ぷの
2024-12-30 08:50:42
14237文字
Public レイチュリ
 

レイチュリワンウィーク - パパラッチ・プロポーズ

筆跡の前段とそのずっと後、付き合うまでとプロポーズの話。
※🛁両親の捏造が一山あります。

「教授、独身だったよね。お付き合いしてる人や内縁関係のパートナーがいたりする?」
 アベンチュリンにそんなことを尋ねられて、レイシオは傾けていたコーヒーカップを取り落としそうになった。目の前の男以上に親しい相手などいないし、そういった誤解を生むような態度を取ったこともないはずだ。なぜ突然そんな確認をされているのか、皆目見当もつかない。
 レイシオは自他ともに認める華やかな話とは無縁の人間である。まず年齢性別を問わず、頻繁に顔を合わせる相手が少ない。一番は秘書、次いで学術補佐と研究室の助手たちが比較的身近だろうか。しかし、大学で石膏頭を外すことはほぼない。技術開発部では、主務のアポリと、参加しているプロジェクトの面々。戦略投資部では、戦略的パートナーのアベンチュリンと、アベンチュリン繋がりでたまに顔を合わせるトパーズやジェイド。それから、年に一度帰るかどうかの実家の家族。仕事関係か身内しかいないのでは、浮わついた話などあろうはずもない。
 そんなごく狭い交友関係の中でレイシオ自身が一番親密だと思う相手を一人選ぶとしたら、アベンチュリンになる。忌々しい態度の芝居くささに引っかかりを覚えたのが始まり。その裏から覗かせる不器用な思いやりを見つけて目が離せなくなった。憎からず思うようになった相手から誘われるまま軽い気持ちで体を繋げて、崖っぷちに立っていた心はまんまと滑落した。
 愚かなレイシオが近ごろ一層身綺麗にしているのは、成就しそうにない恋心に殉じているせいである。しかしアベンチュリンは、レイシオの体には用があっても心は欲していないらしかった。こんな質問が出てくるのだから、そういうことだろう。
「今度同行してもらう仕事の相手がどうやら君にご執心みたいでね、娘の結婚相手に狙ってる。娘さんには全然その気がないんだけど」
 脳裏にその娘の顔を思い浮かべているのだろう、アベンチュリンの口元が少しだけ優しくゆるんだ。パチッと静電気に触れたような痛みを感じたが、いつものことなので捨て置く。
「教授にまだお相手がいなくてその気もないなら、予防線を張っておくのはどうかと思ってさ」
「ほう?」
「ちょっとしたゴシップ記事を出してみないかい。君の名声に傷をつけるほどではないけど、娘の結婚相手には相応しくないと疑惑を持たれるような、遊び人風のさ」
 アベンチュリンは両手で指フレームを作って、向かいに座るレイシオをファインダーに収めた。片目を瞑ってこちらを覗き込む顔をレイシオからもフレーム越しに見返す。その仕草だけで何かの広告のようだった。普段から意識して作っているのか天性のものなのか、この男は些細なカットが絵になる。そんなレイシオの内心を読んだように、アベンチュリンはレイシオを見ながら「絵になるねえ」と楽しそうに笑った。
「面白い記事を書くゴシップ専門のフリーライターがいるんだ。盛りに盛った話で絶対事実じゃないってわかるのに、万が一本当なら嫌だなって後味を上手く残してくる。彼女にパパラッチになってもらおう」
「君の手持ちのカードは実に豊富だな」
「情報操作は基本中の基本だからね。ゴシップ誌ならお堅い層はまず読まないし、内容を耳にしたって相手にしない。でも、気にする人はする。こんな記事が出るなんて、根も葉もない噂じゃないのでは、なんてね」
 アベンチュリンはパッと指フレームをほどいて、前のめりだった体をソファに寄りかからせた。ソファの背もたれに沈んだ一瞬、夜だけの姿が重なって見えて、レイシオの頭をちろちろと炙った。
「ステータスの高い人間がちょっと火遊びするネタなんてありふれてるから、いっとき話題になってもすぐ飽きて忘れられる。今をやり過ごすにはちょうどいいんじゃないかな。教授の男ぶりだから、記事のせいで遊び相手のターゲットになる可能性は否定できないけど」
