以前に図書館の文献で読んだことがある。この町のしきたりとしてプロポーズの際に贈る人魚のペンダントは雨の降る日に海辺で手に入れることができるのだと——だから昨日彼の言っていた今日の天気の話は間違いなくそれに関することであって、つまり私は今日プロポーズされるはずなのだ。むしろ昨日そんな話で終わったのだから間違いがない。なのにもう昼なんてとっくに過ぎてしまってなんなら夕方にも差し掛かりそうなこの頃、これは一体どういうことか。私はテーブルに頬杖を突き、少し離れた場所にあるソファでうつらうつらと舟を漕ぐセバスチャンを眺めて溜息を吐いた。
朝起きてから彼はずっとこの家にいる。私よりも少し早く起き彼のために用意したカップでコーヒーを飲んでいた。そうして二人で朝食を食べ、手伝うと言ってくれたとおりにともに動物小屋を見て回ってからはずっとずっとこの部屋で怠惰に過ごしているだけだ。外に出る様子もない。そう、海辺に行き婚約の証を手に入れてくる気配などまるでないのだ。
「……なんなのもう」
今も自身のノートPCを傍に置いて居眠りをするその姿を見ているといけないとわかっていながらも腹が立ってきてしまって、私はわざと大きな音を立てて椅子から立ち上がり家中を揺らすような強い足取りで寝室へと向かった。
ただそれにはセバスチャンもはっとしたようで、彼は背後を通り過ぎていく私の名を呼びかけてきたが、私はそれをじろりと一瞥して奥の部屋へと引っ込みベッドに潜り込んだ。
「どうしたんだ?」
「……別に!」
「なにを怒ってるのか言わないとわからないだろ」
「知らない、そんなに寝たいなら一人で寝てればいいじゃん」
ああもう本当に可愛くないったらありゃしない。頭からすっぽりと被った上掛けの中で思わず涙が滲んでくる。期待をさせたセバスチャンもセバスチャンだけれど、勝手に期待をして裏切られた気持ちになって拗ねて泣いてしまうだなんて、プロポーズどころか愛想を尽かされたっておかしくない。
それでもセバスチャンはそばに腰掛けると布団に包まった私の体をぽんぽんと優しく叩き、こんな場面に相応しくないほど穏やかに口を開いた。
「……この町は気の利いた夜景もないし洒落たレストランなんかもない」
「……なに」
「豪華なアクセサリーも華やかなドレスもなにもないんだよ」
「だからなによ」
「お前の望むことならなんだって叶えてやりたいと思ってるって話さ」
だから起きてくれとセバスチャンが埒の開かない私の体を抱き起こす。嫌だと暴れても彼はどこ吹く風でその腕の中におさめてしまって、私は横抱きにされたまま上掛けから顔を覗かせた。それはとてもとても不満そうな泣き顔だっただろう。けれど情けないこの顔を見て、セバスチャンはこんな態度を咎めるどころかふと笑いを溢した。
「……嘘つき」
「だからお前に嘘を吐いたことなんかないって言っただろ」
「うそ、クラゲのときに脅かそうとして嘘ついたじゃん」
「あれは冗談……」
「じゃあ昨日のも冗談だったかもしれないんでしょ」
「……本当にああ言えばこう言うな」
セバスチャンはベッドの端に置かれていたノートPCに手を伸ばす。それは彼が居眠りをするまでずっと触っていたもので、今はそんなもの見たくもないと顔を背けるが、彼は片手で器用に画面を開いて私の眼前にそれを差し出した。
「これでも一応真剣に考えてたんだよ、プロポーズの場所やタイミングをさ」
ほら、と見せてくれたその明るい画面はまるで彼には似合わない煌びやかなデートスポットやイベントの情報で溢れていて、セバスチャンが画面を切り替えるたびにどんどんとそのページの文字や写真が滲んでいく。だからと瞬きをすれば溜まった涙がぽろぽろと溢れていって、私を抱く彼の腕に優しく力が込められた。
「さっき言ったようにこの町にはなにもないし、でもせめてお前が誰にでも自慢できるようなものにしたいって思ったんだ」
「……誰かに話していいの?」
「だめだって言ってもどうせ言うだろ」
でも母さんとマルには言うなよと冗談めかしてそう言う彼に先ほどまでの怒りもどこかへ消えてしまった。彼の首元へ腕を回し甘えるように頬を寄せごめんと小さく呟くと、セバスチャンは私の髪にそっとキスを落とす。
私はプロポーズをされたかったわけじゃなくて、この人に想われていたかった。その形になにかが欲しかっただけで、そんなのはずっと前から、それこそこんな関係になる前から叶っていたのに。
「……ここにはなにもないって言うけど、セバスチャンがいるよ」
「それでいいのか?」
「うん……セバスチャンがいるならなにもなくたっていい」
涙声を隠すように更にしがみつくとセバスチャンは何度かこの頭を撫でたあと、少し離れてくれとそう言った。今この状況でなにを、それでも言われるがままに体を離せば彼はその上着のポケットを弄っている。それを不思議に見ていれば今度は降りて座ってくれと言う。なので乞われるままにぼすぼすとベッドに手を突き彼の目の前に座ると、セバスチャンが微笑んだ。それどころかとても愛おしそうに私の名前を呼ぶものだから私はすべての感覚を彼に持っていかれてしまって、だから私は彼が掌に握りしめていたものも、それをこの首にかけたことも、首から下げられたそれが今ここにあるはずがない青く耀く貝殻のペンダントであることも、なにひとつ理解が追いつかずにただただ息を呑む。
