雑(→)←高 本編四年後、雑40歳で引退を決めた後の話で、いろんな捏造をご了承ください
ずっとすれ違い続けてきた雑と高 高には自分を忘れて違う道を歩いてほしいと思う雑

 あの忍術学園の翁も、こうした静かな生活をしているのだろうか。いや、彼は好々爺のように見せてかなり物好きで好奇心も旺盛と聞く。去年忍犬を伴ってまたいろいろな場所へ繰り出して暴れていたというのだから、よっぽど自分の方が老け込んでしまったのだと雑渡は思った。
 もみじと銀杏の乱れる居宅を選んだ。秘密裏に家を決めてみんなに引退を説明すると、秘密だったはずなのになんとなく知れ渡っていて、驚くと同時に部下たちがまだ自分に興味を持ってくれているのだと認識を改めた。
「そんなに? 私がどこに住んでいても構わないだろう」
「いえ、まだなにかとご意見をいただく場面もありますし……
 諸泉にそう言われ、後ろ頭をかいた。今からそんなのでどうするのと言いたかったが、組頭になった最初だからこそ、判断を迷う際は正確な意見が必要という気持ちもわかる。諸泉に甘いのかもしれないが、こうして元組頭に堂々と目通りしてくることを許されている事実の蔓延まんえいはつまり、他の部下たちも相当諸泉の行動を規制せずゆるくしているのだろう。
「お邪魔する際は必ずご連絡致します」
……わかったよ」
 ふと雑渡は視線を泳がせた。
「連絡係は押都あたりかな」
「はい」
 そうか、と告げて、現組頭の若い額を眺めた。四年、貫禄も出始めたがまだつるりと丸く、瑞々しい肌を持つ。
 あれは、どうだっただろうか。雑渡は思いを巡らせた。諸泉が組頭を継いでから半年以上、会えていない男がいる。自分は四十になり、相手は四年経ってもまだ二十代の内側だ。諸泉の瑞々みずみずしさと同じくらいの光はあった。あったが、そこにさらに悠然とした余裕も生まれてきていた。
(私を置いていけるほどに、なったか)
 新芽が色づき、銀杏の葉がまだ緑色に揺れる中、雑渡は去っていく諸泉を見送りながら考える。諸泉の若い背中はきっと、支えられながらより大きく育つ。それを支えるのはあの男だ。山本が雑渡の引退と共に「自分もそろそろだと思ってましたので」と隠居を決めたせいで、すっかり隊も、新しい組頭も、タソガレドキの忍び衆というものも、あの男──高坂の両肩に重くぶら下がった。姿勢が良く、涼やかな出立ちの男は凛としてそれを受けてくれたが、それを命じて以来雑渡は、高坂と糸が切れたように交流が途絶えた。
 高坂の雑渡への忠義は、雑渡の命令を守るということにつながる。それがタソガレドキの最良と知り、しかし雑渡が迷えば自分の意見も聞かせてくれる。あれはとても良い、とても出来の良い部下だ。きっと速やかに事が運ぶよう、今も注力してくれている。
(そしてそのまま、陣左は私を忘れる)
 それが、雑渡の望みだった。

 夏の、銀杏の葉の彩りと共に季節を感じる。家の近くではなく、少し離れた位置に木がふんだんにあるのは、実が落ちてきたときの青臭さを遠ざけるためでもあるが、住まいを覆い隠すための策でもあった。屋根の色も渋柿のような落ち着きをもたせ、いかにも農家の古ぼけた家のように、しかし天井裏は連絡係が通れるように吹き抜けてある。もみじが紅葉した折は、きっと色の対比がきれいな風景を作るだろう。秋が楽しみだと雑渡は生まれて初めて思った。
 押都が、諸泉に言われてやってくる頻度は意外と少なかった。頭を抱えるほどの難題でもなく、左右どちらかを決めかねている諸泉の背を押す程度、雑渡から伝える。その先を決めていくのは諸泉をはじめ、現在を生きる忍びたちであらねばならない。雑渡は茶をすすりながら格好つけてそう考えているが、実のところ少し暇であった。
 暇であったので、あらゆる家事と炊事に凝り出した。以前までは身の回りの世話をしてくれた者がいる。しかしそれらを全て雑渡は断って、残りの人生は一人で朽ちていこうと決めた。朽ちるという物言いは悲観的な意味合いではなく、現実的な話だ。自分の炎でただれた皮膚は、すでにひしひしと細胞の老いを感じ始めている。雑渡はそれが嫌ではなく、むしろ肯定的に捉えていた。当たりまえの変化である。諸泉あたりは親子でそのことを気にしそうだが──もしもあの親子のせいかと聞かれれば雑渡は全くけろりとして、そういう意味じゃないと手で制するつもりだ。
 しかし、細胞の老いとは言ったが新しいことを覚えるのはなかなか楽しかった。飯を焦がすこともある。風呂を沸かしすぎて溢れることもある。掃除に気をやりすぎて窓を開け放ち、虫の飛来を許したこともある。そのたびに一つ一つを学んで、雑渡は器用にこなしつつ失敗をむしろ笑って受け入れた。