 遊び相手、か。アベンチュリンは本当に、レイシオに他の相手がいると思っているのだろうか。もしそんな器用な真似ができたなら、既に離婚歴のひとつやふたつあっただろう。縁談なら成人を迎えてから無数に持ち込まれている。都合の良い相手を選んで籍を入れ、不要になれば別れる選択だってできた。全て検討もせずに断ってきたが、相手からそう提案されたことは一度や二度ではない。
 予防線など本当はいらないのだ。多少心証は悪くなろうが、今までしてきたようにとりつく島もなく突っぱねればいい。そうしても角が立たないほどに、この件に関してレイシオのすげない態度は知られている。アベンチュリンは知らないようだが。そんな細かいことをつついても仕方ないのに、レイシオへの関心の薄さの証明のようで胸が冷たくなる。
 だから、この話に乗るのは仕事の手間を省くためではない。
「いいだろう。プランを教えてくれ」
「ふふ。それじゃあ早速、今晩あいてる?」


 待ち合わせ場所に指定されたのはホテルのロビーだった。レストランで食事をして、バーで軽く酔い、部屋へ。その様子をやらせのパパラッチに撮影させる。そんな流れかと思いきや、指定のホテルにはレストランもバーもなかった。睡眠と身支度以外に使いようのない、四角い外観の素っ気ないホテルである。
 服装や持ち物の指定はなくそのまま来てというので、身一つでやってきた。早めに着いたレイシオよりやや遅れて大きなスーツケースを転がしながら現れたアベンチュリンは、チェックインを済ませるとレイシオを伴って部屋に入った。
「さあ、着替えよう!」
 スーツケースから表れたのは着物である。元は江戸星の特産品だが、現在主に流通しているものは文化の近い他の星で作られている。江戸星産はとても貴重で桁が違うと、着物を日常的に着ている知り合いの学者が話していた。そのような人が着ているのを目にしたことはあるが、レイシオが実物を手に取るのは初めてだった。畳まれた姿はただの四角い布だ。
「着付けするから下着になって、このシャツを着て」
 レイシオが服を脱ぐ傍ら、アベンチュリンもジャケットを脱ぎ、アクセサリーと手袋を外して、靴下を脱いだ。明るい部屋の中で自分だけアンダーシャツと下着姿というのは、なんとも心細い。
「まずは足袋」
 靴下のようなものを差し出される。お手本にアベンチュリンが履くのを見ながら真似をした。
「裾よけを巻くよ。ズボンタイプは教授に合うサイズが手に入らなかったんだ。股がスースーするかもしれないけど慣れて」
 二本の紐がついた四角い布をシルエットを整えながら腰に巻かれ、前から抱きつくように回された腕で紐を後ろで交差して前に戻る。変わった結び方をして紐の端を入れ込むと、紐と布の間に指を差し込んで締め具合を確かめた。立ったり屈んだりしながら真剣な顔で作業をするアベンチュリンは、密着しそうな距離にいながら、手以外で決してレイシオの体に触れない。
「次は肌襦袢」
 丈が短くて柔らかい生地の前合わせの服を渡されて袖を通す。前身頃を重ねてぐっと裾を引かれ、襟が締まった。
「苦しくない?」
「ああ」
 アベンチュリンの指が首元に触れて、襟の位置を確かめる。幅広の紐を当てながら軽く腰を押され、思わずぴくりと体が強ばった。
「あ、ごめん。留める場所を決めるのに腰骨の位置を確かめたんだ」
 裾よけと同じように紐を後ろで交差して前に持ってくると、今度は結ばずに前で交差させた紐をくるりと回転させてから、左右それぞれ紐の先を体の横の紐に入れ込んだ。
 その上に着物を着て、帯を締め、羽織を重ねたら完成だ。体のラインに合わせて整えながら丁寧に着付けられるのは、厚手の包装紙でラッピングされているような気分だった。生地は無地の藍色で、羽織も同じもの。素材の良し悪しは門外漢のレイシオにはわからない。袖を持ち上げて近くで見れば、遠目にはわからない細かい織り模様が入っている。実物を体験しながら、かの知り合いから聞かされた着物にまつわる話を思い出していた。
「初めて着た。面白いものだな」
「それならよかった。姿勢をよくして、こっち見て」
 呼び掛けられて言われたとおりに顔を向けると、立て続けに何枚か写真を撮られた。それらはすぐにポンポンとレイシオに送られてきた。
「とても似合ってるよ。見せたい人に送るといい」
 真っ先に思い浮かぶ相手は撮った本人だ。レイシオは苦笑して、一番喜びそうな相手に写真を転送した。するとまもなくスタンプがポコポコと届いた。姿見の前で自分の着替えを始めたアベンチュリンが、連続する通知音に目を瞬いてレイシオを振り返る。
