景生
5748文字
Public 主足
 

初恋



 夕食の用意をしていると叔父さんから連絡があった。
 なんでもこれから同僚の刑事さんを連れて来るらしい。
 紹介したいからと言われ、俺は「四人分の食事を用意しておきます」と返事をして電話を切った。
 テレビを見ていた菜々子が不思議そうにこちらを見るので、先程の電話の内容を伝えると「あだちさんだ」と誰かの名前を口にして笑った。嬉しそうなその顔に「アダチサン」と言い慣れない言葉を繰り返せば「あだちさん」と菜々子に頷かれる。
「アダチサンの好きな食べ物ある?」
 折角なので何か用意出来るものがあれば良いのだが。
 菜々子は思い出すかのように、ええと、と視線を左に寄せた。
「あ、お寿司が好きだよ。あと、牛肉と、うなぎも好きだって言ってた」
「贅沢な人なんだね」
 残念だが今日に作れる物は無さそうだ。
 無難なものならば食べてくれるだろうかと、俺は料理を再開した。

「こんちゃっすー」
 軽快な調子の声が玄関からやって来た。
 叔父さんの同僚だと言っていたので、どんな強面の刑事さんが来るのかと少し緊張していたのだが、思ったよりも若く気さくそうなその姿に、少し拍子抜けした。
「どうも、この春から堂島さんにこき使われている、足立です」
 きみが噂の甥っ子くんでしょ、と挨拶される。頷いて自己紹介をすると「そんなにかしこまらなくていいよ」と彼は人当たりの良い笑顔を浮かべた。
「すごいね、これきみが全部作ったの」
 食事の席に着くと、足立さんは俺の料理を見て言った。
「おにいちゃんは、すごく料理が上手なんだよ」菜々子が微笑む。
 続いて叔父さんも同じように手料理を褒めてくれるので、俺は嬉しさと気恥ずかしさに少し照れた。こうして喜んでもらえると、作った甲斐があったものだと感慨深くなる。
 叔父さんと菜々子が笑顔で箸を進めているのを眺めていると、足立さんも「いただきます」と料理を口にした。彼の口に合うだろうかと少しどきどきしながら見守ると、はたと目が合った。
 足立さんは俺を見ながら咀嚼する。不思議と目が離せなかった。
 彼の喉がごくりと鳴る。俺は食べてもいないのに妙な緊張から固唾を呑んだ。
「うん、美味しい」
 そう言葉が出てきて、ほっとしたのも束の間。ねえ、と声を掛けられる。
「きみも食べないの」ええと、と彼は箸を振り 「あ」と俺を指す。 「ね、ゆうくん」
 耳慣れない呼び名に思わず何も返せないでいると、叔父さんが足立さんに向かって箸を人に向けるなと叱った。足立さんは素直に謝るも、菜々子に「いけないんだよ」と便乗して怒られると、不服そうな顔になってから、菜々子の箸の持ち方が駄目だと指摘した。
「菜々子、ちゃんとお箸、持ててるもん」
「この間、持ててなかったもん」
 足立さんがわざとらしく語尾を強調させると、菜々子がかちんとする。
「いまは持ててるも──るよ!」
 膨れっ面をする菜々子に、足立さんはけらけらと笑った。
 そんな二人の様子を叔父さんは呆れたように見守っている。
 三人は想像していたよりも懇意な間柄のようだ。
 仲が良いのは喜ばしいことだなと俺はこの光景にしみじみ感じ入り、自分も夕食に手を付けた。
「──堂島さんに聞いたよ。ゆうくんは向こうの学校でかなり成績が良かったんだってね」
 しばらく四人で食事を囲んで話し込んでいると、ふと、足立さんが思い出したように言った。
 俺は返事に困ってそんなことはないと言えば、叔父さんが少し酒に酔った赤ら顔で口を挟んだ。
「謙遜するな。姉貴が言っていたぞ、優秀だって」
「じゃあ、ゆうくんの〝ゆう〟は、優秀の〝優〟なの?」足立さんは不意にそんなことを言う。
 俺は首を振り「悠久の悠です」と伝えれば「有給? お休み?」と明らかに違うことを言ってくるので、何か書くものはないかときょろきょろしていると、足立さんが胸ポケットから手帳とペンを差し出してくれた。礼を言って受け取り、そこに俺は名前を書く。
「ああ、悠久ね。続くやつ。うん、憶えた」
 悠くん、と改めて言われる。足立さんの黒目勝ちの目と視線が重なった。
 こんなに真っ直ぐと瞳を向けて名前を呼ばれることは初めてだったため、俺はどうして良いのか分からず、言葉に詰まり、思わず目を逸らした。
「あ。悠くん照れてますよ、堂島さん」
 吃驚して視線を戻せば足立さんの意地悪そうな顔が見えて、慌ててまた逸らした。
 やれやれと叔父さんがビールを呷る。足立さんの笑った声が聞こえた。
 恥ずかしがり屋さんなんだね、と納得のいかない発言をされて否定したかったものの、振り向けばまた何か言われそうな雰囲気がしたので、その場は甘んじて受け入れた。
 俺のやり場に困る空気を察してか、叔父さんに麦茶を注がれる。
「悠、すまんな。こいつは案外、子供好きでな。可愛さあまりにすぐ揶揄うんだよ」
 そう言った叔父さんに足立さんはすかさず否定した。
「まさか。嘘言わないでくださいよ。僕、子供は苦手なんですから。ね、菜々子ちゃん」
 菜々子は首を傾げた。
 子供の自分にこんなにも親しげに話してくれているはずなのに、と不思議そうにしている。
「じゃあ菜々子は、大人ってこと?」
「ううん。菜々子ちゃんは、赤ちゃん」
 菜々子が怒った。
 俺は二人を側から眺めて、冷静さを取り戻すように飲み物を口にした。
 横目に彼を見れば菜々子にぺしぺしと叩かれていて、俺の視線には気付いていない。
 そうすると今度は無意識に彼を追ってしまう自分に気が付いて、はっとしたように麦茶を喉に流し込んだ。──すると蒸せて、ごほごほと咳き込む。
 心配そうに覗き込んでくる足立さんにまたぎょっとして、俺は混乱した。
 普段ならばこんなに動揺することはないのだが、なぜかこの人には気押されてしまう。
 もしかすると俺は、足立さんが少し苦手なのかもしれない。

