もちこ
2022-07-12 19:03:11
2952文字
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キ〜〜ッス!【奈良坂】

恋人を華麗に連れ帰る奈良坂。

「綺麗な名前」

 私が何気なく放ったその一言は、今も彼の中で反響しているそうだ。言ったことすら忘れてたようなたった一瞬の率直な感想を、彼は大切な思い出のように語った。

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 予告を見ただけで泣きそうになった映画を観た帰り道、感想を言おうとして涙が溢れた私を見かねて、奈良坂はハンカチを貸してくれた。何も考えずに目尻を拭い、ラルフローレンのハンカチにアイシャドウを付けた私は正真正銘のポンコツだった。

「奈良坂ぁごめん……
「っふふっあぁ、気にするな。もっと付けてもいいから」
「いいわけないよ

 彼は口元を手で覆ってから顔を逸らして、笑っているのを誤魔化しているつもりなのかもしれないけど、笑い声が溢れている。

「自分でもこんなになると思わなくて、恥ずかしい今日はもう解散にしよう?」
「後でデザート食べたいからポップコーン我慢するって言ってたのに?」
「今おしゃカフェに乗り込める面構えじゃないんだよてか顔覗き込まないで」

 めちゃくちゃになった情緒のせいでさらにワガママを言って彼を振り回す。流石にこの女マズいなと自覚する言動の後でも、彼は嫌な顔ひとつせず、むしろご機嫌そうに手を握ってきた。

「それなら、俺の家来るか」
「いやおしゃカフェ行けないのに奈良坂家行けるワケ〜!」
「気にするなって」

 反論をさらりと流して、奈良坂は私の手を引いて歩いた。結局私は全ての装備が剥がれ落ちた状態で奈良坂家にお邪魔する展開となってしまう。対して彼には道中シュークリームを買う余裕まで備わっていた。なんと華麗な男だろう。

「ミルクティーで良かったか?」
「うん、ありがとう」

 たとえ泥水でもいいよアンタの入れたものなら。そんなことを考えながら彼の部屋の端っこで小さくなる。
 奈良坂は暖かいミルクティーが入った北欧風のマグカップを二つ、ローテーブルにコトリと置いた。会話の糸口を探していた私にとってそれは好都合だったけど、「この食器可愛い、どこで買ったの?」の、「こ」の文字しか発することができなかった。何故なら彼が、肩が触れるような距離で隣に座ってきたから。

「な、奈良坂さま〜本日はお日柄もよく
「うん」
シュークリーム、食べる?」
「まだ食べない」
「じ、じゃあいつ食べるの」

 状況を作っても「今でしょ」とは答えてくれない奈良坂先生はついに私の頬に手を添えて、泳ぐ目を捉えた。手のひらが少しだけしっとりしていて、こんな綺麗な人でも手汗をかくんだと思った。

ち、近いよ〜奈良坂氏

 耐えきれずに目を閉じて俯き、奈良坂の肩に額を引っ付ける。彼の手がすっと耳の後ろを撫でて、やがて腰の辺りに回る。空気の抜けた風船みたいな私を、彼は優しく抱き締めて捕らえた。

「可愛い」
「まってまって、奈良坂、」
「透」
「奈良坂透〜!」
「っふ、ふふっはぁほんとに可愛い」

 なんなのもう、甘すぎるよこの人……農家も自慢するほどの糖度だ。

「こっち向いて」
「むちゃくちゃ顔熱いからむり
「俺も」
「まじ?」

 奈良坂の照れた姿を見たいという欲望に動かされて素早く顔を上げたのに、彼の顔色は普段となにひとつ変わっていなかった。
 騙したな!と私がうるさく抗議するより早く、彼の指先が顎を掬い上げるように触れてくる。こんなの韓国ドラマでしか見たことない。リアル顎クイ。