「ずいぶん賑やかだね」
「両親に送った」
 納得の顔をしたアベンチュリンは作業に戻った。手伝いを申し出ようかと思ったが、さすがの器用さで手間取る様子はない。スタンプが終わったと思ったら今度はメッセージが続いた。通知音が鳴るたびに金髪の頭が揺れて、クスクスと笑い声が聞こえる。いつもなら通知音を一時的に切るところだが、楽しそうなアベンチュリンに免じてそのままにした。
 特にコメントも添えずに送った写真は、両親にひとしきり褒められた。それから誰の見立てかと問われて、レイシオは束の間返答に窮した。無難に、選んだのも着付けたのも写真を撮った友人だと答える。今の関係を友人と呼んでいいものか正直わからない。それより親しいのか、それとも及ばないのか、そもそもまったく違うものか。けれど仕事仲間というだけではない。そのはずだ。
 レイシオは油断していた。アベンチュリンの仕事を褒められたことに気を良くして、あとでメッセージを見せたら喜ぶだろうかなどと暢気に考えていた。素っ気なくない程度に雑談をして切り上げておけばよかったものを。
『ところで』
 そこで少し間が空いたので、たまの連絡ついでに全然違う話に変わるのかと思っていたら。
『写真を撮ったのは本当にお友達? あなたはそんな顔をしてるのに』
 母から核心を突かれて、レイシオは眉間に皺を寄せた。なぜ、たった数枚の写真で察するのか。アベンチュリンが写っているわけでもないのに。肝心の撮った本人はまったく気付いていないというのに。
 友人だ、と重ねて返せば、事態は悪化した。
『お相手はあなたをどう思ってる?』
『何も反応がないなら、言う通りじゃないかな』
 追撃を受けて返信できずに黙りこくっていると、とうとう父に気を遣われた。メッセージの外で「そっとしておきなさいよ」と母をなだめている姿が目に浮かぶ。
『健闘を祈る』
 母の一言を最後にメッセージは止まった。少し前の浮かれた気分はすっかり霧散した。いい大人が親と何をやっているのか。いや、大人になったからこうなのか。見て見ぬふりをして欲しかったが、浮いた話のない息子が珍しいことをするものだから、つい踏み込んだのだろう。
 アベンチュリンの戸惑った声が、手のひらで目を抑えて俯くレイシオの耳に届いた。
……何かあった?」
「いや、何も。すまないが、手が空いたら後ろ姿も撮ってくれないか」
「リクエストされたんだね、まかせて。動画にする?」
「写真で十分だ」
 レイシオが顔を上げると、鴬色の着物に身を包んだアベンチュリンが端末を構える。レイシオはレンズに背を向けた。
「僕も君の写真を撮ってもいいか?」
「ダメ、プライベートは顔出しNGだから。ねえ、背中ならやっぱり羽織を脱いだ姿も撮ろう。ラインが綺麗だよ」
 アベンチュリンが寄ってきて羽織留めを外す。促されるままに両腕を抜くと、脱いだ羽織は彼の腕に抱えられた。背中に回って襟をチェックされ、正中線を辿って滑り降りた指先が帯を整えて離れる。
「撮るよ~」
 仕事の都合だろう、アベンチュリンの端末のカメラはシャッター音が鳴らない。姿勢を正して待っていると、写真が送られてきてレイシオの端末の通知音が鳴った。
 戻ってきたアベンチュリンに後ろから羽織を着せかけられて袖を通す。前に回って襟の位置を正しながら降りてきた手に羽織留めをつけられ、ポンと腰を叩かれた。小さな違和感が腰骨に当たる。羽織をめくって見下ろすと、いつの間にか帯に小さな木彫りのアヒルの根付けが引っかかっていた。


 着物はドレスコードだった。ホテルから徒歩で数分の江戸星出身の店主が構えるその店は、かの地の伝統的な服装でなければ客になれない。二人が身に付けている着物はカジュアルな方だが、羽織がジャケットのようなもので、身につけていれば格好がつくらしい。そつなく店主の合格点をもらい、予約したテーブル席に案内された。
 それからのひとときは、自分の食事に無頓着なアベンチュリンが選んだとは思えない内容だった。目に美しく繊細な味わいの料理に舌鼓を打ち、すっきりとしているのにどこか後を引くふくよかな風味の酒で軽く酔う。