「悠くん、ご馳走様」
 しばらくすると、足立さんが薄いお腹を撫でて言った。
 菜々子は先に就寝して、叔父さんは風呂に入っていったので、今は居間に二人だけでいる。
 お粗末様でしたと言葉を返して食べ終わった皿を片付けていると、足立さんの視線を感じて、気になって振り返るとまた目が合った。
「あの」憚れるものの、さすがに居心地が悪くて投げ掛けた。 「どうかしましたか」
 え、と足立さんが目を丸くする。
「ああ──僕、見てた?」
 頷けば、彼はごめんごめんと視線を逸らす。
「いやなに、高校生にしてはしっかりしてるなって」
 ちょっと不思議でさ、と残りのビールに口を付ける足立さん。
 何が不思議なのか分からなくて困っていると、彼はそれを察したのか俺の背中をぽんと叩いた。
「まあ、そんな気にしないでよ」
 ね、と、笑い掛けられる。
 その屈託のない笑みに、俺は思ったよりも覇気のない声で「はい」と返事した。
「あ、また照れてる」
……照れてません」
 悪戯めいた彼の声に、俺はいつの間にか顔を伏せていた。
 あはは、と足立さんの愉快そうな声が耳に届いて、どうせまたこっちを見ているのだろうと予想する。
 俺は何だか癪に触り、今度はこっちから見てやろうと、仕返しを考えて振り向いた。
「ん?」
 ──きょとんとした瞳と触れ合う。
 足立さんの顔が目の前あった。
「うわ、近いね」
 彼が冷静そうに喋るもので、俺の理解は少し遅れた。
 思わず尻から仰け反る。
「ご、ごめんなさい」
「いや? 平気」
 さも気にしていないといった様子で、足立さんが床に手を置いて、上半身だけ近付いてきた。
 迫る距離に驚いて硬直していると、彼は一瞥してから俺を通り過ぎて、奥に置いてある新しいビールを手に取った。
「これ。取ろうとしたの」
 手付かずの缶を見せ付けてから、蓋を開ける。炭酸の抜ける音が静かな空気に響き渡った。
 ごくりごくりと、彼が喉を鳴らす度に上下する、骨ばった喉仏に目が奪われる。
 ある程度飲み終えてから「お子ちゃまにはあげないよ」と茶目っ気に笑われれば、その大人にしてはあどけない表情に、俺の中で何かが落ちるような、そんな音がした。
 何かとても大事な物のような気がしたが、それを拾って確かめる余裕もなく、叔父さんが風呂から帰ってきた。
 石鹸の香りを漂わせながら下着一枚でやって来た叔父さんは、髪の毛をタオルで乾かしながら俺達を不思議そうに見つめる。
 足立さんが酔ったように口を開いた。
「堂島さん、この子面白いですね」
 先程まで素面のような表情をしていたのが一転、少し頭をふらつかせる彼に少し驚く。
 叔父さんが首を曲げて何がだと聞き返せば、足立さんは不意にげらげらと笑い出したので、俺は吃驚した。
「おいおい、飲み過ぎじゃないのか、足立」
 心配そうな叔父さんに、俺も同意した。
 用意しておいた水を差し出せば、足立さんは「ん」と受け取ってそれを飲み干す。
 すると急に力の抜けたように頭ががくりと項垂れて、俺に向かって身体ごともたれかかってきた。
 空になったコップが畳に落ちる。
 寝息のようなものが胸の中で聞こえて、そっと覗けば閉じられた瞼と、細い睫毛が視界に映った。
「──お、叔父さん」
 助けを求めるように叔父さんを見れば、彼はやれやれと近付いて、足立さんの背中から脇の下を抱える。そのまま床に寝転ばせた。
 今日は泊まらせるか、と頭を掻く叔父さん。
 しかし思ったよりも、足立さんはすぐに起きた。
「大丈夫っす、帰れますよ、うん」
 足立さんは身体を揺らしながらうんうん頷いて起き上がる。まるで信用ならなかった。
 立ち上がってふらふらと伸びをする彼に、俺は「布団敷きますよ」と促すものの、彼は酔いに据わった目を向けながら断る。
「近いし、平気」
 ありがとね、なんて口の端で微笑まれれば、俺はぐっと胸が締め付けられそうになった。
 どうしてか。なぜなのか。それは分からない。
「そいじゃ、お邪魔しましたー」
 ひらひらと背中を見せて手を振る足立さんを追いかけて、途中まで送っていきますと言えば、彼はなぜか噴き出すように笑った。
「ね、堂島さん。この子ほんと面白いですよね?」
「馬鹿野郎。お前のこと心配してやってんだよ」
 叔父さんの叱責に足立さんはまたおかしそうに腹を抱えた。
 彼は俺の何を面白がっているのだろうか。
「──じゃあ、堂島さん。お言葉に甘えてこの子、借りちゃいますよ?」
「あんまり遠くまで歩かせるなよ」
 大丈夫か、悠。と叔父さんに言われ、俺は頷いて足立さんの背中をそっと支えて歩いた。
 彼からその手をちらっと見られた気がしたので、あまり馴れ馴れしく触れられるのは確かに嫌だろうなと、俺は反省して少し手を離した。
 倒れてきたらいつでも支えられるような距離を残して。

