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あさかわ
2025-01-01 01:32:00
9713文字
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押してもいいが、引いてみろ
己の嫉妬心と戦う鬼水です。新春挨拶回り。紅白の半衿って……良くないですか???
「さて、」
目玉が鉛筆を両腕で抱えて紙を突いた。ちゃぶ台の上は目玉と水木が広げたリストとカタログでいっぱいになっている。鬼太郎は二人から少し離れたところで正座している。
「烏天狗の土産は宇津田姫から賜った万年雪花にしようと思っておる。氷室が手狭になって困っておると言っておったからのう」
「冬の女神の花があれば、どんな洞窟でも氷室にできそうだ。良いものを用意したな」
「なぁに、たまたまじゃ。水木もこのチョコレートと山廃仕込みの日本酒は限定品じゃろう」
「今の勤め先で伝手が出来たんだよ。たまたま、だな」
水木と目玉は顔を見合わせて笑う。鬼太郎が入れた緑茶を一口啜って、二人はリストに視線を戻した。
秋が深まるころに、鬼太郎の親たちは新年の挨拶回りの準備を始める。水木はゲゲゲの森の妖怪たちが中心で、目玉は遠方の知己をおとなう。
やれ、誰を訪ねる、手土産は何にする。あれが欲しいと言っていた、手に入れる算段はあるのか、予算はどのくらいだ。あれこれ言い合って白い紙を真っ黒にして、カタログに折り目の山をいくつも造り出す。鬼太郎はその間、近くに控えて茶を入れたり菓子を出したりしている。というか、それ以外にできることがない。新年の挨拶とは大切な社交行事らしいが、鬼太郎はどうにも疎く、手土産や回る順番などさっぱり分からない。
年の暮れには手土産の品物が一通り集まり、目玉は文をあちこちに飛ばし、水木は挨拶回りに着ていく服を準備する。今年は白の単衣に紅梅の刺繍が入った赤の半衿を合わせ、新春らしい紅白にするそうだ。
「
……
ん、昼が近くなってきたな。鬼太郎」
「はい」
顔を上げた水木が鬼太郎を手招きする。時刻は十一時近くで、小腹が空いてくる頃合いだ。ポケットに入れていた財布を鬼太郎に渡す。
「近くの喫茶店でホットサンドのテイクアウトを始めたそうだ。甘いのとしょっぱいのを適当に見繕ってきてくれないか。お前は店で食べてきてもいいぞ」
「儂らはまだまだ掛かりそうじゃ。少し外でゆっくりしてきなさい」
鬼太郎は水木から財布を受け取って立ち上がる。確かに自分がいても手伝えることは少ない。昼食のほかに甘いものをいくつか買ってきた方がよさそうだ。ちゃぶ台の上の紙はまだまだ増えそうな気配がある。
「わかりました、父さん。水木も昼までには帰ってきます。手軽につまめる甘いものも買ってきますね」
「ああ、助かる」
二人は鬼太郎から書類へと視線を戻した。水木がカタログを広げ、高級な缶詰のページについて目玉とあれこれ言っている。鬼太郎はポケットに財布を入れて、そっと水木のアパートから出た。
目的の喫茶店はアパートからほど近い場所にあった。コルクボードの看板が出ており、ホットサンドのテイクアウトに関するポスターも張ってある。
「ようよう、鬼太郎ちゃん。このねずみ男様にコーヒー一杯おごっちゃくれねえかい」
鬼太郎が看板を確かめようとした直前にねずみ男が割って入ってきた。
「ねずみ男
……
また、何か悪さをしたのか」
「言いがかりはよせよ。万馬券をこしらえる予定が狂っちまって、懐に寒風が吹きこんでんだよ。喫茶店に入ろうとしたってことは、金は持ってる訳だ。な、頼むよ! 俺とお前の仲だろう?」
ねずみ男の言う仲とは腐れ縁のことだろう。両手を合わせてくねくねと身体を揺らすねずみ男を一瞥する。
「だめだ。僕はこれから父さんのあの人に頼まれたお使いがあるんだ」
鬼太郎の返答にねずみ男がぴんと髭を立てた。顎の下を親指で何度も擦り、訳知り顔をで鬼太郎に囁く。