 食後に出された番茶を飲んでリセットしながら、仙舟羅浮と似ているようで軸が違う、寂れた演出の中庭の景色を眺めた。欠けと磨耗と染みと、隙間や足元にまとわりつく苔。綺麗なところなどない石燈籠は、くたびれた丸い佇まいでレイシオの心に寄り添った。灯された光は闇に表情を付けるための存在で、ぼんやりと弱々しい。
「ピアポイントにこんなお店があるなんて知らなかっただろ。だいぶ前にジェイドに教えてもらったのに、立地と服装がネックでなかなか来る機会がなくてさ」
「ああ、いいところだな」
「ドレスコードは、『ふるさとは遠きにありて思ふもの』なんだって。故郷に帰っても、そこは自分に優しくない。それでも恋しい気持ちはなくならない」
 現在、反物質レギオンの侵略を受けている江戸星とは連絡が途絶している。現地の状況はわからず、帰郷の目処すら立たない。それ以前に、店主の個人的な事情で故郷は居心地の良い場所ではなかったのかもしれない。客を選んでも店を維持できる腕前があれば立地は広く選べたろうに、同郷人が集う場所を避けて故郷から遠く離れたこの地に城を築き、複雑な思いを慰めている。
 同じく優しくない故郷を持つアベンチュリンは、テーブルに頬杖をついて、池で泳ぐ鯉を見るともなしに見ていた。水面に映る燈籠の光は鯉の身じろぎに乱され続けているが、かき消されることはない。レイシオはその様子を己に重ねた。彼に寄り添えないなら、照らすだけでもいい。それもできないなら、位置を知らせるビーコンにならなれるだろうか。
 レイシオは軽く頭を振って後ろ向きな思考を払った。雰囲気に浸って益体もないことを考えていないで、まずすべきことがあるだろう。
「ご両親は写真を喜んでくれてた?」
「あの大量の通知でわかるだろう。自分達も着物を買うらしい」
「へえ! それなら良かった。これからちょっと申し訳ないゴシップが目に入っちゃうかもしれないから、お詫びの代わりになったらいいんだけど」
「気にしなくていい。あの人たちは僕のニュースを見飽きている。必要なことは僕から直接知らせる。それ以外は信じない。小さなゴシップ記事など気づきもしないだろう」
 発表した論文の数々で息子の名前が知られ始めると、くだらない中傷の記事をわざわざ注進にくる親切ごかしの連中に頭を悩ませたこともあるようだ。良い知らせも悪い知らせも、あなたの言うことだけ信じればいいんだから簡単なこと。両親は特に気負った様子もなく、揺るぎない態度でレイシオに接していた。その裏で、悪質なケースに対応するための法的な準備はしっかり整えられていた。さらに知的財産や税金の管理など様々な専門家を集めて膨らんだチームは法人化され、後に成人したレイシオに譲り渡された。おかげで煩わしいことを丸投げしていられる。両親に頭が上がらない一番の理由である。
 結局、レイシオはアベンチュリンに両親とのやりとりを読ませることはできなかった。後ろ姿の写真を追加で送ると、帯の結び方を調べた母は色めき立った。
『あら、粋ね。普段着物を着ない子が浪人結び、けっこう好かれてるんじゃない?』
『これだけじゃなんとも』
 一方、父は慎重だ。もし帯の結び方に意味があるとしても、アベンチュリンはTPOや建前で選んだにすぎない。娘の結婚相手に相応しくない遊び人風の演出だなどと言えるわけがなく、レイシオは沈黙を通した。
 だが、帯に添えられたアヒルはどう捉えよう。アヒルに吊るされたアンティークの懐中時計、その蓋の内側に刻まれた言葉もまた演出だろうか。それとも、都合よく受け取っていいのだろうか。


 店を出てホテルへ戻るのに、来た道ではなく遠回りを選んだ。見晴らしの良い高台があるからと、アベンチュリンに腕を組んで引かれたからだ。街灯の少ない夜道は他にひとけがない。足音のほとんど立たない草履は静けさによく馴染んだ。
「例のパパラッチは待機しているのか?」
「ホテルを出てからずっと着いてきてるよ。気になるなら僕の顔が写らない死角を探してみて」
 気配に敏いアベンチュリンは位置を把握しているようだが、レイシオの感覚ではまるで見つけられなかった。見られていると知ってもかすかな視線すら感じ取れない。
「君がゴシップの相手役でよかったのか?」
「低予算で済ませようかなって。髪を変えたから、顔が写らなきゃバレないさ」
