小さな灯り取りの窓から見える蒼い月が今宵はやけに冴えている。故郷と違い、一年を通して気温の変化があまり感じられないガルグ=マク大修道院であるが、今夜は妙に肌寒く感じられてフェリクスは自らの両腕を無意識に擦る。もうすぐ、大樹の節は終わりを迎え、新しい節が始まる。新しい時代と共に。
フェリクスは、片付けられた小さな文机の上で手紙を燃やしていた。故郷の母からの手紙だった。手紙一枚を置いて出奔してきた己の身の上を改めて思い返してみたが、今更感傷に苛まれる事など別段無く、我ながらなんと非情な男だろうと思う。それでも、故郷に一人とり残された母からの手紙を見れば心に一条の影が落ちる。だから、フェリクスはこの手紙を燃やすのだ。未練を、悔恨を、希望を。全て燃やす。明日の朝、日が昇る前に自分はここを発たなければならない。誰にも気付かれずにそっと……まぁどうせ誰も自分一人が消えたことなど気付きもしないだろうが。
「ここに居たのね」
背中から掛けられた言葉にフェリクスは手を止めた。
「何をしているの」
振り返ると部屋の戸口に意外な人物が立っていた。たった一人で、共も付けずに。
「手紙を燃やしている」
「そう」
「…………」
「…………」
それきり会話らしい会話には発展せず、小さな部屋の中に気まずい沈黙が落ちた。
「貴方、これからどこへ行くつもり」
エーデルガルトの問いにフェリクスは瞼を二度瞬かせた。彼女の質問の意図を計りかね、フェリクスは押し黙った。
「貴方さえ良ければ、新しい帝国軍の将として迎え入れるわ。貴方の能力を私なら正しく評価できる」
「……フ」
フェリクスは殆ど笑っていた。そう言えばこの数節、笑った事など殆ど無かったな、と思い立ち、やけに冷静な自分が居ることに驚く。当のエーデルガルトはにこりともせず相変わらず鉄面皮のまま、フェリクスの言葉を待っている。
「俺は戦場に出る。そこが俺の居場所だからな」
そこで初めてエーデルガルトの鉄面皮が崩た。ほんの少し、だが。
「戦争は終わったのよ。新しい時代が来る。剣を交える戦争など無くなり、代わりに筆と紙で競い合うようになる」
「……本気でそう思っているのか」
「ええ、そうよ」
だとしたら、皇帝は何も分かっていない。大戦とまでは言わないまでも、小競り合いは必ず起こる。”敗戦国”出身者に対する侮蔑の視線。王と故郷を捨て、帝国軍の一将となって戦ったフェリクスでさえそれを肌で感じていたのだから、ファーガスやレスターの名も無き民の心情は如何ばかりかと思う。
「フン、言いたい事はそれだけか。俺はあんたの目指す世界に興味など無い。今より更に高みを目指す。それだけだ」
「……そう。残念ね」
少しも残念そうに見えない表情でそう言い放つと、エーデルガルトはくるりと踵を返した。フェリクスはその背中をぼんやりと見送った。多分、もう二度とその背中を見ることなど無いのだろうな、と思いながら。
「最後に一つ聞かせて」
来たときと同じ場所に立ち止まり、皇帝が振り返った。
「ディミトリの首を持ち去ったのは貴方でしょう?」
殆ど確信を持って女はフェリクスに問うていた。
ディミトリの首。
『この者は恐れ多くも偉大なるアドラステア皇帝に刃を向けた逆賊であり大罪人である』
その布令と共に帝都の広場にディミトリは梟首された。皇帝に歯向かった罪人として見せしめにされたのだ。だが、その数日後、ディミトリの首は何者かによって持ち去られたという。
そしてフェリクスはここ数日の己の行動をはっきりと覚えている。フェリクスはそこで初めて女と向かい合い、その双眸をじっと見据えた。
「そうだ。俺が持ち去った」
自分でも驚くほどフェリクスはあっさりと認めてみせた。
「そう……やはり貴方だったのね」
「どうする。俺を捕縛して罰するか」
今更逃げも隠れもするつもりなど無く、フェリクスが自虐的にそう言うと、エーデルガルトは頭を振って否定した。