「親父と連れ合いのためねえ
……
そりゃ殊勝な心掛けですこと。お前、本当はつまらないんだろ」
鬼太郎が何か言おうとする前にねずみ男が畳みかけてくる。
「自分の連れ合いと親父がお喋りに夢中で拗ねてんだ。いやいや、相変わらず嫉妬が日本海溝より深い奴だぜ」
「父さんとあの人は新年の挨拶回りの話し合いをしているんだ。毎年のことだし、僕は嫉妬なんか」
「してんだよ。気が付いてねえのか? お前は俺に会ってから、一度も水木の兄さんの名前を口に出さねえ。お前は拗ねると連れ合いの名前を隠そうとすんだよ」
鬼太郎は右の目を見開いて唇を閉ざした。まったく自覚していなかったが、確かに水木という名前を言っていない。臍の少し上のあたりがざわざわとする。
「敏い兄さんと親父さんのことだ。お前が嫉妬深いことなんてお見通しだろうよ。しかし、悋気をまき散らすお前のせいでいらぬ苦労をしているかもしれねえなあ」
ねずみ男が喫茶店のドアノブに手をかけた。
「どうだ、鬼太郎。その途方もない嫉妬の姿を知りたくねえか。親父を安心させて、兄さんに惚れ直して貰いたかねえか? 授業料は、今ならコーヒーと軽食だけ。お安くしとくぜ」
ねずみ男の口車に乗せられてどうする。そう自分を叱責する気持ちはあるが、鬼太郎は胸の奥底にあるへばり付く黒々とした何かの正体を知りたい。
「
……
分かった」
「毎度ありぃ!」
ねずみ男がスキップしながら店内に入っていく。三十分ほどで済むだろう。持ち帰りの注文も店内で済ませればいい。鬼太郎はちらりと時計を見てからねずみ男に続いた。
「おい、ねずみ男」
鬼太郎の咎める声を聞き流し、ねずみ男はナポリタンを口にかっこんでいく。横には追加で頼んだプリンとオムライスもある。
「コーヒーと軽食だけだと言ったよな」
「コーヒー一杯、軽食一品、とは言ってねえぜ。待て、待てって! 食いながら授業もしてやるからよ」
残ったスパゲッティを大口を開けて迎え入れ、アイスコーヒーを流し込む。げっぷを一つ吐き出したねずみ男がプリンを引き寄せながら言った。
「鬼太郎、お前は嫉妬深い男だ。こと水木の兄さんのことになると加減が聞かない。次点は親父だな。お前が兄さんに拾われた恩を感じるのは分かるがよ。連れ合いにと願って叶った後からはタガが外れたように酷いぜ」
「
……
そうかもしれない」
自分と連れ合ってから妖怪と関わることが増えた水木を守りたいと思っている。その信念に嘘はないが、透き通るガラスのような感情にへばりつく、黒々とした欲望を否定できない。
「お前は心優しい親父と養父に育てられて、思いやりのあるものとして成長したんだろうよ。そうあれと願われて、お前は応えた。だけど、お前の根っこのところには地獄の獄卒も恐れおののくような暗い欲望も眠っているわけだ。人間であれ、妖怪であれ、後ろ暗い気持ちのねえ真っさら綺麗な聖者なんてそうそういねえけどな。
……
おい、言っとくがお前の親父も連れ合いも世間様に出せねえ欲の一つや二つ、持ち合わせてるってことだぜ。もちろん俺にもある」
胸を張るねずみ男の野心は鬼太郎も知っている。これほど分かりやすい男も珍しい。
「お前の邪心は知っているさ。
……
あの二人も、こんな気持ちを持っているのか」
「おうともよ。だけど大抵の奴は隠しているんだ。疚しい気持ちなんだ、出して得をする方が珍しいからな。身の内に飼ってどうにか宥めすかして生きてんだ」
ねずみ男がスプーンでプリンを半分ほど掬った。大口を開けて飲み込むと、正面に座る鬼太郎にスプーンの先端を向ける。
「新年の挨拶回りなんてやめて欲しいんだろ。自分の連れ合いを家に閉じ込めて、他人の目に晒したくない。しかしそんな駄々をこねて親父と連れ合いを失望させたくない」
「二人が挨拶回りをするのは僕のためなんだ
……
分かっているから止められないし、止めちゃいけない」
