先生とは、最近ずっと会っていない。
というのも、俺はバイトを掛け持ちして忙しく、先生は先生で研究や授業に明け暮れていたからだ。
――いや違うな、前会った時、俺たちは次会う約束すらしなかった。それはお互いのスケジュールを合わせるのが大変だった(先生は昼も夜も働き、俺もそれは同じだった)からだけれど、付き合ってすぐは一生離したくないって思ったくせに、俺はあの日、キスだけでさよならしてしまった。先生も、少しも振り返らずにボロアパートの階段を降りていった。
俺たちはなんだかすごく疲れていた。先生は院で難しい研究をしているのになかなか結果が出ず、来期の研究費が出るかは微妙で、俺は金がなくて中退した大学の奨学金やなんやらの借金を返すのに必死だった。LINEで連絡することすら面倒で、会話は適当なデフォルトで入ってる無料スタンプを押すだけで済ませた。昔のように朝まで返信を待つこともなくなった。
俺と先生との関係は明らかに煮詰まっていたけど、だからといって、何をするでもなくだらだらと続いていた。あの長いまつ毛が揺れる様子を見て、絶対幸せにするって決めたのに、俺はいつの間にかそんな大事なことすら忘れて日常を過ごすようになっていた。愛しているって、あんなにささやいたのに。たった一つのキスだけで、この男を一番大切にすると誓ったのに。
「ねぇ、ネロくんって彼女いたっけ?」
「一応いますけど、なんすか?」
深夜、営業を終えた居酒屋の後片付けをしていると、店長がホールの奥から俺に声をかけた。話を聞いてみれば、明日の夜開催される合コンのメンバーだった男の予定が一人突然合わなくなったから、埋める人員を探しているらしい。
「俺が奢るからさ、適当に場を盛り上げてほしいんだよ。こんな仕事してると出会もないじゃん? ネロくんの彼女さんって合コンに理解あるタイプ?」
理解あるタイプ? そうだな、先生は俺が女と飲んでも多分何も言わない。でもびっくりするくらい卑屈なところがある彼だから、心の中では考え込んでしまう、そんな男だった、先生は。
「
……別にいいっすよ。ただ酒飲めるんなら」
「本当に? じゃあ一緒に行こうよ。相手は仕事終わりのナースだぜ!」
はしゃぎ出す店長を見て、ナースかって俺は考え込む。そして先生を思い出す。でも、先生とは最近会っていない。生活圏も被らないから、すれ違うこともない。そういえば前も、その前も、もっと前も俺から連絡して、初めて先生はあのボロアパートにやってきたのだった。それくらい先生は忙しかった。俺だけが彼を求めている気がした。
なんだかむなしくなってくるな。俺ばかりが先生を好きで、先生は何も求めていない気がする。セックスだってもう一ヶ月はしてない。先生の中に入りたいって強く思うのに、日々の生活に疲れて、いつの間にか性欲を発散したいとも思わなくなっていた。
「いいっすね、ナース」
「だろお?」
だからちょっとくらい、いいんじゃないか。女と飲むくらい、先生はセックスもさせてくれないんだし。あんなに俺を好きって言ったくせに、LINEですら連絡してこないんだし。
合コンはなんだかきらきらした、女が好きそうな小さなシャンデリアがある個室で行われた。俺は普段着じゃない、先生に見立ててもらった服を着て、そのいやにきらきらしているくせに、薄暗い部屋に入った。
俺は言われた通りに盛り上げ役に徹し、店長を含む他の男メンバーは食い気味に女相手に話しかけていた。でも、向かいに座った黒いひっつめ髪の女は、俺にだけ笑いかけていた。
そこから先はあんまり覚えていない。ただ、たくさん酒を飲んで、店長や他の男メンバーが女を持ち帰る中、俺と黒髪の女(多分いくつか俺より年上)だけになって、タクシー代もなかった俺は、その人に送って行きますとも言えなくて、ただ通り過ぎる車を眺めていた。するとその人は俺の手を取って、タクシーを止めると何やらつぶやいて俺を引っ張り込んだ。そこでキスをされた。塗り直した口紅の味がする、多分一ヶ月ぶりくらいのキス。俺はそこでもまた先生を思い出して、パンツのポケットに入れたスマホが鳴らないか待った。先生は研究室だろうか? まだ研究に励んでるんだろうか? ちゃんと飯は食ったか? 俺がいなきゃ、三食コーヒーって日もあったから気になるな。