 そのたび、頭の片隅にある高坂の、てきぱきと自分の世話を焼いていた姿がぽつり、ぽつりと浮かぶ。
 今日、明日食べる分の雑炊を作りながら味を確かめる間、雑渡はこの仕草も、あの味付けも、高坂の真似事だとふと気がついた。
 ──お疲れですか、薄味にしましょうか。
 ──具は細かくしますが、咀嚼感そしゃくかんはあった方がいいでしょう。
 お前の好みで作ればいいよと伝えていても、結局雑渡の当時の体に一番合ったものを差し出す高坂は、まさしく雑渡の全てを理解していた人物と言える。それが組頭である自分への心酔によるかと聞かれたら、雑渡は顎に手を当て少し違うと意見できる。
(息をしているのと変わらなかったのだろう)
 息をしていた。高坂は雑渡のそばで生き、雑渡に尽くすことで呼吸を繰り返していた。肺へ酸素を送り、血液を潤して、雑渡の話を聞き、雑渡も話をした。高坂といた時間はそんな、自然の中にあった。
 馴染みのある忍術学園の子どもたちや、卒業した善法寺には、組頭の代替わりを説明した。「だから私はあまり表舞台に立たなくなるけれど、忘れないでね」と冗談を込めた。
 しかし高坂にだけは、忘れてくれと望んでいる。最も忠信熱く、そばにいた男には、だ。自分のそんな天邪鬼な性格は好きだし変えられない。
 その夜、雑渡は高坂の夢を見た。もう顔の輪郭が朧げだった。
(やめてくれ、私は陣左を忘れたくないんだよ)
 夢の中の、記憶力の悪い自分を嘲笑った。

 黄金色の道ができた。いよいよ秋の終わりが訪れている。今年は暖かい日が続いてきっと紅葉の色づきはいまいちであろうと予測されたのに反し、銀杏ももみじも鮮やかであった。そしてふくよかなほどたっぷりとあった葉の半数は地面に落ち、雑渡の家までの道がうつくしく輝くようだった。
 いよいよ押都も、そう頻繁に来なくなった。その代わり、来るときは決まって重い話であった。諸泉が悩み、考える内容が複雑化してきた表れである。よくやっていると手を打ち、雑渡も真剣にその報告に向き合った。
 押都への言伝を終え、今回の連絡はそれで終わりかに見えた。しかし、今夜に限って押都は去らない。
「どうした」
「いえ……その」
 煮え切らない態度は珍しい。その面の下で表情は一般にはわからないかもしれないが、長い付き合いの雑渡にはよくわかる。
「陣左になにかあった?」
 押し黙る彼に、雑渡は喉奥から皮肉めいた笑いを返した。
「言いづらいことかな」
……今日、高坂は」
「うん」
「鍛錬中に、目を」
 板間の上にあった自分の膝が、ほんのわずかに動いた。
……潰した?」
「いえ、そこまでは。ただ回復が遅そうで」
「陣左に見合う腕になってきた部下を、ちゃんと育てられてるということかな、それとも」
 雑渡は一呼吸置いて、立ち上がる。いつもなら天井を見ずに押都と話すが、今回は顔を上げて彼を真正面から捉えた。
「集中力が欠けたせいかな……どちらなのかな、陣左」
 押都の面がうろたえて揺れた。自分の膝が動揺で動いたことを一旦棚に上げ、雑渡は「やはり、鍛錬不足かな」と冷たく言った。
……申し訳、ありません」
 声はまだ押都のままだ。しかし面を静かに外す音がする。その顔は、雑渡のそばにあった二十代前半のころよりやや細くなり、しかし決して痩せこけたわけではない。切れ長の目先には医療班による手当の跡がある。そのせいで左目だけが、半分ほど覆われて見えづらそうにしていた。それでも、雑渡を途中までは押都と思わせ、ここへ忍ぶ際もなんら違和感がなく入り込んだ。高坂の腕は確実に上達している──雑渡といたころより、ずっとだ。
……意地の悪いことを言った。陣左、久しぶりだね」
「はい、雑渡様もお変わりなく」
「強くなったんだね、タソガレドキの忍軍は」
「鍛錬のやり方が良いのでしょう。これは私の不覚です」
 あくまで自分を律する言い方に、雑渡は肩をすくめた。
「陣左が鍛錬の方法を考えてるんじゃないんだ?」
「はい。それも部下の考案で」
「じゃあ今、お前はなにを?」
「組頭の補佐と、偵察です」
 なるほど。だから高坂は忍び込みが上手くなったのだ。偵察が主であれば緊張の連続と判断力の鋭さ、そして長期任務になる可能性も高い故の体力勝負でもある。より洗練され、極められた能力は雑渡と引けを取らないかもしれない。雑渡は心の中で感嘆した。
「私もずいぶん、家事が上手くなったんだよ」
 高坂は天井裏から板間へ降り立ち、磨かれた床や整えられた台所を眺めた。長すぎず整列したまつ毛が、ぱちぱちとまばたきをする。
「お一人で?」
「そう。食べる? 雑炊」