水木はゲゲゲの森の妖怪たちと友好的な関係を築くことで鬼太郎を助けようとしてくれている。目玉は各地の有力者に渡りを付けて、妖怪ポストの依頼で悶着が起きた時に支えになるようにしてくれている。ちゃぶ台にいくつも広がった紙は鬼太郎への愛情だと知っているから、嫌だとは言えない。
「寂しがりの甘ちゃんめ」
「
……
寂しい?」
思わぬ言葉に鬼太郎は薄く口を開けた。臍の少し上のあたりでくすぶるこれは、情けなくて浅ましい。寂しいという気持ちには思えなかった。
「兄さんに心底惚れぬいてよそに見せたくねえし、親父と兄さんに助けられてばかりで恥ずかしいし、二人が忙しくて構って貰えなくて寂しいんだよ」
ねずみ男がずけずけと言いながらプリンをがつがつ食っている。鬼太郎が無言で下駄を揺らし考えあぐねていると、ねずみ男が店員を呼んでいた。
「コーヒーゼリー追加で一つ。気持ち生クリーム多めでね」
プリンの皿を店員に渡し、ねずみ男はオムライスに取り掛かる。
「さてさて、この追加の食い物に免じて、ねずみ男様がお慈悲を大判振る舞いしてやろう。ありがたく頭垂れて聞きなぁ。腹ン中で暴れまわる稚気な嫉妬を宥めすかす餌を教えてやる。うまくいけば連れ合いの新しい面が拝めるぜ」
「本当にそんなことができるのか」
完全にねずみ男の話術に乗せられている。ネズミ講に引っかかる客と同じだが、今更降りることもできない。
「お前がこの世で一番のお人だ、珠玉だと吊り上げた相手は聖人じゃない。俗っぽいところもある所詮はただの人だってこと、知りてえだろ?」
ニヤリと笑うねずみ男がオムライスにスプーンを突き刺す。ふんわり柔らかな卵の皮を突き崩して、チキンライスを雑にかき回す。なんだか中身を暴いているようだ。鬼太郎は両手を腹の上に置いた。この世で一番愛おしい人にも、暗くて浅ましい気持ちが眠っているなら、鬼太郎の答えはとうに決まっている。
「教えてくれないか」
みっともなくかすれた声にねずみ男はふんと鼻の穴を大きくする。
「毎度ありぃ」
「ただいま戻りました」
鬼太郎が玄関に下駄を揃えて室内に入ると、目玉と水木は書類を整えているところだった。
「おかえり、鬼太郎。こっちはひと段落したところだ」
「そろそろ一息入れようと話しておったんじゃ」
「少し遅くなりました。喫茶店の前でねずみ男に会って、あいつに飯を奢ってやることになって。すまない、水木の財布なのに」
「先生なら仕方がない。放っておいてもお前について来ただろうから構わないさ」
鬼太郎は水木に財布を返した。水木はレシートを見て、さすが先生だと楽し気に笑っている。
鬼太郎は持ち帰ってきたホットサンドを台所に持っていった。目玉の分は食べやすいように小さく切り分け、皿に盛りつける。
「お待たせしました」
鬼太郎が食事の準備をすると二人はいただきますと両手を合わせてホットサンドにかじりつく。鬼太郎も自分の分を手に取ってちびりちびりと食べ進める。ねずみ男の助言を実践するタイミングをじっと推し量っていた。
「あの、二人に相談があるんですが」
食後の一服をしようとする目玉と水木に鬼太郎が話しかける。
「なんじゃ、鬼太郎?」
「新年の挨拶回り、来年は父さんに付いていっても良いですか」
鬼太郎の言葉に目玉の肩が跳ねた。水木も初めての申し出に驚いたようで、指に挟んだ煙草が落ちそうになっている。
「それは構わぬが、いつも水木と一緒じゃろう」
「父さんたちが熱心に挨拶回りをするのは、僕のためでしょう。だったら僕も少しでも報いたい。父さんと交友がある遠方の妖怪たちに、僕も挨拶しに行った方が良いと思ったんです」
「鬼太郎
……
! なんとまあ立派な心掛けじゃ」
目玉の眼球からぽたりと涙が落ちる。
「水木の挨拶回りに付いて貰うのは別の誰かに頼みます。どうだろうか」
鬼太郎が問いかけると、水木が一も二もなく頷く。
「勿論構わないさ! 目玉の知り合いも息子が一緒に顔を見せに来たら喜ぶだろう。良かったなあ、目玉」
目玉は両手で涙をぬぐうとうんと伸びをする。