でもいくら待ってもスマホは鳴らず、代わりにタクシーのメーターが少しずつ上がっていった。やがてタクシーは猥雑なホテル街で止まり、俺はそこで先輩たちが今してるんだろうことをした。俺はどういうわけか合コンで見たシャンデリアのきらきらした光に目がくらみ続けていて、女の顔はよく見えなかった。先生の顔は思い出せるのに。
久しぶりのそれは気持ちがよく、なんだ、先生とじゃなくても勃つじゃん、としみじみと思った。好きな人じゃなくたって、触られたら情も湧いて、俺は大切に、すごく大切に髪を解いた女を抱いた。女は当たり前だけど先生よりはずっと柔らかくて、それがなんだか悲しかった。まるで、今までの幸せだった日々が間違いだったって突きつけられてるみたいで、あの店のシャンデリアよりずっときらきらしていた先生との日々が、色褪せてゆく気がして。
「ネロくんってすっごく優しいのね」
シャワーを浴びて妙にごてごてした作りのベッドに戻ると、女はそう言って俺にキスをしてきた。もう口紅の味はしない。何度も口をしゃぶって、剥げてしまっていたから。
「また会わない? 今度いつ空いてる? 私は夜勤の日もあるけど、ネロくんに合わせるよ」
「俺も、店長に言えばシフト変えてもらえますけど
……」
「やだ、敬語はやめてよ。いくら私が年上だからって」
俺はそれに曖昧に頷いて、約束かって考える。先生とはたくさん約束をしてきたけど、前に会った日は次の約束すらしなかった。なんとなくお互いに甘えてしまって、二人とも確認すらしなかった。
女が俺にほほえみかける。俺はそんな彼女の背中をさすって、またベッドになだれ込む。
もう先生のことは思い出さなかった。なんとなく、今抱いている女が、先生との面倒ごとすらどうにかしてくれる気がして。
女と別れ、終電でアパートに戻ると、電気を消し忘れたのか俺の部屋だけ、ぽっかりと明るかった。それはまるで俺を待つ誰かがいるようで、そんなわけがないのに先生がいればいいのにって思った。そんなこと、現実になるわけがないのに。
「あれ? 鍵もかけるの忘れてた?」
俺はそう独りごちながら鍵をポケットにしまう。開いた部屋、灯りのついた部屋、空き巣とバッティングしたら最悪だが、俺の住むボロアパートには盗るものがなかったので、その心配はないだろう。俺は鍵を閉め、靴を脱ぐ。酒の匂いと、ラブホで使ったボディーソープの匂いがあたりに漂う。それは自分の部屋の匂いよりきつくて、なんだか日常が塗り替えられてゆく気がした。
「ネロ?」
ベッドに寝転ぼうとあくびをした時、どこからか声がかかった。見れば玄関を上がってすぐの小さな風呂から先生が出てきて、俺に向かってほほえみかけた。俺はそれに驚く。約束してなかったよな? ならどうして、先生はここにいるんだろう。
「研究に目処がついて、そしたら君に会いたくなって
……。迷惑だったか?」
「いや、びっくりしただけ。そっか、先生には合鍵渡してたもんな」
いつでも来てくれって、抱きしめて渡した合鍵を、先生は持ってたもんな。今の今まで、何故かそれを俺は忘れていたけれど。
「実は研究資金が出ることになったんだ。それをまず君に報告したくて。応援してくれてたろう?」
そう、俺は口先だけでは先生の研究を応援してた。口先っていうか、LINEを切り上げる時、研究頑張ってって励ましていた。でもそれは定型句で、心からのものじゃなかった気がする。
「おめでとう、先生。あー、ビールあったかな。乾杯でも
……」
俺は気まずくて、視線を逸らしてみみっちい食材しか入っていない冷蔵庫を見つめる。でも先生は、風呂から出てきた先生はまだ髪も乾かし終えないで、俺にキスをしてきた。
「乾杯は、今度でいい。あの、久しぶりだから、うまくできないかもしれないけど
……君からキス、してくれないか」
「
……キスだけでいいの?」
耳元でそっとささやくと、先生は身体を震わせ、こう答える。
「キスだけじゃ、いやだ
……」
潤んだ目、欲望に濡れた目。それは純粋に恋人を見つめ、俺を求めていた。先生もセックスしたくなるんだ? 誘いたくなるんだ? 今日はそういう気分なんだ? そんなに研究が軌道に乗ったことが嬉しくて有頂天になってる? 俺、さっき女を抱いてきたばかりなのに、先生はそれにも気づかないで俺に抱いてほしいって言うんだ?