「そんな無意味な事はしない。貴方はこの軍の功労者よ、評価こそすれ貴方を罰する理由など無いわ」
「ほう、それは残念なことだ」
強ち、虚勢でもなかった。
フェリクスとしては処刑でも拷問でも何でも良かったのだが、皇帝は罰を与える気はないようだ。
「何故持ち去ったの? ディミトリを討ったのは他でもない、貴方よ」
「何故? 何故……か」
女の言葉にフェリクスは封じ込めた記憶の蓋がじわじわと口を開くのを感じていた。無意識に右の掌を見つめ、握りしめた。
頬を打つ冷たい雨。タルティーン平原の草と泥に混じった濃い血のにおい。切り裂いた肉の生々しい感触。急速に冷えていく体温がただ恐ろしくて、自分はディミトリの身体を抱き締めただひたすら叫んでいた。
死ぬな、と何度も。
自ら殺しておきながら何故自分はあんな事を叫んだのだろう。すべてが矛盾している。けれど、理由は分かっていた。
「愛しているからだ」
それ以外の理由はなかった。単純明快な理論だ。フェリクスはもう一度エーデルガルトを見つめ、言い放った。
「あいつを愛していた」
「……そう」
皇帝はやはり驚かなかった。全て最初から知っていたかのように眉ひとつ動かさず、泰然としていた。
「愛なんて……人を殺す理由にはなっても人を殺さない理由にはならないわね」
「……」
フェリクスは小さく息を飲んだ。
この瞬間、フェリクスとエーデルガルトは互いに確かに共鳴した。相互理解や、共感ではない次の瞬間には消えてしまうような一瞬の、共鳴。終ぞ軍や級友達との間に何の関係も築いてこなかった自分が、最後の最後に感じた共鳴。
「さようなら、フェリクス=ユーゴ=フラルダリウス。もう会うこともないでしょう」
それきり、エーデルガルトは振り返る事もなく部屋を去った。燃えつきた手紙の煙のにおいとフェリクスだけが小さな部屋に残された。もう誰も居ない戸口を見つめたまま、フェリクスは呟いた。”フラルダリウス”の名前はもう捨てた、これから自分はただの”フェリクス”だ、と……。
何度目かの春が来ていた。五度目を過ぎたところでフェリクスは数を数えるのを止めていたから、あの戦争からどれほどの月日が過ぎたのかはっきりとは覚えていない。
フェリクスは膝を折って摘んだ花を手向けた。春になると小さな青い花弁を開かせるその花の名前をフェリクスは知らない。
帝国領内にある鄙びた村の墓地だった。その墓地から少し外れた小高い丘にひっそりと”それ”はあった。
名前も何も無い、一振りの剣が墓標だ。長年の風雨に晒され錆びきったその剣は、嘗てフェリクスが腰に下げていた二本の剣の内の一つである。
墓前に片膝を折ったまま、フェリクスはここに辿り着くまでの数年間を思った。旧ファーガス、旧レスター、そして帝国領内でも各地で小競り合いは続いており、その戦場で相変わらずフェリクスは剣を振るい続けている。戦場から戦場へと渡り歩き、己を殺してくれるほど強いものが現れるのを期待してそんな生活をもう何年も何年も……。
フェリクスは胸元から小さな首飾りを取り出すとじっと見つめた。首飾りの中には金色の髪の束が収められている。何故、あの日自分は母の手紙と一緒にこれを燃やさなかったのだろう。最早ただの未練でしかないのに。何故。
山に籠もり三節、誰とも言葉を交わさない日々が続いても平気だった。当然、友と呼べるような存在や特別な女などが居るはずも無く、まるで世捨て人のような生活を送っている。死んでいないから生きているだけ……。それが今の自分だ。それでも、戦場に出れば血が滾った。人を斬る感触に悦びのようなものを覚えている。自分はいつから狂っているのだろう。何かに取り憑かれていたあの男のことを微塵も嗤うことなどできない。
首飾りを胸元に仕舞おうとして、フェリクスは思わず振り返った。聞いたことのない音が背後から聞こえてきたからだ。かつ、かつ、と何かを打つような、規則的に近づいてくる音の主にフェリクスは息を飲んだ。
男は白い杖を付きながら、覚束ない足取りでこちらに向かってくる。だが、フェリクスを驚かせたのはそれではない。