「俺の名前は?」
「ならさかとおる
「これは下の名前で呼んでってアピールだ」
「なにそれかわい

 たまらなく愛おしい気持ちが溢れてしまいそうで蓋をするようにぎゅっと瞼を閉じた。それを合図と勘違いした奈良坂が顔を近付けたのか、唇に柔らかい感触。あまりに驚いて座ったまま腰を抜かしてしまい、後ろに倒れると追いかけるように彼の身体が覆いかぶさってくる。

「ちょ、タンマんむっ」

 制止は聞き入れられず、床についた手の甲に彼の手が重なる。好き好きオーラの直浴びでいっぱいいっぱいで、感情が上手く追いつかない。時間が早く過ぎてほしいような、ずっとこのままがいいような、変な気持ちになる。ていうかキス長くない?確実にコマーシャル二本分くらいの時が経っている。しかもこの人、ほんとに物凄く良い香りがする。これがもし柔軟剤のCMならば背景に花畑が広がっていたことだろう。いや、こんなの放送できるわけないけど。
 とにかく思考をめちゃくちゃにして唇に感じる温度とか感触から意識を逸らさないと、恥ずかし過ぎて叫びそうだった。
 上唇をちゅっと軽く吸われてもう死にそうになったところで、やっと唇が離された。恐る恐る目を開けると、組み敷くような体勢でこちらを見下ろす顔面国宝と目が合う。

「しつこく迫るけど、せめて二人でいる時は名前で呼んでほしい」
「だっ、だって

 彼からの珍しいお願いを受けて、無意識に目が泳ぐ。
タイミングをずっと逃していたというか、夜景の見えるレストランで初めて呼びたかったとかあるじゃん、誰にだってそういうショボいこだわり。

「俺は今でも覚えてるよ」
「はしゃぎすぎて奈良坂の体育館シューズ蹴飛ばして屋根に上げちゃったこと?」
「まぁそれも忘れないけど」

 呆れたように小さな息をついてから、「綺麗な名前って言ってくれただろ」それだけ言うと、彼もちょっと恥ずかしそうに目を泳がせた。
 綺麗なんて言われ慣れてるはずなのに。どうしてそんなに特別扱いしてくれるんだろう。ていうか奈良坂様ともあろうお人がこんな顔しちゃうくらい、私に下の名前で呼ばれたいなんて

「ワタシ、トオル、ダイシュキ」
「真面目にやれ」

 手でハートマークを作って上に向けると、コツンと世界一穏やかなチョップが落ちてくる。彼はゆるやかに笑っていた。

「俺も大好きだよ」
「透〜〜〜!」

 愛してる〜〜〜!としつこく叫びだしそうな私の唇を彼がまた優しく塞ぐ。可愛がるように唇をついばまれて、頭の中がどうにかなりそうだ。このままでは脳死しちゃう!別のことを考えよう。ちびまる子ちゃんのオープニングを思い出せ!
脳内に住む謎の動物たちが総動員でぴーひゃらぴーひゃら、と騒がしく踊り出したところで、やっぱり耐えきれずに笑みが溢れる。

「ん、どうした?」

 私が薄く目を開くと、彼が少しだけ顔を離して、何で笑ってるのか教えて?という感じに見つめられる。

「透大好きラブ超幸せ」

 恥ずかしくて、ふざけたような言葉でしか気持ちを伝えられない。でも彼は優しく笑ってくれた。たまに見せてくれる、こんな気の抜けた笑顔がたまらなく好きだ。
 私はずっと見ていたいのに、彼はあまり見られたくないのか、首元に頭を摺り寄せてくる。懐いてくれた猫みたい。

シュークリーム、食べるか」
「うーん、まだいいや。今は透に構ってるから忙しいし」
そうだな」

 奈良坂透とのヘブンタイム。二人で地べたに寝転んで、ずっとこうしていたいなぁと思いながら指を絡めて手を繋いだ。会話がないことが今は逆に心地よかった。
 ミルクティーの甘い湯気が、しずかに空気へ溶けていく。