千代里
2024-12-26 08:06:18
12097文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その23


 遠目から見た時点では、イレーナと竜の戦いはイレーナが優勢のように思えた。
 チョコボを急がせて走った先、オデットが目にしたのは撃墜した飛竜を前に、イレーナがまさにとどめを刺さんとしているところだった。
 それを見て、安堵してしまったのは確かだ。
 だから、その後に起きたことは、オデットにとっては完全に不意打ちだった。
 倒れ伏した飛竜が最後の力を振り絞り、イレーナの死角から翼を振り抜く。自らにとどめを刺すのと同じようなものであったが、それは確かにイレーナにとって致命的な一撃となった。
……まずいっ!」
「兄さん!?」
 イレーナが翼に弾き飛ばされた光景を目にした瞬間、ノエはチョコボから飛び降り、猛然と駆け出していた。驚くチョコボの姿など、彼の視界には入っていないのだろう。
 姿勢制御と自身の射出にエーテルを用いただけではない。ノエの周囲には、契約している妖異の力を扱うときに現れる紫の光の粒が散っていた。
 無意識に妖異の助けを引き出したおかげか、ノエの手は間一髪のところでイレーナに届いた。
 だが、危険な状況であることには変わりない。オデットもチョコボの蔵から滑り降り、ノエの支援に向かおうとした。
 けれども、彼女の小さな尖り耳は、ここにあってはならない竜の咆哮を聞き漏らさなかった。
(あれは……!)
 上空に姿を見せた、もう一体の飛竜。その瞳は急斜面を滑り落ちていった同胞と、今まさに同じ運命を辿りそうになっていたイレーナ、そしてそれを支えるノエへと素早く移った。
 竜の口が大きく開かれる。その先にいるのは、不安定な姿勢の二人だ。
「兄さん!!」
 ノエへと呼びかけながら、オデットは自身の武器である天球儀を展開する。今まで何度も扱ってきた魔法を展開しつつ、彼女は叫んだ。
「今すぐそこから飛び降りてください!!」
 なぜ、とは問われなかった。ノエはゆっくり起こしていた上体を、そのまま飛び降りる姿勢に切り替え、すぐさま崖下へと姿を消した。
 数拍遅れて、飛竜が放った炎の息がノエたちがしがみついていた場所を襲った。炭化した岩がぱらぱらと崩れて散らばる音が、空間に音高く響く。
「兄さんたち、無事でしょうか」
 咄嗟に魔法で障壁を作り上げ、ノエたちを包んだ。念入りにいつもより多めの魔力で作り上げたはずだが、崖から地面まで真っ逆様に落ちても無事である保証はない。
 ノエなら、最悪空中で契約した妖異を呼び出すことも可能だろうが――落下した先で何があったのかを知るため、オデットもまた崖の淵に近づく。しかし、その歩みは半ばで止めなければならなかった。
……!」
 ざわざわと、木立を掻き分ける音。居並ぶ木々の向こうから姿を見せたのは、竜ではなかったが、寒冷地で生きる大型の蜥蜴に似た魔物――ビアストだ。
 四足歩行の尖った鱗を持つ、肉食の魔物と聞いている。街道のそばを彷徨いていた個体を、今回の任務で何度か退治した覚えもある。だが、今まで一対一で戦ったことはない。
「わたしも、兄さんの援護に行きたいのに……!」
 焦ったい気持ちを口にすると同時に、気がつく。だからこそ、ビアストはこうして、オデットが最も嫌がるタイミングで姿を見せているのではないか。
 ゲルダも言っていた。竜は、魔物を操ることがある。この魔物も、竜が派遣したオデットへの足止めという可能性は十分にある。