 今のアベンチュリンも金髪だが、地毛よりかなり赤みがかった長髪のウィッグだ。後ろ髪を左から前に流してゆるく結び、首の刻印を隠している。
 高台からは、首都では照明に負けて霞んでしまう星までよく見えた。眼下に広がるのは黒々とした森と細い川を抱える自然公園で、さっぱりした涼しい風が通りすぎ、虫の鳴き声がよく聞こえる。レイシオは公園に背を向けて、アベンチュリンは公園を見下ろして、二人並んで柵に寄りかかり、お互いの顔を見ずに話す。
「今日はさ、前もって説明しなかったのに、ここまで付き合ってくれてありがとう。急ごしらえだけど、こなれた遊び人のデートってコンセプトに添えてたかな?」
「僕にわかるわけがない」
「ははっ、僕もわからないや。君が楽しめたならいいことにしよう」
「ああ、楽しかった」
 くふ、と満足げにアベンチュリンが笑う。
「あとは撮れ高だね。ちょっと手を出してくれないかい?」
 レイシオがおざなりに片手を差し出すと、アベンチュリンはふはっと吹き出した。
「そうじゃないだろ! 役にちゃんと入って」
 腕の中にアベンチュリンが滑り込んできた。両腕をレイシオの胴に回して体重を預けてくる。自然とレイシオの手はその体を抱き込んで支えた。袂がある分、囲い込んで隠している気分になる。
「うーん、ここからどうしようかな。君がしたいことをしてほしいんだけど、気乗りする?」
 密着して上目遣いで覗き込んでおきながら、どうして今さらそんなことを確認するのか。気乗りしない相手ならこんな距離に寄せつけないし、そもそも二人きりになどならない。あれだけ夜を共に過ごしてきたのに、アベンチュリンはレイシオの気持ちが自分にはないと信じて疑わない。
「何をしてもいいのか?」
「いいよ」
「二言はないな?」
「どうぞ」
 レイシオは体に回されたアベンチュリンの腕をほどくと、背中と尻に腕を回して縦に抱き上げ、柵に寄りかかった。
「ちょ、怖……!」
「落としはしない」
 背を丸めてレイシオの首に腕を回したアベンチュリンを揺すり上げ、肩に凭れさせて安定させる。その肩越しにカメラを構えた小柄な人物がひょっこり姿を現して、レイシオに向かってひらひらと手を振りハンドサインを寄越した。目深に被った帽子で顔は見えないが、見覚えのある仕草で、アベンチュリンがプライベートな写真を撮らせるほど信頼を置く理由がわかった。彼女が姿を見せたのに気づいたアベンチュリンが振り向こうと身を捩る。わざと腕の力を弛めて少し尻をずり落とすと、慌ててしっかりとしがみついてきた。
 レイシオは声を出さずにゆっくり口を動かして、パパラッチのレンズに向かって要望を伝えた。
『記事を売らずに僕のところに持ってこい。言い値を払う』
 共通言語の唇の動きを彼女なら読めるだろう。はたして、向こうから了解のサインが返された。
 レイシオはアベンチュリンの髪に顔を埋めて、耳元で囁いた。ウィッグの硬い触り心地が気にくわない。
「このまま家に持ち帰りたい」
「ダメ」
「二言はないと」
「目的を思い出して。ここでできることをしよう」
「『おうちに連れてって』というから期待したんだが」
 アベンチュリンはびくりと肩を震わせた。二人の間に挟まれて息苦しくないよう、アヒルは前もって袂に避難している。誰かの言葉が刻まれた懐中時計は意味のないアヒルの吹き出しか、それとも。
……今はまだダメ」
「わかった」
 抱えた体をゆっくりと下ろした。アベンチュリンの足が地面に着いて、安心したのか全身の力が抜けてふらつく。それを支えるふりをして、距離を取ろうとする体を引き寄せた。髪をよけて刻印がない方の首筋をさらけ出し、襟を指で引いて隙間を作る。
 逃げる隙を与えずがぶりと歯を立てると、囲い込んだ体が跳ねた。硬直する首筋を数回甘噛みして離す。息を詰めていたアベンチュリンは浅く吐息を震わせ、倒れこむように傾いて、レイシオの胸に額を押しつけた。
「痛くはないだろう」
「気にするところ、そこじゃない」
「二言は」
……ないよ」
 しっかりとこちらを捉えているカメラレンズに向かって笑いかける。目線をやったままもう一度、赤く火照った首にかぶりついた。今度は噛まずに口の中でぞろりと舐めて離し、再び大きく震えた背中を撫でて宥めた。痕を残したかったが、隠れないところなのでできない。