「そうと決まれば、さっそく準備せねばな。羽織は
……
ご先祖様のちゃんちゃんこがあるからいらんじゃろう。さて、着物はどうするか」
悩む目玉に水木が少し近寄る。鬼太郎は頭のてっぺんからつま先まで二人の視線を感じてむずがゆくなる。
「なあ、目玉。初めての挨拶なら袴も必要だろう。鬼太郎のぴっとした良い姿が映えるような物を誂えてやらんと」
「そうじゃ! どれ、知り合いに頼んで反物を見せてもらおう。仕立てもすぐに頼める者を見つけよう。見立ては
……
水木がしてくれんか。お主に任せておけば間違いないし、連れ合いが送ってくれたとなれば話のタネになる」
「任せておけ。一等良い男に仕立ててやるからな。楽しみにしていろよ、鬼太郎!」
俄然やる気を出した目玉は背筋を張って、水木は目を輝かせている。鬼太郎はきちんと正座をして深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
額づく鬼太郎の頭上に、いくつも楽し気な声が降ってきた。
ゲゲゲの森の住処で鬼太郎はぴんと背筋を張って立っている。元旦だからと朝餉に雑煮を食べたが、そのあとは慌ただしく挨拶の準備だ。
「よし、くるっと回ってみろ」
水木に言われ、鬼太郎は袴姿でゆっくりと一回転した。ちゃぶ台の上では目玉が両手を組んで見守っている。
着物は普段の学生服より少し明るめの藍色を選んだ。長襦袢は大人びた白茶で比翼の鶯の刺繍の入った半衿を水木が縫い付けてくれた。袴は目玉の希望で縹色に三重襷の柄が入っている。
正面だけでなく後姿にも強い視線を感じて、鬼太郎はなんだか七五三の時を思い出した。あの時も水木と目玉は真剣な顔で鬼太郎の着物姿を検分していたのだ。
「
……
よし。どうだ、目玉」
「よかろう。男前に仕上げて貰ったのう」
頷き合う二人は昔と変わらない。しかし、一つだけ違うことがある。鬼太郎を見下ろす水木のまなじりがほんのり色付いて、吐息をもらす様子は連れ合いを慈しんでいる。
「
……
本当に、良い男に育っちまったなあ」
感慨深げな水木はとっくに自分の身支度を済ませている。紅梅連理の枝が刺繍された緋色の半衿を覗かせる単衣は新雪の白。衿下になるに従って小豆色に染め上げられ、七宝の柄が入っている。銀鼠の羽織も色味の濃淡があり、うっすら七宝が浮かぶ洒落た造りだ。
紅白に比翼と連理の半衿は鬼太郎が使って欲しいと願ったものだ。更に縫い付ける役目は自分にやらせて欲しいと鬼太郎が頼み込んだ。ならば互いの襦袢に針を通そうかと水木が誘い、二人隣り合って半衿を縫い付けるのはこそばゆくも心地の良いひと時だった。
「じゃあ行ってきます。水木も気を付けて」
手土産は鏡じじいに頼んで預かって貰い、出先で受け取る手はずを整えている。彼も毎年の恒例行事になれたもので、前金代わりに渡された鮭とばと日本酒に浮かれながら手伝っている。
鬼太郎と目玉の挨拶回りには一反もめん、水木にはぬりかべが同行してくれることになった。もちろんこの二人にも水木と目玉が先に好みそうなものを渡しているため、元旦から機嫌が良い。
「鬼太郎、親父さん、またあとで」
「水木しゃん、それじゃあ行ってくるばい」
ぬりかべが小さな手を振り、鬼太郎と目玉を乗せた一反もめんが空に舞い上がる。三が日日本各地を飛び回り、帰ってくるのは三日目の昼過ぎの予定だ。
鬼太郎は遠ざかる水木の姿が米粒のようになるまでじっと見つめていた。
三日目の昼、一反もめんに乗せて貰いゲゲゲの森に帰る帰路についた瞬間、背中からどっと疲れがにじみ出てきた。
「つ、疲れました
……
なんだか指一本動かすのですら億劫な気持ちです」
鬼太郎が跨っている一反もめんから小刻みな振動が伝わってくる。どうやら笑いをこらえているようだ。
「落ちんよう気をつけりぃね」
「ああ
……
父さんは平気ですか」
目玉が髪の毛の間から姿を現す。
「鬼太郎のそれは気疲れじゃのう。正月の挨拶に不慣れな上に数をこなしたから、余計に疲れたんじゃ」