「だったら、さっさと倒すまでです。わたしは、兄さんの隣にいたいんですから!」
 慌てたときこそ、深呼吸だ。些細な感情の乱れが、魔法そのものを乱してしまうこともあるのだから。
 ルーシャンやヤルマルからの教えを胸に、オデットは魔力を高める。星から授けられた重力を操る魔法が、ビアストの鱗の上で爆ぜた。
 
 ***
 
 オデットの最悪の予想は、幸いなこともに外れていた。ノエたちは崖下に落ちるのではなく、岩壁の途中にある岩棚に着地し――そして、そこで飛竜に目をつけられてしまっていた。
(このまま、地面目掛けて飛び降りるという手もある……が、飛び降りている最中は無防備になってしまう。だったら、今ここで、この場を乗り切るしかない)
 前線を槍を扱うイレーナに任せ、ノエは後衛に陣取り魔法で支援する。イレーナとこうして肩を並べて戦闘をするのは初めてなので、いくつか不安もあるが、
(でも、これが今は確実な方法だ)
 飛竜の翼に見える皮膜なら、魔法が有効打となる。それは、先ほどイレーナが竜を撃墜してみせたことからも明らかだ。
 岩壁に張り出した岩棚という、人間にとっては非常に狭い足場の上が戦場となると、付かず離れず攻撃するというわけにもいかない。縦横無尽に飛び回る飛竜を相手取るのに、ここほど不適切な場所もないだろう。
 そんな皮肉を心の中で呟きたくなるほど、ノエはこの状況の打開策をいくつも求め、同時に頭の片隅でそれを棄却し続けていた。その末に、彼は今、竜を穿つための魔法の準備を始めている。
「全く、ちょろちょろと目障りな……!」
 イレーナの苛立ちを孕んだ声が、風に流れて聞こえてくる。飛竜は絶妙にイレーナの槍が届かない位置を飛び回り、警戒を緩めることなくイレーナを目で追い続けていた。
 そのせいで、槍の穂先こそ飛竜の体を掠めているも、致命的な一撃には到底至らない。飛竜はイレーナを挑発かのするように周囲を飛び回り、彼女の苛立ちを煽っていく。
(だけど、彼女が牽制し続けているおかげで、飛竜が炎のブレスを吐くために必要な、溜めの時間がないみたいだ。それだけで、僕には大助かりだ)
「まだか、ノエ!」
 飛竜が再び槍を避けるために大きく飛び退ったのを見計らい、イレーナが声をあげて問う。
 呼応するかの如く、ノエの中で組み上げていた魔力が、発動の準備ができたと訴えていた。
「準備ができました。イレーナさん、外さないためにもあいつを惹きつけてもらえますか」
「それなら、先ほどから何度もやっている! タイミングは……
 恐らくは、私が指示を出す、と言おうとしたのだろう。だが、彼女は瞬時間を置くと、
……貴様に任せる。来るぞ!!」
 飛竜が雄叫びをあげ、イレーナに急接近する。
 機は熟した。
 イレーナに向けられた攻撃の隙をつき、魔力の結節点にもなる剣を逆手に持ち、杖のようにして突き出す。あとはほんの少し、魔力の引き金を引けば、光の剣は飛竜の翼を地面へと縫い付けるだろう。
 その刹那。
(目が、合った……?)
 飛竜のぎらぎらとした黄金の視線が、ノエと青銀の双眸と鉢合う。
 イレーナを狙っていたはずの竜の眼差しが、なぜ自分とぶつかるのか。
 その理由は、すぐにわかった。
「ノエ、だめだ!!」
 肩透かしを食らった形になったイレーナが、警告を発する。
 瞬間、ノエの目の前で小規模な竜巻が生まれた。それが小さな気流の渦であったのは、一瞬のこと。
(まずい……!!)
