バイトが終わる頃、同じシフトに入っていた女子高生に「綾部さんは今日は彼女さんとデートしなくていいんですか?」と聞かれて、僕はキョトンと首を傾げた。今日、って、デートの約束してたっけ。いや、してないからバイト入ってるんだよな。というか僕、この子に恋人がいるとか言ったっけ?
数秒の間にいろいろと考えて、それら全部を瞬き一つで隠してから「このあと会いに行くよ」と今の今まで考えていなかった言葉を返す。女子高生は複雑な表情を浮かべた後ぎこちなく笑みを作って「いいですね」と答え、すぐに仕事のために僕から離れていった。
今日は平日だし、社会人一年目の久々知先輩も仕事だと思う。でも会いにいったら、会えるかな。きっと年末が近くいつも以上に忙しくて疲れてるだろうから週末の休みに連絡をしてみようと思っていたけど、考えていたら会いたくなってしまった。一応、念のため、ダメ元で、メッセージだけ送ってみようかな。
好きな人のことを考えていたら残りの数十分はあっという間で、僕は他の人たちにお疲れ様でしたと声をかけて素早く着替えを済ませさっさとバイト先を出た。駅へと向かう大通りは人で溢れてて、いつもより混んでいる気がする。スマホで文字を打ちながら人を避けて歩いて駅前に辿り着いた僕は、目の前にそびえ立つ大きくてキラキラ輝くクリスマスツリーを見て、思わず「あ」と声に出した。
「……」
なるほど。だからあの子は今日デートをするのか聞いてきたのか。
僕はあまりイベントとか記念日とかを気にしないし、普段は細かいことによく気がつく久々知先輩も忙しくてそれどころじゃないんだろう。……と、思うけど。そっか。クリスマス。
……じゃあ、会いたいって言ったら、会ってくれるかも。
打っている途中だったメッセージを送るより先に、僕は電話のマークを押してスマホを耳に当てた。ひやりと冷たい画面に冷静になれと言われている気がする。
『もしもし? 喜八郎?』
「あ……えっと、お疲れ様です」
『ふふ、うん、お疲れ様? 今日バイトだったよね、喜八郎もお疲れ様。どうしたの?』
「……あの、今から会いに行ってもいいですか? 先輩疲れてると思うので、すぐ帰るから。ちょっとだけ」
『え、……えーっと、喜八郎は、疲れてない?』
「今日は何の予定もなくて数時間バイトをしただけなのでまだ元気です。だから、行っていいですか?」
あうあうと呻くような声が小さく聞こえたあと、久々知先輩はすぅと息を吸い込んで「喜八郎」と、真面目な声で僕の名前を読んだ。一拍遅れて「はい」と返事をする僕の声は上擦っていなかっただろうか。
『俺も喜八郎に会いたい。忙しさを理由にしてあんまり連絡できていなくてごめんね。今日は、ごめん、喜八郎の元気に甘えてウチまで来てもらっていい? 次は俺がそっち行くから』
「……うん、じゃあ、会いに行きます。でも、久々知先輩。僕は先輩の家が好きだし先輩のことが好きだから、元気じゃなくてもいつでも行けますよ」
『ありがとう。でもね、俺も、喜八郎が好きで喜八郎の家も好きなんだよ』
「……そうなんですか?」
『そうなんです。ふふ、じゃあ待ってる。あ、明日、予定は』
「ないです。泊まっていってもいいんですか?」
『……うん、そうして』
ふわっと心が跳ねるような、いつもと違う先輩の声。たぶん顔にも声にも出ないけれど、ドキドキする心臓は僕の体温を上げて冬の寒さを忘れさせてくれた。
一目会えたらそれでいいと思っていたのに、会うだけじゃなくて明日まで一緒にいられるんだ。先輩は明日も仕事だしきっと疲れてるだろうしこんな夜じゃすぐ寝ちゃうと思うけど、でも、好きな人に会えるなら一瞬だって嬉しい。
「……久々知先輩」
『うん?』
「……なんでもないです。すぐ行きますね」
『なぁに? 教えてよ、喜八郎』
「……あとで言います」
『……ん、わかった。気をつけてきてね』
「はい」
これから会うのに、電話を切るのが名残惜しい。なんだかすごく久々知先輩が足りてなかったみたいだ。忙しい先輩の邪魔になりたくなくてあんまり自分からは連絡をしていなかったけど、もう少しだけわがままを言って甘えた方が良いかもしれない。それで僕のことを嫌いになるような人じゃないと知っている。
『喜八郎?』
