今年最後の満月の話

治北 失敗した初夜の話です
治の一人暮らしの捏造設定あります

 こんにちは、とすれ違いざまに挨拶をしてくれるマンションの住人に、ぎこちなく会釈をした。隣の部屋の人だろうか、それとも上か、下の階か。
 治の住むマンションはそう住人も多くない。大体の人が何号室であるかは把握しようと思えば簡単にできる。ただ、今の人は見たことがない。この間マンションのまえに引っ越しのトラックが止まっていたから、新しい住人だろうと目星をつけた。
 治の住む505号室は特別な取り柄のある部屋というわけでもない。学生時代からの名残で住んでいる。夏になれば風通りがいいのでエアコンの使用は昼間だけで済むことは助かっている。しかし今は冬で、逆に風を恨めしく思う。玄関からリビング、リビングから寝室へと直線上に部屋を突っ切り、窓がそこに鎮座しているのがいけないのだろう。
 窓はもう一箇所あるが、大した大きさではないし開けることも滅多にない。風を通す窓はデスクのそばにあって、夜な夜な経理作業に勤しむ際に隙間風が気にかかる。足元にヒーターでも置こうか、それとも今年の冬は我慢をするか。治の悩みはもっぱらそれぐらいで、小さかった。
 昨日治の部屋に現れた人物と起こした一夜が、近隣住民にバレていないか。それだけが治の今の動揺だった。

 その人物は広い実家に住んでいるというのにわざわざこの部屋を訪ねてくる。月に二度ほど、もう勝手知ったる我が家のように。自分の双子の片割れですら、そんなに足繁くこの部屋にはやってこない。人物はいつも手土産を持ち、キッチンでときどき料理をしたり、風呂を借りて同じ布団で眠る。ベッドの中が少し狭くなろうと、治は幸せの熱量を感じてその人を抱きしめていた。
 けれど、いよいよ、埒が明かなくなって、昨日──いいですか、と一言だけ、真っ暗闇の中告げた。相手は「ええよ」とだけ。どんな顔で言ったのか、どんな思いで言ったのか。わからないがその手は微塵も震えていなくて、治ばかりが緊張しているように劣等感を覚えていたのに、相手は困ったように笑って、
「なぁ治、おれもな、本当は怖い」
 と言ってくれた。
 相手は、別に丸くやわらかい体をしているわけではない。豊満な胸があるわけでも、濡れた目つきをしているのでもない。じっと治を真正面から見ている。いっそそんな、性欲の類など見えないほど、これから手を出されるはずの人間とは思えないきれいな眼差しを治に向けてきた。その瞳は抱き尽くした最後まで変わらなかったし、多少頬が赤らんだり汗が滲んだり、欲求を満たす音や声をはらんだものの、ずっとまっすぐ治を捉えていた。
 怖いのに、逃げずに向き合ってくれているとわかることは、なにより嬉しくこの身が震えた。ベッドの中はあたたかくて暗い。閉じこもっていられるのは今だけだ。朝になれば違う顔でこの部屋をお互いに出ていく。
 初めて体を重ねる日というのは、こんなに儚い命のやりとりのようなものだっただろうか。もっと、ただ穴に突っ込むだけの単調で情熱のある、しかし一瞬で冷め切る虚しいものではなかっただろうか。つまらない見栄やプライドのなくなってきた年齢になったからとも言えるが、それ以上に相手が──北だから、と断言できる。
「失敗しても、また何回も挑戦したらええ」
 今日の治たちは初めてだったし、うまくいかなかった。けれどかなりのことはした。それを北は何回も、と未来を約束してくれる。治は「はい」と言って、彼の特徴的な丸い頭を撫でて腕へ収めた。
 ──今年会えるのはこれが最後の日あった。来年、はすでに約束されている。治は目の奥にじんと溜まる熱を覚えた。
 窓の外は銀色の月が出ていた。