 強制的に自分を押し出そうとする気流の渦に、ノエは発動直前まで練り上げていた魔力を咄嗟に自身の固定へと切り替える。
「なんとか、これで……!」
 剣を地面に突き立て、己を暴力的なまでに掻っ攫おうとする風の一撃からその身を守る。
 単純に、武器だけを支えにしていたわけではない。
 全身を空間に固定する技は、不安定な足場で戦闘する際に自身が押し出されないようにするためには必須のものだ。今回は、以前師匠であるウヴィルトータに教えられた技が役立った形になる。
……あいつ、僕が魔法を使うって見抜いていたのか)
 全身を殴りつける竜巻をどうにか凌ぎ、頭上を見上げたノエは瞠目する。
――!!」
 ノエと同じく、岩盤にへばりつくようにして、槍を支えに竜巻を凌いだイレーナは、まだ気が付いていない。
 その頭上、狼狽える人間を尻目に、悠々と口に炎を溜めている飛竜の姿がそこにはあった。
 ノエの視線を受けて、イレーナも一拍遅れて気がつく。その頃には、竜はぐうと首を振りあおぎ、溜めていた炎を吐き出す寸前だった。
「イレーナさん、下がってください!!」
 まだ体勢を立て直せていないイレーナに先んじて、ノエが前に出る。
 視界どころか、全身を覆い尽くす炎の波に一瞬たじろいだものの、ノエは自身を叱咤して盾を振り翳した。
(さっきの分の余力を使えば、何とか耐えられるはずだ……!)
 全身に感じる熱波に、一瞬怯みかける。肌を貫く火傷の痛みは、ノエには覚えがある――ありすぎるものだ。
 かつて、炎を操る妖異の爆発を、至近距離で受けたことがある。あのときの痛みは、忌避すべきものとして、本能に刻み込まれている。
 けれども、今は自分の意思を総動員して、ノエは炎の前へと立ち塞がった。
「やらせるものか!!」
 己を鼓舞する叫びとともに、中途半端に練り上がっていた魔力を壁として放出する。光の翼のように広がったそれは、背後にいたイレーナを覆い、叩きつけられた炎の渦を紙一重のところで受け止めてみせた。
 とはいえ、炎の息吹は瞬きの間に終わるような短いものではない。溜め込まれた竜の息吹は、ノエの盾を――その表面を覆う光の壁と拮抗を続けている。
 防ぎ切れなかった火の粉がノエの眼前をちらつき、爆ぜ、彼の肌を浅く焼く。まるで、巨人の腕に押されているかのように、盾に押し寄せる圧力が消えない。
……なぜ、貴様はそこまで」
 轟轟と響く炎の音に紛れて、ノエが背後で守る女騎士の声が聞こえる。彼女の瞳には、きっと驚きが滲んでいるのだろう。だが、ノエにそれを見ている余裕はない。
 数秒の拮抗は、まるで何分も続いたかのように思えた。不意に、ふつりと炎の波が消える。数瞬遅れて、ノエが作り上げていた光の壁も消え、
「ノエ、まだだ!!」
 急降下してきた竜の姿に、ノエは奥歯を噛み締める。
 魔力を総動員したせいで、体がふらついている。今のノエでは、すぐには体勢を立て直せない。
 今度こそ蹴落とされると、かろうじて身構えたノエの前に、
「舐めた真似をしてくれる、蜥蜴風情が!!」
 イレーナの小柄な体が割って入り、飛び込んできた竜の腹を槍で突き上げた。
 ほんの数秒、タイミングがずれれば自分が蹴落とされていただろう。ほんの数秒しかない間隙を突いて、彼女の振るった槍の穂先が竜を迎え撃った。
 予想外のカウンターにのたうち回るも、二匹目の飛竜は一匹目と同じ轍を踏まなかった。
 すなわち、飛翔して逃げるのではなく、一度崩れた姿勢を素早く戻すと、負傷もものともせずに、隙を見せているノエへと再び突っ込んできたのだ。
「ノエ!」
……っ」
