眞昼
Public ss
 

難破船

例の事件後。相手をまなざし始める。

 ──臭い。
 朝オフィスに向かうため、迎えの車に乗り込んだ途端ハイドは反射的に身を固くし、眉間に皺を寄せた。
 車内に充満した生臭い鉄の臭気に鼻腔を満たされ、朝方にまで及んだ書類仕事のために疲労した脳の奥深くが、その親しい香りによって鋭敏に冴え始める。
 しかし実際は血の一雫たりとも落ちてはおらず、吸血鬼の血を嗅ぎ分けることに特化した嗅覚がそう感じさせるだけだ。そしてこの臭いは一つの事実を明確に指し示していた。

「昨日、施設に行かなかったのか」

 運転席を睥睨すると、相手はバックミラー越しに気まずげな瞳でちらとハイドを見た。一瞬交わりかけた視線は、噛み合う前に素早く離れる。

……ああ、しくじった。出来るだけ対処して来たんだが……、すまない。窓を開けたくともこの雨だ。もちろん、換気は入れてる」
「私は別になんともない。だが、いつもなら施設に行ってるはずだろ。何があった」
「友人の自宅隔離を手伝っていたら、受付時間に間に合わなかった。それに、俺も今月は変身期前の症状をさほど感じなかったから軽く済むと思ってたんだ。ところが朝起きたら椅子はバラバラ、テーブルは二本足に、他にも色々壊れてて、俺は血まみれで床に転がってた。まあとにかく、今回は酷かった」
「友人を手伝っていた? 一緒に行けば済む話だろ。何故そいつは行かないんだ? 金の問題か?」
「それならまだなんとかしてやれただろうな。問題は……精神的なことだ。友人はあそこを酷く恐れていてな、だからいつも自宅隔離で、誰かの助けを必要としてる」

 ハンドルを握る彼の手に厚く巻かれた、真新しい包帯にハイドは目をやった。
 雇い入れてからもう一年になるこの用心棒のことが、まるでわからなかった。
 彼が悪夢によって度々眠りを妨げられていること、また満月の日には隔離施設で保護されていないと、怒りの衝動を抑えられないだけでなく自傷行為にまで及ぶことを知ったのは、雇って間もない頃だった。しかし施設の数は少なく、入所できる人数も限られている。そのため自宅隔離の日を行った月は必ず血の匂いがした。
 一度、抗変身薬の使用を薦めたが、合法、違法を問わずまだ安全なものがないとの理由で、彼は服用を拒否した。それでも今の状態より良いだろうと言うハイドに、そうかもなと、彼は僅かに拒絶を含んだ同意を寄越しただけだった。
 後にその原因が、彼だけでなく彼の周囲で起こった薬の副作用による経験にあることを仄めかされたが、薬品の影響を受けにくく、そもそも薬物治療にほとんど縁のない吸血鬼には、やはり理解が及ばなかった。
 彼自身がそのような状況のくせに、友人を助けていたら受付に間に合わなかった?
 清廉も行き過ぎると愚かと見分けがつかない。
 本能とは、生きている限り決して逃れられない生物に科せられた義務であり、種族の業だ。
 いつだろうと理性の箍から解放される瞬間を待ち侘びている本能を抑圧するためには、永く生きた吸血鬼でも膨大な労力が必要なのだ。
 例えば今、ハイドが酩酊している時のような熱を体内に感じ、喉奥に強い渇きを覚え始めているように。それを理性だけで抗おうなどと、馬鹿げている。

「本当にすまない。あんたも辛いだろう」

 気遣いのこもった声に、舌打ちしそうになった。
 自分が傷を負っていながら、それをないかのようにして他人を慮る善人ぶりに、呆れを通り越して理不尽な怒りが込み上げてくる。
 普段ならば苛立ちなど感じない。彼が雇用主であるハイドを気遣うことを当然として、謝罪を受け入れただけだろう。今は酷く神経に障った。原因はよく分かっている。過度に疲弊した身体が血を求めているせいだ。それも、新鮮な血を。

「おい、私をその辺の飢えたガキと一緒にするな。この程度の血で今更動揺などするか。お前も知っての通り、血には困ってないんだ。病院の合法血液のお陰でな。規制が厳しくなり金もかかるが、パックの血はある程度品質も保証されている。飲んでみたらジャンキーの血だった、なんてこともない。今では生き血に固執していた時代が馬鹿らしいくらいだ。じきに、合成血液も完成するらしい。そうなるといよいよ本物の血を口にすることすらなくなるかもしれん。……そうやって、こっちの都合など一切関係なく、皆否が応でもこの世に順応させられる。個人だろうと種族だろうとな。できなかった者から時代に置き去りにされていくだけだ」