俺は先生を抱きしめる。そして着たばかりのTシャツを脱がせて、ベッドへと誘う。半ば義務的に、今までもそうしてたからって、それだけの理由で。
先生の身体は痩せぎすで、食事を充分に摂ってない細さで、全然さっきの女よりも固くてごつごつしていて、でも、中はすごく湿っていて、俺はさっきセックスしたばかりだっていうのに先生を乱雑に抱いた。何度も繰り返し抱いた身体は少しくらい乱暴に抱いても俺を受け入れてくれたし、先生もそれくらいが気持ちいいみたいだった。先生はいつもより喘いで、小さな口で俺のをしゃぶったり、あられもないことをしてくれた。
先生とするセックスは気持ちよかった。でも、それだけだった。俺はなんとなく冷静で、嬉しそうにエッチなことをする先生って、性欲があったんだなって思った。そんな当たり前のことを思った。
セックスは気持ちよかった。でも、それだけだった。さっきの女としたセックスと比べて、少し猥雑であるだけで。
先生が疲れ果てて寝た後、俺は改造車が停まってる駐車場に面した深夜のベランダで煙草を吸い、冷蔵庫にあったビールを乾杯もせずに一人でだらだら飲んだ。駐車場には不良っぽいガキがたむろってて、うるさかったけど俺も大概だよなって思った。
(先生エロかったな
……)
久しぶりに抱いた先生は、前よりもいやらしく乱れた。そしてあれが俺のものだって思うと、セックスより興奮した。もしかしたら、柔らかい女の身体よりも。
でも、研究費が出たってことは、多分、先生はこれからもっと忙しくなる。先生とこうやって寝られるのも、これが最後かもしれない。そう思うと、さっき彼をどこかで軽く見たくせに、なんだか手放すのが惜しかった。
その時、エアコンの室外機の上に置いたスマホが鳴った。見ればさっき抱いた女からのLINEで、楽しかったっていうメッセージと、今週末はどう? って質問があった。俺はそれに、無料スタンプじゃなくてメッセージで返す。週末は仕事が忙しいから、遅くなっちまうけどいい? すると可愛らしいオーケーを示すスタンプが送られてきて、俺はそれにまた連絡するって返してからスマホの電源を落とした。
先生はまだ起きない。徹夜続きで疲れてるんだろう。俺は部屋を振り返り、毛布にくるまっている先生を見つめる。愛しい男、恋人、大切だった人。でも、もう噛み合わなくなってきている悲しい人。
なんとなく、先生との思い出がよみがえる。でもそれらはどういうわけかチープに色褪せていて、俺はさっき感じた日常が変わってしまった空気に肩をすくめた。
もう、どうでもいい。先生はまた連絡が取れなくなる。LINEも来なくなる。でもそれは先生の夢のためで、俺はむしろ身を引くべきなんだろう。いつまでもフラフラしてる、俺みたいな奴は先生にふさわしくない。それに俺は怠惰な人間だったから、さっきの女に尻尾を振る男でいるくらいがちょうどよかった。
「さみ
……」
セックスで火照った身体でも、だんだんと冬の空気に冷えてきて、俺は先生のいるベッドに戻った。すると先生はまだ寝てて、俺の気配にも気づかなくて、みすぼらしいベッドの上で幸せそうに目を閉じている。せめていい夢を見るように、俺は先生の頬を撫でる。外からは誰かが喧嘩をする声が聞こえる。さっきのガキかなって思ったけど、別にどうだっていい。関係に終わりが来る音を聴くよりずっと、心が休まるから。無自覚に俺を軽く扱う先生との関係に終わりが来る音を聴くよりずっと、ずっとずっと心が休まるから。
俺たちは、結局また約束をしなかった。多分、これからもしないだろう。そしていつか、俺たちは友人に戻る。
「逃げてぇな
……」
どこか違う街に行きたい。でも、奨学金と借金は返さなきゃいけないし、契約したまんまのサブスクも解約手続きがめんどくさい。次スマホの料金振り込み忘れたら、ブラックリスト行きかも。
俺はそんなことを考えてから、先生が二の次になってる自分に気づいて、やっぱり終わりじゃんかって思った。もしかしたら、俺はとっくの昔に終わってるって気づいていて、知らないふりをしていただけかもしれないけど。自分でも無意識のうちに、自分を守ろうと知らないふりをしていただけかもしれないけど。
先生、好きだよ。先生の好きと俺の好きは違うかもしれないけど、好きだよ。先生の思うように愛せなくてごめん。でも、許してよ。
俺はベッドにもたれかかって、音量をゼロにしてテレビをつける。薄暗い部屋の中に、知らない国の、知らない映画のエンドロールが流れる。そっか、やっぱり終わりかって俺は思いテレビを消す。そしてベッドに潜り込み、先生を抱きしめる。
あぁ、やっぱり好きだな落ち着くな。でも、俺はこれを手放すんだろうな。やっと手に入れた幸せから、俺は逃げるんだろうな。けど、先生に出会うまではそういう人生だと思ったら、悲しくはないな。
俺はぎゅうっと先生を抱きしめる。先生がそれに気づいて、まばたきをして俺を見つめる。先生は笑っている。眠そうな目で、幸せそうに俺を見つめている。でも、それも今夜で終わりなんだろう。そう思うと強烈に先生が欲しくなったけれど、それだけだった。手放すものが綺麗に見えるくらい、当たり前だって俺は知ってる。今までも、多分これからも、俺はいろんなものを手放すから。でも今だけは先生を抱きしめていたい。今だけでいいから、朝が来るまででいいから、多分明日の朝キスをしたら、それだけでさよならができるから。
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