 竜の足が、ノエの体に激突する。かろうじて、自分の体と竜の爪の間に盾を挟み込んだために、直撃は免れた。だが、竜の蹴りそのものの勢いを殺すには到底足りない。
 竜には、厄介な敵をまず一体蹴落とすつもりだったのだろう。さりとて、ノエは大人しく蹴落とされるつもりは毛頭なかった。
「そっちが、その気なら……
 自分に近づいてくるというのは、それだけ攻撃が届きやすくなったということ。盾とは反対側の手、利き手に握りしめた剣を、ノエは握りしめる。
「思い通りにさせてやるものか……!!」
 地面を滑る足、後退していく体。
 それらを意に介さず、ノエはかろうじて残っていた魔力を剣に込めて、竜の傷口へと突き立てた。
 竜の咆哮が響く。同時に、竜に蹴られて岩棚の端へと押されていた体が、浮遊感に包まれる。
 竜は、ノエを蹴飛ばして空中に逃げようとした。しかし、宙に投げ出されたノエの手は、竜の腹に突き立った剣を握りしめていた。
 空へと飛び去る竜の体に引きずられるようにして、ノエの体も同時に宙に攫われていく。
 ノエに気がついた竜は、わざと大きく体を揺らしながら飛翔する。このままノエを振り落とすつもりなのだろう。
 しかし、風に揺れる飛竜の鱗を無我夢中で掴みながら、ノエは吼える。
「お前は、ここで堕ちろ――!!」
 なけなしの魔力を振り絞り、剣先から迸った一条の白雷。
 それは、竜の臓腑を貫き、その背まで一直線に貫く雷の槍となった。
 山間に響く、竜の断末魔。だが、それをのんびりと聞いている余裕はない。
 竜が最期の力を振り絞り、身を捩らせる。竜に突き立つ剣に捕まっていただけのノエは、その煽りを受けて右へ左と振り回された。
 今度ばかりは、数秒と保たなかった。ただでさえ限界を迎えつつあった指先は、竜の身悶えに耐えきれず、ノエの指は剣の柄から滑り落ちていった。
 ――落ちる。
 そう思ったと同時に、ノエは疲労困憊の体に鞭を打ち、意識を浮上させる。
(大丈夫だ。前の時のように、彼を呼べば――
 刹那、全身を打つ衝撃に息が詰まった。
 落下の途中でどこかの岩壁に体を打ったのだと、遅まきながら気がつく。落ちていく速さに、自分の思考が追いつがなかったのだ。
 反射で受け身を取ったが、強烈な打撃のせいで体に上手く力が入らない。無理に動かすと、痺れるような痛みが内側に走る。
 幸い、落下そのものは止まっていたが、勢いは消えていない。どこかの岩棚を転がり落ちているところなのだろうか。上下すら定まらない感覚の中、せめて己の体を押し留めなければと、先ほど考えたように契約している妖異――オルタシアへと呼びかける。
 一秒もしないうちに、ノエは自分が滑り落ちていく感覚から解放され、漸く安堵の息を吐いた。意識はある。痛みもあるが、感覚がまだあるならマシな方だろう。
 視界の端では、黒衣の残滓のような物が消えていくところだった。ノエが呼び出した妖異は、滑落を続けていたノエの体を堰き止めてくれたようだ。
(だけど、頭がぐらぐらする……体も、かなり強く打ってしまったな)
 落下の余韻が残っているせいか、足が地面についている感覚が曖昧だ。まずは五感を正しくしようと、ゆっくりと地面に手をつき、体を起こそうとしたが、
「痛……っ」
 利き手の腕から、全身へと痺れるような痛みが走る。先ほどの何倍もの痛みに、思わず苦鳴が唇からこぼれる。
 ノエは痛みには慣れているつもりだった。だが、今回のそれはノエの知っている痛みと質が違う。
 もう片方の腕を恐る恐る地面についてみたが、そちらからは痛みを感じない。原因不明の痛みに萎縮する体を宥めながら、ノエは今度こそ、そっと体を起こした。
……危なかった」
 思わずそう言ったのは、ノエが不時着した場所が、先ほど戦っていた岩棚から更に下に位置する、急斜面にできた自然の足場の一つだったからだ。