「え……なんで? いつ……」
「夜中お前が寝てるときにね」
夢幻なのではないかと恐る恐るペンダントに触れてもそれは確かにここにあって、お前は一度寝ると起きないからとセバスチャンがなんでもないことのように笑う。ああこの人は、だから朝は私より早く起きていて先ほども居眠りをしていたのか。きっと一晩中起きていたのだ、私が早々に眠ったあとも雨の降るのを待ちながら。
「絶対もっとほかにいいタイミングがあったと思うが……でも俺もお前が笑ってくれるならなんだっていいよ」
ねぇ、とセバスチャンがもう一度私の名を呼ぶ。視界いっぱいの涙で上げられなくなった頬をその大きな掌で包み、この額に自らのそれをこつんと寄せた。
「結婚しよう」
たった一言、そのシンプルな言葉に私はうん、と何度も何度も頷いた。溢れた涙がその指先を濡らしても気ににするどころかむしろ優しく拭ってくれる。そうして顔を上げさせられたかと思うとそのまま触れるだけのキスが降ってきて、それは唇だけにとどまらず涙の浮かぶ目尻や頬、鼻先にまで及んで擽ったさについ笑ってしまう。するとセバスチャンもつられて笑ってくれるから、私は頬を包む彼の手に己のそれを重ねた。
「式、お前はどんなのがいい?」
「……嫌じゃないの?」
「なにが?」
「結婚式とか、目立つの嫌いそうなのに」
「そうだな、確かに性には合わないけど……お前となら悪くないと思ってる」
セバスチャンがおいでともう一度膝の上に呼び寄せる。今度は素直にそれに従い彼の膝上に跨ると、セバスチャンはいつになく優しい力でこの体を抱き締めた。
「お前の故郷でも別の国でも、形式だってどんなものでもいいよ。お前のやりたいようにしよう」
「本当に?」
「あぁ、そのために金も貯めたんだ」
その大きな掌が髪を撫でるのに甘えてセバスチャンの背中にしがみつく。そういえばセバスチャンはいつからかどこか遠くへ行きたいのだと言わなくなった。またここ一年ほどはずっと仕事を忙しくしていたように思う。そのことについて深く考えることはなかったし、正直このまま惰性で続いていくのではないかと過ったこともある。もやもやとした気持ちを抱えたまま抱かれたことだって何度も、そんなこと言えやしないけれど——いや、もし打ち明けたって彼はきっと馬鹿だなと笑ってくれるのだ。
「……私、この町でやりたい」
「この町で?」
「うん。この町で、この町の伝統に則ったのがいいな」
「そんなのでいいのか? もっとほかにも……」
私は体を起こし、セバスチャンのありがたい申し出に首を振った。いろいろと考えてくれたその気持ちは本当に何にも代え難いほど嬉しくて、だからこそ私に必要なのはこれだけだ。そう今度は私がセバスチャンの両頬を掌で包んだ。
「セバスチャンに会えたこの町が好きなの、だからここでみんながやってきたようにやりたいし生きていきたい」
この町に来たときは身も心もぼろぼろで恋愛どころか生きるのに必死で、死んでしまうくらい怖い目に遭ったことなんか数えきれないほどだ。でもいつの間にかあなたがこの隣で煙草を吸っていたから私も膝を抱えてないで立ち上がらなければと、その隣に並びたいと思って今がある。
セバスチャンはそれを受けて最初こそ眉を寄せたものの、やがてひとつ小さな息を吐いてから頬を包んだ私の手を取りもう一度抱き寄せた。
「……じゃあその分旅行でもしようか」
「ほんと?」
「あぁ、お前がそんなに無欲だと思わなかったよ。だったらもっと早くてもよかった」
「無欲かなぁ……」
「うん……無欲なやつは拗ねて泣いたりしないな」
「なにそれ、元はと言えばセバスチャンがいつもと違うことしようとするから……!」
揶揄うようにそう鼻で笑うセバスチャンに噛みつこうと私が顔を上げると、彼の掌が私の後頭部へと回された。これはいつものあれだ、セバスチャンが意地悪く口角を上げるから私はもう口を噤むしかない。それを見てセバスチャンは更に満足そうに微笑んだ。
「そうだな——格好つけてあらたまらなくても、こっちの方が俺達らしい」
顔を寄せる彼から漂う嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻を擽る。もしこの香りのなくなる日が来るとしたらそれもきっときっと私のためだ。首にかかるほんの僅かな重みに思いを馳せながら重ねた唇はいつもどおりで、この唇が離れたら愛していると伝えたい。けれどまだもう少しだけ、そう彼の首に腕を絡ませながらその変わらぬ愛を強請った。
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