 矢継ぎ早に語られたハイドの言葉は、速まる動悸によって薄氷のような緊張感を帯びていた。
 創作物で描かれる吸血鬼のように、血の匂いで人格が豹変したり、闇雲に相手を襲うことなどありはしない。永すぎる人生の中で、吸血鬼たちは平静を保つ術も心得ている。
 良くも悪くも多くの特質が喪われ、種族としては衰退したと言えるだろう。
 それでも、忌々しい不死と共にこの欲望だけは変わらない。
 血の渇きが満たされ脳が快楽に弛緩する瞬間は、ほとんど性の恍惚に等しい。
 血液パックの血が齎す感覚はそれに遠く及ばず、渇望の衝動を一時緩和するだけで、それを取り除くことも充足感を忘れさせることもできはしない。
 久しく香っていなかった生々しく馨しい血の薫りが、ハイドの本能に忘れがたい強烈な恍惚の時を思い出させていた。
 しかしそれを気取られまいとする自尊心と、自分の動揺によって自罰的になっている彼を更に傷つけ、傷ついているところを見たくないという複雑な感情がハイドの虚勢を支えていた。
 再び後部座席に視線が注がれるのを察知し、窓の方へと顔を背けた。
 ガラスを次々に打つ雨の粒が筋となって後方へと流れゆく車窓には、ハイドの予想通り当人の意志とは関係なく、本能の異様な輝きを煌々と放っている瞳がはっきりと映っていた。
 これを直視されたくない。ハイドは瞼を閉じ、自らの視界からも遮断した。
 そして何度も強く思う。全ては思い過ごしなのだと。
 獣の混じった血がどのような味か知らないはずもなく、未知の味覚への好奇心はない。
 お世辞にも質が良いとは言えない血も好まない。
 なにより、目の前にある血を即物的に求めるなどあまりに野蛮ではないか。下劣な欲望だ。
 だからあり得ないのだ。
 指先は冷気を流し込まれたように慄えているのに、心臓は灼熱を帯びて動悸を打つのも。彼の動脈の位置を確かめようと、眼球が視線を頸筋に導こうとするのも。全て。

……それでも、衝動を抑えるのは容易いことじゃない。満月の日に人狼が変身を止められないように」

 組んだ腕に、爪が食い込んだ。

「だったら何だ。私が求めればお前はその首を差し出すのか?」
「それで、今日のことが償えるのなら」
「クソまずい狼の血は口に合わない」
 
 ハイド自身驚くほど冷ややかな声音だった。車内の一切は沈黙した。ルーフを叩く雨音が耳障りなほど強く感じたが、その断続的なノイズはかえってハイドに冷静さを取り戻させた。
 数世紀という時間に培われた処世の力で以て、ハイドは皮肉家の雇用主の顔を綿密に整えた。

……まあそれは初心者の意見だ。人狼の血は玄人好みでな。そのままでも悪くはないが、ワインと混ぜた方が良いアクセントになって美味い。お前のように若い人狼なら、辛口の白を合わせるのがスタンダードだな。品種や産地は血の持ち主によって異なる」
……全くありがたくない情報をどうも。ぞっとしたよ」
「ならば自分を傷つけないようせいぜい努力することだ。私のグラスをその血で満たしたくなかったらな。このままだと身が持たないぞ。せっかく見つけた用心棒と運転手に、長期休暇を同時に取られては困るんだ」
「ああ、次はちゃんと隔離施設に行くつもりだ」
「そうするといい。もっとも、他に方法があるならそれに越したことはないが」

 隔離施設とは鋼鉄の小部屋が無機質に並んでいる、牢獄と異なるのは名だけの施設だとハイドは知っている。当然人道的な扱いも期待できない。
 しかし今のハイドには、彼の助けになるような術も言葉も他に持たなかった。

「ここで止めてくれ。少し寄るところがある。お前は、……いや、またオフィスでな」

 車は歩道へと寄せられ緩やかに停車した。降りようとする彼をハイドは軽く片手を挙げて制止し、自らドアを開けると傘を差し、足早にその場を去った。限界だった。
 彼をあのまま家に帰らせてもよかったが、責任感の強い男のことだ。そうすれば来月から隔離施設に行くだけに留まらず、信条を曲げて薬を服用しかねない。
 空いている手をコートのポケットの中に入れた。強く握り締めた手の内から指の間がじわりと濡れていくのを感じた。痛みはなかった。痛みよりも優先すべき渇望が、神経を狂わせていた。
 あれを一刻も早く忘れなくてはならない。血はだめだ。嗅ぎ取られる。
 必要なものは強い酒だ。なんでもいい。こんな早朝から酒を出す店は少ないが、当てはある。そこで一杯飲んだら、電話を借りる。
 顧客の医師や情報通の仕事仲間たちに、彼のような帰還兵を診察し治療している医師がシアトルにいないか、調べてもらうために。そのあと煙草を喫んでからオフィスに行こう。
 その頃にはすっかり瞳も色褪せ、傷も跡形もなく塞がっているだろう。彼には遅くなった詫びに、昼食でも奢ってやろう。
 人目を引くハイドの姿にすれ違いざま視線を送った通行人たちが、傘の下にあるその顔を覗き込むと、俄かに怯えの色を滲ませた。
 ハイドは鬱陶しげに傘を目深にかざしたが、冷ややかな風と共に傘の内側に吹き込んでくる雨はその髪を無遠慮に湿らせ、頬を凍りつかせた。
 片手を包むポケットの中だけが、まだほのかに暖かかった。