 一歩間違えれば、奈落とさして変わらない鋭角な斜面を転がり落ち、谷底に落ちるまで全身をあちこちの岩にぶつけていた可能性もあった。それを思えばここに不時着したのは不幸中の幸いなのだろう。
 首を巡らせると、少し離れたところにポツンと黒く滲む、雪原に落ちたシミのようなものが見える。それは、ノエが撃墜した飛竜だった。
……倒すことはできたみたいだ」
 二度目の安堵を得て、体に力を入れかけ、再び全身に走った痛みに上体を二つに折る。
 先ほどの痺れるような痛みとは別に、腹部のあたりはじくじくと痛んでいた。痛みの大元を辿ると、竜の爪が掠ったのか、鎧と鎧の隙間から鮮やかすぎる赤がこぼれ落ちていた。
 ノエは出血している部分に手をかざし、呼吸を整えて、なけなしの魔力を元に癒しの魔法を発動させる。柔らかな光がもれ、傷の痛みが薄れていく。
……今は、これでいい。帰ったら、ちゃんと体の状態を確認しておかない、と――っ」
 立ち上がらねばと、打撲で痛む体を支えるためにいつものように利き手をついた瞬間、三度目の激痛が走る。
 もはや疑いようもない。どうやら自分は、利き腕を岩に打った際に痛めてしまったらしい。しかも、先ほど塞いだ腹の傷のような外傷ではない。打撲か、それとも運が悪ければこれは骨が折れているか。
「ノエ、無事か!」
 ふらつきながらも漸く立ち上がると同時に、斜面全体にイレーナの声が響く。続けてもう少し離れた場所から、兄さん、という声も聞こえた。崖上に残してきたオデットと、岩棚に残ったイレーナがノエを探しているようだ。
 あの落下の最中でも落ちなかったリンクパールに、ノエは指を当て、
「二人とも、聞こえますか」
「兄さん、無事だったのですね!」
「ノエ、どこにいる。斜面の下には見当たらないようだが」
 オデットの泣きそうな声に、また不安にさせてしまったと思うが、反省するのはこの後でいい。
 今は状況を打開せねばと、ノエは自分の上に広がる斜面と、下に広がる崖下を見つめる。
 契約している妖異の力を使えば飛び降りることは可能だが、飛び降りた先の地形がわからない。利き腕が負傷している状況な上に、剣は竜の腹に突き立ったままで、ノエは武器を持っていない。徒手空拳で森を抜けられるほど、クルザスの凍てつく森林は優しくないのは、これまでの経験でよく分かっている。
「僕は今、イレーナさんより下の岩棚にいます。戻れないか試してみますので、少し待ってもらえますか」
『私より下の岩棚? おい、待て。そのような場所からどうやって戻るつもりだ』
「魔法を使えば、なんとかなるでしょう。それよりも、イレーナさんは岩棚の上に戻る策はあるのですか」
『今は私の話をしている場合ではないだろう。それに、策ならある。だが、貴様の方が負傷が激しいのでは――
「それなら安心です。では、少し集中したいので切りますね」
 イレーナがああ言うのなら、彼女は無事にこの状況を切り抜けられるだろう。
 一旦ノエは通信を切り上げ、今度は自分の状況を打開するために『彼』へと呼びかける。
「限界まで、魔力を使うことになってしまうと思う。無理をさせてごめん。でも、今は力を貸してくれ」
 先に謝罪を口にしてから、ノエは懐にしまっていた黒のクリスタルに意識を集中させる。
 自分の周囲にぶわりと湧き上がった影は、やはりノエの魔力が足りないからか、輪郭が定かではない。しかし、無理に彼が現界すれば、ノエの魔力があっという間に底を尽きてしまうだろう。
「ここから、崖の上まで登りたいんだ。たしか、君には翼があっただろう。その力を貸してもらえないか」