「……誰かいるのですか」
遂に真横にならんだ男に、フェリクスは言葉を失った。
「すみません、この花を、そちらに」
青年と呼べるであろう若者だった。全身を黒い服で包んでいるのは死者に祈る者だからだ。
「あの、聞いておられますか」
戸惑うような青年の言葉にフェリクスはやっと我に返った。在らぬ方向に差し出された花束をフェリクスは無言で受け取って墓前に置いた。耳元で鼓動が激しく打っている。渇ききった全身に血潮が熱を取り戻し再び巡り出すのを感じていた。
「ありがとうございます」
表情の少ない青年の横顔が記憶の中の男と重なってフェリクスは柄にも無く動揺した。そんなはずはない。まさかディミトリには子供が居たのか? いやそうだとしても”計算”が合わない。つまりこの人物はディミトリとは無縁の、ただの他人の空似というやつだ。瞬時にフェリクスはそう結論付けた。
「……眼が見えないのか」
あれこれと考え、ようやく出た言葉に、青年は向きを変えて頷いた。
「ええ。戦争で……」
それきり青年は口を閉ざす。これ以上聞かれたくはないのだろう。戦争で傷を負ったのは将兵ばかりではない。子供も親を失い、傷を負った。そしてその責任は戦争を始めたものにこそあり、言い替えれば自ら進んで帝国軍に参加した自分はこの青年から光を奪った張本人であると言ってよかった。
「……すまなかった」
「いえ、気にしていませんから」
きっとフェリクスの謝罪は意図とは違う意味で捉えられたに違いない。明るく笑う青年の貌をフェリクスは穴が空くほど見つめてから、改めてこの青年はディミトリではない、と実感した。
記憶の中のディミトリはこんな風に笑わなかった。いつもどこか悲しそうに笑っていた。何故あんなに悲しそうだったのか、フェリクスには終ぞ教えてはくれなかったが……。
「ご家族の方ですか」
青年の何気ない一言にフェリクスは戸惑った。
「いや……」
「では、大切な方だったのですね」
大切、そう一言で言ってしまえればどれほど楽だろう。
家族でも恋人でもなく今や友とも呼べぬ存在を何と例えれば良いのか分からない。
「俺が殺した。……愛していた」
フェリクスの一言に、青年は動揺したのか白杖をその掌から取り落とした。咄嗟にしゃがもうとするのを制して、フェリクスは代わりに拾って手に握らせてやった。”ありがとう”と言って青年はぎこちなく笑った。
「お前はこれからもここで墓守をして生きていくのか」
「それが私の仕事ですから」
「そうか。……ならば最後に一つお前に頼みたい」
「なんでしょう」
握った相手の掌にフェリクスは首飾りを握らせ、その上から己の掌を重ねた。
「俺が死んだらこいつを一緒に埋めてくれ」
「え……」
驚きに小さく空いた薄い唇に口付けたい衝動を堪え、フェリクスはもう一度言った。
「一緒に埋めてくれ、頼む」
「……ええ、約束しましょう」
その一言を聞いてフェリクスは頷いて返した。青年は掌の首飾りを見下ろしている。彼にはそれは、どう”映って”いるのだろう。
「俺はそろそろ行く」
最早ここに長居は無用だ。
青年の横を通り過ぎてから、フェリクスは一度振り返った。春の午後の穏やかな日差しの中に青年は光を湛え佇んでいる。暖かい日差しと土のにおいにフェリクスはふと、故郷の春を思い出した。厳しい冬を越え、故郷の雪はもう溶けただろうか、城の子馬は産まれただろうか、母は元気でいるだろうか、シルヴァンやイングリット、彼らの墓はどこだろうか……器から溢れ出した水のように様々な思いが胸中に込み上げてくるのを必死に堪え、フェリクスは俯いて唇を噛み締めた。
自分は死ぬまでにあとどれくらい人を殺すのだろう。
どれくらい殺せば皆の元へ行けるのだろう。
誰か、教えてくれ。
誰か。
誰か。
どうか……。
了
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