「これ、なんのスイッチが入っちゃったわけ?」
「結婚相手に相応しくない遊び人を模索している」
「それならもう十分じゃないかな。たいていの夢見るお嬢さんは噛み癖のある犬に怯えるだろうさ」
「君も?」
 体を離そうと突っ張る手を取って指を絡める。俯いていて表情はわからない。その奥に見える、乱した襟元の暗がりに手招きされている心地がする。実にいい眺めだ。
「僕が夢見るお嬢さんに見えるなら病気だ」
「僕の病は既に手遅れだが、目は正常だ。君なら噛み癖のある犬も御せるのでは?」
「嫌に決まってるだろ。矯正してから出直して」
 あっけなく振られてしまった。顔を上げると、見える範囲にカメラはいなかった。撤収したのか、どこかに隠れたのか、レイシオにはわからない。アベンチュリンがもう十分だと言うのだから用は済んだのだろう。
 捕まえていた体から手を離して自由を返した。アベンチュリンは乱れた着物と髪を直すと、噛みつかれた首筋に手を当ててまた俯いてしまった。さらさらと落ちた髪の隙間に赤く染まった耳を見つけて、レイシオは深く溜め息をついた。これを噛まないでいろとは難題にも程がある。
「出直したいが、矯正できそうにない」
「正直でよろしいと言うには内容がね」
「では遊び人風に言おうか」
「それはもうおしまいでいいってば」
 俯いた顔を掬い上げて、レイシオはまっすぐアベンチュリンの目を見つめた。その中に耳に表れたような動揺はまるで見えない。表情を隠すのに長けたギャンブラーめ。首筋を押さえている手を恭しく取り上げて指先に口づける。
「結婚しよう」
 レイシオを見上げるネオンカラーが瞬く。まばたきのたびに乾いた瞳に街灯の光が散って、万華鏡のようだった。
 ここでのやり取りはすべて茶番だ。それでも、少しだけでいいから揺さぶられてほしかった。何もないところから言葉は出てこない。レイシオはそんな器用さを持ち合わせていない。
 しかし、忌々しいポーカーフェイスはそう簡単には崩れなかった。アベンチュリンの素直な左手と髪に隠れてしまった耳を確認したかったが、残念ながらレイシオの両手は塞がっていて、どちらもあらわにできなかった。
「教授、才能あるね」
「『うそつき』を着せたのは君だろう」
 これも着物好きの某学者から聞いたもので、半襦袢と裾よけを合わせて着ることをそう言うらしい。長襦袢のように見せかけてそうでないからだとか。
「ふーん。そういう雑談もするんだ」
「一方的に話してくるんだ。年寄りは若者に知識をひけらかすのが楽しみだから付き合えと」
「そういえば、君ってキャリアのわりに若いんだったね。同じような功績で集まると周りは年上ばかりなのか」
 同じ分野の年の近い人間には敬遠されがちだが、理由を斟酌する気はないし、親しくする必要も感じない。学会などで集まると、話しかけてくるのは祖父母の世代が多い。孫を構うように研究とはなんの関わりもない話をされるのは、ずっと時間の無駄だと思っていた。けれど、そうやって与えられて頭の片隅で埃をかぶっていた知識が日の目をみるのは、存外悪くない。
「撮れ高も足りたみたいだ、お疲れさま。ホテルに戻ろうか」
 やはりレイシオには、彼女が去った気配はわからなかった。アベンチュリンに触れていた手を離したら、追いかけてきた手が袖をちょんと引いて止めた。
「ねえ、うそつきじゃなかったらなんて言うんだい? 着替えてから教えてよ、躾のなってない犬でも遊び人でもない、混じりけなしの君のやり方をさ」
 指を絡めて繋ぎ直しても、アベンチュリンは逃げなかった。手を引かれて歩き出す。そうか、口説いていいのか。それならたった一つの返事を得るまで全力を尽くそう。レイシオの抱える鬱屈がどれほど重くしつこいか骨身に染みるだろう。
「これから僕の家に来るなら教えよう。どうする?」
 袂から懐中時計を取り出して、目の前にアヒルをぶら下げた。アベンチュリンが指でつつくと、ころんとした丸い尻を振ってぷいっとそっぽを向いた。
「あはは、行きたくないって!」
「君が持ち帰ったらダメだと言ったのが尾を引いているんだろう」
「そうなの、ごめんね」
「ではこうしよう。僕の家に遊びにくるか?」
 レイシオはアヒルをアベンチュリンの帯に通した。羽織に隠れたアヒルはどちらを向いているかわからない。