 輪郭を伴わない闇は、言葉を発する機能も持ち合わせていない。だが、ノエが何を頼みたいかは十二分に伝わったようだ。
 ――無茶をするのも大概にしたらどうだ。
 そう言いたげな視線を感じ、ノエが苦笑を漏らしていると、
「オルタシア。それは……?」
 ノエが頼んだように、黒い影はノエの翼とはならなかった。代わりに、ぼんやりと淡く光る亀裂のようなものが、黒の影から滲み出るかの如く生まれた。
 見た目だけならば、妖異がこちら側の世界に侵入する際に使うヴォイドゲート呼ばれる亀裂に似ている。だが、それに比べると禍々しさは薄い。
 光の亀裂が発生すると同時に、現れていた黒い影はゆっくりと薄れていく。どうしたらいいのかとノエが困惑していると、
『今のあなたでは、飛翔させても着地の衝撃を殺す際に腕に響くだろう。その入り口は、崖上に繋げてある。通れば、すぐに上にもどれるはずだ』
 頭の中で、黒い影――オルタシアの声がじわりと響いた。声がゆっくりと薄れているのは、意識を表に出しすぎてノエの魔力を喰らい尽くさないためだろう。
「そんなこともできるのか」
『あなたが、あの女性を助けに向かうために飛び出したとき、無意識下で俺の力を使っていた。その残滓を空間を繋ぐ出口に仕立て直したんだ。長くはもたないから、急いだ方がいい』
 姿を持たぬ友人の言葉に促され、ノエは恐る恐る光の亀裂に足を踏み出す。
 一瞬、浮遊感と似て非なる感覚が全身を包み、同時に意識がぷつりと途切れたような不自然な感覚が走る。
 だが、まるでランタンに火を灯し直したように、すぐに意識は浮上し、目の前の光景に焦点があっていく。
 ブーツ越しに感じる雪の感触と、前方に広がる雪景色。間違いない。ここは、ノエが駆けつけた断崖だ。ちょうど、ノエが走り出した辺りに戻ってきているのは、オルタシアが言っていた通り、ノエが走り出した時に使った力を目印として空間を繋いだからだろう。振り返れば、光の亀裂は既にあっという間に消えていくところだった。
 ひとまず、無事に安全な大地に戻れたのだ。安堵の息を吐き、それからノエは耳に装着したリンクパールに指を添える。
「イレーナさん、聞こえますか」
『ああ。今、どこにいる』
「イレーナさんこそ、今どちらにいらっしゃいますか。もし、まだ崖の下にいるのなら」
『案ずる必要はない。貴様の同行者である彼女の力を借りて、上まで戻ってきた』
 先だって一瞬見えた戦い方からも、彼女は風を操る魔法を習得している。オデットの重力を操る魔法と組み合わせれば、体を浮かすことぐらいはできるだろう。
 もっとも、そのような器用な対応ができたのは、イレーナが移動しなければならない距離が、ノエよりも少なかったからこそなのだろうが。
「僕も崖上に戻ってきています。では、すぐにそちらに向かいますね」
『もう戻ってきたのか? 一体、どんな技を使ったのだ』
 ノエが答えに詰まっていると、イレーナは回答を求めるのを諦め、
『まあいい。私とお前の連れは、崖の淵にいる。彼女は今にも奈落に飛び込まんばかりに心配している。戻っているなら、すぐに姿を見せてやってくれ』
 そこで、イレーナとの通信が切れた。
 ノエがざっと視線を巡らせれば、イレーナが教えてくれたおかげもあって、探し人はすぐに見つかった。
「オデット。それにイレーナさん」
 声をかけると、雪原に突如訪れた春のように淡い薄紅がパッと振り返る。
 ノエを見つけた瞬間、少女は一目散にこちらへと駆け出していた。
 続けて、朝焼けのような藤色の髪の女騎士が、周囲に警戒の視線を巡らせつつ、ノエへと近づく。
「兄さん、兄さんですよね! 飛竜に放り出されたのが見えたから、だから、わたし……っ」