「父さんはこれを毎年やっているんですよね。本当にすごいです」
目玉は涼しい顔で近所の買い物のようにこなしていた。鬼太郎にはまだ無理だ。目玉はくつくつ笑って鬼太郎の髪をなでる。
「年の功じゃよ。何だかんだとやっているうちに慣れていくものじゃ」
「そういうものでしょうか」
「そういうものじゃ。初めての挨拶は上出来だったぞ。水木もきっと褒めてくれるじゃろう。今頃一人で寂しいと拗ねておるかもしれん」
「まさか。水木に限ってそんなこと」
鬼太郎の言葉に目玉が首を振る。一反もめんはきゃあと悲鳴を上げて、尾の方をくるくる振っている。
「分からんぞぉ。人前では我慢できても、ふと湧き上がる気持ちというものは抑えがたいものじゃ
……
儂も森に戻ったら墓参りに行こうかのう。鬼太郎がどれほど立派に成長したのか伝えにいかねば」
目玉はふと静かになって小さな体をめいっぱい広げて鬼太郎の頭を抱きしめる。
ぽたり、ぽたりと頭に冷たいものを感じる。鬼太郎は目玉が誰を思って泣いているのか、何も言わずにそっとしておくことにした。
ゲゲゲの森の住処に戻ると、家の前で水木が煙草をふかしていた。隣にいるぬりかべは日光浴をして目を細めている。
「ただいま戻りました」
鬼太郎が声をかけると水木がニッと笑う。
「おかえり、鬼太郎。目玉も疲れただろう」
「なんのこれしき。鬼太郎は挨拶回りですっかり気疲れしておる」
「父さん、それは言わなくても」
鬼太郎が何か言うより先に目玉がするりと肩口から降りていく。
「それだけ頑張ったってことだろ。よし、じゃあこいつは俺が預かる。構わないな、目玉」
「儂が何を言うたところで連れて帰ってしまうじゃろうに。ま、儂も会いたい人がおるからのう」
「お疲れ様ばい」
「ゆっくり、休んで」
水木は携帯灰皿に煙草を入れて一反もめんとぬりかべに頭を下げた。
「一反もめんさん、ぬりかべさん、大変お世話になりました。今回のお礼はまた後日」
水木がくれる物は良い物だというのが森の妖怪たちの常識になりつつある。二人は機嫌よく鬼太郎を見送り、目玉も早々に出かけていった。
「俺たちも行こう」
水木が鬼太郎の左手を取る。当然のように指を絡めて隙間なく手のひらを合わせる触れ方に鬼太郎が小さく口をあけた。
「あの、水木」
鬼太郎は水木と連れ合いになってそれなりの時間が経つが、人目があるところで積極的に触れ合う方ではない。そういうものを大っぴらにするものではない、という価値観で育った人であるし、鬼太郎も見せびらかすより二人きりの特別を重んじるので問題はない。
「どうした?」
「いや、その
……
」
繋いだままの手を指摘するべきか否か。結局鬼太郎は水木のぬくもりを離しがたくそれ以上何も言わずに付いていくことにした。
手のひらから伝わる温度に、鬼太郎の腹底に眠る薄暗い気持ちが鎌首をもたげる。この手を離したくない、数日離れていた時間を取り戻すようにずっと触れていたい。
「先に言っておくが、二、三日はアパートから出してやらんぞ。これだけ頑張って働いたんだ、寝正月にしよう」
暗に閉じ込める、と水木に伝えられ鬼太郎の薄暗い気持ちは与えられた餌に齧りついた。伴侶から向けられる独占欲は甘露の如く降り注ぎ、鬼太郎の身に居座る悋気の獣を宥めすかしあやしてくれる。
鬼太郎が親指で水木の手首を擦ると、水木が瞬きをして鬼太郎を見つめてくれる。鬼太郎が一番好きな夏空の目にある慈しみ。その奥底にはきっと、自分と同じ獣が住んでいる。
「僕も一緒にいたいと思っていたから、うれしい」
独り占めしたいという気持ちを持っていてくれて良かった。
ねずみ男が喫茶店でコーヒーゼリーを平らげて言った言葉に偽りはなかったのだ。
『そのつまんねえ嫉妬や独占欲を飼い慣らしてえなら、餌を貰えばいいんだ。あえて嫉妬を押し殺して物分かりのいい態度をとってみな。そうすれば、お前に嫉妬されるのに慣れた兄さんだって、いやでも分かるだろうよ』