電話を切らない僕に、久々知先輩が不思議そうに声を出した。あれ?と思って僕は首を傾げる。先輩が電話を切ってくれればいいやと思って耳に当ててままにしていたのに、先輩は僕が話すのをやめた後も電話を切らないでいたみたいだ。思い返せばいつも電話を切るのは僕で、僕が終了のボタンを押すまで電話はつながったままだった。
「久々知先輩、電話切ってもらっていいですか?」
『えっ。……やだ』
「え?」
『だって、ずっと喜八郎と話してたいもん。喜八郎が切ってくれないと、俺からは切りたくないよ』
「……そうなんですか」
『そうだよ。だから、悪いけど喜八郎が切ってくれない?』
「……そんなの、僕だっていやですよ」
早く電車に乗って先輩のところに行きたいのに。僕はホームのベンチに座ってはぁとため息を吐いた。もうすぐ電車が来るってアナウンスが流れるけれど立ち上がることができない。電話の向こうで先輩が嬉しそうにくすくす笑った。
『喜八郎、はやく会いにきて』
「じゃあ先輩が電話切ってください」
『ふふ、やだ』
「……切りますよ」
『うん、切って』
「……くくちせんぱい」
『……切ってよ、喜八郎。電車来ちゃうよ?』
からかうような優しい声が耳をくすぐった。きっといま久々知先輩は僕の大好きな顔で笑ってる。会いたいなぁ。でも、こうしてずっとどうでもいいやりとりを二人だけで続けてもいたい。声だけがお互いに届くから、余計に声以外を感じた。呼吸ひとつでこんなに先輩のことが分かるなんて。頭の中に思い浮かべる久々知先輩の笑った顔は、見当違いの妄想なんかじゃないはずだ。
「……わがまま言ってもいいですか」
『うん?』
「先輩のとこの駅まで迎えに来てもらえませんか。電話もいいけど、でも、本物の先輩がいい」
『……わかった。すぐ行く。俺も本物の喜八郎に早く会いたい』
「じゃあ、そういうことで」
『はーい、また後で』
「……」
『……』
「……」
『……ふ、切ってくれないの?』
とうとう電車が到着して、僕の目の前でゆっくりとスピードを落とした。はぁとため息を吐いて立ち上がり黄色い線まで歩みを進める。耳元で聞こえていた先輩の息遣いも周りの雑音に紛れていった。
「……切りますね」
『うん。お願い』
「……、……また、あとで」
『ふふ。うん、また後で』
僕の体温ですっかり温まったスマホを耳から離すと隙間にビュッと風が吹いて、先輩の声が聞こえなくなった分さっきまでより余計に寒く感じた。ほんの少し躊躇ってから指を画面に押し付ければ僕の心を置いてけぼりにして電話は簡単に切れてしまう。
通話時間が表示された画面を見つめて数秒、大きく深呼吸して顔を上げようとした直前にぽよっとメッセージがひとつ届いた。
【ごはんは食べた?】
……なんの話? まだです、と返して電車に乗り込む。車内はそれなりに混雑していて、僕は席には座れず手すりを掴んだ。
【じゃあ食べたいもの考えておいて。買い物して帰ろう】
さっきの電話の時に言えば良かったのに。ケーキも買いますか?と、送ってニヤリと笑うスタンプをひとつ。すぐに返ってくるメッセージに、マフラーを口元まで引き上げた。
電話を切った時の寂しさはもう少しも感じない。もしかして僕のためにメッセージを送ってきてくれたのかな、なんて。
【はやくあいたい】
心の声をそのまま文字にして送り、既読がついた後、さっきまでのようにテンポ良く返事が送られてこないことに笑みを深めた。メッセージでなんの返事もない数十秒間でも画面の向こうの先輩の反応は想像がつくけれど、やっぱり電話がよかったな。電波に乗るのは声だけのはずなのに、空気感で先輩の表情が頭に浮かぶから。
【はやくきて】
返ってきたたった五文字に、にやける顔を誤魔化せなくなってグッと俯きマフラーに顔全体を埋めた。ひとつずつ駅に停まっては進む電車はひとっ飛びに先輩のいる駅まで行ってはくれない。
クリスマスが終わるまで、あと一時間ちょっと。でもそんなのどうでもよくて、たとえ今日がただの平日でも、僕は先輩のところへ飛んで行って「会いに来ました」って先輩に言いたくてたまらなかった。先輩の気の抜けた笑顔を想像じゃなくて直接見て、ぎゅうっと強く抱きしめたい。きっと先輩も同じ気持ちだって、そう思っても間違いじゃないよね。
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