 もう、だめかと思いました。
 そんな言葉が聞こえそうなほどに、オデットの唇は静かに戦慄き、彼女の瞳は溢れそうになっていた涙で濡れていた。泣き出していなかったのは、泣くより先に自分がするべきことをしなければと、自制していたからだろう。
 勢いよく彼女にしがみつかれると、彼女の体の震えが衣服越しにも伝わってくる。
 オデットを安心させようと、いつものように彼女の背を軽く叩くために利き腕を持ち上げ、
……痛っ」
「兄さん、どこか怪我をしているんですか!?」
「少し、腕を痛めてしまったみたいなんだ。動かすと、痺れるみたいに痛みが走って……
 痛みにも我慢強いノエの反応に、オデットは素早くノエの腕に指を走らせる。
「大丈夫です。わたし、すぐに治しますから」
「いや、待て」
 天球儀をすぐさま構えたオデットの肩を、イレーナが抑える。身長がさして変わらない二人ではあったが、イレーナの凛然とした面持ちには、オデットのような焦燥はない。
「その痛がり方は、単なる打撲ではないだろう。脱臼か骨折か……どちらにせよ、骨に影響があるはずだ」
「僕も、そう思っています。骨の異常は、魔法で治せるものではないのですか」
「骨そのものなら、問題なく治療できるだろう。だが、もし骨の位置がずれてしまっているのなら、そのまま癒しの魔法をかけて修復すると、骨がずれたまま治ることになる」
「そ、そうなんですね……ごめんなさい、兄さん」
「いや、僕も骨折の治療についてはよく知らないから、仕方ないよ」
 自分があわや二次被害をもたらすところだったと気がつき、すぐさまオデットは頭を下げた。
 治癒魔法は外傷に効き目があるため、ついつい過信してしまいがちだが、何もかもを癒す万能の魔法ではない。魔法の練習を始めた頃に教えられたことだったのに、すっかり忘れてしまっていた。
「村に戻れば、医師がいる。彼は猟師らの怪我の手当てに慣れている。貴様の腕にも、適切な治療を施してくれるだろう」
 話をしながら、イレーナは何かを探すように周囲を見渡してから、手袋を外し、唇に指を当ててピュイと甲高い音を鳴らした。
 程なくして、その指笛の意味がわかる。雪原にのぼる太陽のような金色の羽を持つチョコボが三羽、こちらに向かって駆け寄ってきたからだ。
 イレーナはそのうちの一羽の首を軽く撫でてやると、鞍に装着していた鞄から包帯を取り出す。
「とりあえず、今は動かないように固定させておく。無理に動かせば、余計に悪化するぞ」
「ありがとうございます、イレーナさん。……その、僕たちはあなたの命令を無視して、勝手な行動をしてしまったのに」
 手当のために白い布を広げていたイレーナは、ノエの発言を聞いてぴたりと手を止める。彼女はオデットとノエをちらりと見やってから、
……貴様たちは、私の知る傭兵と違うようだ。私こそ、過去に囚われ、同行者の不安をいたずらに煽るような指示を出してしまった。すまない」
 手短にそれだけ告げると、彼女はノエの手をとり、慣れた手つきで添木をあて、包帯を結んでいった。そうすれば、無意識に腕を動かそうとしたときに、添木に腕が当たり、動きを止めるきっかけになる。
……腕は、治りますか」
「ああ。骨が砕けていなければ、通常の治癒魔法で癒えるだろう。もっとも、しばらくは少し痛むだろうが」
「そうですか。……なら、よかった」
 安堵の表情を見せるノエとは裏腹に、オデットは青い顔のままノエの腕を見つめ続けていた。
 彼女の脳裏には、ノエが飛竜に振り落とされた場面が何度も繰り返されていた。あの瞬間、オデットは本当にノエの死を覚悟していた。
 以前、オデットを庇ってノエが大火傷を負い、死にかけたときとは状況が違う。