当たり前に隣にいては気が付かない。離れて初めて見えるものもある。鬼太郎がぎゅっと手を握ると水木が同じものを返してくれた。
神社の森を抜けたら流石に手を離したが、水木は早足でアパートに向かった。無言で鍵を開けて鬼太郎を招き入れると、履物も脱がずに鬼太郎を抱きしめた。
「水木?」
「だめだな。どうにも我慢が利かない。挨拶回りにはお前がいてくれるのが当たり前になっていたから、今年はなんだか
……
」
水木が口ごもり目を伏せた。鬼太郎は右手を伸ばして連れ合いの頬に触れる。
「水木、教えて欲しい」
あなたがどう感じたのか。水木は瞬きをした後に鬼太郎の右手に頬すりをした。軒先の猫が身体をこすりつけるような、あどけない仕草に鬼太郎は唾を飲んだ。
「
……
うん、鬼太郎がいなくて寂しかったよ」
頭上から降ってきた声音は少し低く小さい。妖怪相手でも一歩も引かず、舌鋒鋭く引っ掻き回していく水木の珍しく弱気で甘えた姿。
「お前をとびきり良い男にして見せびらかそうと思ったのは本当なんだ。だが、いざ離れてみると急に心細い」
水木の言葉が色とりどりの金平糖のように、こつん、こつんと振ってくる度に鬼太郎は底知れぬ喜びを感じていた。
「成長をうれしく思う気持ちと一緒に寂しさも湧き上がってきて、今頃どうしているだろうと考えはじめたら止まらない」
「僕も、きっと同じ気持ちだ」
鬼太郎は頬に触れた手を離して、両手で水木の羽織を引いた。鬼太郎の意図を察した水木が少し身をかがめてくれる。数日の寂しさを取り戻そうと唇を触れ合わせると、どうにも抑えがたく何度も角度を変えているうちに息が上がる。
「水木、しばらくはずっと一緒にいよう」
鬼太郎は水木の衿元に指を忍び込ませた。赤い半衿を指でなぞると、水木が赤らめた目元をそのままに、艶然と唇を引き上げる。
「寝正月、だもんな」
水木が鬼太郎の手を引いた。鬼太郎は空腹を満たした薄暗い欲と一緒に下駄を脱いで上がり込む。三が日こそ慌ただしかったが、七日過ぎまでは二人きりで自分好みの休日が過ごせそうだ。
期待にふるりと身震いをして、鬼太郎は水木に連れられるままになった。
さて、正月もとうに過ぎ、世間が右手に節分、左手にバレンタインデーと騒がしくなってきた頃、ねずみ男は袋小路の壁に張り付いていた。
「この恩知らず!」
袋のねずみの罵りに、鬼太郎はあきれ顔をしている。
「鬼太郎! お前、俺に恩があるだろう! てめえは恩を仇で返そうってのか」
「それとこれとは別だろう。騙してお金を集めるなんてだめだ。これは持ち主に返す」
鬼太郎が怪力でねずみ男から鞄を取り上げてしまった。海外初の新しいサプリメントと言って売りつけたラムネの売り上げがするりと逃げていく。
「ああっ! 俺が集めた金
……
!!」
ねずみ男は二兎を追い三兎を得ようとする男だ。
喫茶店で鬼太郎を捕まえたのは、すきっ腹を満たすため、鬼太郎に恩を売るため、そして目玉と水木にも恩を売って伝手なりを得るためだった。正月の後半巣籠した鬼太郎のご機嫌は大層麗しく、水木も少しやつれていたがまんざらでもない様子。家庭円満に一役買ったのは間違いない。恩を売っておいたのだから、次のビジネスは目をつぶってくれるだろう。しかし、目論見は外れ売恩作戦は鬼太郎によって一瞬で瓦解した。
「今回くらいは見逃せよぉ! 俺がお前に懇切丁寧に教えてやったのは、次のビジネスのためだってのに
……
!」
「恩があろうがなかろうが、お金をだまし取ったらダメだろう」
「頭カチカチの正論野郎め! もうお前なんか知らねえよ!」
ばっさり切り捨てられたねずみ男は頭を抱えて悶絶し、鬼太郎に対してあらん限りの悪態をついて、脇から逃げ出した。
商店街に買い出しに来ていた目玉と水木に鬼太郎の悪口を聞かれ、取っ捕まって説教されるのはまた後の話である。
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