「特別にアヒルの乗り物も招待しよう」
「その扱いは複雑」
 四角いホテルが見えてきた。繋いだ手をほどかれたので、腕組みをして寂しさを紛らわす。
「着替えたら返事を聞かせてくれ」
「うん」
 引き返したければそこで。最後の逃げ道を作ったつもりだった。
 ホテルの部屋で二人それぞれ着替え、脱いだ着物を畳んでトランクに片付けた。アヒルは懐中時計と別れて、アベンチュリンの手の中でコロコロと弄ばれたあと握りこまれ、再び手のひらが開くと消え失せていた。レイシオをちらりと窺う伏し目がちの瞳を見て、退路は要らないのだと理解した。


「なんてこと、あったよね」
 磨耗して切れてしまったアヒルの根付けの紐を修復しながら、アベンチュリンは懐かしそうに言った。アヒル本体も少し剥げていたニスを直されて、ピカピカの新品のようである。心なしか目付きが凛々しくなったような気がする。器用なものだ。
 アヒルはあの夜を越えた未明にリビングの窓辺で月光浴をしていたところを発見、捕獲された。そのとき乗り物はベッドの中で完全にダウンしてメンテナンス中だった。帰宅の足がないなら、無理に帰ることはない。レイシオはアヒルをクローゼットに運び、丁寧に拭き清めてアクセサリーケースの空き部屋に収めた。以来、そこはアヒルの貸し切りである。
「誰かさんが記事を差し止めたから、結局なんにもならなかった。案の定お見合いの話を持ち出されて、君がすごく不愉快だって顔でピシャッと断るから肝が冷えたよ。父親は怒って震えてたのに、娘さんは楽しそうに笑ってたし。仕事であんなへんてこな空気になったのは初めてだった」
 ライターに持ってこさせた写真と原稿を見たレイシオは、予定どおり闇に葬ることにした。アベンチュリンへの違約金を肩代わりして、守秘義務契約を結んでデータをすべて買い取ったので、そこそこの出費だった。彼女には契約を破棄する理由を聞かれたら正直に話していいと言ったが、アベンチュリンがレイシオにその件で何か言ってくることはなかった。今その話が出るまでは。
「君が一切合切さらっていったから、僕は原稿も写真も見てないんだよ。おかげで彼女の口の堅さが相変わらずだとわかって良かったけど」
 相当吹っ掛けられただろ、と笑う。その通りだった。さすがアベンチュリンの元部下である、顔見知りのレイシオに対しても容赦なかった。レイシオの意図を正確に汲んだ彼女は、狙いを変えて写真をかなり多く持ってきた。アベンチュリンに提出するならあってはならない、彼の表情を収めたものまで。アベンチュリンは撮られていることを察していただろうか。
「君があのとき口走ったプロポーズの言葉、刺さったなあ、もう一回聞きたいなあ」
「心にもないことを」
 まるで相手にしなかったくせに。その日の夜に残した噛み痕の方がまだ効果があった。
「うそつきじゃない口説き文句は聞いたけど、プロポーズはまだ聞いてないな~」
 そうか、プロポーズしてもいいのか。そうやって焚きつけるなら、口説いたときと同じように、また焼き尽くすまで言葉をくべようか。でもそれはレイシオがしたいことではない。追い込んで言質を取るやり方は、一生の契約には相応しくない。
「少し待て」
 書斎から必要なものを取ってリビングに戻った。手持ちの中で一番上質で頑丈な紙の便箋、アベンチュリンから贈られた漆と蒔絵が美しい万年筆、それから一対の指輪。
 ソファで大人しく待っていたアベンチュリンの隣に座り、目の前で手書きの契約書をしたためる。ずっと温めていた、お互いの人生の権利を半分ずつ譲渡するための隙のない条項を。
「君の論文より文章が硬いよ!」
「不要な装飾は解釈の余地を生む。商人の君には言うまでもないことだろう」
 ずっと考え続けて、アベンチュリンのためのやり方はこれしか思いつかなかった。彼を納得させ、全てを投げ入れさせるには、堅牢な約束が必要だ。
「こんなの守れる?」
「できることしか書いていない」
「怖……
 同じものを二通作り、自分のサインを書き入れた。万年筆を差し出す。
「内容をよく読んでサインを。不満があれば交渉に応じる」
「証人はアヒル?」
「法律家がよければ、日を改めて双方一人ずつ呼ぼう。サインもその時で構わない」
「んん、うーん……
