眞昼
Public ss
 

白夜

眠れぬ冬の夜

Hyde Side────

 どうにも、眠れない。
 清潔な寝具、整えられた室温。共寝した相手に背後から抱き込まれ、触れ合ったところから伝わる穏やかな呼吸と体温。
 眠るための条件は折よく整い、身体はいつ眠りに落ちても良いような気怠さに浸っているのに意識だけが妙に冴えていた。
 寝返りを打ち、隣で眠っているガラの顔をみつめた。
 彼の眼は閉じている。
 私の眼は開いている。
 私が起きていることも知らず、彼の意識は闇の中にあり、私だけがそれをみつめている。
 こうした時、胸の奥底に広がる間隙は一人のベッドで目覚めるよりなお深い。
 眠ることを諦めた私は、彼を起こさないよう布と布の隙間を縫うようにしてベッドを抜け出し、寝室を後にした。
 ヒーティングシステムのお陰で寒くはないはずだが、廊下に出ると手足の先に冷気を感じた。薄ぼんやりとしたフットライトの灯りを頼りに階段を目指しながら、途中壁に飾られた写真に目をやる。
 完璧な衣装を纏い、それにふさわしい完璧なポーズをとる過去の自分。新しい最初の仕事で撮影した、幸福の絶頂にある友人たち。愛すべき小さなコーヒーショップの店内。秋の公園で朗らかに笑う恋人。そして海辺での、異国での、庭での、私たち二人。
 ある夜、今夜と同じように目覚め、この美しい記憶たちの前を通り過ぎた時、全ては変わってしまっているだろう。私以外は。
 そうして彼らが私の前を通り過ぎたように、私は停止した彼らの前を通り過ぎるだろう。これまでもそうだったように、重い足取りで。
 未来はおしなべて予見された〈過去〉へと行き着く。
 階下のリビングは広々とした快適な空間としての様相を一変させ、夜闇と雨音ばかりが満ちていて酷く空疎だった。
 窓辺に寄りカーテンの合間に指を差し込んで少し開くと、常夜灯に照らされた庭に銀の針のような雨が降り注いでいるのが見えた。
 冬の今、緑はほとんど葉を落とし、花は一つもない。光の届かない場所に黒々と溜まった影だけが、再興の時をひしめき合いながら待っている。
 一歩身を引くとカーテンが閉じ、雨音もわずかに遠ざかった。
 この場所で起きている生き物はどうやら私だけのようだ。
 ソファに身を横たえ、膝を抱くようにして身を縮めた。
 先ほどまでいたベッドと異なる、誰の体温も移っていない冷えたソファの布地と接地した箇所から体温が吸われていくが、無機質な物体に肉体を預ける無責任の安楽を確かなものにした。
 時折恐ろしくなる。
 彼と同じ地点にいることで、果てに目撃することの確約された未来が。
 たった一人、降り頻る雨音の合間に血の流れる微かな音を聞くことが。
 待つ者のいないベッドに戻ることに耐えられず、夜が明けるまで惨めたらしく酒を煽る羽目になることが。
 来る時のための予行練習のような夜が。
 どの時代でも繰り返してきたことなのに、これまで以上の恐怖を感じる。
 ソファの肘かけに掛けられていた彼のカーディガンを手繰り寄せ、胸に抱いた。
 彼の香りがした。その存在が苦しみの原因である痛苦が、胸を刺した。
 今は隣で眠っている彼よりも、こうして香りを通した朧げな気配の方が存在を近くに感じられた。
 痛みの波を堪えるように、繰り返し深く息を吸っては吐く。皮肉なことに、鼻腔を満たしたその香りはやがて精神を宥め始めた。
 そうして暫く物言わぬ家具や青褪めた影を茫然と眺め時間を浪費し、寝室に戻ろうという気が起こる頃には、身体がすっかり冷え切っていた。
 強張った四肢に力を込めて起き上がり、寝室を目指す。もう壁の方は見なかった。
 寝室のドアを細く開け中の様子を窺うと、彼の身体はこちらに向いてはいたが、先ほどと変わらず穏やかに眠っているようだった。
 彼を起こさなかったことに安堵した私は忍びやかにベッドに近づき、デュべの端を持ち上げてその中に潜り込もうとした。
 私の手よりも先に、布地が内側から盛り上がった。
 驚きに一瞬息を呑んだが、現れた洞窟のような空間に向かって私の重心は自ずと傾き、暗闇の中で待ち構えていた腕の中に身体を収めた。
 抱き包まれて、空間が閉じられる。
 なんとあたたかいむろだろう。
 そっくりそのまま私の墓穴へと変えてほしい。
 もう眠れぬ夜が来ないように。深夜独りで目覚めることのないように。
 そんなことを口にできるはずもなく、彼の首元に顔を埋めた。香りだけでなく体温を直に感じることができるのに、それでも私の瞼は閉じようとしなかった。
 だがもう、構わない。
 ここを出ていきたくない。
 ここが消え去るその瞬間まで。どこにも。
 ふいに、ガラの唇を額に感じた。
 冷えた肌にくっきりと落とされたその印。
 たったそれだけのことで、秘蹟を与えられたような安堵と勇気が身体の芯に広がった。
 蟠った輪郭が俄かに解けていく。
 どこまでも深く温かい場所に降りていく。
 この夜、私は漸く視界を閉ざすことに成功した。