 あのときは、まだオデットが上手く立ち回っていれば、という仮定があった。極論、あの場に自分がいなければノエは自分の身を守れただろうとも思えた。言ってしまえば、自責をする余地があり、自分がしっかりすればノエを守れるという解決策がまだあった。
(ですけど、今回は……もう、わたしの手が届いてもどうにもならかった)
 やってきた魔物を退治するのに必死で、自分は飛竜との戦いに参加できなかった。よしんば、その場にいたとして、空中に攫われたノエを助けられるほどの秘策を、オデットは持ち合わせていない。ノエは自分の手の届かぬ所で戦い、その末に命を落とす所だった。
 解決策など、あるかも分からない。何せ相手は、イシュガルドにいる民が千年も戦い続けたドラゴン族たちだ。小娘一人がどれだけ頑張ったところで、事態が解決するとも思えない。
……でも、兄さんはそれでも行くのでしょう)
 困っている人がいると知っていて、背を向けて安穏と暮らせるほど、自分が思い慕う青年は心を切り替えられる人ではない。
 その意味では、彼はヤルマルよりも不器用かもしれない。少なくとも彼女は、イシュガルドの窮状を知りつつも国を後にする選択をしたことがあるのだから。
(それが、兄さんの望む生き方だってわかっています。わたしだって、イシュガルドの人が寒さと竜の襲撃に苦しんでいると分かっているのに、知らない振りはしたくありません。でも……
 イレーナに負傷した腕を触られただけで、眉を歪めているノエ。先日、父の治める街で幾度もドラゴン族と戦ったときもそうだった。
 彼は痛みを感じていないわけではない。ただ、それを飲み込んで、大丈夫と笑える強さを持っているだけだ。
(兄さんが怪我をするところを、わたしは見たくない)
 自分の願いとノエの向かう道は、こんなにも矛盾している。
 ノエとて、率先して怪我をしに行っているわけではない。だが、結果的に彼の体は傷つき、今回だって運が悪ければノエは死んでいた。彼の命が、非常に危うい天秤の上に乗っていることを、オデットは誰よりもよく知っている。
(だからといって、わたしと一緒にいたいなら、イシュガルドにいるのはやめましょう……なんて、言えません)
 彼のささやかな抵抗は、無意味ではない。彼のおかげでイレーナや村の人が守られたのも事実だ。その結果は、きっとノエの心が認められるノエ自身の形そのものだ。そして、オデットはそんなノエの在り方を好ましいと思ってしまっている。
「オデット。悪いけれど、僕のチョコボを誘導してくれるかな」
 ノエに呼びかけられ、オデットは思索の沼から引き上げられる。
 見れば、今のノエは応急手当てを終えて、片腕を包帯で吊った姿になっていた。これではチョコボの手綱を操るのは難しいだろう。
……わかりました。あの、それでは、兄さんはどうするのですか」
「彼は私のチョコボに乗せる。せっかく拾った命だ。医師に診てもらい、後遺症もなく治してもらうといい」
 イレーナはノエがチョコボに乗るのを手伝いながら、何てこともないように続ける。
「あそこまで知恵をつけた飛竜を一体仕留めるのに、腕一本分の損傷で済んだのだ。実に大したものだ」
 それは、ノエを揶揄した発言ではない。むしろ、その逆だ。イレーナは、ノエが腕を折った程度の損傷で飛竜を討ち取ったことを、素直に褒めてくれている。
 けれども、彼女の称賛を聞いても、オデットの表情が明るくなることはなかった。
(だって、兄さんは自分らしく生きるために、こんなにも痛い思いをしないといけない……ってことですから)
 釈然としない気持ちを抱え、少女は人知れずゆっくりと首を横に振った。