 アベンチュリンは唸って、ペン先を空中で泳がせた。仕事で何度も見たサインを宙に描く。それをそのまま紙に書いてくれることを願いながら、レイシオはただ見守った。だが、ペン先はすいっと横に流れて、その名前の上に線を引いて消してしまった。
「証人はいらない。この契約書の内容を秘匿すると約束できる?」
「もちろん、約束しよう」
 証人なしでもレイシオが契約を守るという信頼をもらって、否やのあろうはずがない。アベンチュリンの手から万年筆を抜き取って、一文書き加えた。
 再び差し出した万年筆を受け取ったアベンチュリンは、さらさらと見慣れない文字の羅列を書き入れた。共感覚ビーコンで固有名詞は訳せない。データベースから寄越される味気ない発音をレイシオの頭は拒否した。目で見た文字列だけをそのまま刻む。
「もう誰も呼ばない僕の本当の名前、君だけにあげるよ」
 もう一通にも同じ名前が書き入れられ、万年筆は役目を終えて蓋をされた。
 アベンチュリンが秘密の名を口にする。その音は、全ての武装を解いて無防備に眠る彼の姿を思い起こさせた。今がらりと気配を変えて、少し困ったように眉を下げる姿にもしっくりと合っている。
「呼んでも?」
「どうぞ。二人きりのときだけね」
 音を味わうように声に出せば、彼は恥ずかしそうに笑った。二度目は掠れて、三度目は喉に引っかかって出ていかなかった。
「わあ、泣いちゃった。指輪まだもらってないよ」
 抱き寄せて肩に顔を埋めると、よしよしとゆっくり髪を撫でられた。声が出なくなってしまった分、頭の中で何度も繰り返し彼の名前を呼んだ。それから、心の奥深くに丁寧に安置した。絶対に、誰にも渡さない。
 数度深呼吸を繰り返してやっと調子を取り戻したレイシオは、アベンチュリンの肩から顔を上げた。指輪のケースを開いて見せるが、中身を手には取らない。
「これは少し直すから待ってくれ」
「どこを? 君のことだからサイズはぴったりなんだろ」
「内側にイニシャルを入れてある。一文字足したい」
「入れ直すんじゃなくて?」
「どちらの君も僕のものだ」
「欲張りだなあ!」
 アベンチュリンはレイシオの強欲を否定しなかった。アヒルの修復に使っていた道具箱の中から彫刻ペンを取り出して、手の中で器用にくるりと回す。付け替えのペン先から一番細かいものを選んで取り付け、ケースから指輪を取り上げた。
「なんと、そのオーダーに今すぐ対応できる。打刻じゃないから不格好になるけど」
「手書きに勝るものはない」
「顕微鏡があればなあ」
「ある」
「さすがレイシオ!」
 さほど時間をかけずに隠れた一文字を追加された指輪は、アベンチュリンの手でレイシオの左手の薬指に通された。同じようにアベンチュリンの左手の薬指を埋めると、角度を変えて眺めてはにまにまと笑っている。
 さて、あとは機密扱いになった契約書をどう保管するか。声に出して安全な場所を検討し始めたレイシオを、アベンチュリンは二枚の紙を重ねて折り畳みながら遮った。
「悪いけどこれは残せない。頭に入ってるからいいよね」
 レイシオの返事を待たずに、道具箱から取り出したアルミのトレーの上に契約書を置いて火をつけた。厚手ではあるものの所詮は紙、瞬く間に燃え広がってすべて灰になった。葬式を先取りした気分だ。名前を火葬にされたというのに悲しみはなく、二人一緒だったことでより強い結びつきを得たように感じた。
「僕の口約束を信じるのか」
「信じられないなら結婚なんてできない」
「その通りだな」
 やむを得ない事情で小さな約束が守られないことはあるだろう。それでも、約束を守る約束を心に留め続けてくれるなら構わない。お互いが良い伴侶であったかは、命が尽きるときに自然と振り返ることになる。満足したなら感謝を、不満があれば文句を、花とともに供えよう。そこに後悔がないことは容易に想像がつく。レイシオは己の覚悟の重たさを知っている。良くも悪くも、それが性分だ。
「それじゃ、公的にどうするか相談しようじゃないか」
 もう少し余韻を楽しむ時間があってもいいのでは。さっそく不満が出かかったところで、できたてほやほやの伴侶が「初めての共同作業ってやつだね」と嬉しそうに言うものだから、レイシオは飴玉を放り込まれた子どものように口を噤んだ。もごもごと初めて味わう甘さを堪能するのに忙しく、頭はしばらくまともに働かなかった。