「──夜はまだ肌寒いねえ、悠くん」
 家の近くを少し過ぎたところで、足立さんは欠伸を交えながら言った。
 そうですね、と無難に同意する。
 ワイシャツ一枚の彼にジャケットはどうしたのかと訊ねれば、そう言えば車に置きっ放しだ、と面倒臭そうな表情が返ってきた。
 彼はものぐさなのだろう。何だか心配になる。
「どう? 学校は。楽しい?」
 そう質問されて、俺は返事に困る。
 まだ転校して日が浅いので、楽しいかどうかは正直分からない。今までそう感じる間も無く転校を繰り返してきたのもあり、ここに居るのもたった一年だ。
 学生生活への憧れは無い。けれど周りを心配させないように大人へはうわべだけの返事をしてきた。
 ──楽しいです、みんな良い人達ばかりで。
 今日もそう言えば良かったものの、不思議なことに、なぜかこの人には素直に話してみたくなった。
「よく、分からないです」俺はぽつりと呟く。「特に期待もしていないので」余計な言葉まで添えて。
「へえ。意外なこと言うね」
「そうでもないですよ」
 俺は周りが思うほど〝優等生〟ではない。ただ与えられるものを愚直にこなして、他人に迷惑を掛けないように、気を使って過ごしているだけだ。その有り様を履き違えて認識されて、世間の都合の良いものに当て嵌められているだけ。
 ──彼にもそう見えるのだろうか。
 足立さんを横目に見ると、彼と目が合った。何度か浴びたそれは、やはり落ち着かなくて、むず痒い。彼は他人を観察するのが癖なんだなと、この時気付いた。
 見栄を張るように思わず背筋が伸びる。
……きみ、あれだね」
 何を言われるか、どきどきした。
 彼は他の人よりも考えていることが分かりにくい。予想の付かない表情に見つめられて、とても緊張した。
 待ち構えていると、彼が目を細めて、ふっと笑った。
「馬鹿馬鹿しい」
 どん、と背中を叩かれる。そんなに強くも痛くもなかったが、不意の出来事に、吃驚して思わず声を上げた。夜なのを思い出して、咄嗟に口を塞ぐ。
 恐る恐る足立さんを見れば、暢気に欠伸をかいている。眠い、と呟いて俺のことなど眼中に無いように歩いていた。
 困惑していると、彼が「あ」と口を開いた。
「ここまでで良いよ、悠くん」
 それじゃあね、と足立さんは手を振る。その動作に思わず足が止まり、さよならを言う隙も無く、彼は背を向けた。
 動きは緩慢なはずなのに、遠くなるのが早い。まるで夜の暗がりに吸い込まれていくように、足立さんは影を色濃くして、あっという間に視界から姿を消してしまった。
 もう気配は無かった。けれど不思議と、先に続く道を見つめてしまう。俺は動き出せないでいた。帰らなければならないのに、思うように踵を返せない。気にする必要が無いのに、なぜか彼のことを考えてしまう。もどかしいそれは、初めて感じるような胸の違和感だった。
 彼とまた顔を合わせることが心配になる。会いたいような、会いたくないような。妙な気持ちだ。
……何だよ、俺」
 どうしようもなさに、ぽつりと零れ落ちる独り言。
 高鳴った心臓は鎮まることなく、どくどくと大きく脈打っていた。