Gala Side────

 真夜中にベッドを抜け出す恋人の背を見送る。
 無人となった隣を手探り、シーツに残った体温を撫でた。一刻一刻と冷めていくその場所が彼の不在を知らしめる。
 時折、まるで影のように巧みに、ハイドは音もなく寝室からいなくなる。
 足音から階下のリビングに行っていることは分かるが、そこで何が行われているのか、俺は知らない。
 起き出して行ってたしかめることもできる。
 しかし真実を掴むことは決してできないだろう。
 痛みを隠す方法をいくつも知っている彼は、次からより巧妙な方法を選ぶだけで、決して秘密を明かそうとはしないだろう。
 それに、予想はついている。
 何が夜を眠れぬものにしているのか。
 何をして進みの悪い時間をやり過ごしているのか。
 だが、そうした推測が一体何の役に立つ?
 無闇に暴かれることで、より一層孤独が深まることは往々にしてある。俺に出来ることは、彼がベッドに戻ってくるのを大人しく待つことだけだ。
 今の彼が必要としているものはたった一人で時間を見つめる空間であり、誰の手も肩も、優しさも慰めも望んでいないのだから。
 待っていよう。例え朝まで戻って来なかろうと。
 シーツを温め、待ち続けよう。
 戻ってきた時、あの身体が震えることのないように。
 そう己に言い聞かせながらも、俺の眼は視線の先にある閉ざされたドアを見つめていた。
 たまには起こしてくれたっていいのに。いつものように無遠慮に肩を揺さぶって。
 わがままだと言わないから。
 深夜の晩酌でも、ティータイムでも付き合うから。
 夜が明けるまで話をしても、何もしないでもいいから。
 独りきりでいないでほしい。いつかそんな夜が来るとしてもせめて今くらいは。
 秘密を抱えられるより、独りで苦悩を堪える姿を想う方が腹の底を軋ませられる。
 独りで過ごすに、冬の夜はあまりに長すぎる。
 特に、絶え間なく雨が降り頻るこの地の夜は。
 やがてひたひたと彼が戻ってくる足音を聴いて、瞼を閉じた。
 寝室のドアが開くがこちらの様子を窺っているのだろう、すぐに室内に入ろうとせず、俺が眠っていることを確認してから静かに近づいてくる。
 そうして彼の手が布地を掴む前に、黙って腕を持ち上げた。
 塞がっていた場所に空間が生まれ、再び開いた俺の眼はその暗闇を見ていた。
 一瞬の静止のあと、そこに彼の身体がするりと収まった。いなくなる前よりも近く、腕の中へ。
 冷えた身体を抱き込むと、俺の首元に彼は顔を寄せた。睫に肌をくすぐられる感覚に、彼の眼は閉じようとしていないのだとわかった。
 やはり眠りを迎えるには至らなかったのか。
 そっと、目の前の額に口づけた。
 それでもいい。眠れないなら、眠らずにいよう。
 何食わぬ顔で夜明けを迎えるまで、こうして一緒に息を潜めてじっとしていよう。
 そう思って、気休めにもならないだろうに触れずにはいられなかった。
 すると、脇腹に乗せられたハイドの腕が僅かに重くなった。
 呼吸が静まり、その深さに肩がやわらかく上下し始める。
 ベッドの中の暗闇が温まる頃、ようやく俺も瞼の裏に広がる、もう一つの夜に身を任せた。