いを
2024-12-31 16:48:50
2866文字
Public モイラと鼎と糸車
 

いとおしい空腹


・恭介さん【nnonno1217580】
お借りしています。

 鉄製の鍋はいつの間にかあったもので、先生がたぶん買ったものだと思うが――いつからあるのかは分からない。恭介の手元の鉄鍋には、黒豆がぎっしりと詰まっていた。
 昨日、黒豆を水で浸して――〝戻す〟という工程らしい――、今日水から上げ、下ゆでをしながら、水とざらめで甘い汁をつくっている。恭介の手はひっきりなしに動いているわけではなく、ほとんど必要最低限だけのようだった。料理ができない了には、それが不思議に思えた。視線を下げて近所で買った餅を見つめた。この餅は、おしるこにすると言う。
 黒豆をふくむ、祝肴と呼ばれる数の子と田作りはすでに用意してある。ふたりきりだからお重のおせちのように、たくさん用意しない。つくる恭介も大変だろう。
 水とざらめが溶け合う、くつくつという音と甘い匂いがしてくる。鍋を見ると甘い汁が出来上がっていた。
 了がぼうっとしている間に、男は洗い場で黒豆を浸していた煮汁を流していた。湯気が天井まで上がる。黒豆の、ふくふくした匂いも感じた。今度は鍋に水をたくさん入れて、また火をつける。鍋の外側についた水気が一気に蒸発していく。
「手間だな」
 呟くと、恭介はちいさく笑って「ええ」と言った。
「それでも作り置きしておけますし、黒豆は優秀ですよ」
「そうか……
 なにかしようか、と言うと彼は少し考えて餅に視線を移した。
「餅を焼いて頂けますか。油を少し塗ってから」
「油を塗るのか」
「そうすると焦げないんですよ」
「ふうん……
 しゃもじで薄く油を塗り、フライパンにのせて火をつける。火の付け方くらいは知っていたようだ。自分でも意外に思えた。
 となりで煮ている黒豆が入った鍋からは、ふつふつ白い泡が上がっている。それを恭介はおたまですくい、深い器に流し入れていた。フライパンの上にのせた餅よっつはうっすら茶色くなってきた。
「なあ、もう裏返していいのか」
「お願いします」
 箸で慎重に裏返そうとするが、油で滑ってうまくできない。格闘して2分ほどでようやく全て裏返せた。餅をじっと見ていると、だんだん自分も餅のような存在になっていくような気がして、慌てて顔を上げた。
 そのまま横にいる恭介を見ると、甘い汁に黒豆を入れるところだった。その匂いと黒豆が馴染んでいくように見えた。すんと鼻を鳴らす。あたたかい湯気と甘い匂いが一緒になってあたりに香った。
 先ほどから同じ豆なのに、違う匂いがしてくる。料理とはそういうものなのだろうか。フライパンを再度見下ろすと、ぷっくり膨らんでいた。皿に移せばもうすることがなくなった。着物を水浸しにさせながらフライパンを洗って仕舞う。
 黒豆を煮ている鍋は、もう火が止まっていた。
「できたのか?」
「今はあら熱を取っているところです。……味見してみましょうか」
 菜箸でちいさな器に取り分けてもらい、摘まんでみる。とても黒くてつやつやしていて、甘くてちょうどいい硬さで、ふわっと黒豆の匂いが鼻に抜けた。
「うまい」
「もう少し煮詰めて、醤油を入れてから完成です」
「しょうゆ……
「醤油を入れると味が締るんです」
 ふうんとまた相槌をうち、少しずつ煮立ちはじめた澄んだ黒い汁を見る。透明な黒だ。綺麗だと素直に思った。
「この汁は飲まないのか?」
「飲むものではありませんから……
 そういえばそうか、と頷き、皿を持ってくる。たくさん煮てくれたので、三が日どころか二週間くらいもちそうだ。
 先につくっておいた数の子と田作りも盛り付けて、机に並べる。そこでようやく自分が買ってきたものを思い出した。
「栗きんとん、買ってきたの忘れてた」
 冷蔵庫から出して祝肴とはべつに皿に載せる。黒豆を煮ながらおしるこで使うこしあんも作っていた恭介は、「おしるこにも入れてもいいですか」と尋ねてきた。うなずくと菜箸で器の中に栗きんとんと了が焼いた餅を入れた。栗きんとんの黄色が鮮やかだ。了がつくったわけではないのに、どこか誇らしい気持ちになる。
 時計を見ると7時をまわっていた。日本酒の瓶を一本と、瓶ビールも一瓶。日本酒は一升あるので一瓶で十分だ。机の真ん中には特上の寿司が置かれている。それぞれ二巻ずつ。まぐろの漬けは健康な肉のような色で、つやりと照っているように見えた。
 椅子に座り日本酒を開け、コップに注ぐ。ずいと恭介に差し出すと、ありがとうございますといい、受け取った。
 そして大晦日だというのに、なんの挨拶もなしに食べ始める。こういう〝形式〟としての挨拶が苦手だと恭介は分かってくれているのかもしれない。了自身も彼が言葉をもとめることをしなかったので、安心した。
 黒豆がおいしかったので、先ほどからずっと食べている気がする。食べても食べても全く減らないのが楽しい。一粒ずつ食べているからだろうか。
「お寿司、召し上がらないんですか?」
「ん」
 ごくんと黒豆を飲みこんで、箸で寿司を持ち上げる。ずっしりと重たい。ネタも厚い。白く輝いているそれはイカだろうか。しょうゆを少しつけて食べるとキュウ、と音がした。イカは噛みしめていると味がじわりと滲んでくるから好きだ。イカの次はまた黒豆を食べた。酒もたまに飲んで、恭介とぽつぽつ話をした。今年のこと、来年のこと。
……恭さん、あの」
 ふたりして、ふと箸を止めた。
「その、……ありがとう」
「こちらこそ」
 目を細めて優しい顔で笑ってくれたので、ほっとする。そのうち落ち着かない気持ちになって、数の子と田作りにも手をつけた。
「黒豆もだけど、数の子と田作りも、うまいな」
「そうですね」
「来年は少しくらい、俺も料理できたらいいんだけど。……その前に、売れるの書かないとな」
 彼はやわらかな声で「期待しています」と囁いた。
「あんたが会社で胸張れるようなものを、」
 ちゃんと、書きたい。尻すぼみになってしまったが、彼は聞き遂げてくれたようだった。
「今日は素直でいらっしゃる」
……
 揶揄われたように感じて、くちびるをへの字に曲げる。それを見てくすりと笑った男は、「明日はふろふき大根を作りましょう」と言った。そんなに腹が減ったように見えたのだろうか。だがふろふき大根は美味いので、うろうろと視線を泳がしたあと一度、頷いた。

 そのあと豆炭を入れた炬燵に入り、久しぶりにラジオをつけた。おそらく歌であろうなにかが雑音混じりに聞こえてくる。
 夕飯時に飲みきれなかった酒を炬燵の上にのせて、ちびちびと飲みながら話をした。
 そのうち眠くなってきて、ほおを天板にくっつけながら外を眺める。いつの間にかラジオから何も聞こえなくなってきたが、沈黙も心地が良い。
 遠くで除夜の鐘が鳴っている。くちびるの中でもごもごとなにかを呟いた気がしたが、自分でも何を伝えたのか分からない。それでも恭介はそっとほほえんだので、悪いことは言わなかったのだろう。そう思うとまた安心して、ほんの少しの間、目を閉じていた。