……え、いただけるのですか?」
 さらに驚愕する高坂に、雑渡は存分に笑って、
「いいよ」
 そう言って雑渡は立ち上がる。
 高坂のそばを通れば、外の空気も、天井裏のほこりの匂いも、全くさせずに高坂はそこに立っている。さすがだなと雑渡はにわかに嬉しくなった。忍びとして完成されゆく青年は、見ていて気持ちのいいものだ。諸泉が組頭として尊厳を放ち始めているのと同じように。
……いただきます」
 囲炉裏のまえで、口布を外して椀を手に取る。香りを嗅ぎ、椀を一回りさせ、高坂は食べ始めた。湯気の立つ米は夜半ながら胃をそそるが、自分も食べようかとはならない。ただ男が食べる様を、一年以上ぶりに見ることに集中した。
「うまいです」
 単純に嬉しい褒め言葉をもらい、雑渡は目元をほころばせる。今はもう朽ちた左目も、筋力でやんわり持ち上がったようにさえ思う。
「味が……やわらかいですね、なにを使いました?」
「お前の台所を見たときに記憶したものばかりだね。地元で採れた野菜もある」
 そう言うと、高坂の頬がサッと赤くなった。湯気を浴びたからだとか、熱い飯を食べたからではないだろう。雑渡はわざと、よろこばせることを言った。もっと食べてほしいと思ったからだ。
(もしそれが、毒だと知ったら)
 高坂の口に入る飯が、崩れて椀に少し落ちる。落ちながら、また元に戻り、追いかけるようにそれをすくってまた食べる。息を吹き、熱さを和らげ、その湯気の香りがきっと鼻先に食欲を運んでさらに高坂の食い気を増しているだろう。
(今の陣左なら、すぐに私を殺せるかもしれないな)
 雑渡は空に近づいていく椀を見つめ、高坂の細身の指が引っ掛ける箸が、残りの米粒を丁寧にすくうのまでも確認する。高坂は、こんなに見られていることを意識せず、ただ飯のうまさに感嘆し尽くして食べ終えた。
 ──毒などもちろん入れていない。もしも毒であったとしたらと想像をした。雑渡はもがき苦しむ高坂に欲情する趣味は毛ほどもない。ただ彼の忠義が、相手に毒を盛られても保たれるのであれば、という仮定を立てたまでだ。
 殺す、という選択肢で正しい。殺さなければならないのだから。それが誠に雑渡を思うということである。タソガレドキを愛し、タソガレドキの全てに万事滞りなく運ぶよう心を砕いてきた雑渡を横で見てきたからこそ、今高坂に死なれては一番困る。ここで毒を盛る謀反など企てるのは、もはや雑渡ではない。
 だから高坂は、最初匂いを確かめたし、椀を回して異常がないか確認もした。たとえ雑渡から渡されたものであっても、徹底した。雑渡はそれを見て──やはり、私はこの完成された男を忘れることはできないと諦めた。
 素晴らしい。と頭を撫でて犬のように褒めたくなるが、きっと相手はなにで褒められたかいまいちピンとこないだろう。心の中に押し留め、雑渡は高坂に向き直った。囲炉裏の炎がくすぶって、小さくなる。寒さをしのげるほどではあるが、やや足先を冷たい風が通る。
「さぁ、もう行きなさい。胃は温まったろ」
 次に会うのはいつだろうか。そのころ、もっとたくましい姿になっているのか。今の姿を私は焼きつけ、そして高坂には私を忘れてほしい。雑渡はみなまで言わず、高坂を送りだそうとする。家のまえの銀杏で敷き詰められた道が、暗がりでも淡く金色に光っていた。そこに立つ高坂は清廉で、人の子ではないように見えた。その高潔なままでいてほしかった。だから忘れてほしいのだ。
……雑渡、様、あの」
「なに?」
 戸口まで彼の背を押し、冷える風を受けた。この様子だと、夜中はもっと寒くなる。冬になるのだ。ここで一人で過ごす初めての冬だ。雑渡の脳内はもう、そばに誰もいなく一人でやりくりをする自分の姿を完璧に捉えていた。いたはずだった。
 高坂が内密な話をするときのように、雑渡の「左」に顔を近づける。
……また雪の降るころ、参ります」
 無い耳の方で言ってくるずるさを身につけたようだ。こすくなったのはいいことだ。忍びらしく、相手を惑わす。親密な関係と匂わせるほど距離を詰め、そんなことをされて色めきたった人間ならば、今なんと言ったか、もう一度、と追い求められることもきっとあるだろう。端正な顔を歪め、意味ありげなことをつぶやかれれば。
 雑渡は背筋を震わせた。忘れ形見が己を追いかけてくる。きっといつか、とうとう自分の横に並び立ち、逃げられなくなる。けれど今だけは、当然読唇術も心得ているのに聞こえないふりをした。雑渡の焼けた耳はもう、はるか昔に死んでしまった細胞のかたまりが、集まっているに過ぎないのだから。
 冬が来るのを恐る恐る待つようになったのは、生まれて初めてだった。