すぎたせいでゴチンッと額同士がぶつかる。「あ、ごめん…」と謝って、目が合うと彼も頬を緩めた。困ったな…本当に、私のことが好きすぎるみたい。
「正直に言うと…一緒に住む家を買ったのは、貴方を独り占めしたかったからです」
「…邪魔者をお金の力で解決したの?」
「その通り」
イチャついてる最中に、人類皆友達系のラップが爆音で流れ始めた時、唐沢が急に目の色変えて壁をゴン!と殴ったことを思い出す。相当なストレスになっていたのだろう。これは新居の両隣が空き地の可能性があるな。
「そっかぁ…。なんていうか…恋人、結婚、子育て…みたいな一般的な流れに乗ってるのかと思ってた。私がそういうの疎いせいで、いつも唐沢がリードしてくれて…二人のことだから任せきりは良くないなとは思ってたんだけど、上手く伝えられなくてごめんね」
私が頑張って話してるのをわかってくれてるから、彼はすぐには言葉を返さずに、黙って聞いてくれる。
「たまにしか会えないから、こんなに構ってくれるのかなとか…家が狭いから、近くに居られる感じがするのかなとか…。ずっと不安だった。今でもこんな吐きそうなくらい幸せなのに。これが当たり前になったらどうなるんだろうって考えると、怖い」
この幸せはどんな風に壊れるのだろう。どんなに満たされても結局そんなことを考えてしまう。今まで、何かを手に入れた回数と同じくらいに何かを失ってきたから、幸福と不安が同時に襲ってくる。彼の親指が慰めるように目の下を優しく撫でて、言葉にならない気持ちが溢れてマジで泣いてしまった。さっきまで笑ってたのに、我ながら情緒がおかしい。
「キスしていい?」
「サイコパスなの?」
びっくりして涙が引っ込んだ私に、返事を待たず顔を近付けるサイコパス唐沢。慌てて彼の首元に顔を埋めて回避した。私の感情がこんなにも豊かになったのはきっとコイツと長年一緒にいたせいだ。
「話してくれてありがとう。環境が変わるのが嫌なら、隣を追い出して、二人でここに住むのもいいですね」
「いや良くないよ」
「俺は何処だっていいんです。貴方の傍に居られるなら」
呆気に取られてる私の前でハッキリとそう言いきって、彼は安心感を与えるように後頭部を優しく撫でてきた。隣人のためにも、私は確実にこの男を連れて新居に引っ越さなければならなくなった。
「不安にさせてごめんなさい。もっと早く気付いてあげるべきだったね。つい嬉しくて、一人で急いでしまった」
「…別に一緒に住むのが嫌なわけではないよ。唐沢が私にべたべた構いすぎるから、一緒に住んで、慣れた時に…いわゆる倦怠期がきたら、寂しいなっていう不安で…」
「え?そんな話でした?」
「うるさい。バカだから上手く言えないの」
腹いせに背中を叩くと、彼は何故かふふっと笑い声をもらした。ナメやがって…。この野郎。
「そんなに不安になるくらい、俺に構われるのが好きですか?」
「うるさい…」
「俺のこと愛してしまったね?」
「……」
「ちがう?」
「そうだよ〜〜!もう!なんか文句ある!?お互い様のくせに!!」
彼に言われること全部が悔しいことに的を射ており、恥ずかしくて、私は抱き締められた腕の中で暴れることしかできなくなった。顔を見なくてもわかる。嬉しそうに笑ってる。
「何回でも聞きたいな。ねぇ、俺のことどう思ってますか?」
「ウザい!」
「え?愛してる?…俺もだよ」
「もう帰ってよ〜…」
トンっと胸板を押して彼から身体を剥がす。なんでシラフがこんなに調子に乗れるんだ。どこも絡め取られないように、ベッドの上に体育座りして縮こまって心を閉ざす。
「ごめんね。ご飯作るから一緒に食べましょう?」
「食べたら帰ってくれる?」
「大丈夫。着替えは車に積んでるよ」
「帰る気無さすぎる…」
手を差し出されてしまったら、無視することもできなくてしぶしぶ手を重ねる。
「立てる?無理はしないで」
「大丈夫。唐沢が優しかったから」
「そう。良かった。ならこの後もいけそうだね」
「黙ってください」
あながち冗談で言ってるわけでもなさそうだ。明日仕事のくせに、元気な奴め…。
とりあえず手を引かれて、二人でキッチンに並ぶ。冷蔵庫の中身を確認して、献立のメニューを組み立てていく。いつも通り、いつもの流れ。壁の向こうでヒップホップはまだ微かに鳴っていた。今はそれさえも幸せな日常の一部となっていた。うるさい隣人。夏が終わるまでの間、私達をどうぞよろしく。
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